歴歩

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市原市・稲荷台遺跡 古墳をつなぐと北斗七星に、妙見信仰のルーツか

2011年06月04日 | Weblog
 千葉県教育振興財団文化財センター上席研究員・西野雅人氏により、古墳時代に築かれ平安時代には祭祀の場として再利用されていた市原市の稲荷台遺跡の古墳群が、その時に使われた古墳をつなぐと北斗星の配列に見えるという研究結果をまとめ、5月にあった千葉歴史学会の大会で発表した。
 市原台地に広がる稲荷台遺跡は1970年代から調査され、5~6世紀の円墳13基が確認され、1号墳から「王賜」銘鉄剣が出土している。
 大量に出土した陶器や土器の分析を進めた結果、平安時代の9~10世紀に墳丘上で祭祀が行われていたことがわり、平安時代の遺物がある古墳を結ぶと、北斗七星を裏返しにした配列になるという。
 千葉神社(千葉市)は妙見本宮とも呼称されるように、北極星と北斗七星を神霊とする妙見信仰が房総には根強いが、そのような文化のルーツなのではと推測している。
[参考:朝日新聞]


(左写真)千葉神社(千葉市)、 右上は、楼門型の分霊社「尊星殿」掛かる額   (右写真)説明板

追記
 2011.7.27読売新聞朝刊に「北斗七星に見立て祭祀 稲荷台古墳群に新説」と題して記事が掲載された。
 新たに書かれた注目される部分(既に西野雅人さんが主張しているとしている)は、「王賜」銘鉄剣が出土した1号墳を輔星として捉えていることである。
 稲荷台遺跡から、「貞観十七年(875)十一月廿四日」と書かれた墨書土器が出土しており、この年(875年)は、房総では俘囚の乱がおこった年でもあり、貞観11(869)年5月26日には貞観大地震が発生している。 また、貞観10年(868)には播磨国地震も発生している。
 前述の2011.6.4の朝日新聞記事には、稲荷台遺跡の祭祀が、「貞観11年(869)の大津波をはじめ、天変地異が連続し社会が動揺した。『その対策として祭祀が必要だったのでは』と考える。」との、国学院大・岡田荘司教授(宗教史)の話を紹介している。
 また、2011.6.8の読売新聞朝刊に、「平安大震災 東北の安寧 関東でも祈る」と題した記事中、埼玉県の慈光寺に残る「安倍小水麿願経」として知られる大般若経は、貞観地震(869年)の災害を弔うために奉写したものではないかと指摘している。 その願文には、「誠を至して大般若経600巻を奉写す。貞観13年(871)3月、前上野国大目従六位下、安倍小水麿」と記され、現在でも150巻ほど残っているそうである。
 さらに、京都・八坂神社の祭礼・祇園祭も貞観年間に始まっている。貞観5年(863)、疫病の流行により朝廷が神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。その後も疫病の流行が続いたために、貞観11年(869)、矛を立て神輿を送り、牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったという。 貞観年間は、このようにいろいろ不安な出来事が起こった。

過去の関連ニュース・情報
 20110.5.19 兵庫県たつの市・布勢駅家 868年の播磨国地震の痕跡


2012.5.2 井上誠さんのコメントに対して追記
 七ツ塚古墳群(日野市新町)は、7基にとどまらない数の古墳があったようですね。 遺跡地図で見ても何となく北斗七星の配列が描かれそうな感じです。 古墳の数が7基以上あれば、その中で北斗七星が描くことができる古墳を選択すればよいわけです。 時期的には7~8世紀頃。 上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳(府中市西府町)が7世紀半ば~後半の築造とされていますから、勢力関係で何らかの関係があるかもしれません。
 七ツ塚古墳は西党日奉(ひまつり)氏の墳墓であるといわれていたこともあるようですが、西党の祖・日奉宗頼は承平元年(931)、京より武蔵国司として下向していますから、古墳の築造時期とは合致しません。
 日奉宗頼の子孫が祖神を祀って日野官権現と称したという言い伝えがある日野宮神社(日野市栄町2丁目)の主祭神は天御中主尊(ほかに、高魂尊、日奉宗頼 、日奉宗忠)を祀っています。 すなわち、妙見本宮とも呼称される千葉神社の主祭神と同じです。日奉氏は大伴氏と同じく高魂尊(たかむすびのみこと)、別名高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祖とすることから、天御中主尊は、妙見信仰に伴って後に追祀したことも考えられます。
 ただし、日奉氏が祖神を祀ったという日野宮神社、そして、日奉宗頼が居館の鬼門よけに建立したという東光寺(注)、ともに妙見信仰の痕跡がみられないようである。
(注)現在は、萬照山東光寺 成就院(日野市栄町)として、子院が中興建立されている。

 先に記した、「日野市・仁王塚遺跡 真慈悲寺の関連建物か 柱穴105基出土」の中で、
 後白河法皇の四十九日の法要を、南御堂勝長寿院で行った記述があります、すなわち、
[吾妻鏡より]
 文治二年(1186)二月大三日辛亥。武藏國眞慈悲寺者。御祈祷靈塲也。然而未依無寄附庄園。佛無供具之備。僧失衣鉢之貯。爰僧有尋今日參上。安置一切經於當寺。可修理破壞之由。申請之間。則所被補院主職也。
 建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。
 僧衆。 鶴岡廿口 勝長壽院十三口 伊豆山十八口 筥根山十八口 大山寺三口 觀音寺三口 高麗寺三口
 六所宮三口 岩殿寺二口 大倉觀音堂一口 窟堂一口 慈光寺十口 淺草寺三口 眞慈悲寺三口
 弓削寺二口 國分寺三口也

 ここで、注目するのは二つ。 一つは所在不明の眞慈悲寺で、日野市百草にあったと考えられています。 もう一つは、埼玉県比企郡ときがわ町の都幾山慈光寺で、法要に10人もの僧侶を派遣しています。 また、安倍小水麿が貞観地震(869年)の災害を弔うために大般若経を奉写したとみられているところでもあります。
 一方、平安中期に日奉氏は日野台地の一角に館を設け、 その鬼門の方向に東光寺を建立したと伝わっているようです。 今の萬照山東光寺成就院(日野市栄町5丁目)は天正8年(1580)に再興されたといわれています。

関連情報
 秩父神社(埼玉県秩父市番場町1-1)
 日野宮神社(日野市栄町2-27-19)
 天台宗萬照山東光寺成就院(日野市栄町5-5-1)
 天台宗神王山観音院妙見寺(神王山北辰妙見尊)(稲城市百村1588)
 曹洞宗妙見山東光院(西多摩郡日の出町平井3963) 境内の山上に妙見宮を祀る

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愛知県あま市・甚目寺 愛染明王坐像の内部から球形容器に入った同じ愛染明王の胎内仏を発見

2011年06月04日 | Weblog
 名古屋市博物館は1日、あま市甚目寺(じもくじ)の甚目寺三重塔にある木像「愛染明王坐像」(1958年県指定文化財)の内部から、国内で初めて、球体の容器に納められた胎内仏(愛染明王の小さな木像)が見つかったと発表した。
 胎内仏(高さ6・6cm)は、坐像(高さ105cm)の胸の内側部分に腕木に支えられたヒノキ製の球形の容器(口径9・8cm)の中から発見され、容器の中で竹釘とニカワで固定されていた。 ビャクダン(白檀)の一木造りで、坐像と同じ姿をしている。 約730年以上の間、球体の容器に入れられていたため、現在も鮮やかな色彩が残っており、ほぼ全身が朱色で、冠は白に、衣は青や緑に、飾り物は金、青などに塗られている。
 坐像の内部に球体の納入物があることは1996年の調査で分かっていたが、胎内仏の存在は昨年12月21日、坐像の解体修理をするに際して、奈良大学で球体容器のエックス線撮影をして分かった。
 坐像(高さ105cm)はヒノキの寄せ木造りで、稲沢市の性海寺(しょうかいじ)に伝わる古文書の奥書に、この像が「弘安四年(1281)閏月晦日」に寄進する旨が記されており、鎌倉時代後期の1281年以前の作と分かる。
 仏像本体と胎内仏が一対となって作製されることは珍しいという。
 今回の発見は、奈良県で開かれる文化財保存修復学会で5日、発表される。
 胎内仏は、7月16日から8月28日まで仁王像修復記念「甚目寺観音展」で坐像とともに名古屋市博物館で展示され、その後、坐像に納められて甚目寺に戻る。 胎内仏を見る貴重な機会という。
[参考:共同通信、時事通信、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、愛知県HP]
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和歌山市・井辺遺跡 約1800年前の集落に伴う溝を発見

2011年06月04日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは、和歌山市神前の井辺遺跡(いんべいせき)で弥生時代後期から古墳時代にあたる約1800年前の集落跡を発見したと発表した。
 遺跡西側で、傾斜を利用して南北に並行に掘られた水路とみられる4本の溝が見つかった。溝の中からは、壺、高坏や銅鏃などが出土した。
 現地説明会が5日(土)午前11時からと午後1時半からの2回開かれる。
[参考:読売新聞、和歌山県文化財センターHP]

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