歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・甘樫丘東麓遺跡 飛鳥藤原第161次調査・現地見学会 3/20

2010年03月03日 | Weblog
 奈良文化財研究所から甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第161次調査)の現地見学会の案内が発表されています。
 前回、平成21年6月21日現地説明会を開催した飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて調査が実施されています。
 【日 時】 平成22年 3月20日(土)午前11時~午後3時 説明は午後0時00分、午後2時00分の2回
 【場 所】 高市郡明日香村大字川原(国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区内)
[参考:奈良文化財研究所HP]

過去のニュース・情報
 2009.6.17 甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  
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朝来市・高田遺跡 奈良時代の須恵器に漆でアルファベットの「D」に似た柄

2010年03月03日 | Weblog
 朝来市教委が2日、兵庫県朝来市和田山町の南但ごみ処理施設建設予定地の「高田遺跡」から、奈良時代のものとみられる漆で漢字やアルファベットと似た文字か記号が書かれた須恵器の破片約30点が見つかったと発表した。
 1か所で同様の須恵器が見つかったのは但馬、丹波両地方で最多で、一般集落からの出土例はない。
 見つかった漆書きの須恵器には、漢字の「木」を書いたようにみえる破片(縦7cm、横12cm)や、アルファベットの「D」に似た柄が入った破片(縦3・5cm、横4cm)などがあり、筆や木の先端、ブラシなどで書いたとみられる。
 また、弥生時代後期(3世紀後半)から鎌倉時代末期(14世紀前半)までの13棟の竪穴住居跡や6棟の掘立柱建物跡、溝跡なども確認された。
 高杯などの弥生土器や7世紀後半から10世紀前半の須恵器、平安時代の土師器のほか、中国製の青磁、漆を入れたと思われるパレットなど約2000点以上の遺物が出土した。
[参考: 読売新聞]
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三田市・三輪餅田遺跡 2000年前の作りかけの管玉が出土

2010年03月03日 | Weblog
 三田市生涯学習課は2日、JR三田駅北側に広がる同市高次(たかすぎ)1丁目の三輪餅田遺跡(みわもちだいせき)から、約2000年前の弥生時代のものとみられる作りかけの管玉が見つかったと発表した。同市内で管玉が出土したのは、貴志遺跡(きしいせき)に次いで2例目。
 同遺跡は87年に見つかり、弥生時代から室町時代にかけての遺構や遺物が出土する複合遺跡。
 今回は道路拡幅工事に伴い、昨年12月から約1200㎡を調査した。
 弥生時代の溝や石包丁、土器片などとともに、首飾りなどの装飾品に使う管玉の未製品(長さ2・2cm、縦10・2mm、横7・9mm、重さ3・3g)が見つかった。断面などから、原石の碧玉から管玉に加工する初期工程のものとみられる。
 碧玉は出雲地方で青瑪瑙(あおめのう)とよばれる貴重品で、松江市の花仙山付近でしか産出しない(注1)。原石を割って直方体を作った上で、角を削って円柱にし、石針で穴を開けたという。管玉製造に必要な石針や砥石など玉造りの道具は見つかっていないが、弥生時代に環壕集落だった同地が、遠距離交流を行っていたことを示すとみている。
 ほかに、弥生時代のものとみられる土器片や石包丁なども出土した。作りかけ品であることから、三田に管玉を製造できる技術を持った人が住んでいた可能性があるという。
 現地説明会が、6日午後1時から開かれる。また、10~22日に、三田ふるさと学習館(同市屋敷町)で出土品約100点を速報展示する。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]

(注1)2010.3.26追記
 その後の調べで、碧玉は石川県小松市周辺で産出した可能性が高いことが分かった。

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.10 倉吉市・東前遺跡 弥生中期の玉作り工房跡確認 (管玉は北陸地方産としている。)



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府中市・ツジ遺跡(備後国府跡) 平安時代の区画溝や国司の官舎跡が出土

2010年03月03日 | Weblog
 府中市教委は2日、発掘調査している広島県府中市元町の「ツジ遺跡」(備後国府跡)から奈良・平安時代(8〜12世紀)の北限を示す区画溝や「国司」の官舎跡とみられる、奈良~平安時代の建物の柱穴が見つかった。
 昨年11月からJR府中駅北東約800mの公民館跡地約200㎡を調査してきた。
 発掘現場の北端から幅約2m、深さ約30~40cmの区画溝が、北東側では東西約12mそして北西側では東西約15mが、一部が重なった状態で確認され、北限の区画溝と判断した。
 幅約2m、長さ計約27m。以前の調査で南側に区画溝が出土しており、1区画が南北約120m、東西100mであることが分かった。
 溝の南側に6つの建物跡(柱穴の直径0・5〜1m)を確認した。うち最大の建物は東西7・8m、南北3・6mに計12の柱穴が並んでいた。
 出土物では、周辺の遺跡に多くみられる土師器片、須恵器片などが大量に見つかった。
 国府の政庁ほどの規模はなく、役人の住居や倉庫の可能性が高いという。高級品だった緑釉陶器の破片も出土した。
 現地説明会が、7日午後1時30分から開かれる。
[参考:山陽新聞、中国新聞、読売新聞]
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横手市・大鳥井柵(大鳥井山遺跡) 11世紀後半に最盛期を迎えた山城が明らかに

2010年03月03日 | Weblog
 大鳥井柵(大鳥井山遺跡)が、11世紀後半に最盛期を迎えた山城であることが昨年秋に横手市教委がまとめた調査報告書により明らかになった。後三年合戦(1083~87年)で源義家と戦った現地の豪族・清原氏の拠点とみられる。武士が築く山城の出現は14世紀、南北朝期ごろとされてきた定説を200年以上も遡る。
 国の史跡指定を受けようと横手市教委は昨年まで3年にわたり再調査を実施した。
 大鳥井山遺跡は、横手市の市街地の北部、雄物川の支流の横手川と吉沢川の合流点に位置し川からの高さは20mほどの、かつては大鳥井山と呼ばれていた大鳥山(標高約70m)と、その北の小吉山(標高約75m)と台拠館と称される3つの小独立丘陵上の合わせて南北680m、東西200mに及ぶ。川に面していない3方向を土塁と堀で囲んだ構造と判明。堀は二重にめぐり、最大のものは幅10m、深さ3mもある。大型の建物跡も確認されている。
 東側の斜面に見える3本の竪堀を土でつくる城の「うね状空堀群」と分析。
 過去に多量のかわらけなど、土器なども多数出土していながら、時期が特定できなかったが、北東北では平泉(岩手県)などで古代遺跡の調査が進み、土器の編年が整備され、その結果、10世紀後半に築造が始まり、土塁や堀が完成したのは11世紀後半と特定できた。
 後世の戦国時代などに城として使われたことのないことも確認された。
[参考:朝日新聞、横手市→文化財保護課HP]

写真は、大鳥山の北(左側)と小吉山の南(右側)部分に当たる。

備考
 大鳥井山遺跡の大鳥山南側に大鳥井山神社があります。神社のそばに説明板が立っています。

過去のニュース・情報
 2008.7.11 後三年合戦関連遺跡発掘調査 現地説明会の予定


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