群馬県埋蔵文化財調査事業団が発掘を進める「矢場三ツ橋Ⅱ遺跡」(藤岡市矢場)で、6月に元代(1271-1368)の白磁の碗がほぼ完全な状態(直径約15cm、高さ約6cm)で出土した。群馬県埋蔵文化財調査事業団HPには、口縁の釉が剥がされて焼かれた碗としている。(注1)
室町時代に関東管領(注2)だった上杉氏が城主の平井城跡が遺跡の西約1.5kmのところにあり、関係する有力な領主が所有した可能性がある。
遺跡からは「V字形」で、上部の最大幅が約8m、最深部が約2mの溝跡が六本出土し、井戸跡や柱穴も多数出ており、鎌倉から戦国時代にかけての堀を巡らせた館跡の可能性が高い。(注3)
東京新聞では、「矢場三ツ橋Ⅱ遺跡の一帯は、源平合戦や南北朝の動乱などで活躍した武士団、高山氏(注4)の拠点。館跡は高山氏との関連が想起される。白磁の碗は高山氏が入手したか、同氏に上杉氏が褒美に与えた可能性がある」としている。
[参考:東京新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]
(注1) HPで見ると、口縁は外側に広がりを見せている。その部分が、丸々釉薬が剥がされている感じだ。
(注2) 応安元年(1368年)武蔵平一揆の際に、高山重康らは河越直重に加わるが、乱は関東管領上杉憲顕により鎮圧される。以降は上杉氏の家臣として仕える。
(注3) 中世の館跡と思われる方形に巡る堀とみられている。
(注4) 秩父重綱の3男・重遠が武蔵国高麗郡高山邑(現在の埼玉県飯能市高山)に住んで高山氏を名乗る。ほかに、長男・重弘は畠山氏(3代目が重忠)、2男・重隆は河越氏(2代目が重頼)、4男重継は江戸氏を興す。
過去の関連ニュース・情報
2009.5.21 豊島区 瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗)
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遺跡からは「V字形」で、上部の最大幅が約8m、最深部が約2mの溝跡が六本出土し、井戸跡や柱穴も多数出ており、鎌倉から戦国時代にかけての堀を巡らせた館跡の可能性が高い。(注3)
東京新聞では、「矢場三ツ橋Ⅱ遺跡の一帯は、源平合戦や南北朝の動乱などで活躍した武士団、高山氏(注4)の拠点。館跡は高山氏との関連が想起される。白磁の碗は高山氏が入手したか、同氏に上杉氏が褒美に与えた可能性がある」としている。
[参考:東京新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]
(注1) HPで見ると、口縁は外側に広がりを見せている。その部分が、丸々釉薬が剥がされている感じだ。
(注2) 応安元年(1368年)武蔵平一揆の際に、高山重康らは河越直重に加わるが、乱は関東管領上杉憲顕により鎮圧される。以降は上杉氏の家臣として仕える。
(注3) 中世の館跡と思われる方形に巡る堀とみられている。
(注4) 秩父重綱の3男・重遠が武蔵国高麗郡高山邑(現在の埼玉県飯能市高山)に住んで高山氏を名乗る。ほかに、長男・重弘は畠山氏(3代目が重忠)、2男・重隆は河越氏(2代目が重頼)、4男重継は江戸氏を興す。
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