歴歩

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漣川郡旺澄面の臨津江(イムジン河)川辺沖積地帯から2000年前の大規模集略跡と高句麗石室墳9基が出土

2010年03月26日 | Weblog
 高麗文化財研究院25日、韓国水資源公社の依頼で昨年3月以後現在まで、京畿道漣川郡のクンナム洪水調節地(군남홍수조절지)水没予定地にある旺澄面江內里一円の臨津江(임진강、イムジン河)川辺平坦沖積地帯一帯を発掘調査した結果、①青銅器時代住居跡4基、②初期三国時代住居跡74基、③高句麗石室墳9基および④耕作遺構と竪穴遺構131基など計218基に達する各種遺構を確認したと発表した。

 ②では、漢江と臨津江流域を中心に西暦紀元前後頃韓半島中部地方一帯に集中的に登場する平面・呂・凸字形住居跡が65ヶ所確認され、当時に大規模集落があったことが明らかになった。呂・凸字形住居跡の大部分が、他の地域の同じような類型の住居跡と同じように片側壁面に付随して「ㄱ」字形オンドル施設が現れた。
 27号と命名した住居跡は長さ20.6m、幅9.7m、深さ0.99mの大きさで、これまでに発見された呂字形住居地では超大型級に属することが明らかになった。
 遺物ではこの時代を代表する二大土器類の硬質無文土器と打捺文土器をはじめとして鉄刀、鉄斧等が出土している。
 この一帯は初期三国時代臨津江流域勢力の拠点の村と推定される。

 ③では、高句麗伝統が強い三国時代石室墳が丘陵地帯3つの区域に分かれて、各々3基ずつ群集をなす形状で発見された。
 これら石室墳は、外側から墓内部に通じる部分を石室全面右側に偏った地点に設けたいわゆる右偏在横穴式であり、石室は大部分が長方形で、規模は概略長さ約2.5m、幅、1.4cm、高さ1.98cmであった。
 墓室壁面は割り石を利用して、比較的整然と積んであり、墓道に通じる羨道は内側墓室から外部に向かって若干傾斜して上る形に作っていた。
 これら古墳では、棺釘(관정)と棺輪(관고리、取っ手)が収集された。
 8号石室墳では南側壁に近い石室底で表面がつやつやと黒い色を帯びる壷型土器の黒色磨研壷1点と金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪1組が出土し、2号石室墳では金製玉、ガラス製玉、銀製腕輪、鉄製品などが収集された。
 出土遺物中、棺輪は百済文化圏では見えないが、高句麗地域だけに現れる物で、円形の輪に花弁形で構成された点とか、古墳が川辺丘陵地に何基ずつか群れをなした点等からみると、高句麗石室墳であり、築造時期は早ければ5世紀後半頃とみられるという見解を表明した。これら石室墳は古墳一つに二人ずつ埋蔵されたことからみて、夫婦を共に埋めた墓と推定され、並んで造成された各3基の古墳は家族または近い血縁関係の墓群と解釈することができるとする。
 調査団は「今回の発掘成果は高句麗長寿王(在位413~491)の持続的な南進政策により臨津江流域が一定期間の間、高句麗の実質的な支配下にあったことを示唆する強力な証拠とする。
 南韓地域で高句麗、あるいは高句麗系石室墳は京畿道の龍仁宝亭里(龍仁市)と板橋新都市(城南市)で最近確認されたことがある。
[参考:聨合ニュース]
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行田市・奥の山古墳 地中レーダー探査結果を発表 箱式石棺とみられる物体の反応

2010年03月26日 | Weblog
 さきたま史跡の博物館(行田市)は25日、埼玉(さきたま)古墳群の「奥の山古墳」を09年3月に地中レーダー調査した結果を発表した。
 調査は古墳の内部構造を解明するため3次元地中レーダシステム(3D GPR:Ground Penetrating Radar)を使い、同館が東北大学東北アジア研究センターと共同で3日間にわたり実施した。墳丘上 5×9m の範囲を3種類の周波数(100、250、500MHz)により計測し、その結果、墳丘の頂上部分から深さ約3mまでの地点で、4つの物体反応があった。
 ①直径約30cmの球体、②直径約50cmの球体、③、④長さ約2m、幅と高さ50cmの箱状の物体2点
 同古墳は国の史跡に指定されているため、埋葬施設は原則掘ることができず、4点の詳細は分からないという。
 ③と④の二つの箱状の物体は、深さ1m以上離れており、異なった時期に埋められたとみられる。木棺か箱式石棺の可能性があり、土壌の性質や古墳の時期から、箱式石棺の可能性が高いとみられる。
 箱式石棺は5世紀後半から6世紀前半に現れるが、同古墳は6世紀半ば築造と考えられているので、箱式石棺が6世紀半ばまで使われていた可能性があることになる。探査結果から石棺は未盗掘の可能性が高いとあらためて確認された。
 県内では大塚古墳(川島町)、大日塚古墳(行田市)などで発見されているが、埼玉古墳群では稲荷山古墳の礫槨と粘土槨、将軍山古墳の横穴式石室とは別の埋葬形態が存在したことになる。
[参考:埼玉新聞、毎日新聞、埼玉県HP、東北大学HP]

過去のニュース
 奥の山古墳
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福井市・石盛遺跡 新旧2つの堀を確認、新田義貞の拠点「石丸城」か

2010年03月26日 | Weblog
 福井市文化財保護センターは25日、室町時代の館跡などが確認されている「石盛遺跡」(同市石盛町)で、14~16世紀に使われたとみられる新旧二つの堀跡が新たに見つかったと発表した。同遺跡は、新田義貞の拠点の一つ「石丸城」の可能性が高いとされ、城の存在が裏付けられたとしている。
 同遺跡の調査は2000年度から実施。これまでに館や井戸などの遺構が見つかり、その下の地層からは弥生時代や古墳時代の集落跡なども見つかっている。09年度は館跡の南西側約1200㎡を調査した。
 発掘現場は古くは「石丸」の地名で、南北朝時代の軍記物語「太平記」では新田義貞の弟が暮らしたと記されている。戦国時代は朝倉氏の家臣の居城だったという。
 古い堀跡は、幅3・7m、深さ1・2mで、県内2例目の烏帽子も見つかった。新しい堀跡は幅8・7m、深さ2・5mで、幅が広いことから合戦に備えたとみられる。いずれも、出土した陶器片の形状などからそれぞれ14世紀南北朝時代の動乱と15世紀応仁の乱などに備えて造られたとみている。
[参考:中日新聞、読売新聞]
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三田市・三輪餅田遺跡 弥生中期の管玉工房跡と判明

2010年03月26日 | Weblog
 三田市生涯学習課は24日、三輪餅田遺跡(同高次(たかすぎ)1丁目)から弥生時代の「管玉」を製造するための砥石や石鋸などの工具が見つかったと発表した。
 先に碧玉管玉の未製品などが見つかっており、同遺跡に管玉を製造する工房があったことが確認できたという。
 見つかったのは、砥石(縦13cm、横7cm、厚み2cm)や石鋸(長さ2・5cm、幅2cm、厚み0・15cm)、原石に穴を開ける石針(せきしん)の未製品(長さ1・7cm、幅0・3cm、厚み0・05cm)、それに管玉の原石となる碧玉(長さ1・5cm、幅0・8cm、厚み0・5cm)など合計約20点。
 原石を割る技術として弥生中期の特徴とされる石に溝を掘る「施溝(せこう)分割」の方法がとられていることや、弥生中期まで使われた石針が出ていることから、工房が存在したのは弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)と判断した。
 市はこれまで碧玉の産出地を松江市付近としていたが、その後の調べで石川県小松市周辺で産出した可能性が高いことが分かった。また石鋸は徳島県で産出する紅廉(こうれん)片岩(結晶片岩の一種)で作られているという。
 25日から同市屋敷町の三田ふるさと学習館で展示する。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース
 2010.3.3 三輪餅田遺跡 2000年前の作りかけの管玉が出土
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