御坊市教育委員会は12日、県文化財センターが行っている湯川中学校敷地内の第2期小松原Ⅱ遺跡・湯川氏館跡発掘調査の結果を発表した。
1.室町時代の豪族・湯川氏(注1)館跡については、これまで発掘されていなかった南東部の調査で全容が解明。 館の敷地が東西225m、南北200mと推察され、国内最大規模であることが裏付けされた。
湯川氏館跡は、湯川中と西に隣接する紀央館の敷地まで広がると推察され、過去の調査では、南北と西側で館の境界を示す堀が見つかっていた。第2期調査では東側の境界である堀をはじめ、入り口(虎口)に設けられた橋脚、庭園の池なども見つかり、これで東西南北全体の規模が判明。かつて山口県の周防にあった大内館など各地の守護館に匹敵するか、それを超える規模とされている。また、焼けた柱材も発掘されており、羽柴秀吉の紀州攻めで焼かれたことの証と考えられる。
2.溝から道成寺創建当時(白鳳時代)と同じ様式の軒丸瓦片(注3)が見つかり、8世紀初頭に遡る古代寺院が存在したことが推定されるとしている。 過去の調査では布目や縄目のある平瓦が出土して奈良時代の寺院があったと思われていた。
平安時代初期の日本霊異記に、紀伊国日高郡に『別寺(わけでら)』(注3)という寺が記されており、その寺の可能性もあるのではないかとしている。
現地説明会が17日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:2013.11.14 日高新報、読売新聞]
(注1) 湯川氏は清和源氏武田氏の分かれと伝えられる。
(注2) 瓦の破片(長さ8・5cm、幅6・5cm、厚み2・5cm)は、軒丸瓦で、直径約16cmあったとみられる。 内側に蓮華文が描かれ、鋸歯文などがあり、白鳳時代の軒丸瓦の特徴を表しているという。
(注3) 紀直吉足者、紀伊国旦両郡別里、椅家長公也、(略)、別寺僧坊(略)
過去の関連ニュース・情報
2013.8.20
御坊市教委は8月28日、今年6月から湯川中学校敷地内で進めていた小松原Ⅱ遺跡・湯川氏館跡の第1期埋蔵文化財発掘調査の結果を発表した。 同遺跡では弥生・室町時代の竪穴建物や井戸などが見つかり、集落が広がっていたことを推察。
①小松原Ⅱ遺跡では、弥生時代中期の竪穴建物5棟など、室町時代の堀跡、井戸5基などが見つかり、さらに集落が広がっていることが確認できた。
②同遺跡の豪族・湯川氏館跡では、南東部の一部の構造が明らかになった。同館の規模は過去の調査から南北200m、東西200mと推察されているが、続く2期工事では残りの全ての部分の調査を行う予定。 館跡からは多量の土器類、瓦、扇、木製品、刀装具などが発掘された。
[参考:日高新報]
1.室町時代の豪族・湯川氏(注1)館跡については、これまで発掘されていなかった南東部の調査で全容が解明。 館の敷地が東西225m、南北200mと推察され、国内最大規模であることが裏付けされた。
湯川氏館跡は、湯川中と西に隣接する紀央館の敷地まで広がると推察され、過去の調査では、南北と西側で館の境界を示す堀が見つかっていた。第2期調査では東側の境界である堀をはじめ、入り口(虎口)に設けられた橋脚、庭園の池なども見つかり、これで東西南北全体の規模が判明。かつて山口県の周防にあった大内館など各地の守護館に匹敵するか、それを超える規模とされている。また、焼けた柱材も発掘されており、羽柴秀吉の紀州攻めで焼かれたことの証と考えられる。
2.溝から道成寺創建当時(白鳳時代)と同じ様式の軒丸瓦片(注3)が見つかり、8世紀初頭に遡る古代寺院が存在したことが推定されるとしている。 過去の調査では布目や縄目のある平瓦が出土して奈良時代の寺院があったと思われていた。
平安時代初期の日本霊異記に、紀伊国日高郡に『別寺(わけでら)』(注3)という寺が記されており、その寺の可能性もあるのではないかとしている。
現地説明会が17日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:2013.11.14 日高新報、読売新聞]
(注1) 湯川氏は清和源氏武田氏の分かれと伝えられる。
(注2) 瓦の破片(長さ8・5cm、幅6・5cm、厚み2・5cm)は、軒丸瓦で、直径約16cmあったとみられる。 内側に蓮華文が描かれ、鋸歯文などがあり、白鳳時代の軒丸瓦の特徴を表しているという。
(注3) 紀直吉足者、紀伊国旦両郡別里、椅家長公也、(略)、別寺僧坊(略)
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2013.8.20
御坊市教委は8月28日、今年6月から湯川中学校敷地内で進めていた小松原Ⅱ遺跡・湯川氏館跡の第1期埋蔵文化財発掘調査の結果を発表した。 同遺跡では弥生・室町時代の竪穴建物や井戸などが見つかり、集落が広がっていたことを推察。
①小松原Ⅱ遺跡では、弥生時代中期の竪穴建物5棟など、室町時代の堀跡、井戸5基などが見つかり、さらに集落が広がっていることが確認できた。
②同遺跡の豪族・湯川氏館跡では、南東部の一部の構造が明らかになった。同館の規模は過去の調査から南北200m、東西200mと推察されているが、続く2期工事では残りの全ての部分の調査を行う予定。 館跡からは多量の土器類、瓦、扇、木製品、刀装具などが発掘された。
[参考:日高新報]