歴歩

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滋賀県・紫香楽宮跡(宮町遺跡) 聖武天皇の内裏跡か 恭仁宮跡と類似した配置の大型掘立柱建物跡を確認

2012年01月18日 | Weblog
 甲賀市教委は18日、聖武天皇が奈良時代中期に造営した紫香楽宮跡の宮町遺跡(同市信楽町)で、同遺跡で最大規模の掘立柱建物跡(東西約24.9m、南北約14.8m)が見つかったと発表した。天皇が政務をつかさどる「朝堂」跡の北側にあり、位置や規模などから天皇が日常生活を送っていた内裏の可能性が高いという。
 朝堂北側では、ほぼ同規模の建物跡が以前にも見つかっており、天皇と伯母の元正太上天皇が過ごす2棟の正殿が、朝堂の中軸線を挟んで東に今回の建物、西に同規模の建物が並び立つ。 このような配置は同時期に聖武天皇が造営した恭仁宮跡(京都府木津川市)の内裏でのみ確認されている。
 今回見つかった建物跡では、遺物がほとんど出土していないため、現段階では建物の詳細は明らかではないという。朝堂跡の北側をさらに調査し、検証する必要があるという。 
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
  紫香楽宮跡(宮町遺跡)
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釜山機張郡龍岫里 古墳から5世紀中後半の家形土器が出土

2012年01月18日 | 韓国の遺跡・古墳など
 釜慶文物研究院(2010年設立)は17日、昨年6月から10月まで釜山機張郡鼎冠面龍岫里(부산 기장군 정관면 용수리)一帯の古墳群発掘調査で三国時代の5世紀中後半の家形土器(집모양 토기、高さ18㎝、幅17㎝)を発掘したと発表した。
 この家形土器は正面から見ると、二つの柱があり、柱の後に平面壁を中心に半円形形状をなしている。半円形状の部分には外周に12本の小さい柱が立てられていて、屋根は切妻造(맞배형)のようだ。 酒や水を注いで入れることができる酒杯形の形状などからみて祭儀用として使われたとみている。
 この土器が発掘された地域は、4~6世紀の大規模家の跡地などが発見された佳洞遺跡(가동유적)に接している。
[参考:聨合ニュース]
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三重県明和町・斎宮跡 出土した土師器の破片に最古の平仮名の「いろは歌」

2012年01月18日 | Weblog
 三重県立の斎宮歴史博物館が17日、斎宮跡(三重県明和町)から出土した平安時代後期(11世紀末~12世紀前半)の土器片に、平仮名で「いろは歌」が書かれていたことが分かったと発表した。平仮名のいろは歌が書かれた出土品としては日本最古とみられ、宴や儀式に使用され不要になった皿に書かれている。
 筆跡が繊細で、斎王の身の回りの世話をする女官が文字を練習するために書いたのではないかと推測している。
 平仮名が書かれた土器片は、2010年10月に宮殿があったと考えられている区域で見つかった。
 土師器の皿の一部で、約2cm四方の土器片4個(接合復元、縦6.7cm、横4.3cm)の両面に、墨で約1cm四方の大きさの平仮名が記されていた。土器片をつなぎ合わせると、皿の内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と書かれていた。
 いろは歌は、平仮名などの文字を覚えるための手習い歌のひとつで、文献などから10世紀末から11世紀中ごろに成立したと考えられている。平仮名でいろは歌が書かれた木簡の出土例はこれまでにもあったが、岩手県平泉町の志羅山遺跡で見つかった12世紀後半のものが最も古いという。
 同館は今月21日から3月11日まで、出土した土器片を公開する。
[参考:共同通信、毎日新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
 斎宮跡

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豊橋市・普門寺旧境内 鎌倉時代の「行者」跡が見つかる

2012年01月18日 | Weblog
 豊橋市美術博物館は17日、同市雲谷(うのや)町にある普門寺の普門寺の旧境内で、鎌倉時代に僧侶が修行をした「行場」跡が見つかったと発表した。 この時代の史跡が確認されたのは東海地方では初めてという。
 昨年11月から発掘を行い、12月に船形山と隣の神石山との間の標高200m地点で、建物の土台となる礎石跡と約100㎡の盛り土の基壇を発見した。 1.8m四方の小規模の建物が建てられたと見られる。 近くでは人工的に立てた巨石も見つかり、 一緒に出土した陶器などから鎌倉時代の行場と推定される。
 また元堂跡がある平場から、ひな壇状に造成された土地と複数の建物の掘立柱の跡を発掘した。生活の痕跡を示す陶器などの出土品があり、坊院跡であることを示している。
 元堂跡近くの池も水を抜いて調査し、小型の舟形木製品(長さ約15cm)を発見した。 年代は不明だが、舟で穢(けが)れを祓う道具とみられる。
 現地説明会が、22日(日)午前10時30分と午後1時30分から開かれる。当日は、 出土品の展示と普門寺が所蔵する文化財の特別公開も行う。
[参考:東日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.1普門寺旧本堂(元々堂)跡 寺の創建が10世紀まで遡ることを確認
 2010.1.8普門寺旧本堂(元々堂)跡で岩盤を削った基壇が見つかる
 2008.12.5普門寺旧伽藍址 元堂址で新たに基壇見つかる 

真言宗船形山普門寺
 普門寺は静岡県境の弓張山系の南端にある山岳寺院。 標高約220mの山中にある。 現在は真言宗の寺院だが、 もとは現在の場所より北側の船形山の斜面に広大な境内を持つ密教系の山岳寺院だった。
 かつての境内跡とされる山の斜面には、 本堂だった元堂や元々堂の跡のほか、「平場」に僧侶が生活した坊院跡が200カ所以上も点在し、信仰の対象となった巨岩も残されている。
 「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開山したとされる。
 これまでの発掘調査から、 平安時代中期(10世紀)の創建とみられる。
 嘉応年間(1169~71年)に兵火にあって焼失。
 養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
 頼朝が立ち寄ったと伝えられている。源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
 戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。

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