歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

名古屋市・平手町遺跡 日本最古(約二千年前)の舟形木棺が出土

2009年02月21日 | Weblog
 北区平手町1-1の平手町遺跡から、日本最古(弥生時代中期後半、約二千年前)の舟の形をした木棺が見つかった。これまで最古とされた京都府京丹後市の「金谷一号墓」のものより約200年遡る。

 舟形木棺は、敷地周辺に溝をめぐらした方形周溝墓(縦11m、横7.5m)から出土。棺は木をくりぬいて作られ、長さ2.8m、幅80cm、深さ10cm。内部から上あごや歯、鎖骨、足の骨の一部が見つかり、船尾を頭に遺体が置かれていた。性別は不明だが、身長155cm以上の成人と推測される。近くの墓から別の舟形木棺らしき一部も発見され、いずれも船首が南西を向いていることから、あの世に旅立たせるために太陽の沈む西方に向けたとみる。
注)船首(人の足先)が南西を向いているとするのは、中日で、毎日・産経・日経は北西を向いているとしている。
[参考:中日新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、日経新聞]
日本最古の舟形木棺出土=弥生中期の遺跡から-名古屋(時事通信) - goo ニュース
日本最古の舟形木棺発見 名古屋、弥生時代中期か(共同通信) - goo ニュース
FNNおよび中京エレビでは、ビデオ・ニュースを配信している。

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 平手町遺跡は庄内川と矢田川の合流点より2km南下した標高5m前後の沖積地に立地するという。堆積状況はハマグリを主体とする混貝土層が大きく3層、その間に炭化物層と焼土層を挟むと観察されている。
 また、隣接する西志賀貝塚は、昭和5年に発掘され弥生時代の前期から後期の貝塚と考えられ、当時すでに米作りも行われていたことが確認されているという。
 そうなると、当然、平手町遺跡は弥生時代には海に近いあるいは海の中にあった時代があり、舟を利用していたことになる。
 舟形木棺といっても、使わなくなった舟を木棺に転用したのかもしれない。

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佐紀陵山古墳・桃山陵墓地の伏見城跡 宮内庁が立ち入り調査を許可

2009年02月21日 | Weblog
<2009年2月20日立ち入り調査実施>
午後から、伏見城の本丸跡も立ち入り調査
明治天皇と昭憲皇太后の陵墓がある京都市伏見区桃山町の桃山陵墓地(約86万平方m)が20日、日本考古学協会など考古学、歴史学の十六研究団体に初めて公開された。豊臣秀吉や徳川家康が造営した伏見城の本丸跡など中核部分の立ち入り調査が行われた。
 午後1時半から約3時間、研究者14人が宮内庁職員の案内で、本丸や二の丸の遺構、空堀に架かる土橋などを巡回し、斜面の様子や郭(くるわ)の形状などを念入りに観察した。
 その結果、石垣の石がほとんど抜き取られており、徳川家光によって行われた城の破壊が徹底的だったことが分かった。
ただ、豊臣秀吉が築いたとみられる石が一部で残っていたことも確認した。家康の頃には用いない花こう岩や流紋岩など多様な種類の石垣が確認され秀吉の頃の石垣だろうとする。
また二の丸の中央部に、直径10数m、高さ5mの謎の土盛りが発見された。城郭を描いた絵図などには記載がないため、研究者からは「未発見の古墳では」という声も上がり、今後の研究に向けて大きな謎が浮かび上がった。
 調査では他に、20数m四方の天守閣の土台(高さ6~7m)も見つかった。
[参考:京都新聞、産経新聞、共同通信、読売新聞]

午前中、佐紀陵山古墳の学会調査始まる 
 20日佐紀陵山古墳で、日本考古学協会など考古・歴史系15学会の代表による墳丘の立ち入り調査があった。
 陵墓への立ち入りは、昨年2月の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵、奈良市)に次いで2例目。午後には明治天皇陵と皇后の昭憲皇太后陵がある伏見城跡の桃山陵墓地(京都市伏見区)に立ち入る。
 茂木雅博・茨城大名誉教授ら15人が、宮内庁の福尾正彦・陵墓調査官らの案内で墳丘に入り、最下段部を約2時間かけて調べた。
後円部にあるとされる埴輪や西側の周濠にある島の形をした遺構の状態を観察するだけで、遺物の採取や発掘などはしていない。
 佐紀陵山古墳は全長200mを超す前方後円墳で、3段の墳丘を持つ。4世紀後半から末ごろの築造とみられる。中世の盗掘記録などから、複数の銅鏡や多数の石製品を伴う石棺が竪穴石室にあったことがわかっている。桃山陵墓地は、宮内庁管理の近現代の陵墓地では考古・歴史系学会として初の調査となる。豊臣秀吉が築いた伏見城跡(16世紀)にある。陵墓そのものは調査せず、城跡の石垣の保存状態などを観察する。
 陵墓は関西を中心に天皇・皇后の188の陵と、皇子や皇女ら552の墓がある。宮内庁は「陵墓の静安と尊厳の保持のため」として一般の立ち入りを禁じている。だが、宮内庁が指定する被葬者の年代と推定される築造時期が一致しない個所が多く、1970年代以降、学会側が公開を求め、昨年2月に初めて学術目的の調査が許可された。
[参考:共同通信、朝日新聞]
奈良の日葉酢媛陵 研究者ら立ち入り(産経新聞) - goo ニュース

2009.2.14掲載分
 宮内庁は13日、陵墓のうち、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵とされる佐紀陵山古墳(奈良市)と、明治天皇陵などの桃山陵墓地の伏見城跡(京都市伏見区)について、日本考古学協会などによる立ち入り調査を20日に認めると発表した。
 学会代表による陵墓の立ち入り調査は昨年の五社神古墳(神功皇后陵・奈良市)に続いて2回目。
 佐紀陵山古墳(注1)は前方後円墳。1916年に石室が盗掘され、修理時の調査で確認された出土品などから4世紀後半(~5世紀初め)に造られたとみられる。日本書紀によれば、日葉酢媛は3世紀の第11代垂仁天皇の皇后。
 伏見城は16世紀末に豊臣秀吉が築いた城で、天守閣などがあった本丸跡周辺に明治天皇陵、昭憲皇太后陵が築かれたため、城跡の主要部分は桃山陵墓地として宮内庁が管理している。
 立ち入り調査には考古・歴史学系の16学会から代表1人ずつが入り、午前中に佐紀陵山古墳、午後に伏見城跡を調査する予定。
 幹事役を務める日本考古学協会理事の福永伸哉・大阪大学教授(考古学)
(注1)日葉酢媛陵については、読売新聞は古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初め)、全長207mとするが、朝日新聞は4世紀後半、全長約203mとしている。
[参考:1/19読売新聞、2/19時事通信、2/19朝日新聞]
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朝来市・池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土

2009年02月20日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)が20日、古墳時代中期(5世紀前半)の王墓とされる「池田古墳」(同市和田山町平野)の周濠を横断して墳丘に通じる渡土堤(わたりどて)の部分から、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪が計11体全国で初めて出土したと発表した。
 水鳥形埴輪は死者の魂を運ぶ目的があるとされ、通路と見られていた渡土堤が、葬送儀礼に使われた可能性を示す貴重な発見という。
「水を使った『導水祭祀』の道具として置かれたらしい」としている。
 池田古墳は全長約141mで、但馬地方最大の前方後円墳。
 渡土堤は墳丘の東西両側で確認。東側の渡土堤は長さ約20m、幅約4m、周濠の底からの高さは約70cmで、周囲には盛り土の崩壊を防ぐ葺石が確認されるなど、規模や形状が初めて明らかになった。西側は長さ約23m、幅約6.5m、高さ約50cm。いずれも法面に護岸のための葺石が敷かれ、土が盛られていた。
 水鳥形埴輪はガンやカモをかたどっており、東側の渡土堤と墳丘の裾付近から、いずれも3m間隔で7体(高さ約40~50cm)出土。このうち1体の周囲には子鳥の埴輪が計4体(長さ約10cm、高さ約6cm)あった。出土状況から、親鳥の周りを囲むように置かれた可能性が高いという。「子持ち水鳥形埴輪」の出土例としては国内最古という。
 同博物館によると、渡土堤は他の古墳でも存在する例はあるが、陵墓のため発掘できなかったり、後世に改変されたりして詳しく発掘されたのは珍しいという。
 現地説明会は3月1日午後1時半から。問合せは池田古墳現地事務所
[参考:産経新聞、神戸新聞、朝日新聞、共同通信]
「渡土堤」ほぼ完全な形で発見 朝来市・池田古墳(神戸新聞) - goo ニュース
前出
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八幡市・石清水八幡宮 左甚五郎作瑞籬の彫刻を含む欄間彫刻の修復完了、3月一般公開

2009年02月20日 | Weblog
 「平成の大修造」を行っている石清水八幡宮で、本殿などを飾る欄間彫刻の修復作業がこのほど完了し、急ピッチで取り付け作業を進めている。18日には、本殿や幣殿の欄間に極彩色の鮮やかな彫刻が次々に取り付けられ、美しい姿がよみがえった。
 同八幡宮は、2005年3月から本殿の大修復工事を始めた。工事は今月完了の予定で、4月25日に本殿遷座祭を控える。
 この日は、本殿の瑞籬(みずがき)や幣殿の欄間彫刻の取り付けが行われた。幣殿の東西には、孔雀、極楽鳥、牡丹、麒麟などが鮮やかに描かれた幅約3m、高さ約1m、重さ約50kgの大彫刻2枚が設置された。
 また、本殿の周りを囲う瑞籬(25m四方)には、極彩色で花鳥風月を表した欄間(横1・5m、縦0・3m)が次々とはめ込まれた。欄間彫刻としては珍しいカマキリやオシドリ、キツツキなどが生き生きと描かれている。同宮によると、瑞籬の彫刻計59枚(重文)は江戸時代の名工左甚五郎の作と伝わるという。
 同宮によると、1634年に石清水八幡宮の本殿が徳川家光によって現代の姿に改築された時、左甚五郎が社殿や回廊の彫刻約200点(全て重文)を手がけたとの言い伝えがあるという。
 欄間彫刻は、3月14日~4月12日の「未公開文化財特別拝観」で、他の神宝とともに一般公開される。本殿内も一部公開され、織田信長が奉納した「黄金の樋(とい)」が観れる。
[参考:京都新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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佐野市・唐沢山城跡 麓の隼人屋敷跡から新たに石垣が出土

2009年02月20日 | Weblog
 唐沢山城跡(同市栃本町)の国史跡指定に向けた遺構調査を進めている市教委は19日、麓の根小屋地区でみつかった「隼人屋敷跡」から新たに発掘された高さ2m、長さ約11.4m、長さ30~40cmの桂岩が綿密に積まれている石垣を公開した。市内を流れる秋山川を越えて攻め込む敵を食い止める機能を果たしたとみられる。
 本丸跡付近の高石垣よりも古く、16世紀後半のものとみられる。戦国時代に軍事上の要衝として重要視された同城の構えが、年代を追って広範囲にわたって築かれたことが分かる貴重な発見となった。
 石垣が発掘された地点は、山頂の本丸から直線で西側700mの麓で田沼高東側に位置する、城主や家来が平時に生活する拠点であるかつて根小屋地区。
 これまで周辺では、土塁や堀跡など大規模な遺構が手つかずで残っているのが確認されている。今回の調査範囲は570㎡、昨年6月から調査を開始した。
 市教委は麓までしっかり築かれていたことが分かる貴重な発見とし、石積みの手法も本丸跡付近で見られる西日本の系でなく、関東の北条系の可能性が大きいとする。調査は2012年まで進められる。また、佐野氏が大規模な石垣を造ったのは、「越後の上杉氏と小田原の北条氏が勢力を争った当時、この城が要衝の地として重要視されたためではないか」と話す。
 唐沢山城は942年、藤原秀郷(別称・俵藤太)が築城したと伝えられるが、現在は出土遺物などから15世紀末の佐野盛綱(1467~1527)による築城との説が有力。以降、時の城主により度々改築が行われた。標高242mの唐沢山の頂上に本丸とみられる8m超の高石垣が残っており、関東七名城の一つに数えられる。戦国時代、上杉謙信の城攻めを幾度となく退けたことでも知られる。
 28日午前10時、同11時の2回、一般向けの現場説明会が田沼高校東側の発掘現場で開かれる。
[参考:下野新聞、毎日新聞、東京新聞]
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熊本県芦北町・花岡木崎遺跡 「駅家」の存在を示唆する木簡2点が出土

2009年02月20日 | Weblog
 県教育委員会は19日、花岡木崎遺跡(葦北郡芦北町花岡)で、古代道路に設けられた「駅家(うまや)」の具体的な名前が記された8世紀末から9世紀初めのものとみられる木簡2点が出土したと発表した。「延喜式」に記された駅家の存在を証明する貴重な史料となりそう。
 木簡は、南九州西回り自動車道芦北インターチェンジ(IC)の建設に伴う調査で、07年12月5日にIC予定地の井戸跡の底から見つかり、奈良文化財研究所などで文字の判読や保存処理などを行っていた。
 木簡は、縦18cm、幅3・5cmと縦15cm、幅4cm。「於」「佐色(さしき)」、「発向路次駅」との文字が墨で書かれていた。元は一つの木簡で「佐色へ向かって出発せよ」との意味で、何かの連絡に用いられたとみられている。
 駅家は、馬や宿を提供する施設で、延喜式には全国に402か所あったと記されている。
 花岡地区は、太宰府を中心に九州一円に広がる官道「西海道」沿いにあり、延喜式にある肥後国「佐色(佐敷)」駅という駅家があったとされる。
 以前から、佐敷は薩摩街道と人吉往還と不知火海に面する海上路の合流点であり、古くから陸海の交通の要所であったと言われてきた。
 全国で駅家の存在が確認されているのは兵庫県内の「布施駅」「野磨駅」2か所のみ。駅屋と断定するためには塀や門などを確認することが必要。このため、県教委は来年4月に現地調査を再開し「駅家であることを確認したい」としている。
 ほかに「駅」と書かれた土器が、熊本大構内の黒髪町遺跡(熊本市)からも出土している。駅家の一つ「蚕養(こかい)駅」の跡とみられているという。また、県内で古代の木簡が見つかったのは鞠智城跡に続き2例目という。 
 県教委は22日午後1時から、熊本市手取本町の県民交流館パレアで開かれる発掘調査速報会で出土した木簡2点を一般公開する。
[参考:読売新聞、西日本新聞、共同通信、朝日新聞、熊本県HP]
全国3例目 駅家跡か 「駅」「佐色」と記した木簡2点出土 芦北町の花岡木崎遺跡 古代交通の要衝?(西日本新聞) - goo ニュース
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紀の川市・北山廃寺・北山三嶋遺跡 14世紀の寺院用の瓦生産跡が出土

2009年02月20日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは19日、貴志川町北山の「北山廃寺・北山三嶋遺跡」で鎌倉、室町期の寺院の瓦生産の跡が見つかったと発表した。
 北山廃寺は白鳳時代に建てられた古代寺院として有名で、これまでにも何度か発掘調査がされてきたが、今回の調査は2年次にわたって予定されており、本年度は、推定されている主要伽藍の外側を対象にしている。
 現在のところ2基の瓦窯が見つかっている。
そのうち、東側の窯は、ほぼ完全な形で見つかり、方形(縦1m、横1・3m、深さ50cm)の土製で、内部に火の回りを良くする2本のロストル(分焔柱)を持つ平窯であることが確認された。一度に2、300枚の瓦を焼くことが出来たと推測され、中から見つかった瓦の模様などから、14世紀頃に使用されたとみられる。
 もう1基の窯は、大半が調査区外であったため詳細は不明だが、瓦片と土で天井部分を作っており、中世の可能性が高いものとしている。
 窯の近くには、瓦の材料に適した粘土質の土が分布し、採掘坑とみられる直径1~3mの穴が100カ所以上発見された。さらに、窯の東側には、工房として使用されたらしい掘立柱建物2棟の跡もあった。これらが密集して見つかっていることから、材料集めから完成までを一貫して行える生産場所だったことがうかがえる。
 瓦窯を覆う土の周囲からは軒平瓦の破片(長さ約5cm、幅約30cm、厚さ約2cm)が見つかり、当時流行していた「均整唐草文」の装飾が施されていたことなどから鎌倉時代の遺物であることが裏付けられたという。また、調査区域(約7450平方m)では奈良時代のものと思われる焼き損じの平瓦も出土し、粘土の採掘坑なども周囲で発見されていたことから、古代寺院に関する遺構や当時の瓦作りの様子を知る貴重な発見という。
 瓦窯の面した谷は、住民から『かわらだに』と呼ばれており、地名が瓦窯の存在を裏付ける。
 この地区が古代から続く産地だった可能性もあるとみて、同遺跡で生産された瓦が、どこで使われたのか調べていくという。
 現地説明会は21日午後1時半から行われる。問合せは同遺跡調査事務所。
[参考:産経新聞、読売新聞、和歌山放送、朝日新聞、和歌山県文化財センター]
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平城京跡 「宝珠硯」が出土

2009年02月20日 | Weblog
 奈良時代の平城京の宅地跡で、約100m離れて出土した陶片2点が接合し、猿投窯(瀬戸市)の高級硯「宝珠硯」らしいことが19日、奈良市教委の調査で分かった。
 異なる時期の調査で見つかった2片がぴたりと合致。宝の珠の形をした約20cm大の硯で、猿投窯から運ばれたとみられるという。
 硯は3月2日から市埋蔵文化財調査センターで展示される。
[参考:産経新聞]

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 製作時期は奈良時代(8世紀)、材質は書かれていないが「須恵器」であろう。宝珠硯は奈良時代後半に現れる。
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明日香村・飛鳥寺 中金堂の礎石が葛城産と判明

2009年02月19日 | Weblog
 蘇我馬子の発願で6世紀末に建立された飛鳥寺の創建当初のものとされる中金堂の礎石が、大阪・奈良府県境の葛城山付近に分布する石であることが、県立橿原考古学研究所の奥田尚共同研究員(地質岩石学)の調査でわかった。
 飛鳥地方で産出する石を使わず、わざわざ約15kmも離れた山から石を持ち込んでいたことになる。日本書紀には、馬子が推古天皇に「葛城が蘇我氏の本拠」と主張した記述があり、関連が注目される。
 礎石は直径約90cm。現在の本堂の南側に三つ並ぶ。昨年、石を構成する鉱物として、粒状の黒雲母や柱状の角閃石が目立つことに気づき、葛城山付近のものではないかとみて調査。いずれも「葛城石英閃緑岩」と判断した。
 同寺講堂の礎石には飛鳥地方の石が使われており、周囲の川原寺や橘寺でも葛城石が確認された例はないことから、「馬子は、寺を創建する時には、祖先の地が葛城だと思っていたから、本尊を安置する中金堂の礎石にその地のものを使ったのだろう」とする。
[参考:2009.2.16読売新聞]

日本書紀 推古天皇三二年(624)十月癸卯朔。冬十月癸卯朔、大臣(注1)遣阿曇連。〈闕名〉阿倍臣摩侶、二臣、令奏于天皇曰、葛城縣者、元臣之本居也。故因其縣為姓名。是以冀之、常得其縣、以欲為臣之封縣。於是、天皇詔曰、今朕則自蘇我出之。大臣亦為朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣日不晩、何辞不用。然今朕之世。頓失是縣、後君曰。愚痴婦人、臨天下以頓亡其縣。豈独朕不賢耶。大臣亦不忠。是後葉之悪名。則不聴。
 (注1) 蘇我馬子
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福知山市・向野古墳群 上下2段の埋葬施設を持つ円墳を発掘

2009年02月19日 | Weblog
 向野古墳群(同市南羽合)の最も北側にあたる区域で発掘調査をしていた市教育委員会は18日、上下2段に埋葬施設を持つ円墳など計13基の古墳を確認したと発表した。直径5-16・5mの円墳が密集していた。それぞれ5世紀末から6世紀前半にかけてのもの。
 須恵器や鉄鏃など副葬品約30点も見つかった。内部構造から箱形木棺や割竹形木棺などが使われたとみられ、多様な埋葬形態も確認できたという。
 このうちの32号墳は直径約10m、高さ約2・2mの円墳で、木棺などの埋葬施設(主体部)の真上にも埋葬施設があった。棺が同じ向きに置かれていたとみられ、遺物の須恵器の形から、埋葬年代は近くて親子など密接な関係者が葬られた可能性が高いとしている。須恵器や鉄鏃のほか、のみ、短刀などが出土したが、埋葬者などを示すものはなかった。福知山市教委は、この地域の豪族の墓とみている。一つの古墳に、上下2段に埋葬するケースは非常に珍しいという。
 通常は方位を揃えて造られる主体部が、今回発掘した古墳は方位よりも地形に沿って造られていた。
 今回の発掘を含めて、向野古墳群全体では計38基になる。谷筋の狭い土地、ながら、50年ほどの短期間にこれだけの古墳が築かれた理由などは、今後の研究課題とする。
 現地説明会が21日午後1時から行われる。雨天決行。
[参考: 両丹日日新聞、京都新聞]
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向日市・元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う

2009年02月19日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターが18日、全国最古級の前方後方墳とされる古墳時代前期(3世紀後半)の元稲荷古墳(向日市向日町北山)で、後方部の平坦面や外周から敷石が見つかったことを発表した。同古墳では、階段状の前方部の斜面でも敷石が見つかっており、築造当時は墳丘の表面全体が石で覆われていたらしい。同時代の大型古墳では、外周部で敷石が確認されたのは初めて。
 大掛かりな造りにすることで、被葬者の権力を誇示したのではと推測。邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳など、同時代の古墳の成り立ちを考える上でも貴重な資料となりそう。
 墳丘北側の後方部計約60㎡を調査。敷石は、3段の階段状になっている平坦面(幅約1・6m)や外周で幅約1mの帯状で出土した。
 昭和45年の調査では、前方部でも敷石が確認されている。
墳丘の北端も確認され、元稲荷古墳の全長は約92mで、箸墓古墳の約3分の1の規模だったことが確認された。
 また、縁に独特の丸みを持つ讃岐産の祭儀用土器の破片約30点も出土。被葬者と讃岐地方との関連をうかがわせた。
 四国新聞社によると、土器の破片は、3段構成の後方部北側の1段目から約30点出土し、壺の口部分が多く見つかった。壺は胴が丸く、口の縁の断面がくの字状に膨らんでいる讃岐地方特有の形状という。土器は、埴輪などを置くとされる頂上部分にあったとみられ、首長を葬る儀礼の際に土器が1段目に落ちたと考えられる。
 被葬者が讃岐地方の有力者と深い政治的なつながりがあったことが分かるとする。
 現地説明会は21日午後1時から。
[参考:産経新聞、四国新聞、毎日新聞]

元稲荷古墳
向日丘陵先端部の尾根上に築かれた前方後方墳、全長92m 後方部3段、前方部2段築成、
築造は3世紀後半で乙訓地域では最も古い古墳と考えられている。陪冢を2基擁している。
埴輪は、前方部から特殊器台型と壺型などが出土している。


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大宰府条坊から、大きな建物跡2棟が出土

2009年02月19日 | Weblog
 太宰府市教委は18日、同市朱雀2丁目の西鉄二日市操車場跡(大宰府政庁跡から南へ約1kmの地点)で、奈良時代中期(8世紀半ば)の大きな建物跡2棟が出土したと発表した。
 同操車場跡では、昨年も今回の倍ほどの広さの建物跡2棟が見つかっており、市教委は大規模な建物が複数まとまってあることなどから、これらを古代の役所「官衙」跡と断定。ただ長くても50年ほどしか使われなかったとみられ、「大和朝廷の『遠の朝廷((とおのみかど)』と呼ばれた大宰府を再整備する過程で、一時的に使われた施設ではないか」としている。
 現地説明会が21日午前10時から開催される。
[参考:西日本新聞]
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高槻市・安満遺跡 赤い漆塗りの櫛の破片が出土

2009年02月19日 | Weblog
 高槻市教委は17日、弥生時代の環濠集落遺跡「安満(あま)遺跡」(同市八丁畷町)から、同時代前期(約2500年前)の赤い漆塗りの櫛片や弥生土器などを発見したと発表した。出土品は、遺跡が近畿地方でも中核的な集落だったことを示し、価値が高いという。
 奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡などで出土した櫛と形状が似ており、同じ工房で作られた可能性もあるという。
 破片は櫛の持ち手部分で、縦2・4cm、横2・6cm。黒漆の上に赤漆をかけた精巧な作りで、つややかな漆が膜状に残っていた。木か竹に塗ったとみられる。櫛の歯の部分は朽ちてなくなっていた。同様の櫛は、奈良県のほか、三重県・納所(のうそ)遺跡などで出土した例があるという。
 このほか、穂摘具、石鏃などの石器や、壺などの土器、加工した跡が残る木材など約1万点の遺物が出土した。石器は琵琶湖一帯や、四国・阿波(徳島県)などからもたらされたものとみられ、市教委は「広範囲な地域間交流が明らかになった」としている。
 安満遺跡は東西1・5km、南北0・6km。京都大農場の建設に伴って1928年に発見され、68年の府教委の調査で集落を巡る二重の環濠が出土していた。
 現地説明会が22日午前11時、午後1時、午後2時からの3回開催される。雨天中止。問合せは市立埋蔵文化財調査センター。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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蒲郡市・上ノ郷城跡 第3次発掘調査 天守閣の柱穴や鉄砲の弾が出土

2009年02月18日 | Weblog
■2009.2.8 蒲郡市教委が2月26日から始めていた、上ノ郷城跡の第3次発掘調査で後の天守閣に当たる主要な建物の柱穴が多数出土した。見つかった柱穴は5段に区別されている城郭の最上段にあり、1.5間(約2m70cm)間隔に並び、建物の位置関係がはっきりと分かる。ほかの建物との連絡通路とみられる場所には幅約60cm、長さ約3mにわたって、大きさが10cmほどの石が敷き並べられ、建物の入り口付近に縦1m、横1・5mほど土砂をたたき処理した場所もあった。
 柱穴の周囲には排水に使われたとみられる区画溝があり、北端からは柱の基礎に使ったと思われる大きな石がたくさん見つかった。ほかに、大壺の破片や土師器の小皿、盃などの出土品があった。[参考:2009.2.8東日新聞]
■2009.2.18上ノ郷城跡の第3次発掘調査で、徳川家康軍のものとみられる鉄砲の弾(たま)1個が見つかった。東三河では戦国後期の弾が長篠城跡や設楽城跡から見つかっているが、鉄砲伝来間もない時期のものは珍しいという。
 弾は、遺構面から10cmほどの深さの位置で発見され直径13cm、重さ20g。砂型から鋳出したことを物語る筋が1本通っていた。全体が真っ白な錆びに覆われており、鉛分の純度が高い。
 同城の主の鵜殿氏が今川方だったことから、勢力拡大で東進していた徳川家康に攻められ、陥落したのが1562(永禄5)年。種子島に鉄砲が伝来したのが、天文12年(1543)8月だから、わずか19年後に使用されたことになる。[参考:東日新聞]
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滋賀県日野町・番場遺跡 最古級の木製網代が出土 5世紀に豪族居館に使う?

2009年02月18日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が17日、番場遺跡(日野町三十坪(みそつ))で5世紀後半(古墳時代中期)の国内最古級の木製網代(あじろ、横120cm、縦90cm)が見つかったと発表した。
 当時の豪族の家をかたどった家形埴輪には、外壁や屋根の覆いに網代が表現されており、建築部材だった可能性があるという。
薄い木片を規則的に編んだ網代は古墳時代、土壁の下地や外壁の飾り、堤防の崩壊を防ぐ補強材などに使われた。
 国道改良工事に伴い、約4000㎡を発掘。網代は川跡(長さ約30m、幅約15m、深さ約1m)の東岸で見つかった。集落には、豪族の家とみられる大型の建物跡が確認されておらず、上流にあたる遺跡南側に豪族など有力者の邸宅があるため、そこから流れ着いたらしい。
 杉などの針葉樹を厚さ1mm程度ではぎ、幅2、3cmの木片に仕上げ、縦や横に交互に編んでいる。周縁部は欠損しており、本来の大きさは不明だが、保存状態は非常に良い。
 協会によると、木製網代は神戸市の下小名田、岐阜県可児市の柿田の両遺跡で、6世紀(いずれも横約4m、縦約3m)のものが出土。
 いずれも古墳時代後期で、護岸構造材として利用されていた。また、岐阜県御嵩町の顔戸南遺跡では4~5世紀の竹製網代が見つかっているが、5世紀の木製網代は珍しいという。
 網代は保存処理し、22日午前9時~午後5時に県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で開かれる埋蔵文化財整理調査成果報告会で公開する。
滋賀で最古級の木製網代 5世紀、豪族居館に使う?(共同通信) - goo ニュース
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