歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鳥取県大山町・大山寺 15世紀の僧坊跡を初確認、東アジア交易の一角を示す遺物が出土

2009年10月14日 | Weblog
 大山町教委が13日、中世に隆盛を極めたとされる天台宗大山寺(大山町大山)の僧坊跡から中国・明時代の銅銭や李朝時代の青磁などが出土し、室町時代(15世紀)のものと分かったと発表した。
 大山寺には、約70ヘクタールの山麓に僧坊跡が約160あり、調査したのは標高約900mにある寂静山地区(約40僧坊跡)の一角で、最古の大山寺絵図(1797年)にも描かれていない地区という。町教委によると、斜面を削った縦37m、横29mの平坦地に、礎石15個が並び、かなり大規模な僧坊があったらしい。地表から約80cm下には、地盤を強化するために造られた全国的に珍しい埋め殺し石垣が見つかった。北斜面には5段になった高さ1・2mの石垣があり、山陰地方で最古級の整層積み石垣とみられる。
 明銭が23点、青磁が数点、備前焼のすり鉢などが出土し、これらの特徴から15世紀のものと確認した。ほかに瀬戸焼、美濃焼、短刀(長さ約30cm)や武具の一部、護摩法要に使う青銅製の匙が見つかった。国内外の交易が盛んだったことを裏付ける。
 北角からは半地下式の石組みのトイレ跡がみつかった。石組みの囲いの中に2個1対の踏み石が2基設置されている。汲み取り式か水洗式かは不明。時代が近いトイレ跡としては11~13世紀中ごろの光明山寺(京都府)、1590年代の名護屋城陣屋跡(佐賀県)にしか見つかっていないという。
 現地説明会は17日午後1時半に行われる。
[参考:毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・唐招提寺金堂 堂内の構成部材94%が創建当初のもの 修理終え11月に落慶法要

2009年10月14日 | Weblog
 奈良県文化財保存事務所の調査で13日、唐招提寺金堂(国宝)で、国宝の仏像が安置されている堂内(組物と天井部分)を構成する部材の94%が奈良時代末の創建当初のものであることが分かった。
 創建以降、数回の修理が行われながら、仏像周囲の空間は構造的にも当初の姿をとどめていると推測されるという。
 平成12年(2000)から県教育の主導による始まった10年がかりの「金堂平成大修理事業」を終わり、金堂は11月1~3日に落慶法要が営まれる予定である。
解体修理に際して年輪年代法や目視によってヒノキなどの各部材を調査し、時代別の構成材の割合をまとめた。
 盧舎那仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像の国宝3尊などが安置されている堂内身舎部分では、天井や上部を支える組物部材など計1284点が当初材で、全体の94%にのぼった。
 身舎外部の庇などの組物部材では当初材は全体の61%で、残りは明治や江戸時代などの改修時に使われた材だった。部材が傷みやすく、取り換えられたと考えられるという。
 唐招提寺は中国・唐から苦難の末に来日した高僧・鑑真が東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)創建。金堂は鑑真の死後8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により建てられたとされる。今回の解体修理では構造補強材が加えられるなどして元通りに復元された。
[参考:産経新聞、唐招提寺HP]

■参考 続日本紀より
天平7年(735)9月30日 一品新田部親王薨。
天平勝宝5年(753)7月11日 入唐副使從四位上大伴宿祢古麻呂來歸。唐僧鑒眞。法進等八人隨而歸朝。
天平勝宝8年(756)5月24日 和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律濂淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
天平勝宝8年(756)6月9日 太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。
天平宝宇7年(763)5月6日 大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年(752)。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。

■過去のニュース・情報
  2008-11-29 奈良市・唐招提寺 金堂の屋根裏 簡素な叉首組構造と判明
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県伊奈町・大山遺跡 あらたに5基の製鉄炉が見つかる 24日に見学会

2009年10月12日 | Weblog
 平安時代以前としては県内最多の計24基の製鉄炉跡が見つかった「大山遺跡」(伊奈町小室580)の見学会が、24日午前10時半と午後1時半の2回にかけて行われる。
 4月から始まった第12次調査で、円筒形の製鉄炉跡が5基見つかり、そのうち1基は、内径65~70cm、残存部の深さ60cmの形状が状態よく発掘された。
 内部に砂鉄と炭を交互に敷き詰め、上部から鞴(ふいご)で風を送って温度を上げ、完成した鉄の塊は炉の一部を壊して取り出すという工法。一帯では、鞴の送風に使われた土器や、鉄を加工する鍛冶場跡、鉄を精製した際にできる不要物なども出土しており、一帯は8世紀のものとしては県内最大の製鉄集落とみられるという。
 県埋蔵文化財調査事業団によると、現在は平野部にあるが、当時は川に面した台地と推定され、製鉄炉は斜面を利用して作られている。大山遺跡は砂鉄を材料とした、鉄の生産を行っていたムラであったとしている。
[参考:読売新聞、埼玉県埋蔵文化財調査事業団]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足利市・鑁阿寺 浙派の山水図を確認

2009年10月09日 | Weblog
 足利市の鑁阿寺で中国・明代の山水画の一流派である浙派(せっぱ)の作とみられる山水図「雪景山水図」が、今年6月の県立博物館の調査により確認された。絹本墨画淡彩の作品で、縦142・4cm、横79・7cm。雪景に楼閣や点景人物が描かれている。落款はないが、画面左側の松の根が描かれていないことから、一部が切り詰められた可能性があるという。
 足利長尾家の菩提寺・長林寺に狩野正信の真筆「観瀑図」が伝わっていることなどから、初期狩野派は東国(関東)とのゆかりが指摘されており、狩野派を含む絵画史研究の上で非常に意義深いとしている。
 浙派は、室町時代に活躍した狩野派の祖・正信や元信も学び影響を与えた。江戸時代以前に渡来し寺院に伝わる浙派作品は国内でも数少なく、狩野派の源流を考える上で貴重な資料という。
 栃木県立博物館の企画展「狩野派-400年の栄華」(10月9日~11月23日)で、同図のほか、78年ぶりに県内で発見された下村観山10歳時の作品「太公望図」など貴重な資料約100点(重要文化財7点を含む)を展示する。
[参考:下野新聞]

備考
■金剛山仁王院法華坊 鑁阿寺 栃木県足利市家富町(国史跡)
真言宗大日派の本山。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。
12世紀の半ばに足利氏の祖・源義康が同地に居館を構え、建久7年(1196) 足利義兼(戒名:鑁阿)が自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂を建立したことに始まる。
参考 2008.6.26 NY競売の大日如来座像
■浙派(せっぱ)
 中国・明代の山水画の一流派。浙江省杭州出身の戴文進(1388-1462)を祖とし、所属する画家に浙江出身の者が多かったため、浙派という。
■大祥山 長林寺 栃木県足利市西宮町
 長林寺の創建は文安5年(1448)足利長尾景人が開基となり大見禅竜禅師が開山したのが始まりと伝えられる。当初は長雲寺と称し勧農城(岩井山)の麓にあったが三代景長が現在地に移し長林寺と改称した。
■狩野正信筆 絹本墨画淡彩「観瀑図」 長林寺(足利市西宮町)蔵 室町時代 縦 119.7㎝ 横 37.4㎝
狩野正信(1434~1530)は足利長尾氏の縁者とされる。本図は長尾憲長(1503~1550)の寄進とされ、足利長尾氏の菩提寺である長林寺に伝わる。横川景三(1429~1493)の賛がある点や厳格な描法からみて、正信の前半期の作とみられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行田市・奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催 10/12

2009年10月08日 | Weblog
 今年度の発掘調査現地説明会の開催が今月12日(月・祝)に行われると、県政ニュースおよび埼玉県立さきたま史跡の博物館より発表されています。
 平成21年11月から、古墳復原整備のための工事が始まり立ち入りができなくなるそうです。
 古墳を築いた約1500年前の地表面も発見されていますとのこと。奥の山古墳は、六世紀中ごろに造られたとされる全長70mの前方後円墳とされていましたが、1500年前となると500年、すなわち六世紀初頭ということになるのでしょうか。

 写真は昨年7月27日、奥の山古墳北側鉄砲山古墳トレンチ。

過去の情報・ニュース
  2008.10.25 奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催予定
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和歌山県白浜町富田 要害山城(馬谷城)主郭跡に住居跡を確認

2009年10月08日 | Weblog
 町教委の発掘調査で中世の紀南で勢力を持っていた安宅(あたぎ)氏が築城したといわれる要害山(馬谷・うまんたに)城主郭跡から住居跡が確認された。
 礎石やくぎ、備前焼の破片など生活していた裏付けとなる遺物が多数出土した。
 町教委は、熊野水軍の一翼を担ったとされる安宅氏の関係する山城群を2005年度から調査し、国史跡指定に結びつけるためにその実像を解明しようとしている。要害山城は今回、初めて発掘した。町教委と富田坂クラブ会員など地元住民が約60㎡を調べたところ、一の曲輪と呼ばれる主郭から平面に切り取られた礎石が複数出土し、その近くで備前焼の破片がまとまって見つかった。青磁の破片も交ざっており、種類は不明だが古銭1枚も出土した。このほか、生活道具の茶臼の破片、建物の木材をつないでいたとみられるくぎ十数本(5~10cm)も出ている。
 要害山城跡は、熊野古道富田坂沿いの富田平野が見渡せる標高90mの山上にある。伝承では1494(明応3)年に安宅氏が家臣の吉田春季に築城させたといわれる。領地の北の境目にあり、合戦が絶えなかった隣接の山本氏との最前線に位置する基地だったとみられている。これまでの測量調査で長い畝状の防御用竪堀11本が見つかっている。
 11日(日)10時から現地説明会が行われる
[参考:紀伊新報]

備考:
和歌山県白浜町には要害山城と呼ばれる山城が2つある。
①西牟婁郡白浜町高瀬 (別名馬谷城) 築城・吉田春秀 時期・明応3年(1494)
②西牟婁郡白浜町堅田 築城・堅田善行 時期・元徳2年(1330)頃

日置川町にある・安宅氏の八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真岡市・真岡城 16世紀の建物跡などを確認

2009年10月08日 | Weblog
 市教委が7月から10月にかけて行った真岡小プール建設に伴う真岡城跡発掘調査で、16世紀の区画溝や掘っ立て柱建物など真岡城内の具体的な遺構が初めて発見された。
 真岡城は、芳賀氏の居城だが、築城年代には1362年、1532年、1577年の3説ある。
 芳賀氏は真岡城を構え、芳賀地方を支配。宇都宮氏の重鎮として、また親族として宇都宮氏を助けた。
 幅3m、長さ13m、深さ1・5mの区画溝1条と土塁や縦、横約5・4mの掘っ立て柱建物2棟、掘っ立て柱塀2条などの遺構が発見された。溝から出土した皿や土器などから、戦国時代の16世紀の遺構とみられる。
 縄文土器片や4世紀の竪穴住居、6世紀の溝も発見された。
 現地説明会が10日(土)午後1時半から行われる。
[参考:下野新聞]

過去のニュース・情報
  宇都宮市・岡本城跡 芳賀富高
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大垣市・桂谷古墳群 1号墳から石垣状の列石が見つかる

2009年10月08日 | Weblog
 大垣市教育委員会は6日、8月末から発掘を進めている桂谷(かつらだに)古墳群(同市上石津町牧田)の最も大きな1号墳(円墳、6世紀後半~7世紀初頭)が、直径17m、高さ約6mであり、その周囲で上下2段に分かれた石垣状の列石(上段80cm、下段60cm)を確認したと発表した。
 列石は区画や盛り土の流失防止などに築かれたらしい。同時に須恵器の破片も見つけた。
 隣の2号墳も一部を調査したところ、葺石の一部や周壕(幅約1m、深さ約40cm)も確認された。墳丘は直径約11m、高さ約2・5mあった。土層の状況から1号墳の後に築かれたことが分かった。
 牧田地区の二又、山村、村ノ尾、東山などの地域には多くの古墳が散在し「牧田古墳群」と呼ばれ、その中の「桂谷古墳群」は二又集落北側の山腹(標高86~110m)に位置し、10基の円墳からなる。
 桂谷古墳群の発掘調査は今回が初で、8月末から1号墳の規模を確認するために約28㎡で調査していた。
 現地説明会が、10日(土)午後1~3時に行われる。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市・滋賀里遺跡 河川跡から他地域の土器出を土確認、広範囲の交流を裏づけ

2009年10月08日 | Weblog
 大津市教委は7日までに、同市見世2の滋賀里遺跡(しがさと)で縄文時代後期(3000~4000年前)~古墳時代中期(5~6世紀)の河川跡が見つかり、その中から勾玉や石製模造品など祭祀に使ったとみられる遺物が大量に出土したと発表した。
 県内では産出されない石材で作られた石器や、北陸、東海地方の土器が出土し、周辺地域との活発な交流を裏付ける資料としている。
 滋賀里遺跡は48年に発掘調査が始まり、71年のJR湖西線の建設時にも大規模な調査が実施され、縄文、弥生時代の墓など多数の遺構が出土した。今回は宅地造成工事にあたり、2008年1~3月、今年が5月以降に計約1520㎡を調査したところ、東西に流れる川跡(長さ約20m、最大幅16・5m、深さ約1・8m)が確認され、周辺から石器や土器が多く見つかった。出土品は東西に延びる河川跡の南側から多く見つかった。川の左岸では、住居跡とみられる掘っ立て柱の柱穴12個も見つかり、集落が近くに存在したとみられる。
 縄文期から弥生期にかけての土師器や須恵器、石斧など石器の破片が、固まって大量に見つかった。土器には近江だけでなく北陸や尾張(名古屋市周辺)、大阪府の生駒山西麓で作られた土器の特徴を示しており、弥生時代後半には既に、広範囲の交流があったとみられる。遺跡では過去に、縄文時代晩期の指標となる「滋賀里式」の土器が出土している。
 弥生時代後期―古墳時代では、口縁部に波状の模様がある東海地方の特徴がある壺なども検出。
 古墳時代前期~中期(4~6世紀)では、丸底壺や、まじないのために顔料で赤く塗られた椀(直径5・5cm高さ2・5cm)や手ごね土器(直径4・5cm高さ4cm)などの小型土器が見つかり、川岸で祭祀が行われていた可能性があるという。さらに、祭祀に使われたとみられる有孔円盤(直径約2~3cm)▽勾玉(長さ約4cm、幅約1・5cm)▽剣形(長さ約4cm、幅約1・8cm)などの石製品も出土した。これらは祭器の鏡や勾玉、剣を模した滑石製の石製模造品とみられ、県内には産地がないため、別の地域から持ち込まれたとみられる。また、数珠状につなげて腕輪などに使ったとみられる大量の臼玉(同5mm)も見つかり、当時の人が河畔で豊穣などを祈ったと推定される。
 現地説明会が10日(土)午前10時半から現地説明会が開かれる。京阪石山坂本線・滋賀里駅の東南約200m。
[京都新聞、中日新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四日市市久留倍官衙遺跡 奈良時代の総柱建物跡3棟を確認

2009年10月07日 | Weblog
 四日市市は5日、同市大矢知町の国史跡、久留倍官衙(くるべかんが)遺跡で、政庁の西側約571㎡を調査し、奈良時代(八世紀中ごろ)の総柱建物跡3棟を確認したと発表した。
 3棟とも高床式倉庫だったとみられ、うち2棟はいずれも床面積が約70㎡で、これまで県内最大だった鈴鹿市国分町の狐塚遺跡にある総柱建物(約60㎡)を上回った。
 総柱建物は、碁盤の目のように側面と中央に穴を掘って柱を立てた建物。並んで発見された2棟は東西約8m、南北約9mの長方形で、柱穴が東西4列、南北5列ある。残り1棟は床面積約55㎡の長方形で、柱穴は東西・南北に各4列あった。また、柱を抜き取った跡(一辺1m)が確認された。
 久留倍官衙遺跡は、朝明川と海蔵川とにはさまれた丘陵の東先端部に位置し、奈良時代の伊勢国朝明郡の役所「郡衙」跡とみられている。これまでにも正殿・八脚門備え、東を向いた政庁や米を保管する正倉院の跡が確認されており、2003年に総柱建物跡が発見された。
 50年前後の間に、政庁、詳細不明の東西の細長い建物群、倉庫群など、時期を追うごとに違う施設群に造り替えられていったことが調査で分かっている。
 市社会教育課によると、高床式倉庫は通常は米を入れたが、今回は規模が大きいので、何か貴重な物を入れていたのではないか。柱を抜いたのは、何かに転用するためだったのだろうとみている。
 朝明郡は「日本書紀」や「続日本紀」にも登場。壬申の乱(672年)には、大海人皇子が立ち寄った記載もある。
 現地説明会が10日午後1時から行われる。
[参考:伊勢新聞、毎日新聞、中日新聞、読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・薬師寺 創建期の東院堂跡発見

2009年10月02日 | Weblog
 奈良文化財研究所と薬師寺が2日、薬師寺で8世紀前半(奈良時代)の創建時のものとみられる「東院堂」の基壇跡の一部が見つかったと発表した。
 東院堂は中心伽藍の東側に配置された別院の主要建物。周囲に僧坊などが置かれたとされる。現在の東院堂の北東部分から、高さ約1mの基壇跡の西端と南端がそれぞれ1.5m分出土した。基壇を外装していた凝灰岩の「地覆石」が残っており、「版築」の手法で造られていた。礎石を据えた穴が東西方向に3か所あり、柱の間隔(3~3・3m)や建物規模(東西24.3m、南北11.8m)は現存とほとんど同じとみられるが、基壇は一回り小さい東西28・1m、南北15・4mと推定される。3カ所で見つかった礎石の抜き取り穴の並び方から、建物は南向きだったことも判明。
 東院堂は養老年間(717~724年)に吉備内親王が母・元明天皇のために建立。平安時代に焼失したとされ、現在の建物は鎌倉時代1285年に南向きで再建され、1733年に水はけのため西向きに立て替えられたとの文献の記述が裏付けられた。
 創建当初の伽藍配置や別院の構造を解明する上で、貴重な資料とする。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県御所市玉手地区 県内最古級の水田跡

2009年10月02日 | Weblog
 御所市教委は1日、同市玉手地区の発掘調査で、県内最古級の弥生時代前期(約2500年前)から後期(約1900年前)までの水田跡や農作業をした弥生人の足跡が見つかったと発表した。
 JR玉手駅北側の約6800㎡を4月から調査したところ、縄文時代晩期(約2800年前)~古墳時代前期(約1700年前)の遺構が7層にわたって確認された。
 水田跡は洪水で運ばれた砂で4層にわたり見つかり、弥生前、中、後期の各時期の水田が確認できた。前期は高さ最大15cmの畦で、長辺約3・5~5・5m、短辺約1・5mに細長く区画されていた。緩い斜面になっており、棚田のように斜面に作られたとみられる。水田内を巡る用水路や川から水を引く際の堰のほか、弥生人の足跡も無数に見つかった。
 中期は長辺が3~10mと区画がやや大きくなる。後期は長辺が4~8mで面積は同程度だが、水路に沿って規則正しく造られ、水路には護岸のための杭も打たれていた。こうした変化は稲作の本格化によるものとみられ、弥生時代を通しての水田の変遷を示す貴重な遺跡とわかった。
 一方、弥生前期の水田の下層からは、縄文時代晩期末の土器棺墓が1基、出土した。今年7月に玉手地区の北東に隣接した観音寺本馬遺跡から、晩期中頃(約3千年前)の土器棺墓が県立橿原考古学研究所の発掘で出土している。玉手地区は観音寺本馬遺跡と一体の遺跡で、縄文晩期から集落を構成し、弥生前期に稲作が導入されたとみられる。
 また、北約2kmの萩之本遺跡(橿原市川西町)でも同時期の水田跡が見つかっており、同市教委は「一帯が大規模な稲作地帯だった可能性がある」としている。
 弥生時代の上層からも古墳時代前期(約1700年前)の建物跡2棟や土器が出土しており、市教委は「縄文晩期から古墳前期までの約1300年間の遺構が重層的に確認できる貴重な遺跡」としている。
 現地説明会が4日に行われる。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]

過去のニュース・情報
 2008.2.14 奈良県橿原市・萩之本遺跡 奈良で最古の弥生前期の灌漑施設と水田跡見つかる
 県立橿原考古学研究所は14日、同市萩之本遺跡で、弥生時代前期(紀元前4~3世紀頃)の水田跡と堰が見つかったと発表した。
 奈良盆地で確認された最古の水田跡で、奈良盆地で弥生前期に高度な水利技術を伴った稲作が既に行われていたことが初めて明らかになった。
 約500m北の川西根成柿(ねなりがき)遺跡では、同時期の環濠集落や橋の跡も出土。稲作が中国大陸から伝わって間もないころから、高度な技術で耕作が行われていたことを示す貴重な資料となりそうだ。
[参考:毎日新聞、産経新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沼津市・辻畑古墳 撤去を一時凍結

2009年10月02日 | Weblog
 昨日は、毎週学んでいる歴史勉強会の見学会で、辻畑古墳に行ってきました。
 230年前後の築造の可能性がある古墳として、とても興味がありました。
 出土品が、別の場所に移って保存あるいは分析中であるとのことで、それらが直に見ることができないことは残念でした。

 前日の中日新聞の記事で、沼津市長が道路建設に伴う古墳の撤去を一時凍結する方針との記事を見て、少し一安心。
 保存の方向になればよいのですが。
 写真は、前方部(南)より後方部(北)を見た外観。

 こちらは、東南角から古墳全体を写す。左側が後方部、右側が前方部
 主体部(手前が東、奥が西で東西軸に配置)。後方部墳頂から1m下に木棺直葬されたとみられ、朱の跡が見られる。
 後方部墳頂より前方部を通して南を見る。
   現在の海岸線は約3km先になりますが、当時は150m先にあったそうです。
 後方部の墳丘を削った跡には土の色の違いが見え、盛り土されたことがはっきりとわかります。盛り土は最大4.5mにもなるそうです。

過去のニュース・情報
 2009.9.14 辻畑古墳 現地説明会に1200人が集まる
 2009.9.7 辻畑古墳 土器などの分析から日本最古級230年前後の築造か
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市・上里遺跡 新たな遺構を確認 大規模な集落か

2009年10月02日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所が1日、京都市西京区大原野の上里遺跡で住居跡など新たな遺構が見つかったと発表した。
 2001年度から調査し、今回は遺跡東側を中心に約2200㎡を調べた。住居などの支柱とみられる柱跡のほか、土器棺墓が2基見つかった。また、地形の落ち込み部分からは、廃棄されたとみられる石器や土器が出土した。いずれも遺跡北端と南端から出ており、同研究所は集落がこれまでの推定より南北に大きかった可能性があるとしている。
 さらに石器を製造する際に出たとみられる石の破片が大量に出土し、集落に独立した作業場があったとみられる。居住、埋葬、生産の場がそろった縄文期の集落は近畿圏では珍しいという。
 現地説明会が3日午前10時から行われる。 [参考:京都新聞]

過去のニュース・情報
 上里遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井寺市・津堂城山古墳 大量の葺石が出土

2009年10月01日 | Weblog
市教育委員会が1日、藤井寺市の津堂城山古墳(前方後円墳、全長208m、4世紀後半)で、墳丘を覆っていた大量の葺き石が見つかったと発表した。
 墳丘北東側の裾部までの長さ50m、幅2mを発掘したところ、1段目斜面(長さ9m)から河原石をびっしりと敷いたこぶし大の葺き石、続く長さ6mの平面に並ぶからは埴輪3基、2段目斜面(長さ6m)から葺石が確認された。墳丘中段の平坦面にも、数cm大の石が敷かれているのが確認された。平坦面に石が敷かれた古墳は全国的に珍しく、津堂城山古墳では墳丘全面に石が敷かれていた可能性が高まった。墳丘上部はえぐられているが、1、2段目の形などからみて、これまで3段とされてきた墳丘が4段だった可能性もあるという。
 墳丘頂上部近くでは、数cm大の白い瑪瑙の石も多数出土。頂上部に築かれた被葬者を納める石室を神聖にみせるため、敷き詰められたという。大王クラスの被葬者にふさわしいよう、大量の石を使ってより丁寧に墳丘を築いたのだろうとする。
 古墳の上部は中世に山城として大きく改変されていたが、崩れ落ちた土砂が埴輪や葺石を覆ったために、築造時に置かれたままの状態で円筒埴輪や葺石などが見つかったと思われる。
 今年7月13日市教委の発表で、後円部北側は墳丘が崩れており、陵墓参考地を囲むフェンスが倒壊しかねないため、盛り土工事をするのに伴って調査を行うことにしたとしていた。
 現地説明会は、3日午前10時~午後4時(随時説明)に行われる。
[参考:産経新聞、朝日新聞、共同通信]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする