歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

芦屋市・会下山遺跡 全山に広がる大規模な防御集落、山の斜面で鉄を生産か?

2009年10月24日 | Weblog
 市教委が23日、2008~09年にかけての発掘調査で、弥生時代中期から後期(紀元前2世紀~1世紀)の代表的な高地性集落・会下山(えげのやま)遺跡(同市三条町)で、全山にわたって遺構が広がっていたことが分かったと発表した。金属器生産か、のろし台に使われたとみられる焼けた土の穴や、堀状の遺構が見つかり、数十年単位で定住していたことが推定される。
 中心集落とされた尾根部の東側斜面には、竪穴式住居1棟の跡や土器片が多数発見され、北側、東側の別の斜面でも土器片や柱穴などが出土し、生活の跡がうかがえた。遺跡の範囲はこれまで山頂や尾根部など約3000㎡とされていたが、斜面や山裾まで含め、少なくとも1万5000㎡を超える規模に広がると推定されるという。
 東側斜面にある焼けた土の穴は長軸約1・6m、短軸約0・6mで、土の硬さなどから高温で焼かれたとみられる。鉄の生産に使われたと確定すれば、県以東では最古級となる。市教委が土の成分をさらに分析する。
 堀状の遺構(深さ約0・9m、幅約3・3m)は、境界か防御、祭祀のための保護に使われた可能性があるという。
 現地説明会が31日午後1~3時から行われる。
[参考:読売新聞]
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伊達市・舟橋北遺跡 「真刀自」と人の名が書かれた土器が県内初出土

2009年10月23日 | Weblog
 伊達市教委が21日、発掘調査を進めてきた舟橋北遺跡(同市梁川町)から、役所勤めをする位の高い人物の妻の名前を示すような「真刀自」と書かれた、奈良時代末から平安時代前期のものと見られる土師器が見つかったことを明らかにした。
 教委によると、人の名前を示す文字が書かれた土器が出土したのは県内では初めてという。
 同遺跡は、福島盆地の東端部に位置し大きさは約2千㎡で、奈良時代末から平安時代前期、鎌倉時代前期の遺構が発見されている複合遺跡。
 ほかに、平安時代と鎌倉時代の建物跡が見つかっている。
 平安時代の建物跡は、6棟がまとまった形で発見され、うち1棟は米などを入れた倉とみられる。当時、静戸郷(しずりべのごう)と呼ばれた周辺地域の役所か、分庁舎のような機能を果たしていたと考えられるという。
 鎌倉時代の屋敷跡は土間敷きの家1棟と柱穴約200個が見つかった。井戸跡も4つ発見され、うち3つは枠が施され、うち1つは木組みがされていたことから、地域のリーダー的な人が使用していたと考えられるという。
 また、当市で焼かれた八郎窯跡の製品なども出土しているという。
 24日午後1時半から一般向け説明会が開かれる。
[参考:福島民友新聞、福島民報、福島県文化財センターHP]
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鳥取市・青谷上寺地遺跡 2000年前の中国製「八禽鏡」破片が出土

2009年10月23日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターは22日、国史跡・青谷上寺地遺跡(同市青谷町)南西部の水田跡(225㎡)にある逆台形状の溝跡(長さ6m、幅4m、深さ0・9m)から約2000年前に中国で作られた青銅鏡「八禽鏡(はっきんきょう)」の半円形の破片1つ(縦8cm、横3cm)が見つかったと発表した。国内での八禽鏡の発見は9例目。
 破片には丸い突起や鳥の尾羽部分の文様があったことから、八禽鏡の一部と見ている。完全体であれば、直径約10cmになるという。溝は破片などと一緒に出土した土器の種類から、約2000年前の弥生時代中期に作られたこともわかった。
 同センターによると、八禽鏡は前漢末期(紀元前1~紀元1世紀頃)に作られ、権威の象徴や魔よけなどに使われたとみられる。4つの丸い突起と、4対の鳥の文様があるのが特徴。この地にあった集落が大陸などと盛んに交易していた証拠とする。
 同遺跡では、八禽鏡の破片は今回の発見現場の北東約150m地点で1999年にも発見されているが、距離が離れていることなどから、別の鏡の破片である可能性が高いという。
 現地説明会が24日午前11時~正午に開かれる。
[参考: 読売新聞]

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 青谷上寺地遺跡
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奈良市・平城京跡 8世紀後半のガラス玉の入った奈良三彩の小壺が出土

2009年10月23日 | Weblog
 平城京跡(同市大森町)で、8世紀後半の格式の高い横板組みの井戸からガラス玉の入った奈良三彩の小壺(直径約6cm、高さ約5.5cm)が出土した。釉薬が美しく残り、蓋付きの完形品。井戸を埋める際、水の神に捧げたとみられている。
 小壺はエックス線で調べたところ、3mmほどのガラス玉が5個確認できた。ガラスは七宝の一つで、宝物として入れたのだろうとする。
 奈良三彩の小壺は平城京跡で約10点見つかっているが、ガラス玉入りは2例目。
 調査地は平城京左京5条4坊9坪の一画で、播磨国の「平城京事務所(調邸)」があったとみられている。出土状況から、井戸(一辺約64cm)を半分ほど埋めて小壺を納め、廃棄の儀式が行われたらしい。
 市埋蔵文化財調査センターは、三彩は国が生産を管理しており、播磨調邸が祭祀のためにもらったのではないかとみている。
 出土した三彩小壺は、同センター(同市大安寺西2丁目)で開かれる秋季特別展(11月2日~12月25日)で展示される。
[参考:奈良新聞]

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 奈良三彩
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桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開 

2009年10月22日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が22日、桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀前半、前方後円墳、全長200m)で全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され公開した。
 大王クラスの墓の中心部が明らかになるのは極めてまれで、竪穴式石室は内寸で長さ6・75m、幅約1・27m、高さ約1・71m。石室内の四方の壁は板石(幅50~60cm、最大長1m、幅80cm、厚さ12cm)1千枚以上をレンガのように整然と積み重ねて構築し、天井は12枚の巨石(最大長2.75m、幅76cm、厚さ27cm)を乗せて塞いでいた。石はすべての面に朱が塗られており、水銀朱をふんだんに、少なくとも200kg使っている。魔除けや防腐のためとみられる。水銀朱は、大和(奈良県)で産出した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで大和天神山古墳(天理市)で確認された42kgが最多とされていた。
 石室内に残っていた木棺は、ほぼ当時の状態で残っていた。長さ4.89m、厚さ27cm、丸太を刳りぬいた形で遺物はなかった。木棺は石室から取り出し、橿考研で保存処理している。
 1949~50年同研究所の発掘調査で石室と木棺は見つかっていたが、当時は一部の研究者が確認しただけで公開されていなかった。石室構造などの解明を目指し、今年から再調査を進めていた。
 石室内からは、被葬者の権力を推定するのに役立つ銅鏡片なども多数出土しており、整理を進めている。
 現地見学会が、29~31日(午前10時~午後3時)に開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

全面朱塗り、大王の石室を確認 奈良・桜井茶臼山古墳(共同通信) - goo ニュース
全面朱塗りの石室出土 大王の墓?奈良・桜井茶臼山古墳(朝日新聞) - goo ニュース
水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開(読売新聞) - goo ニュース

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 桜井茶臼山古墳

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太宰府市・大宰府跡 蔵司の礎石群 古代最大級の建物跡を再確認

2009年10月22日 | Weblog
 県教委の大宰府史跡調査研究指導委員会と九州歴史資料館(太宰府市)は21日、大宰府政庁跡(同市観世音寺4丁目)の西側に位置する蔵司(くらつかさ)地区(同3丁目)の礎石群について、奈良・平安時代では九州最大級の建物跡であることを再確認したと発表した。
 礎石群は大宰府政庁跡の西隣の丘にあり、1933年に発見され測量だけが実施されたが、私有地だったため本格的調査はこれまでできなかった。3年前から同市が土地の買い取りを進め、同館が6月に調査に着手した。
 礎石は全部で40基とされ、調査で花崗岩の礎石23基と土を固めた基壇を確認した。礎石は4列で、間隔は南北が約3.3m、東西が約4.1m。中央だけ南北6.4mと間隔があいていた。建物は礎石の上に柱が建つ総柱建物だったとみられ、その配置から建物規模は南北13m、東西37mで、1933年の測量結果とほぼ同じだったという。建物規模は同時代の大宰府政庁正殿(南北13・3m、東西28・4m)や、東大寺(奈良市)の正倉院(南北34・7m、東西11・6m)よりも大きい。
 出土した瓦が大宰府政庁と同じ8世紀(奈良時代)のもので、同時期の建物とみられる。鉄製の鏃や甲冑の破片なども約100点見つかった。 
 24日午前9時半から、現地説明会が開かれる。
[参考:西日本新聞、読売新聞、毎日新聞]
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仙台市・若林城 古い城館の堀を埋め立て築城した跡が見つかる

2009年10月17日 | Weblog
 仙台市教委は15日、伊達政宗が晩年を過ごした若林城跡(若林区、現宮城刑務所)の第10次発掘調査の結果、古い城館の堀を一気に埋め立てた跡が見つかり、若林城が別の城館を更地にして築かれたことが分かったと発表した。
[参考:河北新報]
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五所川原市・福島城跡 10/18 現地説明会開催予定

2009年10月16日 | Weblog
 青森県教委の発掘調査で15日までに、福島城跡(同市相内)の内郭が、堀と土塁で区画した東西約210m、南北約190mの方形であることが明らかになった。これまで、内郭は200m四方とみられていた。
 室町時代の有力守護の居館を思わせる門跡や池跡とみられる遺構も確認されており、同城跡が中世の港湾都市・十三湊を治めた安藤氏の勢力の大きさを物語っている。
 今年度の調査は7月1日~10月23日の予定で、本年度で終了し、今後国史跡指定を目指す。
 現地説明会が10月18日(日)13:00~14:30に行われる。
[参考:東奥日報、青森県→教育HP]

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 2008.10.24 十三湊 福島城跡で大規模な掘立柱建物跡 安藤氏の隆盛の裏付け
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北上市・国見山廃寺跡 9世紀前半~11世紀にかけ造成 4回の盛土を確認

2009年10月16日 | Weblog
 北上市立埋蔵文化財センターは14日、平安時代中期の山岳寺院跡「国見山廃寺(くにみさんはいじ)跡」(北上市稲瀬町)の第44次発掘調査結果を発表した。
 廃寺跡は1963年の調査以来、塔跡や七間堂跡など礎石建物跡が見つかり、平安時代の山岳寺院跡と判明している。今回、中心堂と考えられる七間堂跡の上段北側に位置する礎石建物跡のある平場を調査した。礎石建物跡と七間堂跡の間には山を切り崩した斜面があり、七間堂跡が下段で、調査地点が上段という位置関係となる。数回にわたる造成によって形成された最大約4mの厚さの盛土と、その中に4時期の異なる建物の建て替えが行われていた整地面を確認した。一部の整地面には掘っ立て柱建物の柱穴とみられる小穴が発見された。盛土には915年ごろ降下したとみられる「十和田a火山灰」の堆積を確認し、火山灰と出土土器などから最も古い整地面は9世紀前半で、新しい整地面は11世紀と推定されるという。約200年にわたり何度も建て替えて使われ続けた例はほかにないという。
 国見山廃寺跡は、平安時代の歴史書「六国史」の一つ「日本文徳天皇実録」の天安元年(857)6月3日の条に記載されている「陸奥国極楽寺」跡の可能性がある。2004年9月に国史跡に指定された。
 現地説明会は17日午前10時から行われる。平安時代の双堂(ならびどう)形式の仏堂跡が見つかった同市黒岩の根岸遺跡についても同日午後1時半から現地説明会が行われる。
[参考:岩手日報、岩手日日新聞、毎日新聞]
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さぬき市・龍王山古墳 4世紀後半の円墳と確認

2009年10月16日 | Weblog
 さぬき市教委は、6月から発掘調査を進めてきた津田湾古墳群の龍王山古墳(同市津田町)が4世紀後半に造られた円墳であることを確認した。
 市教委は04年度から津田湾古墳群の調査をしており、これまでに「鵜の部山古墳」「赤山古墳」「一つ山古墳」などを発掘してきた。
 今回は、昨年度末に測量、今年6月から発掘調査を始めた。その結果、「葺石」や基底石の位置などから、龍王山古墳は直径が25~30mの円墳であることが確認された。また、出土した円筒埴輪や壺形埴輪のかけらなどが出土し、土質・形状から4世紀後半の築造と推定された。
 津田湾古墳群の築造時期や特徴が調査によって次々と裏付けられており、四国最大の前方後円墳・富田茶臼山古墳(同市大川町)への過渡期に当たるとされ、当時の勢力の移り変わりを知る上で重要な資料とされる。
 現地説明会は17日午前10時半から行われる。
[参考:四国新聞、毎日新聞]

龍王山古墳
 墳丘の直径 23~27m の円墳。墳頂部には南北を向いた長い竪穴式石室(全長5.9m)があり、畿内的な古墳のあり方が指摘されている。石室の底部を粘土床で固め、周囲に安山岩の割石を積み、上部を板石で覆い、この中に木棺が安置されていたと思われる。
[参考:さぬき市文化財保護協会津田支部HP]



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出雲市・出雲国府跡 1200年前の漆紙の行政文書が出土、「日置真梶」の名前が記される

2009年10月15日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが15日、国史跡・出雲国府跡(松江市大草町)で、奈良-平安時代の公文書と書状の一部とみられる漆紙文書が8月に出土したと発表した。戸籍から抜き出した男性の名前など、片面に文字を書いただけの文書の断片3点で、西日本の国府跡からの出土は珍しいという。
 文書は国府政庁跡の約100mにあった穴から、土器片や獣骨などと一緒に出土。文書には奈良、平安時代にまたがる年号「延暦」(782~805年)のほか、当時の出雲地方に多い「日置(へき)」と推定される姓に続き、名の「真梶(まかじ)」、「首鮒」などの墨書跡が赤外線写真で判明した。当時は、容器に入れた漆の乾燥を防ぐため、紙で蓋をしていた。この蓋に、使い古した文書を使用することが多く、この文書に漆がしみこみ、腐食しなかった場合、漆紙文書として発掘調査などで見つかるケースがまれにある。全国約100カ所で出土しているが、多くは表裏に文字が書かれているという。今回は片面だけに書かれており、贅沢な使い方という。
[参考:産経新聞、共同通信]
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富山市・富山城址 大手門石垣を初確認

2009年10月15日 | Weblog
 富山市教委が昨年5月から今年9月まで行った富山城跡の調査で、江戸時代の富山城の正門にあたる「大手門」の石垣の一部が発見された。これまで古地図上でのみ知られていた大手門の存在が初めて確認され、正確な位置や規模が明らかになった。
 石垣が見つかったのは地下約90cm。計4カ所で発見され、最も大きなものは東西約3・2m、高さ約2mに4段分の石垣があった。石を水平にそろえる「布積み」という積み方で、「万治年間富山旧市街図」(県立図書館蔵)などの古文書から、富山藩初期の1660年ごろに築かれたと大手門の石垣と分かった。鉄錆が付着するなどの石の形状から、堀に面した土台部分と考えられる。
 今回の発見が、古文書の正確性や富山城下の復元研究に大きな成果が得られるとしている。
 石垣の一部は10月10日から11月8日まで開催される、同市郷土博物館の速報展「“まちなか”地下1mの富山城・城下町」で公開される。
[参考:毎日新聞、富山市文化財センターHP]

過去のニュース・情報
  2009.7.11富山市・富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる
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行田市・奥の山古墳 10/12発掘調査現地説明会開催 レーダー探査により未盗掘石室の存在を確認

2009年10月15日 | Weblog
 10月12日に一般市民を対象にした奥の山古墳の現地説明会が開催され、延べ871人が訪れた。
 説明会以前、10月12日付毎日新聞のニュースでは、
①埴輪の破片が数千点出土し、その特徴から6世紀中ごろとされる造営時期が古くなる可能性があるという。(約1500年前の造営)
②全長さ70mという大きさよりひと回り小さく(注1)、前方部と後円部の接するくびれが現在の見かけより5、6m狭まってウエストの締まった形状をしていることが分かった。
③墳丘が他にない急峻な形状であることが改めて確認され、特別な地位にあった埋葬者であることが推定される。
などの情報が報じられた。
 さらに、現地説明会当日には新たな情報が明らかになり、それが埼玉新聞のニュースで報じられた。

 国指定史跡・埼玉古墳群の南端に位置する奥の山古墳に未盗掘とみられる石室が存在することが12日、明らかになった。
 発掘調査を行った県立さきたま史跡の博物館によると、同古墳群で石室が正式に確認されたのは1968(昭和43)年に国宝・金錯銘鉄剣が見つかった稲荷山古墳以来という。
 石室が見つかったのは全長約70m(注1)の前方後円墳のうち直径43m、高さ約7mの後円部分の墳丘。東北大学と共同でレーダー探査を行ったところ、墳丘地表面から深さ3mほどの位置に二つの影があることが分かり、2m×4mほどの部屋があると確認された。通常、石室には鏡や馬具、武具などが埋葬されており、金錯銘鉄剣も稲荷山古墳の二つの石室のうち、未盗掘だった一方の石室から出土している。
 「石室が二つ存在する」と「地中に長さ1mほどの棒状の影が映った」との見方もあり、関係者の間では鉄剣など副葬品への期待も高まっている。文化庁は調査する場合、空調などが整った状態で行うようにと指導。
 同古墳で11月から行われる古墳復原整備は、主に外観整備が中心。石室を掘り起こすには、資金面や、地権者との調整などの準備にかなりの時間が必要なことから、現時点で石室を調査する予定はなく、現状のまま保存する方針。
 そのほか、古墳と内堀の間に幅約1mの犬走り状の平坦面があり、墳丘を築造したことも紹介された。
[参考:10.14埼玉新聞、10.12毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.10.8 奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催 10/12
 2008.10.18 奥の山古墳 発掘調査現地説明会の開催予定
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福島県湯川村・桜町遺跡 弥生時代後期の3種類の周溝墓、木製農耕具が見つかる 

2009年10月15日 | Weblog
 福島県教委は14日、桜町遺跡(湯川村)の発掘調査で、形状の異なる3種類の周溝墓を発見したと発表した。
 弥生時代後期(2~3世紀)の遺跡から複数の形状の異なる周溝墓が見つかる例は国内でも少ないという。
 本年度は約1万2000㎡を対象に発掘が行われ、弥生時代の竪穴住居跡3カ所と周溝墓12基などを発見した。
 第1次調査(2004年度)では周溝墓7基すべてが四辺のある「方形」だったが、今回は「前方後方形」や「前方後円形」が見つかった。周溝墓の変遷を考える上で貴重な資料になるという。
 弥生後期の井戸跡や貯蔵施設の土坑から、くわの先端部やすきなどの木製農耕具も出土。東北では中在家南遺跡(仙台市若林区)で弥生中期の木製農耕具が見つかっているが、後期のものは珍しいという。県内では初という。
 ほかに、縁の部分に段差があるのが特徴の土器も出土した。土器は北陸地方で見られるもので、会津地方と北陸の交流があったことがうかがわれるという。竪穴の住居跡や井戸跡なども見つかっており、弥生時代の会津地域の集落のあり方を考える上で貴重な遺跡とする
 現地説明会が17日午後1時半から行われる。
[参考:河北新報、読売新聞
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木津川市・高麗寺跡 出土した瓦が古大内遺跡(加古川市)の瓦と版型が一致

2009年10月15日 | Weblog
 市教委の調査で14日、国史跡「高麗寺跡」で奈良時代中~後期(8世紀後半)の瓦が出土し、兵庫・播磨地方で製造された可能性が高いことが分かった。
 当時、播磨は瓦の主産地で国の管理下にあり、同種の瓦は平城京跡でも出土している。高麗寺が、一時都が置かれた恭仁京の整備に伴い国家直営の大寺として、聖武天皇の命令で播磨から瓦が運ばれたのではないかとしている。
 瓦は、表面に文様のある軒平瓦と軒丸瓦で、今年1月と昭和60~63年の発掘で、高麗寺の塔や金堂跡などから出土した。その後の詳細な調査により、軒平瓦(長さ32cm)は「均整唐草文」、軒丸瓦(直径13cm)は「単弁十三弁蓮華文」という文様だったことが確認された。瓦は、いずれも古大内(ふろうち)遺跡(加古川市)の瓦と版型が一致。軒平瓦の裏には、生乾きの瓦を2本の棒の上に置いて乾かす古大内遺跡特有の製法を示す窪みがあり、市教委は奈良時代に古大内遺跡で生産されて運ばれてきたと判断した。
 この文様の瓦は、古大内遺跡から多数出土し、奈良時代半ば~後期にかけて播磨地方で生産されていた。
 高麗寺跡は天平12年(740)~16年(744)に聖武天皇が都を置いた恭仁京の中心部から南西約3kmの場所に位置している。聖武天皇は天平13年(741)に恭仁宮から国分寺造営の詔を発し、その後、全国各地に国分寺や国分尼寺が建てられた。
 こうした経緯や瓦の製造時期などから、飛鳥時代に渡来系氏族の氏寺として創建された高麗寺が、恭仁京時代には都の膝元で大寺となり、修理が進められたのではないかとしている。
[参考:産経新聞]

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 2009.2.24木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造
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