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テーゲーでいこう『トランスジェンダリズム宣言』

2018年08月11日 | LGB&T
[あらすじ] 15年前の米沢泉美さんの本『トランスジェンダリズム宣言』を
最近やっと読んだ。
https://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/0375807b5e08b34c22dacc4acbf5d940


著者が、出版当時と今と同じように考えているかどうかは別として、
『トランスジェンダリズム宣言』では、
LGBT界隈、東京レインボープライド、狭くはトランス界が
今も抱えている問題への答えが既に書いてある。と思う。

今日は少し引用する。

―――

 よく、差別に反対する側の論理として、というよりもアジテーション的ニュアンスで、
「被差別者同士が連帯し……」というフレーズが登場する。
 もちろんこれは、「社会構造上の差別は基本的人権を侵しているので無条件によくない」
という根本公理を政治的につきつけていくためにはとても有効であろう。
そこには「社会構造上の差別をリアルに告発する」という立派な共通点があるからである。
 しかし、それ以外の場でこのことをむやみに持ち出すことにはあまり意味がない。
 「被差別者の連帯」などと簡単に言えるほど、「差別構造」は単純でないのである。
 これは、そもそも、「社会構造上の差別」という立て方自体が、マジョリティ、
差別側による見方に基づいたものであるためだ。

(略)
 このような差別の重層構造は、そもそもさまざまな差別がそれぞれ固有の背景を
持っている以上、「あってあたりまえ」のことである。
 そして、性別に対するこのような違いは、それはそれとして互いの主張をぶつけ合って
いけばよいのである。そして、見解が一致した問題については共闘すればよいのである。
現に、フェミニズムはそういう女性内部での意見衝突と、男性社会への一致した闘いによって、
全体としての質を向上させてきたではないか。

(略)
 もちろん、言うまでもなく、差別をなくすためには、
「良心的な人ですら当事者を差別側の論理でカテゴライズしてしまう」という
構造上にあるマジョリティへの働きかけが必須である。そして、だからこそ、
上記のような緊張関係を持ちつつも、マジョリティ側の分類に合致した共闘関係を
つくることには大きな意味がある。

――――

 ほとんどの人は、性別とは何かについてはほとんど考えず、
「直感」的にこれをすべてに対し行使・応用している。
そして、このことがトランスジェンダーという存在の理解に大きな妨げに
なっていることは、ここまで見てきたとおりである。

 そして、「あなたの性別に対する感覚は差別的ではないか」と陽に指摘され、
あるいは自発的に「こういうのは性別的な差別である」と捉えた非当事者は、
ともすると「じゃぁ、性別って何なの?」という問いを発してくる。
「自分の意識を差別だ、と指摘できるのなら、差別じゃない何かを
持っているのだろうから、それを教えてほしい」というわけだ。

 トランスジェンダーは、いや、多くの被差別者たちは、
自らの差別にかかわるすべての構造を把握した上で「これは差別だ」と
言っているのではない。そうではなく、「何らかの固定的な感覚から
自分たちを捉えられた結果、自分たちの存在が否定された」と
考えているだけである。その面では、そもそも「教える」ようなものを
持ち合わせているから差別の指摘をしているのではない。

 ただ、他の差別問題であれば、「差別がいけない、わかりやすい理由」と
「差別にならない状態」の双方を把握することが比較的容易であり、
そこにまで至らないことは多いだろう。それに対し、性別の問題は
これがあまりに複雑であり、わからないことも多く、
説明など簡単にはできようがないのである。

 そして、そういう状況下での「現実の処方箋」は、「固定的観念の否定」しかない。

 もちろん、非当事者にとっての「固定観念」は空気のようなもので、
それをわざわざ否定する作業は労苦も少なくないだろう。
非当事者自身が「それを考えなくても生きていける」ことを
考えるためにコストを使う必要がどこにあるのか、とも言える。

 だから筆者は、あえて提唱したい。「性別をゆるやかに、あいまいに考えよう」と。
要するに「固定観念を否定して救われる人がいる、肯定すると苦しむ人がいる」
という事実は把握し、その上で「じゃぁ性って何なの?」という問いを
あまり難しく考えないことを。

 そういう人が増えてくれば、当事者が抱える社会的・人間関係的困難は
相当程度緩和される。さらに、そういう人が増えてくれば、その次のステップ=
性別とは何か、についてさまざまな意見を持ち、それを交わし合える人も
その中から出てくるだろう。

 筆者らが生きているうちには実現しないのかもしれないが、
そんな社会がいつか実現することを願ってやまない。

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