明日香村教委が24日、飛鳥寺西方遺跡の「槻の樹の広場」があったとされ場所で南北と東西に延びる7世紀後半ごろの石組み溝や石敷きが見つかったと発表した。東西に延びる溝の南には石敷きがなく、南北約200m、東西120mと推察されている広場の南端だった可能性もあるとしている。
過去の調査で、同寺西側から南に約110m延びる石組み溝が確認されている。 今回の調査地、同寺南西約130mでも、延長線上に南北約9m分(幅約1・2m、深さ15cm)の石組み溝が出土し、溝の総延長が130mに及ぶことが判明した。
近くからは、今回初めて東西に延びる14m分の石組み溝(幅約90cm、深さ10cm)が出土したほか、小石を敷き詰めた石敷きなども見つかった。
2カ所の石組み溝は流水の形跡がないため、敷地を囲む目的などが考えられる。周辺は石敷きで整備され、建物跡が検出されなかったことから『槻の樹の広場』の南端か、一部の可能性もあるとしている。
現地見学会が27日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、読売新聞]
(注1) 読売新聞では、飛鳥寺西方遺跡・広場の南東隅としている。
過去の関連ニュース・情報
飛鳥寺西方遺跡
2011.2.9
「槻の木の広場」のすぐ西側、飛鳥寺西門跡の西約100mで、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかった。
石敷きは、幅2・4m、長さ80cm分。さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。
2010.3.18
飛鳥寺の南西約120mの地点で7世紀の石敷き跡が見つかった。「槻の木広場」の一部だった可能性がある。
東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を敷き詰め、周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
今回の調査地の北側で過去の調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性がある。
近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。
過去の調査で、同寺西側から南に約110m延びる石組み溝が確認されている。 今回の調査地、同寺南西約130mでも、延長線上に南北約9m分(幅約1・2m、深さ15cm)の石組み溝が出土し、溝の総延長が130mに及ぶことが判明した。
近くからは、今回初めて東西に延びる14m分の石組み溝(幅約90cm、深さ10cm)が出土したほか、小石を敷き詰めた石敷きなども見つかった。
2カ所の石組み溝は流水の形跡がないため、敷地を囲む目的などが考えられる。周辺は石敷きで整備され、建物跡が検出されなかったことから『槻の樹の広場』の南端か、一部の可能性もあるとしている。
現地見学会が27日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、読売新聞]
(注1) 読売新聞では、飛鳥寺西方遺跡・広場の南東隅としている。
過去の関連ニュース・情報
飛鳥寺西方遺跡
2011.2.9
「槻の木の広場」のすぐ西側、飛鳥寺西門跡の西約100mで、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかった。
石敷きは、幅2・4m、長さ80cm分。さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。
2010.3.18
飛鳥寺の南西約120mの地点で7世紀の石敷き跡が見つかった。「槻の木広場」の一部だった可能性がある。
東西5・2m、南北2・4mにわたり、10~20cmのこぶし大の石を敷き詰め、周囲には一回り小さい砂利も敷かれていた。
今回の調査地の北側で過去の調査と合わせ、石敷きは東西30m以上、南北70m以上に広がる可能性がある。
近くには石敷きの約1m下から直径20cmの瓦製の土管暗渠埋められていた。土管には継ぎ目があり、過去の発掘でみつかっている北側の暗渠とつながり、北に170mほど続いていた。