歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良・興福寺 波羅門立像頭部から安土桃山時代の仏師の銘文が見つかる

2009年02月18日 | Weblog
 興福寺が17日、同寺国宝館が収蔵する「波羅門立像」の頭部継ぎ面から、奈良で活躍した俗人の仏師集団「宿院仏師」の一人、源三郎(げんざぶろう)が安土桃山時代に作ったことを示す墨書銘が見つかったと発表した。
 高さ62・8cmの木像。出展に伴う修理で半球形の後頭部を外したところ、「□□シンヤ/源三郎/天正五年四月/三十日」(□は判読不能)の墨書があった。
 宿院仏師は番匠(大工関係)出身で、源四郎とその子の源次、孫の源三郎の3代にわたって活躍。奈良市宿院町に工房を構えたことからその名がある。 江戸時代の郷土史料で1735(享保20)年の記録には、西金堂(1717年に焼失)の仏像制作に「定政」が携わったとの記録があり、源三郎を指すとみられている。宿院仏師の仏像はヒノキの材を生かすなど清潔感のある作風で知られるが、同像は広葉樹を使用している。宿院仏師の仏像にはほとんどに銘があり、同像も頭部を切って名を記していた。
 源三郎の作としては奈良市池田町にある薬師如来像や川上村の徳蔵寺の阿弥陀如来像などがあるという。
 波羅門立像は、護国の経典「金光明最勝王(こんこうみょうさいしょうおう)経」に金鼓を撥(ばち)で打つ姿で登場する高僧を表現。734年創建の西金堂に、釈迦如来像を中心に、阿修羅像などの八部衆像や十大弟子像、波羅門像などが安置された。当初の波羅門立像は失われ、何度か作り直されている。波羅門の像はほとんどなく、描かれている例も「興福寺曼荼羅図」などしかないという。
 東京国立博物館で3月31日~6月7日に開かれる「国宝 阿修羅)展」で初公開される。
[参考:産経新聞、時事通信、読売新聞、朝日新聞]

頭を割ったら銘文=奈良・興福寺の波羅門立像(時事通信) - goo ニュース

関連情報: 興福寺・世親菩薩立像
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『三国史記』の就利山は公州・燕尾山か? 大規模な石壇・新羅土器を発掘

2009年02月17日 | Weblog
 百済滅亡5年後の665年8月、唐の太宗の勅使・劉仁願と新羅の文武王、元百済太子・扶余隆が共に就利山に登り、3人が山河の神を祭り、白馬の血を共に歃(すす)った後、盟約の文を読み交わしたと記されている。「就利山会盟」である。(『三国史記』)
 公州大博物館は、昨年12月に忠清南道公州市にある燕尾山(海抜239m)の頂上を試掘調査した際、大規模な石積みの祭壇(16m×11m×1.7m)を発見したと発表した。燕尾山はこれまで、学界で「就利山会盟の地」として名前が挙がっていた候補地の一つ。盟約がなされた場所は、この燕尾山だという主張が出されている。
 大田大のイ・ハンサン教授は、「祭壇は7世紀ごろに築造されたと見られ、山頂部の岩盤を削って土台を固め、そこに採取した石を整然と積み上げ壇を作ったもの。石の間には粘土、焼け土、炭のかたまりが詰められていた。海抜239mの山の頂に大規模な祭壇を作るのは、国家やそれに準ずる勢力だけが可能だった」と話す。教授は、燕尾山を就利山と見る地理的・言語的根拠も挙げた。
●燕尾山は周辺一帯で最も高い山であり、また川べりに位置しているため集まりやすい場所だという点(地理的)
●就利山と、燕尾山の別名「鷲尾山(チュイミサン)」の発音が類似している点(言語的)
 同時に出土した馬蹄形文土器は、6世紀中盤から後半に流行した新羅の典型的な土器。7世紀の遺物が多数出土した扶余郡扶余邑陵山里寺址や定林寺址でも発掘例があり、百済滅亡期に新羅から持ち込まれたものと見られている。この土器が百済の都城だけでなく公州の燕尾山からも出土したということは、同じ時期ごろ新羅人がこの山の頂で活動していたことを示す証拠とし、祭壇の築造年代も7世紀とした。
 発掘団の中には「石壇はのろし台として使われていた可能性もある」という慎重論もあるが、イ教授は「火を燃やした跡が全くなく、のろし台と見るのは難しい」と語った。しかし燕尾山が『三国史記』に出てくる就利山かどうかを確認するには、本格的な発掘を通じ、さらに遺跡が出土するのを待たなければならないようだ。
[参考:2009.2.3朝鮮日報]

三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王五年(665) 
 秋八月 王與勅使劉仁願 熊津都督扶餘隆(615-682) 盟于熊津就利山 初百濟自扶餘璋與高句麗連和 屢侵伐封場 我遣使入朝求救 相望于路 及蘇定方(692-667)既平百濟 軍廻 餘衆又叛 王與鎭守使劉仁願・劉仁軌(602-685)等 經略數年 漸平之 高宗(628-683)詔扶餘隆 歸撫餘衆 及令與我和好 至是 刑白馬而盟 先祀神祗及川谷之神 而後歃血 

扶余隆
 1920年に扶余隆の墓誌(56.7x57x10㎝)が中国の落陽で見つかった。
 この墓誌と文献記録を土台に作成した扶余隆の年譜は次のようになる。(台湾中央研究院歴史語言研究所の判読文による)
 百済武王16年(615) 義慈王の三番目の息子として誕生。.
 百済義慈王4年(644) 太子に冊封される。 (長男孝が太子に冊封されたのを間違って記録したという説もある).
 唐顕慶5年(660) 百済が滅亡するや義慈王等と共に唐の首都へ強制連行される。 同年義慈王が死んだ後、扶余隆を司農卿に叙す。
 龍朔2年(662) 7月、水軍および兵糧船を導いて福信、扶余豊などが復興運動を行った周留城に進軍する。これらを平定して唐に帰る。
 麟徳2年(665) 熊津都督、百済郡公、熊津道管兼馬韓と馬韓道安撫大使に任命されて、熊津城に赴任.
 同年8月、劉仁軌の斡旋で熊津城・就利山で新羅文武王と和親を結ぶ儀式に参加する。劉仁軌が帰国した後、新羅の迫害を受けて、唐に帰る。
 儀鳳2年(677)2月、扶余隆を光禄大夫、太常員外卿、熊津都督、帯方郡王に任命して、百済の昔の地に戻って、遊民を安撫しようとしたが、新羅がすでに占拠していて結局戻ることができなかった(『旧唐書』巻5参照).
 永淳元年(682) 68才を最後に家で死亡。朝廷から輔国大将軍を追贈して諡号をもらう。同年12?月24日 洛陽の北芒清善里で葬儀が行われた。
[参考:2008.6.3聯合ニュース]
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田辺市・熊野本宮大社 大斎原に江戸後期の石積み護岸 東西100m以上

2009年02月17日 | Weblog
 和歌山県教委文化遺産課などは16日、世界遺産の熊野本宮大社旧社地「大斎原(おおゆのはら)」(田辺市本宮町本宮)に面した熊野川の河岸で、江戸時代後期に造られたとみられる石積みの護岸が見つかったと発表した。大社の壮大さ、強い信仰心を伝える貴重な史料という。
 大斎原は、熊野川と音無川に挟まれた中州にあり、明治22年(1889)の大洪水で流されるまで、熊野本宮大社が社殿を構えていた。水の神様としても知られていた。現在は高さ約34mの大鳥居が建っている。今回、県の河川改修工事にあわせて発掘調査を実施した。
今回発見された石積み護岸は3カ所。いずれも横5~10m、縦7m、高さ4m。旧本宮大社・本殿正面位置の護岸は高さ約4m、幅約10m。当時の船着き場へと下りたと思われる石段(20段、幅1・8m)も良好な状態で残っている。
 ほかの2カ所の護岸は、石積みの手法が違い、工事の時期が異なるとみられる。
 石積み護岸は、上層と下層で異なる石積み手法などが確認され、繰り返し改修されたとみられるという。上面の石の表面が火災跡と思われる炭化物が付着しており、同大社が焼失した江戸時代後期(1770年)の火災の跡の可能性があるとしている。
 調査、記録した後、月末にはいったん埋め戻す予定。
 21日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは県教委文化遺産課へ。
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香芝市・下田東2号墳 土器と木棺の年代が判明

2009年02月16日 | Weblog
 15日大阪府泉大津市であったシンポジウムで、光谷拓実・奈良文化財研究所客員研究員が昨年下田東2号墳で見つかった土器「須恵器」の製作年代が、同時に出土した木棺を「年輪年代測定法」で調査して判明した材木の伐採時期から、西暦449~450年代と特定されたことを報告した。
 須恵器は、遺跡の年代判定の上で重要な基準で、木棺を通じて土器の年代が特定できたのは初めて。
 木棺は昨年3月、同古墳の周溝から底板1枚(全長2・9m、最大幅65cm)が出土。最も外側の年輪が449年のものと判明。外側にさらに数年分の年輪があったと推定され、材木は450年代に伐採された可能性が高まった。
 須恵器は、底板の下から出土。木棺と同時期の製作で被葬者に供えたとみられることから、449~450年代のものと判明した。
 須恵器は、年代によって形式が変化し、古墳時代の年代を特定する基準資料だが、「5世紀後半」「6世紀初め」など漠然とした表現にとどまっているうえ、研究者によって数十年の開きがあり、年代の絞り込みは重要な研究課題となっている。
[参考:産経新聞、4/22下田東2号墳 木棺の底板がほぼ完全な状態で出土]

 昨年、4月に木棺の底板が出土した時には、古墳の築造時期は5世紀後半とされていた。また、須恵器についてはほとんどの新聞が土器と記し、須恵器と記していたのは朝日新聞だけであった。しかも、2008年6月17日付朝日新聞の記事では、
 「下田東2号墳でも蓋杯(ふたつき)が6点、見つかった。だが、普通は被葬者の頭部付近に置かれるのに、底板の真下に置かれ、食べ物が入っていた痕跡はなかった。」
 と、記していた。
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亀山市・鈴鹿関 西城壁が全長700m以上の規模

2009年02月15日 | Weblog
 古代の関所「律令三関(さんかん)」の一つで、亀山市にある鈴鹿関の西城壁は全長700m以上の規模で日本最大の関であったったことが市教委の発掘調査で分かった。
 西城壁の遺構はこれまで、同市関町新所の「観音山」の裾で確認されていた。市教委が新たに先月から、観音山の南約500mにある「城山」西側の約170㎡を調べたところ、同様に土塁状になっている遺構が見つかった。
 観音山の遺構の北端と城山の南端を結ぶと700m以上になる。三関のうち、既に発掘調査された不破関(岐阜県関ケ原町)は約500m四方の規模で、鈴鹿関の方が大きいことが実証されたという。
 また、西城壁は「築地(ついじ)塀」という瓦葺の壮大な土塀だったとみられており、今回の調査地点からも大量の丸瓦や平瓦が出土。築地塀を造る際に柱で足場を組んでいた跡も見つかった。築地塀の底部の幅は2・1mと推定。築地塀の規模は底部の幅によって決められていたとされ、10世紀前半の「延喜式」の規定をさかのぼって当てはめると、高さは4mを超えていたとみられる。
 【鈴鹿関】古代の法律「律令」に基づき、都から東国へ延びる幹線道に設置された関所の一つ。不破関(岐阜県関ケ原町)、愛発関(福井県)と合わせ「律令三関」と呼ばれる。文献では「日本書紀」の壬申の乱(672年)の記述に「鈴鹿関司」が登場するのが初めて。789年、ほかの二関とともに制度上廃止された。
[参考:中日新聞]
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奈良市・平城京 播磨国の平城京事務所跡か 8世紀後半の瓦が出土

2009年02月15日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で14日、平城京跡で播磨国の役所など公的施設だけに使われた8世紀後半の瓦が出土、地方政府の「平城京事務所」に当たる「調邸」跡の可能性の高いことが分かった。
 地方政府の出先機関の存在を裏付ける遺物が平城京跡で見つかったのは初めて。調邸は、朝廷に納める税のうち特産物の「調」を保管、運搬人の宿泊所としても使われたとされ、都での活動の実態を解明する貴重な史料になりそうだ。
 瓦はJR奈良駅の南西約500mで奈良時代の「平城京左京五条四坊」に当たる場所から出土。うち軒丸瓦の文様の蓮華文と、軒平瓦の唐草文が、播磨国の国府や国分寺にしか用いられていない瓦の文様と一致した。
 70点余りの平瓦などの製法も、播磨産と同じだった。一緒に見つかった土器にも、円形のつまみの形などに播磨産とみられる特徴があった。播磨産とみられる瓦は過去に近くで行った調査でも出土しており、瓦は播磨から大量に都に運ばれて使われたと考えられるという。
 同センターは「播磨は海沿いなので、水運を利用して瓦などを平城京まで運んだのではないか」としている。今後、調邸にかかわる建物跡や木簡、墨書土器などの遺物がないか調査する予定。
 東大寺に伝わる奈良時代の文献には、寺が相模国(現神奈川県)の調邸の場所を譲ってほしいと申し出たやりとりが残っている。
瓦は3月2日から同市大安寺西の同センターで展示する予定。
[参考:産経新聞、中国新聞、共同通信]
播磨国の平城京事務所か 8世紀後半、瓦出土(共同通信) - goo ニュース
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高山市・三福寺町 桧山古墳 出土した7世紀の人骨が縄文、渡来系混血の特徴

2009年02月13日 | Weblog
 高山市は、同市三福寺町の桧山(ひのきやま)古墳で1988(昭和63)年に出土した7世紀の人骨を復元・鑑定した結果、これまで渡来系の特殊工人集団の人骨と考えられていたが、縄文系と渡来系の混血の特徴があることが分かったと発表した。
 人骨は1988(昭和63)年に桧山古墳第2号横穴(玄室の長さ約4・5m、幅1・9m)から、ガラス玉や須恵器などの装飾品とともに50体分の破片が出土した。
 昨年1月に、市が日本人類学会員の田中和彦・長野南高教諭と、住斉(ひとし)・筑波大名誉教授に復元・調査を依頼し。田中教諭が1年がかりで復元したのは下顎のない1体と、完全形の1体で、いずれも40-60歳の男性。1体は幅13cm、奥行き約21cm、高さ19cm。もう1体は幅14cm、奥行き約19cm、下顎部分がないため高さは14cm。
 この頭蓋骨について、住名誉教授は「全体的に四角く、平たんな鼻骨、ほお骨が出っ張っているほか、頭の形は前後に長いなどの点が共通している。これらの点は、いずれも縄文時代人の骨格の形質だ」と指摘する。住名誉教授は08年に、遺伝子の解析から「飛騨地方の住民の3人に2人は縄文人の遺伝子を受け継いでいる」と発表しており、「頭蓋骨の特徴からも明らかになった」と話している。
 鑑定では、眼窩(がんか)の間が離れている▽鼻骨の付け根部分が平坦-などの渡来系の特徴のほか、▽顔の形が四角い▽頬骨が角張っている▽眉間が出っ張っている-といった縄文系の特徴を併せ持つことが分かった。
 この人骨は、近くに7世紀後半に建築された朝鮮様式の寺院「三仏寺」の跡があることなどから、寺を建築する技術を持った渡来系の特殊工人集団の墓と推測されていた。
 住名誉教授は「在地の豪族が、飛騨の匠が都から持ち帰った技術で三仏寺を建てさせた可能性が出てきた」としている。
 桧山横穴では、周辺で特別養護老人ホーム建設計画が持ち上がったため、高山市教委が85年から発掘調査した。岩盤に覆われた横穴の玄室(遺がいを納める部屋)の中からは約50体の人骨が見つかったが、当時は人骨の詳細な分析は行われずそのまま保管されていた。
 頭蓋骨は、4月末まで市郷土館の考古コーナーで展示される。
[参考:中日新聞、毎日新聞、読売新聞]
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明日香村・石神遺跡 迎賓館の門が瓦葺?

2009年02月12日 | Weblog
 奈良文化財研究所が12日、飛鳥時代の迎賓館とされる明日香村の石神遺跡で、7世紀前半-中ごろの掘っ立て柱建物跡2棟や別の建物の周辺を巡るとみられる溝跡が見つかったと発表した。
 遺跡の東端約480㎡を調査。南北に延びる掘っ立て柱塀(長さ約25m)や建物跡(南北5.4m、東西8.1m)、瓦が大量に埋まった溝(長さ約16m、幅1.5m、深さ20cm)などが見つかった。
 掘っ立て柱建物から南に向けて塀の跡が延びていた。東側は幅16-17・5mの通路に面しており、建物は門と推定した。いずれも東門だったようで、溝跡からは大量の屋根瓦が出土。数十年間で3回建て替えられ、最盛期の斉明天皇(在位655-661年)の時代に瓦葺になったらしい。一緒に出土した土器から時期は7世紀前半~中ごろと推定。
 瓦が多数出土したが軒先に飾る瓦はなく、棟の周囲だけ瓦葺にし、後は檜皮(ひわだ)などをふいたのではとみている。
 宮殿に瓦が使われるのは694年の藤原宮(同県橿原市)が最初とされる。寺を除くと、その50年近く前の瓦葺建物は極めて異例。石神遺跡中央部でも瓦葺建物は見つかっていない。
 日本書紀などによると、蝦夷(えみし)や新羅の外交使節をもてなしたとされ、同研究所は「内部の施設の整備に合わせ、門も改築して見栄えを良くしたのだろう」としている。
 現地説明会は14日午後1時半から行われる。
 なお当日は、飛鳥京跡で「飛鳥浄御原宮の北限とされてきた溝の北側から大型建物跡が出土」と発表された遺構の現地説明会が同日午前10時30分~午後3時30分に行われることになっている。
[参考:共同通信、日経新聞、朝日新聞]
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京都市下京区 木戸門跡とみられる柱穴が見つかる

2009年02月12日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所は、下京区の発掘調査で、室町時代に土一揆などから地域を自衛するために京の交差点などに設けられた木戸門のものとみられる柱穴が見つかっていたことが11日までに分かった。戦国時代の洛中洛外図などには多く描かれているが、遺構として見つかるのは京都市内では初めて。
 柱穴は、当時の町小路(現・新町通)と楊梅小路(現・楊梅通)の交差点付近で見つかった。
[参考:京都新聞]
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古河市・本田遺跡 平安時代9世紀の権力者の遺構が出土

2009年02月12日 | Weblog
 市教委は15日、同市五部(ごへい)の奈良時代から中世にかけての本田(ほんでん)遺跡の現地説明会を開く。
 平安時代の9世紀ごろ、身分の高い人が使用したとされる食器「緑釉陶器」の破片、権力者、仏教関係者が用いたと思われる「古瀬戸」の壷の破片が出土した。
 遺跡は古代(奈良・平安時代)の集落跡であると考えられていたが、発掘調査が進むにつれて遺跡は縄文時代や中世(室町時代)、近世(江戸時代)など、幅広い時期にまたがることが判明している。
 昨年12月から本格的な発掘調査が行われ、約4200㎡を調査した。
 その結果、15軒の竪穴住居跡が見つかり、出土物から大部分が平安時代の9世紀のものと推測される。
 中世の遺跡からは、南北にわたって溝跡が掘削されていた。県西地区では珍しい中世の遺構群の全体像を見ることができる。他にも、井戸跡3基、掘っ立て柱建物跡3棟などが見つかった。も出土した。中国産の白磁も出土した。
現地説明会:
 日時:2月15日(日) 10時半~正午。 出土品も展示する。(雨天中止)
 場所 本田遺跡 (県立三和高等学校西側隣接地) 
[参考:毎日新聞、広報古河No41-2009年2月1日号]

備考: 遺跡の場所には誰が住んでいたかを想像するのが面白いが、9世紀の半ば以降であると平高望、国香、良将あるいは源護などの関係も考えられる。

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瀬戸市・音玄窯跡、門前B窯跡 中世(13世紀)の瀬戸窯跡を発掘調査

2009年02月11日 | Weblog
 瀬戸市が昨年に事業を凍結した「せと赤津工業団地」予定地で窯跡の発掘調査が行われ、いずれも13世紀の山茶碗の窯跡が2カ所発見されていたことが分かった。中世における瀬戸窯の中心地での全面的な発掘調査は初めてで、当時の窯業について貴重な資料となりそうだ。
 工業団地造成に伴い、市文化振興財団が2007年7月から08年5月まで計4000㎡を調査した。2ヶ所の窯跡とは、「音玄(おとげ)窯跡」と「門前B窯跡」で、いずれも斜面を利用して築いた穴窯が見つかった。無釉の山茶碗を作っていたとみられる。
 音玄窯跡では、3基の窯を発見。うち1号窯は13世紀半ばに山茶碗窯として使われた後、200年近くたった15世紀前半に補修し、釉薬のかかった高級品を焼く古瀬戸窯として使われたとみられる。中世で窯を再利用した例は珍しいという。
 門前B窯跡では、鎌倉時代から南北朝時代(13世紀前半~14世紀中葉)の窖窯(あながま)5基を発見。窯によって年代は違うが、全体で約100年間に及ぶ長い期間営まれたことが特徴。
 2つの窯跡からは、山茶碗の皿や古瀬戸の天目茶碗や灰釉平碗など大量の遺物も出土した。
 市文化振興財団の担当者は、昨年5月ごろに現地説明会予定していたが、誘致事業が遅れ、さらに凍結されてタイミングを逃したと話している。
[参考:中日新聞、瀬戸市HP→最新発掘調査情報 ]

山茶碗
 一般的には、無釉の陶器であり、東海地域に特有の中世食膳具と表現されている。
さらに詳細に、あるいは最近の研究成果を踏まえて新たな見解を記す資料があるので参照してみた。
●瀬戸市HPの『瀬戸焼の歴史』
 瀬戸市域における窯業生産の始まりは、10世紀後半代とされ、灰釉陶器を焼成した窖窯(あながま)が市域の南部の幡山(はたやま)地区で発見されている。11世紀中頃になると、灰釉陶器は器の種類が減少し大小の碗や片口鉢を主体とする生産に移行し、さらに11世紀の終わり頃になると、東海地方の灰釉陶器の生産者はほぼ一斉に施釉技法を放棄し、無釉の碗・皿・鉢類を主体とするいわゆる山茶碗生産に転換する。瀬戸窯においても例外ではなく、専らこの山茶碗を生産した窖窯が市域全域に約200基ほど存在し、室町時代にかけて生産を行っている。
 瀬戸窯の山茶碗には、形状が異なる二系統の山茶碗が存在し、一つは、猿投窯や常滑窯などに普遍的にみられる胎土の粗い尾張型山茶碗と、もう一つは東濃窯を中心に広範にみられる均質胎土の東濃型山茶碗である。
 これら山茶碗の需要層は、消費遺跡の大半が愛知・岐阜・三重・静岡といった東海地方一円に集中していることから、一般庶民にまで供給された極めて在地性の強いやきものであったと考えられている。 (文は要約)
●『山茶碗の用途をめぐって』(武部真木)
 生産期間を12~15世紀、用途は調理する「道具」と「食器」的な要素の両者が未分化な状態、「碗型態の道具」である。(詳細は資料がインターネットで公開されているので是非参照方。) 

コメント: 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が品野の地に逃れたとされる。文明14年(1482)利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にするとある。このあたりの頃に、山茶碗は姿を消して行く。関連があるのか、ないのか興味のわくところ。
[参考:長江利景]

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韮崎市・隠岐殿遺跡

2009年02月11日 | Weblog

隠岐殿遺跡出土品(韮崎市)。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 市教委は7日、隠岐殿遺跡(同市中田町中条)で発掘調査現地を専門家や報道陣に公開した。
 同遺跡は新府城の北東約500mの畑から出土した戦国時代後期の遺構で、新府城主だった武田勝頼(1546-1582)の家臣の館跡ではないかとみられている。

 公開したのは発掘した約800㎡の遺構全体と出土品の一部。市教委によると、礎石や地面に直接穴を掘って柱を立てた跡、青磁や白磁、染め付けといった輸入陶磁器の破片など約1000点が出土しており、所有者は身分の高い人物とみられる。
 青磁器には動物や植物が描かれ、破片の湾曲から推定される大きさが直径40-50cmほどになる大皿も出土。建物が焼失したことを裏付ける青磁の釉薬が溶けた痕跡や、焼けた柱の跡、黒い碁石や硯の一部、茶道に使う天目茶碗、抹茶を入れる棗(なつめ)などの焼き物も見つかっている。天目茶碗はほぼ完全な形で出土している。
[参考:2/8山梨日日新聞]

備考:
●遺跡の発掘当初には、家臣クラスの屋敷などが少なくとも3棟はあったと推測されるとしていた。[参考:2/5山梨日日新聞、2/6読売新聞] しかし、遺跡名はまだなかった。今回、隠岐殿遺跡と命名されている。この遺跡が隠岐殿と呼ばれた人物の屋敷跡と想定してのことか。
●隠岐殿: 真田信尹(のぶただ、1543-1632)が隠岐守を名乗っていた。真田幸隆(幸綱、1513-1574)の四男信昌のこと。加津野昌世の養子となり、加津野氏を継ぐ。武田勝頼に仕えて槍奉行を務めた。武田家滅亡後に真田姓に復姓し、名を信尹に改める。
 山梨県北巨摩郡須玉町大蔵にも真田隠岐守館跡があるが、こちらは武田家滅亡後大分経ってから知行され移ったと考えられる。
●棗: 点茶用茶入の一種。形がナツメの果実に似る。大・中・小の三種があり、多くは漆塗。[参考:「広辞苑」岩波書店]
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神戸市・雲井遺跡 弥生中期の鋳型が出土

2009年02月11日 | Weblog
 神戸市教委は10日、同市中央区三宮にある「雲井遺跡」で、弥生時代中期前半の武器形青銅器を作った鋳型の一部や、管玉、勾玉の工房跡が見つかったと発表した。
 鋳型は深さ1・5mの地層から見つかった。シルト岩製か粘板岩製で、縦11cm、横7cm、高さ4・2cm。祭祀に使われた銅剣か銅戈の先端部のものと見られる。後に砥石に転用されて表面はすり減っており、実際に高温の銅を流して鋳造した形跡はなかった。近畿では、尼崎市や大阪府東大阪市などに続き5例目。
 また、弥生中期の円形竪穴建物(直径5・2m)の跡から、作りかけの管玉や勾玉、碧玉の破片、玉作りの道具の結晶片岩も出土し、玉作り工房跡と判明した
いずれも当時の最先端技術で、権力者が率いる大規模な村落があったと見られ、2000年以上前にも三宮が繁栄していたことが明らかになったとする。
 雲井遺跡はJR三ノ宮駅北東約300mにあり、今回の調査は計約6800㎡。市教委はこれまでに、縄文時代の遺構や、弥生、古墳時代の村跡を確認。第2次世界大戦時の焼夷弾や防空壕)跡も発見されるなど古代から現代までの遺物が見つかっている。
 14日午後2時~4時から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、神戸新聞]
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インド・アジャンタ石窟 壁画保存へ調査団派遣…東京文化財研究所

2009年02月11日 | Weblog
 東京文化財研究所は12日、インド中西部にある世界文化遺産「アジャンタ石窟群」の仏教壁画を保存・修復するため、調査チームを現地に派遣する。
 同研究所は、バーミヤン(アフガニスタン)と敦煌(中国)の壁画の保存・修復を手がけており、今回の調査により、法隆寺金堂を含めたアジア全域の壁画の影響関係の解明につながると期待している。調査期間は2年。
[参考:読売新聞]
アジャンタ石窟の壁画保存へ調査団派遣…東京文化財研究所(読売新聞) - goo ニュース
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栃木県壬生町・藤井39号墳 直径35mの円墳と確認 

2009年02月10日 | Weblog
 町教委は9日までに、国指定史跡・吾妻古墳(全長127.8mの前方後円墳)の西に隣接する藤井39号墳(下都賀郡壬生町大字藤井)が墳丘直径約35mの円墳で、河原石が組み上げられた石室を持つことを確認した。
 吾妻古墳に埋葬された人物と近しい人の墓だろうとする。
 調査によると、同古墳は吾妻古墳より約50-70年後の七世紀前半に造られたとみられる。二段墳丘のうち一段目が極端に広い「下野型古墳」。
 横穴式石室があり、幅約2m、高さ約1.8m、奥行き約5mで、河原石が「持ち送り」と呼ばれる当時の技術で組み上げられ、壁面は丸みを帯びた形状に仕上げられている。
 吾妻古墳の石室壁は青みがかった巨大一枚岩だが、藤井39号墳との材質や大きさの違いは、古墳を築造できる豪族でも権力に大きな開きがあったことをうかがわせるという。
 現地説明会は午前10時から。問合せは町歴史民俗資料館電話0282・82・8544。
[参考:下野新聞、前出・吾妻古墳]
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