奈良文化財研究所が18日、「乙巳(いつし)の変」(645年)で滅んだ蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘中腹で、7世紀の塀跡とみられる柱穴列が見つかったと発表した。塀跡は、日本書紀で記されている蘇我氏邸を囲った「城柵(きかき)」(注1)の可能性があり、丘陵上部にも何らかの施設があったことを示唆する重要な発見としている。
前回の飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて発掘調査を実施していた。甘樫丘東麓遺跡の背後の斜面で、丘陵の裾から約10m地点を平らにし、丘の上部を区画する柱穴列を発見した。
柱穴列は約10mで、直径25~30cmと推測される大きな柱穴3基の間に細長い溝が掘られ、直径10~15cmの小さな柱穴が密に並ぶ。柱列を土やわらで固めて壁にする朝鮮半島がルーツの大壁建物とも似た珍しい構造の塀という。
塀跡の内側には、飛鳥の宮殿跡が目の前に望める平らな尾根があり、「上の宮門」の立地にふさわしいロケーションという。
現地見学会は、3月20日 午前11時~午後3時、説明は午後0時、午後2時の2回行われる。
[参考:産経新聞、見学会]
(注1) 皇極3年(644)冬11月に、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並んで建てた。大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と言った。(略) 家の外には城柵を造り、門の傍に兵庫を造り、門毎に用水桶一つと木鉤数十本とを置いて火災に備えた。
過去のニュース
2009.6.17甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる
前回の飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて発掘調査を実施していた。甘樫丘東麓遺跡の背後の斜面で、丘陵の裾から約10m地点を平らにし、丘の上部を区画する柱穴列を発見した。
柱穴列は約10mで、直径25~30cmと推測される大きな柱穴3基の間に細長い溝が掘られ、直径10~15cmの小さな柱穴が密に並ぶ。柱列を土やわらで固めて壁にする朝鮮半島がルーツの大壁建物とも似た珍しい構造の塀という。
塀跡の内側には、飛鳥の宮殿跡が目の前に望める平らな尾根があり、「上の宮門」の立地にふさわしいロケーションという。
現地見学会は、3月20日 午前11時~午後3時、説明は午後0時、午後2時の2回行われる。
[参考:産経新聞、見学会]
(注1) 皇極3年(644)冬11月に、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並んで建てた。大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と言った。(略) 家の外には城柵を造り、門の傍に兵庫を造り、門毎に用水桶一つと木鉤数十本とを置いて火災に備えた。
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2009.6.17甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる