歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

観音寺市・椀貸塚古墳 墳丘に2重周濠と周堤を確認

2011年11月02日 | Weblog
 香川県観音寺市教委が1日、四国最大の石室(全長14.7m)を持つ同市大野原町の椀貸塚古墳(わんかしづかこふん、直径37.2mの円墳、6世紀末)の墳丘に2重周濠が巡らされていたことが明らかになったと発表した。内濠(幅6・0m、深さ1・4m)と外濠(幅4・2m、深さ1・2m)の間には盛り土をした周堤(幅6・2m、残存高さ1・4~0・9m)も確認した。 同時期の類例は全国でも極めて少なく、中四国では初めてという。
 今回の発見で、外濠を含む墓域は直径70m余りの広大なものであると推定されるという。
 現地説明会が5日(土)午後1時から午後3時まで開かれる。
[参考:四国新聞、観音寺市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.3.10 観音寺市・平塚古墳 石室や墳丘規模が明らかに
 2009.9.25 観音寺市・椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認
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越前町・法楽寺 織田信長の祖先「親眞」の銘が入った石造の未解読銘文が判明 忌部氏ルーツが有力に

2011年11月02日 | Weblog
 福井県越前町教委は1日、同町織田(おた)の真言宗醍醐派・法楽寺の境内から、織田(おだ)信長の十数代前の祖先にあたるという伝承が残る「親眞(ちかざね)」の名前が入り、「親真阿聖霊(あしょうりょう) 正應三年(1290)二月十九日」と刻まれた石造が見つかり、5月から調査を進めていたが、親真の墓を特定したと発表した。 これまで文献上に名前が記されるのみだったが、一族の出自も従来の平氏説から忌部(いんべ)氏説の可能性が高くなったとしている。
 親真は鎌倉時代の中・後期、劔神社の神職を務めたとされる。 最も古い文献では、十七世紀ごろ編集の織田家系図に見られるが、出自は不明。 昭和62年(1987)に郷土史家が、法楽寺で親真の名前が刻まれた石塔の一部を発見したが、供養塔として後年、建立したものとみて、重視されなかった。
 町教委が同寺の依頼で約20年ぶりに再調査した結果、碑文に未解読の文字を発見。この文字を加えると表面に「喪親真阿聖霊 正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、裏面には「孝子 七月吉日」の銘があり、「親真は正応3年(1290)2月19日午後1~3時頃に亡くなった。孝行な子どもが7月に建造した。」と読めるという。
 石造は鎌倉時代に墓とされていた五輪塔の一部。半分ほどが崩れているが、1辺約21cm四方の立方体の形をしていたとみられる。
素材に使った笏谷石(しゃくだにいし)の質や、碑文の文字配列なども鎌倉後期の特徴と合致するため、信憑性は高いと判断した。

 親真を剱神社神官の忌部氏の直系とする説と、壇の浦の戦い(1185年)で死んだ平資盛(すけもり、清盛の孫)の実子で、近江から劔神社の忌部氏に養子となり正元2年(1260)2月18日に没したとする説とがあった。
 織田氏の家系図は20種類以上伝わっており、多くが親真を平氏の一族とし信長の先祖としているが、信長も平氏を名乗っていた。 しかし、墓石の銘文から没年が系図にある没年の30年後と判明し、同神社の神官「忌部氏」の家系である可能性が高まったとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.8越前町・真言宗法楽寺 織田信長の祖先にあたる津田親真?を示す「親眞」の銘が入った石造が見つかる
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公州市公山城 銘文革札甲の下から漆塗馬甲、大刀が出土

2011年11月02日 | 韓国の遺跡・古墳など
 公州大博物館は1日、公州市公山城の城内集落遺跡(공주 공산성 성안마을 유적)(4次)で、貯水施設に隣接した場所から「貞観十九年」(645)の銘文が書かれた漆塗り革札甲 1領を収集した後、その下層調査を継続した結果、馬甲をはじめとして大刀類、鉄製札甲片などを収集したと発表した。
 馬甲は、各々長さ約12~18㎝の札甲片であり、約2mの範囲の中に二列に並び上下四重になった状態で発見された。 銘文革札甲と同じ方法で革に漆を施して作った馬甲で、銘文革札甲より規模が大きいが漆ははるかに薄い。 馬具類が全く確認されない点からみて、意図的にここに廃棄したと推定している。
 一緒に発掘された鉄製大刀(約55cm長)と柄の部分に金工のある装飾刀は、銘文革札甲と馬甲の中間層で発見された。中国にはない刀であり、百済または新羅で典型的に見える種類としている。また刀と同じ層から、鉄製札甲が塊で見つかった。
 これらは、何らかの目的で廃棄されたと見られるとしている。
 札甲と馬甲などの遺物が発掘された貯水施設は不安定な地盤に位置し、崩壊危険があるためまもなく覆土する予定という。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.13 公山城 漆塗革札甲が出土、貞観十九年(645)の銘文も
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東松山市・高坂古墳群 三角縁神獣鏡が埼玉で初出土 中国で製造か

2011年11月02日 | Weblog
 埼玉・東松山市埋蔵文化財センターは1日、市内の高坂駅東口第一土地区画整理事業地内にある高坂古墳群の八号墳近くで卑弥呼が魏から贈られたとする説もある銅鏡「三角縁神獣鏡」1枚が十二片に割れていたが、ほぼ完全な形で出土したと発表した。
 直径22cmで、裏面には35文字からなる「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、有聖人東王父王母、渇飲玉泉食棗」と書かれた銘文(注1)があり、四神、二獣(西王母や東王父、仙人、竜虎)の図柄がはっきり確認できることから、西暦250~260年頃に中国で作られたとみている。 「三角縁陳氏作四神二獣鏡」と名付けられ、これまで全国各地で出土した三角縁神獣鏡には見られない形としている。 今回の発見は、初期ヤマト政権の影響が埼玉県に及んでいたということを示している。
 ほかに捩文鏡(ねじもんきょう、直径7.4cm、4C)、鉄製槍鉋(ヤリガンナ、長さ9.5cm)1本、凝灰岩製管玉15点、水晶製勾玉1個なども出土した。
 東松山市埋蔵文化財センターで、12日から18日まで公開される予定。
[参考:共同通信、朝日新聞、東京新聞、毎日新聞、読売新聞、埼玉新聞、日本テレビニュース、NHKニュース]

備考
 三角縁神獣鏡新鑑(樋口隆康、2000学生社発行)によると、「陳氏作竟甚大好」で始まる銘を持つ「三角縁四神二獣鏡」は2種類ある。 一つは(仮称A)、真土大塚山古墳(平塚市)、椿井大塚山古墳(京都府)、湯迫車塚古墳(岡山市)2点、権現山51号墳(兵庫県)から出土したもの、もう一つは(仮称B)、古冨波古墳(滋賀県)、椿井大塚山古墳(京都府)から出土したものである。
 仮称Aの銘文は「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、古有聖人王父母、渇飲玉泉飢食棗」(35文字)
 仮称Bの銘文は「陳氏作竟甚大好、上有王父母、左有倉龍右白虎、宜遠道相保。」(24文字)
 今回出土した銘文は、「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、有聖人東王父王母、渇飲玉泉食棗」(35文字)


キーワード: 槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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