奈良文化財研究所が21日、同市佐紀町の平城宮跡東方官衙地区で、続日本紀に登場する「大伴直宮足」名の木簡が見つかったと発表した。
木簡(長さ96mm、幅18mm、厚さ6mm)は、礎石建物の下の整地土から見つかった。「豊嶋郡大領大伴直宮足書」と記され、武蔵国豊嶋郡の大領(郡司)だったことが明らかになった。木簡の上端両側に切り込みがあった。
続日本紀、神亀元年(724)2月《廿二》には「天皇臨軒。(略)外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。」と記され、外従八位上だった大伴直宮足が、陸奥国鎮所(多賀城)に「私穀」を献上した功績で外従五位下に昇進したことがわかる。
この他にも、続日本紀に登場する名の木簡が2例見つかっている。
ひとつは、天武天皇の皇子で、日本書紀編纂に携わったとされる舎人親王(676~735)で、勤務評定とみられる木簡に書かれていた。本人ではなく従者の勤務評定の可能性が高いという。舎人親王の名の上に「一品」という位を表す文字があり、続日本紀養老二年(718)正月《丙申朔五》には「詔授二品舍人親王一品」と記され、718年に一品(ほん)になっているため、同年以降735年に亡くなるまでに書かれた木簡とみられる。
もうひとつは、安倍他田朝臣麻呂(あべのおさだのあそんまろ)で、上記と同様に勤務評定とみられる木簡に書かれており、続日本紀養老元年(717)八月《戊辰朔三》には「正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上他田臣萬呂。本系同族。實非異姓。追尋親道。理須改正。請賜安倍他田朝臣姓許之。」と記され、717年に「安倍他田朝臣」の姓を与えられたとされているため、それ以降に書かれた木簡とみられる。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、NHK大阪、読売新聞、朝日新聞]
木簡(長さ96mm、幅18mm、厚さ6mm)は、礎石建物の下の整地土から見つかった。「豊嶋郡大領大伴直宮足書」と記され、武蔵国豊嶋郡の大領(郡司)だったことが明らかになった。木簡の上端両側に切り込みがあった。
続日本紀、神亀元年(724)2月《廿二》には「天皇臨軒。(略)外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。」と記され、外従八位上だった大伴直宮足が、陸奥国鎮所(多賀城)に「私穀」を献上した功績で外従五位下に昇進したことがわかる。
この他にも、続日本紀に登場する名の木簡が2例見つかっている。
ひとつは、天武天皇の皇子で、日本書紀編纂に携わったとされる舎人親王(676~735)で、勤務評定とみられる木簡に書かれていた。本人ではなく従者の勤務評定の可能性が高いという。舎人親王の名の上に「一品」という位を表す文字があり、続日本紀養老二年(718)正月《丙申朔五》には「詔授二品舍人親王一品」と記され、718年に一品(ほん)になっているため、同年以降735年に亡くなるまでに書かれた木簡とみられる。
もうひとつは、安倍他田朝臣麻呂(あべのおさだのあそんまろ)で、上記と同様に勤務評定とみられる木簡に書かれており、続日本紀養老元年(717)八月《戊辰朔三》には「正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上他田臣萬呂。本系同族。實非異姓。追尋親道。理須改正。請賜安倍他田朝臣姓許之。」と記され、717年に「安倍他田朝臣」の姓を与えられたとされているため、それ以降に書かれた木簡とみられる。
[参考:奈良新聞、毎日新聞、NHK大阪、読売新聞、朝日新聞]