高麗文化財研究院25日、韓国水資源公社の依頼で昨年3月以後現在まで、京畿道漣川郡のクンナム洪水調節地(군남홍수조절지)水没予定地にある旺澄面江內里一円の臨津江(임진강、イムジン河)川辺平坦沖積地帯一帯を発掘調査した結果、①青銅器時代住居跡4基、②初期三国時代住居跡74基、③高句麗石室墳9基および④耕作遺構と竪穴遺構131基など計218基に達する各種遺構を確認したと発表した。
②では、漢江と臨津江流域を中心に西暦紀元前後頃韓半島中部地方一帯に集中的に登場する平面・呂・凸字形住居跡が65ヶ所確認され、当時に大規模集落があったことが明らかになった。呂・凸字形住居跡の大部分が、他の地域の同じような類型の住居跡と同じように片側壁面に付随して「ㄱ」字形オンドル施設が現れた。
27号と命名した住居跡は長さ20.6m、幅9.7m、深さ0.99mの大きさで、これまでに発見された呂字形住居地では超大型級に属することが明らかになった。
遺物ではこの時代を代表する二大土器類の硬質無文土器と打捺文土器をはじめとして鉄刀、鉄斧等が出土している。
この一帯は初期三国時代臨津江流域勢力の拠点の村と推定される。
③では、高句麗伝統が強い三国時代石室墳が丘陵地帯3つの区域に分かれて、各々3基ずつ群集をなす形状で発見された。
これら石室墳は、外側から墓内部に通じる部分を石室全面右側に偏った地点に設けたいわゆる右偏在横穴式であり、石室は大部分が長方形で、規模は概略長さ約2.5m、幅、1.4cm、高さ1.98cmであった。
墓室壁面は割り石を利用して、比較的整然と積んであり、墓道に通じる羨道は内側墓室から外部に向かって若干傾斜して上る形に作っていた。
これら古墳では、棺釘(관정)と棺輪(관고리、取っ手)が収集された。
8号石室墳では南側壁に近い石室底で表面がつやつやと黒い色を帯びる壷型土器の黒色磨研壷1点と金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪1組が出土し、2号石室墳では金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪、鉄製品などが収集された。
出土遺物中、棺輪は百済文化圏では見えないが、高句麗地域だけに現れる物で、円形の輪に花弁形で構成された点とか、古墳が川辺丘陵地に何基ずつか群れをなした点等からみると、高句麗石室墳であり、築造時期は早ければ5世紀後半頃とみられるという見解を表明した。これら石室墳は古墳一つに二人ずつ埋蔵されたことからみて、夫婦を共に埋めた墓と推定され、並んで造成された各3基の古墳は家族または近い血縁関係の墓群と解釈することができるとする。
調査団は「今回の発掘成果は高句麗長寿王(在位413~491)の持続的な南進政策により臨津江流域が一定期間の間、高句麗の実質的な支配下にあったことを示唆する強力な証拠とする。
南韓地域で高句麗、あるいは高句麗系石室墳は京畿道の龍仁宝亭里(龍仁市)と板橋新都市(城南市)で最近確認されたことがある。
[参考:聨合ニュース]
②では、漢江と臨津江流域を中心に西暦紀元前後頃韓半島中部地方一帯に集中的に登場する平面・呂・凸字形住居跡が65ヶ所確認され、当時に大規模集落があったことが明らかになった。呂・凸字形住居跡の大部分が、他の地域の同じような類型の住居跡と同じように片側壁面に付随して「ㄱ」字形オンドル施設が現れた。
27号と命名した住居跡は長さ20.6m、幅9.7m、深さ0.99mの大きさで、これまでに発見された呂字形住居地では超大型級に属することが明らかになった。
遺物ではこの時代を代表する二大土器類の硬質無文土器と打捺文土器をはじめとして鉄刀、鉄斧等が出土している。
この一帯は初期三国時代臨津江流域勢力の拠点の村と推定される。
③では、高句麗伝統が強い三国時代石室墳が丘陵地帯3つの区域に分かれて、各々3基ずつ群集をなす形状で発見された。
これら石室墳は、外側から墓内部に通じる部分を石室全面右側に偏った地点に設けたいわゆる右偏在横穴式であり、石室は大部分が長方形で、規模は概略長さ約2.5m、幅、1.4cm、高さ1.98cmであった。
墓室壁面は割り石を利用して、比較的整然と積んであり、墓道に通じる羨道は内側墓室から外部に向かって若干傾斜して上る形に作っていた。
これら古墳では、棺釘(관정)と棺輪(관고리、取っ手)が収集された。
8号石室墳では南側壁に近い石室底で表面がつやつやと黒い色を帯びる壷型土器の黒色磨研壷1点と金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪1組が出土し、2号石室墳では金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪、鉄製品などが収集された。
出土遺物中、棺輪は百済文化圏では見えないが、高句麗地域だけに現れる物で、円形の輪に花弁形で構成された点とか、古墳が川辺丘陵地に何基ずつか群れをなした点等からみると、高句麗石室墳であり、築造時期は早ければ5世紀後半頃とみられるという見解を表明した。これら石室墳は古墳一つに二人ずつ埋蔵されたことからみて、夫婦を共に埋めた墓と推定され、並んで造成された各3基の古墳は家族または近い血縁関係の墓群と解釈することができるとする。
調査団は「今回の発掘成果は高句麗長寿王(在位413~491)の持続的な南進政策により臨津江流域が一定期間の間、高句麗の実質的な支配下にあったことを示唆する強力な証拠とする。
南韓地域で高句麗、あるいは高句麗系石室墳は京畿道の龍仁宝亭里(龍仁市)と板橋新都市(城南市)で最近確認されたことがある。
[参考:聨合ニュース]