慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

小渕優子擁立へ青木&竹下の密謀暴く

2018年03月25日 | 政治
総裁選で平成研は石破を担ぐこともあるが竹下会長を中継ぎに次を狙う

総裁選に向けて平成研はどこへ向かう?
 ☆青木氏が金脈&人脈を預かる
 ☆安倍政権の風向きが変われば青木氏が一挙に「石破支持」で平成研をまとめ上げることもある
 ☆青木、竹下両氏らの参院勢力の真の狙いはそこにはない
 ☆次世代を担う政治家を擁立することが目的だ
 ☆小渕恵三元首相の二女優子氏に引き継がせるしかないと考えている
 ☆平成研を支えてきた金脈や人脈は竹下氏⇒小渕氏と受け継がれた
 (青木氏が預かっている状態でこれを小渕家に戻さなければならない)
 ☆小渕優子氏は、第2次安倍改造内閣で経産相に就任するも政治資金問題で辞任
 ☆逆風の選挙を戦い抜いてきたが、有権者は彼女の脇の甘いのを見抜いている
 ☆平成研内には「優子ちゃんを総理にしたい」との思いがあるが、竹下会長それをできるか?!

衆院議長を狙った額賀氏だが
 ☆会長額賀氏に対して、参院の所属議員が「存在感がまるでない」と退任を求めた
 ☆終戦記念日、愛人とホテルで密会していたところを週刊誌に直撃された際
 (派閥所属議員から「額賀さん、国会以外では元気なんだな」と椰楡された)
 ☆額賀氏が会長にしがみついていたのは、衆院議長を狙っていたためだ
 ☆額賀氏は3月退任を表明し、会長の後任は、竹下亘党総務会長になる見込み
金竹小の血の結束は今も健在
 ☆竹下亘氏が会長に就くことで、派閥も竹下派となり、”大政奉還”が実現する
 ☆亘氏は竹下元首相の実弟だが、異母兄弟で年は23歳も離れている
 ☆金丸・竹下・小沢親戚関係「金竹小」の血の結束は未だ生きている
 ☆亘氏の力の源泉は、兄から受け継いだ"遺産"である
 (登氏は3つの政治団体は、亘氏が会計責任者となっていた)
 ☆金庫番だった亘氏は、地味な性格で暗いイメージがある
 ☆亘氏は、自らは総裁選に出馬する意志がない
 ☆平成研の今後を決めるのは、ドン・青木氏です
旧竹下派ベテラン議員コメント
 ☆船田元氏あたりが名乗りを上げるべきだが、船田氏『政界失楽園』以来鳴かず飛ばず
 ☆茂木氏が意欲を持っているが、茂木氏ドン・青木氏の覚えが悪い
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS3月号』


小渕優子擁立へ青木&竹下の密謀暴く(『THEMIS3月号』記事より画像引用)


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山内一豊(戦国の出世者1)

2018年03月25日 | 歴史上の人物
山内一豊

 ☆土佐24万石に登りつめ、その出世の陰には、妻千代の内助の功があった
 ☆品川区には、その子孫山内豊信の墓がある
 ☆一豊は、NHK大河ドラマの「巧名が辻」放映された
 ☆織田、豊臣、徳川に仕えた一豊

山内一豊の誕生
 ☆尾張国守護代・織田伊勢守家家老の第4子として生まれた
 ☆一豊の誕生地は、岩倉城、黒田城(同一宮市)とも伝えられている
 (一豊の誕生石碑は一宮市と岩倉市の2ヵ所にある)
 ☆父 盛豊は尾張統一をめざした織田信長に討たれる
山内一豊三段崎勘右衛門との死闘
 ☆信長に仕え、羽柴秀吉に槍の使い手として認められる
 ☆秀吉のの配下として参戦した越前一乗谷の合戦では、朝倉軍を追撃
 (朝倉方の武将三段崎勘右衛門を討ち収った)
 ☆この手柄で初めての領地、近江(滋賀県)唐国400石を手に人れる
千代の内助の功で名馬を買った
 ☆馬揃え(観兵式)で、信長は一豊の駿馬に目を止めた
 (「あっばれの馬なり、これは東国一の名馬なり、何者の馬ぞ」と述べた)
 ☆信長に仕えはじめた頃、一豊は貧乏で、気に入った馬が買えなかった
 ☆一豊は、名馬が買えず、悔やんでい時、夫人が金10両を差し出した
 (夫の一大事に使うよう、嫁ぐ時に持たされたと話す)
 (手に入れた馬を信長に誉められ、 一豊は面目を施した)
 ☆信長は、戦時に備えて名馬を求める武士としての心構えを大いに讃えた
 ☆これを機に一豊は次第に出世した
信長の死後
 ☆豊臣秀吉から、秀吉の旧領・近江(滋賀県)長浜の5千石が与えられる
 ☆一度若狭高浜に移るが、再度長浜へ戻り2万石の城主となる
 ☆その後、遠江(静岡県)掛川6万石の城主となり、一豊は順調に出世していった
笠の緒の密書と小山軍議
 ☆豊臣政権の崩壊後は、豊臣方につくか徳川方につくか、厳しい選択を迫られる
 ☆一豊は、関ヶ原の戦い直前に掛川城を徳川家康に譲り、他の大名が東軍に付くきっかけを作った
 ☆石田三成が挙兵した時、千代が機転をきかせた「笠の緒の密書」を届けた
 ☆大坂の屋敷にいた千代は、情勢を出征先の一豊宛て文箱を笠の緒に仕立てした
 (未開封のまま文箱が家康の元へ届くよう工夫した)
 ☆一豊は、家康に敵方の情勢を伝える功を立てた
 (未開封の文箱を差し出すことで家康への忠誠を示すことに成功した)
 ☆三成挙兵の情報を受けて開かれた小山軍議の場で、 一豊は三成の打倒を進言する
 ☆掛川城を家康へ明け渡し、あわせて人質を差し出すことを申し出る
 ☆一豊の発言に続き、他の諸大名も同様の忠誠を誓った
 ☆一豊の行動は、大坂に妻子を残す諸大名の迷いを捨てさせ、勢が西へ進む道筋を開いた
 ☆家康の信頼を得た一豊は関ヶ原の戦後、土佐24万石の藩主まで上りつめた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『戦国と幕末(ハーツ&マイズ)』






山内一豊(戦国の出世者1)(『戦国と幕末』記事より画像引用)

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三上卓(近代のクーデター決行者)

2018年03月25日 | 歴史上の人物
三上卓5・15事件を引き起こした海軍中尉

昭和の事件史に残る5・15事件
 ☆三上卓は、首相官邸に30数名で襲撃し、首相大養毅を殺害した
 ☆その後、変電所や政友会本部などを次々と襲った日本初の軍事クーデター事件
 ☆三上は海軍中尉、右翼運動家として活動を行っていた
 ☆血盟団事件を起こした井上日召らに影響され、急進的国家主義思想を抱く
 ☆三上、黒岩勇、古賀清志の海軍青年将校、陸軍士官学校生らが首謀者
 (右翼活動家、橘孝二郎ら民間の右翼活動家も参加)
事件の経過
 ☆三上は、黒岩らとともに玄関から首相官邸に入った
 ☆三上は、門番に公用により首相と約束していると告げた
 ☆大養を見つけると三上らは、首相に拳銃を向ける
 ☆将校達に、大養は「靴くらい脱いだらどうか」と泰然として言ったという
 ☆犬養は「話をしよう」と、穏やかな風で、三上に声を掛けた
 ☆犬養に、黒岩が発砲、次いで三上は「問答無用」と発砲した
 ☆大養は、その日の内に亡くなり三上らは出頭した
一般公開された軍法会議には多くの傍聴人が集まった
 ☆三上らの陳述
 (覚悟のうえで行ったことで、罰されることに異論はない)
 (今の支配階級は皇国を危うくする)
 ☆多くの人々の共鳴者が現れ、日本は混乱の極みとなった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本史”悪役”100人(世界文化社)』




三上卓(近代のクーデターの決行者)(『日本史”悪役”100人』記事より画像引用)
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