慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「泪橋」「三ノ輪」「千住」「浄閑寺」

2023年04月28日 | 観光
🌸荒川区三ノ輪地区散策

⛳泪橋(東京都にあった橋の名称)
 ☆荒川区と品川区に一ヶ所ずつの計二ヶ所あった
 *いずれも近隣の刑場に深い関連がある
 *荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川にかかっていた橋
 *現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はない
 *名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている
 ☆泪橋は、罪人にとってはこの世の見納めの場
 *家族や身内の者にとっては処刑される者との今生の別れの場
 *互いがこの橋の上で泪を流した

大関横丁の名前の由来
 ☆江戸時代の下野国黒羽藩(栃木県那須)の大関氏下屋敷が有った
 ☆幕府から下屋敷として拝領したことによるのが始まる

「千住」の名前の由来
 ☆北千住駅近くの勝専寺にある「千手観音」に由来する
 ☆戦国武将の千葉氏が住んでいたことに由来するという説もある

三ノ輪(「三(み)」水)の名前の由来
 ☆「水で周囲を囲まれた」という意味
 *「三ノ輪」は「箕輪」で、箕の形をした谷戸のへこんだ所
 *三ノ輪という地名は、江戸時代以前からあった
 ☆東京湾に突き出た台地の先端部
 *水の鼻といわれ、これが三ノ輪になった
 *江戸時代は江戸市中の最果てに位置した
 *川を渡れば日光街道の最初となる宿場の千住宿

三ノ輪の歴史
 ☆明治時代に畜場ができ、副産業として皮革産業が盛んになる
 *隣町の三河島が都内屈指のコリアンタウンに変貌した
 *このと畜場の恩恵によるもの
 ☆大正の頃は「新開地」と呼ばれ、歓楽街として栄えました
 *今からは想像もつかないが、400軒もの酒場があった
 *普通の酒場ではなく、「銘酒屋(めいしや)」とよばれた
 *私娼が相手をする呑み屋で、戦後で言えば青線
 ☆三ノ輪橋の駅前にある「梅沢写真会館」
 *アール・デコ様式が散りばめられた昭和2年築のモダン建築
 ☆元々、荒川線の前身だった王子電気軌道が入居していた

ジョイフル三ノ輪(元気な商店街)
 ☆「極楽荘」は、1泊1200円から泊まれる木賃宿
 *国内でも最安値の部類に入る宿
 *玄関の奥には観音様が鎮座している
 ☆ジョイフル三ノ輪は、今年で100歳を迎える古参の商店街
 *全長約500メートルの標準的な規模の商店街
 ☆「砂場総本家」がある三ノ輪商店街
 *日本三大老舗の蕎麦屋といえば、砂場、薮、更科
 *江戸時代から続く老舗中の老舗
 ☆「パンのオオムラ」自家製のコッペパン・サンド美味
 *NHKテレビでもよく紹介されている
 ☆「とりふじ」焼き鳥から各種揚げ物、お総菜店
 ☆「藤野青果」は、店先に並ぶ大きなポリ樽
 *漬け込まれた自家製のぬか漬けが圧巻どれもがコスパ抜群
 ☆餃子の「さかい食品」三ノ輪のソウルフード
 ☆「お総菜の店 きく」130円の紅生姜天で有名

浄閑寺(生まれては苦界、死しては浄閑寺)
 ☆境内の墓地
 *吉原で一生を終えた遊女たちを弔う「新吉原總霊塔」がある
 *弔われている遊女は、なんと2万5000人! 
 *少しの香典料とともに、境内に「投げ込まれた」遊女たち
 ☆基壇に彫り込まれた花又花酔の川柳
 *「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
 *涙無くして読むことはできない
 ☆慰霊塔の真向かいにある文豪・永井荷風の詩碑と筆塚
 *弔われた遊女たちを偲んで足繁く通った荷風
 *浄閑寺への埋葬を切に望んでいたものの、結局叶わず
 *永井家の墓所である雑司が谷霊園に埋葬された
 *故人の意思を想い、他界の4年後に歌碑と筆塚がたてられた
                      (敬称略)
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⛳出典、『アーバンライフメトロ』『WIKIPEDIA』他















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