歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

八幡市・美濃山廃寺 大型建物の遺構と、塔に似た「ひさご形土製品」が出土

2012年01月14日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが13日、八幡市美濃山古寺(みのやまふるでら)の古代寺院・美濃山廃寺跡で、推定約1万㎡の寺域が全面的に発掘され、飛鳥時代後期~平安時代前期(7~9世紀代)の計約30棟分の建物跡が出土したと発表した。
 同廃寺は、これまで伽藍配置が不明だったが、中心施設とみられる大型掘立柱建物跡(東西約20m、南北約10m)が初めて確認された。 直径約40~50cmの大型の柱を使い、南側と北側に庇を持つ構造で、金堂や講堂のような瓦葺きの建物と推定されている。
 中心施設の北側には、計30棟の倉庫群があり、南側には瓦窯や銅製品を作る溶解炉跡も見つかった。
 遺物では、大型掘立柱建物跡の南側で、仏具とみられるひょうたんに似た「瓢(ひさご)形土製品」30点(高さ10~20cm)と鉢を裏返しにした形状の「覆鉢(ふくばち)形土製品」13点が初めて見つかった。 ともに奈良時代中頃の作とみられる。 「瓢形土製品」は、塔の相輪の先端につく宝珠と竜車に似た形で、塔の一種と判断した。 願い事をかなえるために作ったものとみられるという。
 そのほか、大量の瓦が出土している。
 現地説明会は15日(日)午前11時と午後1時から開かれる。
[参考:KBS京都、時事通信、産経新聞、朝日新聞、京都新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 美濃山
 八幡市・女郎花遺跡

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 美濃山廃寺
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豊橋市牛川町・西側遺跡 2000年前の打製石器製作跡が見つかる

2012年01月12日 | Weblog
 豊橋市美術博物館は11日、同市牛川町の西側遺跡で、弥生時代中期(2000年前)の打製石器製作跡が見つかったと発表した。 弥生時代中期の石器製作跡が確認されたのは東海地方では初めて。 遺跡の周辺が長期間にわたってこの地域で中心的な役割を果たしてきたと推定されている。
 確認された製作跡は縦2m、横1mの長方形の穴(深さ20cm)で、打製石鏃の製造過程で出る剥片を捨てるごみ捨て場だったとみられる。 今月上旬、直径2cmほどの矢尻や、矢尻を製作した後に残る剥片(堆積岩)を数百個発見した。
弥生時代は打製石器に代わって、磨製石器が主流になってきた時期。 縄文時代の古い製法を受け継ぐ石鏃の製造過程の破片が、これだけまとまった数で見つかるのは珍しいという。
 ほかに、弥生時代後期の竪穴住居跡や集落の有力者とみられる墓も見つかった。
 現地説明会は15日(日)午前10時30分と午後2時からの2回開かれる。
[参考:東日新聞、中日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.3.18西側遺跡 縄文時代のフラスコ土坑が出土
 2009.11.27 眼鏡下池北遺跡 5世紀後半の須恵器の杯が出土
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大津市・石山国分遺跡 国分尼寺?の仏具の破片や西端の溝が出土

2012年01月04日 | Weblog
 大津市教委は3日、同市国分一丁目の石山国分遺跡で、平安前期(9世紀)の仏具の破片約10点、多数の軒瓦や、西端とみられる素掘りの溝跡(幅1・6m、深さ0・5m、長さ南北15m)などが見つかったと発表した。
 調査現場は過去の調査などから、国分尼寺があったとみられ、東側には同寺と並んで近江の国分寺があったとされる。
 仏事用の香炉「火舎」や、花瓶の一種で口が複数ある「多口瓶(たこうへい)」などの緑釉陶器や二彩陶器片が出土した。
 現地説明会は7日午前10時30分から開かれる。
[参考:BBCびわこ放送、読売新聞、中日新聞、京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 石山国分寺遺跡

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東京杉並区・善福寺池 「遅の井」と市杵嶋神社

2012年01月02日 | Weblog
善福寺池 「遅の井」と市杵嶋神社 (杉並区善福寺池3-18-1)
 「遅の井」は「遅野井」あるいは「遅井」とも。

善福寺池の辺(ほとり)に、善福寺池を源とする善福寺川の説明板が立てられている。

その説明板には、次のように記されている。
 「善福寺川は善福寺池を源とし、杉並区の中央を蛇行して流れ、中野区に入って神田川に合流する区内最長の川で、区内での延長は約十キロメートルです。
 この川の流域には、区内における最大級の複合遺跡として知られる松ノ木遺跡(先土器時代~奈良・平安時代)を始めとして、光明院南遺跡・川南(かわみなみ)遺跡・谷戸(やと)遺跡・大宮遺跡・済美台(せいびだい)遺跡などがあり、こうした遺跡や包蔵地の所在は、かつての水量豊かな善福寺川の流れを古くから人々が活用していたことをうかがわせます。
 徳川家康は天正十八年(1590)江戸に入国すると、ただちに善福寺川・神田川・妙正寺川を給水源とする最初の上水といわれる小石川上水(のちの神田上水)、をつくり江戸に給水しました。そして明治三十四34年、飲料水給水を廃止するまで、善福寺川は東京における最古の水道源のひとつとして人々を潤わせてきたのです。
 善福寺川は、かんがい用水としてもひろく利用され、流域の農村・農民にとって農耕上・生活上重要な価値を持っていました。また、子供達の水遊びやつりの場でもありました。
 善福寺池西側には、源頼朝ゆかりといわれた噴泉があり、かつては盛んに湧水していました。今日、池を中心とした周辺は区内有数の公園として親しまれ、区民の憩いの場となっています。
 私たちは、このような歴史ある河川を一層大切に守りつづけたいものです。
    昭和56年2月15日   杉並区教育委員会」

 「源頼朝ゆかりといわれた噴泉」とは、現在あるわけではないが「遅野井の滝」として復元されて常に流れている。
 
(左) 「遅野井の滝」 (右)「遅野井の由来」説明板

 「遅野井の滝」を背にして善福寺池を見ると、池の淵に小島があり市杵嶋神社が鎮座する。
 
(左)市杵嶋神社 (右)説明板

 池の辺に説明板が立っていて、次のように記されている。
 「この島に鎮座する社は、市杵嶋神社といい、祭神は市杵嶋姫命です。
 当社は江戸時代、善福寺池の弁才天といわれ、『新編武蔵風土記稿』には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約30㎝)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて、長八寸(約24㎝)はかり」とあります。
 また、寛永年間(1624~44)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれ、それ以降、その島を「元弁天」という様になりました。
 「善福弁才天略縁記」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得た)に倣い、建久8年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。
 このことから甘水に霊験ありとして、旱魃の折には区内はもとより、練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。
 雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒2本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り、太鼓をたたいて「ホーホィ、ナンボェ~」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水ち池水をはった四斗樽4個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。
 この様に旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も、昭和24年(1949)を最後に見られなくなりました。
   平成元年3月   杉並区教育委員会」

 『新編武蔵風土記稿』を見ると、市杵嶋神社は一名「善福寺弁才天」と呼ばれ、石の座像を本尊とし、明治初年までは今川家の墓がある「観泉寺」が別当寺で、現在は井草八幡宮が管理をしている。

 観泉寺が所蔵する「善福弁才天略縁記」によれば、(前述を補足し、現代語にて訳す)
 文治5年(1189)8月、この地に宿し、そのとき、奥州の安否を心配し、氏神である正八幡宮(注1)に誓いを籠めたところ、種々の霊瑞があり、ついに無事に征伐できた。
 同年11月、凱旋の際、宿願御礼のために、この地に神社を営建し、源家守護神として崇尊奉った。さらに、神社の税、僧房を寄進したことは、八幡記の通りである。
 建久八年(1197)、江ノ嶋弁才天を勧請して市杵嶋神社を創建し、別当寺として善福寺(注2)を置いて、万福寺、東福寺を末寺とした。 (以降略)

(注1) 井草八幡宮のことか。 もし、真実であれば、井草八幡宮は1189年に、源頼朝が奥州征伐の途路に寄ったときには、八幡神社として鎮座していたことになる。
(注2) 現在、浄土宗・福寿山善福寺(杉並区善福寺4-3-6)という寺があるが、明らかな資料がなく、関係は分からない。 前から気になっているのは、浄土真宗・麻布山善福寺(港区元麻布)のこと。同寺のホームページでは、「杉並の善福寺池は当時の奥の院跡」としている。

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東京杉並区・井草八幡宮

2012年01月02日 | Weblog
井草八幡宮 (東京都杉並区善福寺1-33)
御祭神: 八幡大神(やはたのおおかみ)/応神天皇
 
 
(左)井草八幡宮・神門と社殿 (右)社殿は拝殿、幣殿、本殿からなる。

 創建当時は、春日社をお祀りしていたという(注1)。 文治5年(1189)、源頼朝が奥州征伐(奥州合戦)の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わる。 それ以来、八幡宮を奉斎するようになった。 奥州帰陣の後、源頼朝が当神社を建久年間(1190-1198)に建立したとの伝えもある(注2)が、証拠不十分である。
 当宮社殿前に、源頼朝が手植えしたと言われる雌雄二本の松があったが、雌松は明治初年に枯れ、雄松は昭和48年に枯れてしまった。 手植えした時期についても、奥州征伐の戦勝祈願のため、あるいは平定後の報賽のためとの伝えがある。
(注1)井草八幡宮ホームペジ(HP)より。
(注2)井草八幡宮が所蔵する、江戸時代に記した縁起。(「杉並の神社」杉並区教育委員会、S55.3月発行)

 その後については、境内に立てられている「井草八幡宮略記」を参考方。

井草八幡宮略記
 「井草八幡宮の鎮座地は古くは南に清流を望む付近第一の景勝地で、(略)、当社は、(略)、古地名を冠して遅井(おそのい)八幡宮とも称せられていた。(略)
 文明九年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり当社に戦勝を祈願したと云い伝えられている。
 江戸時代に至って三代将軍家光(注3)は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、又歴代の将軍は何れも朱印地を寄進し江戸末期の萬延元年に及んでいる。地頭今川氏(注4)も深く当社を尊崇して或は社殿を改築し、諸調度を奉献する等その興隆を図り毎年例祭には幣物を奉るのを恒例としていた。 (略)
 明治以降氏子崇敬者また良く社殿の修造、境内の整備等に務め、昭和三年郷社に列せられたが、その後更に社殿等を増築し、文華殿(宝物殿)・幼稚園・民俗資料館等を設置した。 (略)
 昭和四十一年には旧官国弊社に準ずる別表神社に列せられ今日に至っている。 (略)」
(注3) 徳川家光は、六石余の朱印領の給付している。
(注4) 旧上井草・旧下井草は、正保二年(1645)以降、高家・今川氏の領地となった。 今川氏堯によって寛文四年(1664)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められている。

 
(左)楼門 (右)南西側の参拝入り口

 現在は、青梅街道に面して大鳥居(高さ9m)が建てられ、東参道を通り、楼門から神門、社殿へと参拝するコースが主となっている。 青梅街道は、慶長8年(1603)、江戸城築城のために、青梅から石灰を運搬する道路として整備されたといい、それ以前は、南側に面した参道があったようだ。 現在、南側の西寄りに鳥居があり、参拝入り口の一つになっている。 (南側の東寄りにも鳥居がある。)
 実は、社殿から神門を南側に真直ぐ進んで、玉垣、道路を超えた所に井草八幡宮の駐車場がある。南北に細長く、やや下りの急坂である。 さらに下ると善福寺池の東側に出て、善福寺川にぶつかる。 この直線のどこかに往時の一の鳥居があったのではないかと推測する。

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