寝台特急「なは」 (新大阪)
工事中の西鹿児島駅前電停に到着。新幹線開業までに駅前も整備中である。何やら大きな建物も建築中だが間に合うのか。これから乗る寝台特急「なは」(列車番号32)の発車時刻まで時間があるので、駅前にあるファミリーレストランのJoyfull(本社大分市)に入り、年賀はがきを絵葉書代わりに書こうと思う。西鹿児島の駅名は新幹線開業時に鹿児島中央となる予定だが、ここの店舗は鹿児島中央駅前店である。このあと車内で夕食の予定なので、ここでは食事はしないつもりである。冷奴(199円)と生ビール(299円)を注文する。このファミリーレストランは実家の近くにも店舗があるのだが、価格が非常に安い。店内は高校生が多い。間食ではなく夕食のようである。家に帰って食事をしないのだろうかと思う。焼酎のお湯割り(199円)を追加注文する。
駅の側の鹿児島中央郵便局で風景印を押してもらって葉書を出す。デザインは西郷さんと桜島。駅に戻り買い物。土産物屋の人に新幹線試運転列車到着の音が聞こえると教えてもらう。すこし酔ってきたので言われるまで気がつかなかった。新幹線開業後にまた来ます、といって店を出る。駅名が変更となるので、みどりの窓口で入場券を購入。帰りの乗車券を自動改札機に投入し、改札機に入らない「なは」の特急券・B寝台券は駅員に入鋏のスタンプを押してもらう。ホームに下りると「なは」は入線していたが扉は開いていない。発車案内の行き先には博多、新大阪の文字があり、そこだけは新幹線のようである。通勤・通学の客で人が溢れている。「なは」と同じホームの向かいの線からL特急「つばめ26号」(列車番号26M)が遅れている普通列車の接続を待って発車する。続けて普通列車が入線して多くの人が乗車してホームが落ち着く。「つばめ」の発車前にいた駅弁売りがいなくなったので、ホームから改札階に戻り弁当を買う。調製元が駅弁業者でなく、JR九州の関連会社だがしかたない。ホームに戻ると「なは」の扉が開いている。私は「なは」の個室の切符を持っている。さっそく自分の部屋へ。狭いながらも個室は嬉しい。西鹿児島を18時54分発車。さっそくビールを飲みながら弁当を食べる。とりめしとおかずが入っている。車掌がきたので箸を置いて切符を見せる。JR西日本京都支社みやこ列車区の車掌である。終点までご利用いただきありがとうございます、という。個室の扉を閉め、本格的にくつろぐ。車窓は真っ暗である。しかし停車駅ではホームに人がいるので、だらしのない格好は出来ない。シーツを敷いて寝床の準備をする。なかなか快適で川内を過ぎると寝てしまう。熊本で増結の為、長時間停車するので飲み物を買おうと思っていたが、面倒くさくて寝ていた。
日付変わって平成15年11月26日水曜日。深夜の博多に停車。「つばめ」より1時間以上も遅い。どうにものどが渇いたので飲み物が欲しいが、自動販売機が何号車にあるのか判らず、門司で機関車を替える時にホームの自動販売機で購入する。西鹿児島から門司まで牽引した機関車はご苦労さんであった。関門トンネルを抜け、本州に戻って下関で再び機関車を替える。また寝てしまったが、岩国通過は見ていたい。岩田の手前で起きたので、ここから寝ないようにした。3時55分岩国通過。小瀬川を渡り、広島県へ入ったので本格的に寝た。広島で運転停車したような気もするが、よくわからない。夜が明け、目を覚ますと兵庫県に入っていた。姫路を過ぎるとホームも列車も通勤・通学客で溢れている。車内販売が乗ってきたのでコーヒーとサンドイッチを買って朝食とする。上りの「なは」の車内販売は朝の姫路以降である。予め何か購入して乗車しないとひもじい思いをする。やがて明石海峡と明石海峡大橋が車窓から見える。
平成7年(1995)の震災の数週間後、神戸の街を通過した事がある。広島から新幹線に乗り姫路で下車した。その時新幹線は新大阪~姫路間が不通となっていた。在来線は芦屋~神戸間が不通だった。普通列車の神戸行に乗り換えた。車窓にあまり変わった様子もない。屋根瓦がずれたり破損したりしているので、応急処置の青いビニールシートが目立つくらいか。建設中の明石海峡大橋が見える。神戸市内に入った。止まったままの貨物列車を見つけた。やがて一面の焼け野原。息を呑んだ。他の乗客も食い入るように車窓を見ている。ここが震災後に発生した火災で焼き尽くされた長田だった。恐ろしい景色の中を走り、神戸に着いた。JRはここまでしか走れない。被災している地下街を通って高速神戸駅へ、そして阪神三宮で下車。こんな中でも通学客はいた。ここから大阪方面へは大渋滞の道路を超満員の代行バスで行くか、歩くしかない。被災地の中を歩いた。とにかく埃っぽい。鉄筋コンクリート造の建物が傾いている。倒れかけた木造家屋が家の前の電柱に寄りかかった状態になっている。信じられないような風景だったせいか、10数キロの道のりは非常に遠く感じられた。ようやくたどり着いた芦屋から大阪へ。暖房の効いた快適な電車で到着した大阪の街は、震災が嘘だったかのように普段通りだった。8年後の神戸を「なは」は走っている。焼け野原はない。新築の建物ばかりなのが、被災地の証だ。三ノ宮を発車した「なは」は、瓦礫の中をたどり着いた芦屋を足早に通過していくと淀川を渡って大阪に着いた。もう一度淀川を渡って9時26分、終着の新大阪に到着した。14時間32分の列車の旅だった。 (つづく)
工事中の西鹿児島駅前電停に到着。新幹線開業までに駅前も整備中である。何やら大きな建物も建築中だが間に合うのか。これから乗る寝台特急「なは」(列車番号32)の発車時刻まで時間があるので、駅前にあるファミリーレストランのJoyfull(本社大分市)に入り、年賀はがきを絵葉書代わりに書こうと思う。西鹿児島の駅名は新幹線開業時に鹿児島中央となる予定だが、ここの店舗は鹿児島中央駅前店である。このあと車内で夕食の予定なので、ここでは食事はしないつもりである。冷奴(199円)と生ビール(299円)を注文する。このファミリーレストランは実家の近くにも店舗があるのだが、価格が非常に安い。店内は高校生が多い。間食ではなく夕食のようである。家に帰って食事をしないのだろうかと思う。焼酎のお湯割り(199円)を追加注文する。
駅の側の鹿児島中央郵便局で風景印を押してもらって葉書を出す。デザインは西郷さんと桜島。駅に戻り買い物。土産物屋の人に新幹線試運転列車到着の音が聞こえると教えてもらう。すこし酔ってきたので言われるまで気がつかなかった。新幹線開業後にまた来ます、といって店を出る。駅名が変更となるので、みどりの窓口で入場券を購入。帰りの乗車券を自動改札機に投入し、改札機に入らない「なは」の特急券・B寝台券は駅員に入鋏のスタンプを押してもらう。ホームに下りると「なは」は入線していたが扉は開いていない。発車案内の行き先には博多、新大阪の文字があり、そこだけは新幹線のようである。通勤・通学の客で人が溢れている。「なは」と同じホームの向かいの線からL特急「つばめ26号」(列車番号26M)が遅れている普通列車の接続を待って発車する。続けて普通列車が入線して多くの人が乗車してホームが落ち着く。「つばめ」の発車前にいた駅弁売りがいなくなったので、ホームから改札階に戻り弁当を買う。調製元が駅弁業者でなく、JR九州の関連会社だがしかたない。ホームに戻ると「なは」の扉が開いている。私は「なは」の個室の切符を持っている。さっそく自分の部屋へ。狭いながらも個室は嬉しい。西鹿児島を18時54分発車。さっそくビールを飲みながら弁当を食べる。とりめしとおかずが入っている。車掌がきたので箸を置いて切符を見せる。JR西日本京都支社みやこ列車区の車掌である。終点までご利用いただきありがとうございます、という。個室の扉を閉め、本格的にくつろぐ。車窓は真っ暗である。しかし停車駅ではホームに人がいるので、だらしのない格好は出来ない。シーツを敷いて寝床の準備をする。なかなか快適で川内を過ぎると寝てしまう。熊本で増結の為、長時間停車するので飲み物を買おうと思っていたが、面倒くさくて寝ていた。
日付変わって平成15年11月26日水曜日。深夜の博多に停車。「つばめ」より1時間以上も遅い。どうにものどが渇いたので飲み物が欲しいが、自動販売機が何号車にあるのか判らず、門司で機関車を替える時にホームの自動販売機で購入する。西鹿児島から門司まで牽引した機関車はご苦労さんであった。関門トンネルを抜け、本州に戻って下関で再び機関車を替える。また寝てしまったが、岩国通過は見ていたい。岩田の手前で起きたので、ここから寝ないようにした。3時55分岩国通過。小瀬川を渡り、広島県へ入ったので本格的に寝た。広島で運転停車したような気もするが、よくわからない。夜が明け、目を覚ますと兵庫県に入っていた。姫路を過ぎるとホームも列車も通勤・通学客で溢れている。車内販売が乗ってきたのでコーヒーとサンドイッチを買って朝食とする。上りの「なは」の車内販売は朝の姫路以降である。予め何か購入して乗車しないとひもじい思いをする。やがて明石海峡と明石海峡大橋が車窓から見える。
平成7年(1995)の震災の数週間後、神戸の街を通過した事がある。広島から新幹線に乗り姫路で下車した。その時新幹線は新大阪~姫路間が不通となっていた。在来線は芦屋~神戸間が不通だった。普通列車の神戸行に乗り換えた。車窓にあまり変わった様子もない。屋根瓦がずれたり破損したりしているので、応急処置の青いビニールシートが目立つくらいか。建設中の明石海峡大橋が見える。神戸市内に入った。止まったままの貨物列車を見つけた。やがて一面の焼け野原。息を呑んだ。他の乗客も食い入るように車窓を見ている。ここが震災後に発生した火災で焼き尽くされた長田だった。恐ろしい景色の中を走り、神戸に着いた。JRはここまでしか走れない。被災している地下街を通って高速神戸駅へ、そして阪神三宮で下車。こんな中でも通学客はいた。ここから大阪方面へは大渋滞の道路を超満員の代行バスで行くか、歩くしかない。被災地の中を歩いた。とにかく埃っぽい。鉄筋コンクリート造の建物が傾いている。倒れかけた木造家屋が家の前の電柱に寄りかかった状態になっている。信じられないような風景だったせいか、10数キロの道のりは非常に遠く感じられた。ようやくたどり着いた芦屋から大阪へ。暖房の効いた快適な電車で到着した大阪の街は、震災が嘘だったかのように普段通りだった。8年後の神戸を「なは」は走っている。焼け野原はない。新築の建物ばかりなのが、被災地の証だ。三ノ宮を発車した「なは」は、瓦礫の中をたどり着いた芦屋を足早に通過していくと淀川を渡って大阪に着いた。もう一度淀川を渡って9時26分、終着の新大阪に到着した。14時間32分の列車の旅だった。 (つづく)