歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

豊岡市・市場神無遺跡群 7世紀初め~8世紀初めにかけての窯跡と陶工の墓が出土

2010年03月19日 | Weblog
 豊岡市立出土文化財管理センターは18日、同市市場の市営霊園建設予定地で進めてきた発掘調査で、7世紀前半から8世紀初めにかけての須恵器窯の跡5基や墓8基が確認されたと発表した。窯跡のすぐそばに窯元らが埋葬されたとみられる石造りの墓もあり、当時の陶工らの営みがうかがえる全国的にも珍しい発見という。一帯を「市場神無遺跡群(いちばかんなしいせきぐん)」と名付けられた。
 遺跡群は、東西に長い谷の奥側にあり、2008年からこれまでに約2500㎡が発掘された。谷の入り口付近にある窯跡の存在は以前から知られていたが、谷の奥で遺構を確認したのは初めてという。
須恵器や瓦の出土品に加え、5つの窯と8つの墓、粘土の採掘場や作業道などが確認された。須恵器の生産が下火になった奈良時代以降の土地利用がなく、当時の陶工の作業場がほぼ完全な形で残っているという。
 窯は山の斜面を利用して築いた全長2~8mの登り窯。須恵器の破片や近くの白鳳寺院跡とされる三宅廃寺跡から出土したものと同じ瓦、硯の破片などがあった。
 古い墓はいずれも、窯のある斜面の上で確認された。7世紀中頃の横穴式石室が最も古かった。その後に造られたとみられる小型石室墳(4基)や集石古墓(3基)は2m四方で、遺体をそのまま安置するには狭いことから、同時に見つかった横穴式木室墳で骨にしてから、埋葬したのではないかとみられるという。また、集石古墓の周辺からは、追善供養としてまかれたとみられる奈良時代の銅銭・神功開宝(765年)8枚も見つかった。被葬者の社会的地位の高さを示している。
 権威のある窯元が自らの仕事場近くに葬られていたと考えられ、これまで判然としていなかった陶工の埋葬形式解明にもつながるとしている。また、石造りの墓に高度な技術が使われていることなどから、当時の陶工らが比較的、高い身分に置かれていたとみている。
 調査は今月中に終了する予定。約200箱見つかった須恵器の出土品は来年度中に詳細に調査、分類を進めるとしている。
 一般向け現地説明会は27日午後2時から行われる。悪天候時は翌日に順延。
[参考:神戸新聞、毎日新聞、朝日新聞]

陶工の営みうかがえる7世紀の遺跡群 豊岡で発見(神戸新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京都府中市府中本町駅前 武蔵国司館跡か 大型の建物跡4棟出土

2010年03月19日 | Weblog
 南武線および武蔵野線府中本町駅前(府中市本町1丁目)で、8世紀頃のものとみられる大型の掘っ立て柱建物跡が4棟見つかった。発掘は民間調査会社「共和開発」が行った。
 発見された建物跡のうち、主屋とみられる1棟は東西11・4m、南北7・4m。南北に庇があり、柱穴の直径は約1mあった。4棟は南北軸を意識して建てられていたようであり、構造や配置などから、公的な機能を持った国司の館ではないかとみられている。建物跡の配置は陸奥国の国司の館跡とされる館前遺跡(たてまえいせき、宮城県多賀城市)と似ているという。
 現場は、江戸時代には徳川家康が鷹狩りに用いた府中御殿があったとの伝承が残っている。また、駅の反対・西側(本町2丁目)では過去に国衙建造時の運河状大溝が出土している。
[参考:読売新聞、国府はいつできたか&調査報告(発行・2010.1.23府中市郷土の森美術館)]

武蔵国司館跡か、府中で大型の建物4棟発見(読売新聞) - goo ニュース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米子市・境北井遺跡 弥生時代後期の建物跡13棟が見つかる

2010年03月19日 | Weblog
 米子市教育文化事業団埋蔵文化財調査室が18日、南部町境(さかえ)の丘陵部の尾根(標高54~36m)で弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡「境北井遺跡(さかいきたいざこいせき)」が見つかったと発表した。
 弥生時代の建物跡13棟が確認され、3度建て替えられた住居もあった。隣接する尾根にかけて大規模集落が広がっていた可能性がある。
 20日午後1時から現地説明会が開かれる。「わかとり作業所」(南部町福成3292−1)北側の現地事務所に集合。
[参考:読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根市・佐和山城遺跡 幅22mの内堀の東端の遺構が見つかる

2010年03月19日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が18日、石田三成(1560~1600)の居城があった彦根市の佐和山城遺跡(同市佐和山町)から、内堀の東端の遺構や城下町の町屋区画跡が見つかったと発表した。内堀は幅約22mと推定され、戦国時代の城としては大型といい、『三成に過ぎたるもの』と評された城の一端が明らかになったとしている。
 内堀西端に築かれたと伝わる土塁の東側約550㎡を発掘し確認した。発掘された内堀跡は幅が東西10m、南北4m、深さ約0・5m。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22mだった。土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5mの高さがあり、当時はさらに高い土塁と幅広い内堀があったとみている。織田信長の居城・安土城(安土町)の内堀の幅は10~30mで、ほぼ同規模の城構えだったとみている。
 内堀東側の城下町の区域では、16世紀後半の金属精錬時に送風する「鞴(ふいご)」や、溶けた金属を取り出す容器「取瓶(とりべ)」、鉄滓を発見した。一帯で職人が武器などの鉄製品を生産していたとみられる。
 城下町を区画した溝(幅約2、3m、長さ30m)もあり、墓石を転用して暗渠を造っていたことも判明した。区画と排水を両立させる溝は昨年7月、内堀西側の家臣の屋敷跡でも確認。三成の家臣は1596年頃、城を拡充するため農民を徴集するよう求める書状を領地周辺に出しており、三成が墓石までも活用し、突貫工事で湿地帯だった城下一帯を整備した可能性がある。
 同城は、鎌倉時代に近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱(1142-1205)の六男・佐保時綱が築いた砦が起源という。三成以前にも、織田信長や豊臣秀吉の家臣らが入城し、三成が関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた後は、初代彦根藩主・井伊直政も拠点としたが、彦根城の築城後は破壊されたため、詳細は不明。
 佐和山城の正面が佐和山の東西どちらにあったのかも議論が分かれている。今回の調査では、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目茶碗や中国製の磁器など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられ、東説を補強する成果とする見方もある。
 現地説明会は20日午後1時半行われる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース
 2009.7.23 佐和山城 武家屋敷の堀と紐金具を発見
 2009.9.23 横山城 2期にわたり築造確認 土塁は秀吉が改修補強か
 2008.11.21 横山城遺跡 戦国時代の痕跡出土

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする