歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・平城京跡 播磨産の鬼瓦が出土

2012年02月21日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で、平城京跡(奈良市大森西町)から、播磨国(兵庫県西南部)で造られた奈良時代の鬼瓦が見つかった。 地方の鬼瓦が平城京内で出土するのは初めてという。
 鬼瓦はほぼ半分に割れており、復元した場合の大きさは、高さ約32cm、幅約35cm。兵庫県姫路市の辻井廃寺などから出土した鬼瓦と比較したところ、同じ木型で作られたことが分かった。 頭に角状の突起があり、朝鮮半島にあった新羅(統一新羅)の瓦に共通している。 播磨産でよく見られる金属成分が少ない白っぽい土で作られており、鬼瓦が平城京まで運ばれたことが裏付けられたとしている。
 出土した鬼瓦は3月1日から同センター(同市大安寺西2丁目)で開かれる「発掘調査速報展」で展示される。
[参考:共同通信、奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 平城京跡
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鎌倉市・常楽寺 阿弥陀如来坐像台座内部に墨書 鎌倉時代前期、定慶作

2012年02月18日 | Weblog
 鎌倉時代の「御成敗式目」(貞永式目)の制定で知られる3代執権・北条泰時(1183-1242)が創建した、鎌倉市大船の粟船山・常楽寺(注1)の本尊・阿弥陀三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年(1242)六月十二日」の墨書が確認された。
 泰時の出家(仁治3年5月9日)の33日後、死(仁治3年6月15日)の3日前にあたる。
 三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来座像は像高70cm、左右の観音・勢至菩薩像は同85cm前後。 作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(注2)の作とみられるという。
 これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)が調査したところ、阿弥陀如来座像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した(注3)。 17日、市の文化財に指定された。
[参考:読売新聞、神奈川新聞]

(注1) 吾妻鏡に常楽寺に関することが下記のように記されている。
 ■嘉禎三年(1237)十二月大十三日庚寅。。右京兆(右京権大夫の唐名、北条泰時)爲室家(安保実員の女)母尼追福。於彼山内墳墓之傍。被建一梵宇(後の常楽寺)。今日有供養儀。導師莊嚴房律師行勇。匠作(修理権大夫の唐名、北条時房)。遠江守(北条朝時)令聽聞給。
 ■寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。故前武州禪室(北条泰時)周闋(2周忌)御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛(北条經時時)并武衞(北条時頼)參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
(注2) この時代、何人かの定慶がいるが、記事には、その定慶が特定して書かれていない。興福寺専属の仏師であり、運慶の父・康慶の弟子とみられる定慶ではなく、肥後(別当)定慶のことかもしれない。
 近年、鎌倉明王院本堂の五大明王中、不動明王像が、嘉禎4年(1235年)4代将軍藤原頼経(1218-1256)の発願により肥後定慶が制作したものとわかった。
 また、常楽寺の阿弥陀三尊像を作った年(1242年)に、肥後定慶は石龕寺(兵庫県)の金剛力士像(阿形・吽形)を制作している。阿形像内に「仁治三年三月二十一日始、四月十三日木造畢」、吽形像内に「仁治三年三月二十一日始、卯月(4月)十一日木造畢」、両像ともに「大仏師南方派肥後法橋定慶生年五十九」と墨書されている。[参考:日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第一期総目録 中央公論美術出版(2003/05)] 常楽寺の阿弥陀三尊像とは制作時期が近い。
(注3)墨書された文字が全て発表されていないのが残念である。

北条泰時、極楽往生の願い…阿弥陀像に墨書(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「(泉州別当)定慶」作の墨書名発見
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兵庫県猪名川町・広根遺跡 鎌倉時代の荘園を任された名主?の屋敷跡などが見つかる

2012年02月17日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館は16日、猪名川町広根の「広根遺跡」で鎌倉時代(13世紀ごろ)の掘立柱建物跡5棟や水田跡が見つかったと発表した。
 清和源氏の祖とされる平安時代の武将、源満仲(912?-997)が開発した広大な荘園「多田荘(ただのしょう)」の一角にあり、13世紀に土地を管理していた地方武士が住んだ集落跡とみている。
 当遺跡から東南約5kmにある多田院(注1)を中心として源氏の勢力が北摂(摂津国北部)一帯に広がっていたことは知られており、その一端を裏付ける発見という。
 建物跡は最小で12㎡、最大で約70㎡(幅約7m、長さ約10m)あり、北側の低い場所に水田が広がっていた。 井戸や墓とみられる石組みの跡もあり、土地に根づいた生活を送った地方武士の屋敷跡ではないかという。 中国製の陶磁器の壺や碗が出土していることから、荘園の経営を任された名主クラスの武士がいたと考えられるという。
 現在の川西市や猪名川町などで荘園を開発した多田源氏の勢力範囲を知ることができるとしている。
 他にも室町時代の石組みの井戸や、宋銭が出土した柱穴が見つかった。
 現地説明会は18日(土)午前10時~正午に開かれる。
[参考:神戸新聞、毎日新聞、朝日新聞]

(注1) 多田院こと鷹尾山法華三昧寺、現在の多田神社。 川西市多田院多田所町に鎮座。
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用明陵(春日向山古墳)と推古陵(山田高塚古墳) 宮内庁が調査のための立ち入りを許可

2012年02月17日 | Weblog
 宮内庁は16日、日本考古学協会などの考古・歴史学の16の学会に対し、大阪府太子町の陵墓に指定している用明陵(春日向山古墳)と推古陵(山田高塚古墳)への立ち入りを認めると発表した。 調査は23日に行われる。
 二つの古墳は、一辺が60m前後の方墳で7世紀に造られたと考えられている。
 両古墳は、墳形が同じで築造時期も近いことから、天皇陵が、前方後円墳から方墳へと変わっていく転換期の古墳として、そのあたりをよく調査したいとしている。
[参考:共同通信、朝日新聞]
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桜井市・纒向遺跡 「卑弥呼の宮殿」(大型建物跡)の南側約40mから溝跡など発見

2012年02月17日 | Weblog
 桜井教委が16日、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡で、卑弥呼と同時代の大型建物跡など中枢部を囲んだ可能性がある溝跡が見つかったと発表した。 中枢部周辺では建物跡などは見つからず、大きなスペースが確保されていたことも判明した。
 溝跡は長さ6mで、幅約60cm、深さ10cmで、東西方向に延びており、土を掘り返しただけの素掘りだった。09年に確認した「女王卑弥呼の宮殿」との指摘もある3世紀前半の大型建物跡(南北19.2m、東西12.4m)を含む計4棟の建物群から南約38mの位置で見つかった。直径20cmの穴が3個、3m間隔で同じく東西方向に並んでいるのが見つかった。これまで建物跡南側近くでは柵跡が見つかっているが、今回の調査で、さらに南側でも新たに建物跡とほぼ並行する形で東西方向に並んでおり、建物跡が二重の柵列で囲まれていた可能性もあるとみている。 また、溝はエリア南端の境界線だった可能性もある。
 出土した土器から、3世紀の中頃から後半に埋められたことも分かり、建物群と同時期に存在していたとみられる。
 現地説明会は18日(土)午前10時~午後3時に開かれる。雨天の場合は19日に順延。
[参考:産経新聞、毎日新聞、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.4.28纒向遺跡 「卑弥呼の宮殿」(大型建物跡)のそばから、より新しい時代の別の大型建物跡が見つかる
 2011.1.26纒向遺跡 モモの種などと一緒に見つかった木材はヒノキ、敷居と垂木に使用か
 2011.1.21纒向遺跡 祭祀用供物か、大量の魚や動物の骨、植物の種子などを確認
 2010.9.17纒向遺跡 大型建物跡の南側から桃の種2000個以上と祭祀関連遺物が出土
 2009.11.10纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる
 2009.8.23纒向遺跡 新たな柱穴発見、棟持ち柱の可能性
 2009.3.20纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
 2009.1.13 「邪馬台国」解明へ 纒向遺跡を本格調査へ

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大津市・南滋賀廃寺 「錦寺」と刻まれた緑釉陶器片が出土 錦部寺?

2012年02月16日 | Weblog
 大津市埋蔵文化財調査センターは15日、大津宮(667~672年)と関わりが深い国史跡「南滋賀廃寺」(大津市南志賀3丁目)近くの畑から「錦寺」と「箆(へら)」で刻まれた9世紀末ごろの土器片が出土し、南滋賀廃寺の寺名が続日本紀に記されている『錦部(にしこり)寺』だった可能性が高まったと発表した。
 土器片は昨年5月、南滋賀廃寺の東約250mの畑で農作業中の男性が、多数の須恵器や瓦などとともに見つけた。 緑釉陶器(浅い杯か深めの碗)の底部とみられ、縦7cm、横6・5cm。外側に太文字で「錦寺」と刻まれていた。平安京に製品を供給していた京都の窯のものとみられる。
 同廃寺は大津宮中枢部の真北約400mに創建され、廃都後も平安時代末期(12世紀後半)まで存続したらしい。 宮の規模や構造を考える上でも貴重な遺跡とされるが、寺名は不明で、地名などから通称で呼ばれてきた。
 「続日本紀」には、藤原仲麻呂の乱(764年)で官軍に協力した見返りに恩賞を与える近江国の寺の一つとして「錦部」が記されている(注1)。土器片は、この寺が同廃寺とする説を裏付ける初の物証で、同廃寺は少なくとも奈良時代後半(8世紀半ば)~平安時代前半(9世紀末)まで「錦部寺」と呼ばれていたとみられるという。
 南滋賀廃寺は渡来系の豪族、錦部村主(にしごりのすぐり)一族が建てた氏寺だった可能性が強まったとしている。
 土器片は16日~3月15日、大津市埋蔵文化財調査センター(同市滋賀里1丁目)で公開される。土日休館
[参考:毎日新聞、読売新聞、京都新聞、朝日新聞]

(注1)続日本紀 天平神護二年(776)9月6日己未条に
 賜助官軍近江國僧沙弥。及錦部蒿園二寺檀越。諸寺奴等物。各有差。

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.20南滋賀遺跡 大壁造り建物跡出土
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桜井市・茅原大墓古墳 前方部から「渡り堤」が出土

2012年02月16日 | Weblog
 桜井市教委は15日、同市にある国内最大級の帆立貝式前方後円墳・茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん、4世紀末)で、墳丘と外部を結ぶ「渡り堤」(長さ、幅各約7m、高さ80cm)が出土したと発表した。
 渡り堤は、近くの箸墓古墳(3世紀後半)などでも見つかっており、前期古墳にのみみられる構造。 墳丘に巡らされた周濠が最も狭くなった前方部の北東角で出土した。 両側の側面には10~30cm大の葺石が施されていた。
 このほか、葺石の状況から前方部と後円部の境の「くびれ部」も確認した。
 現地説明会は18日(土)午前10時~午後3時に開かれる。雨天の場合は19日に順延。
[参考:読売新聞、奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 茅原大墓古墳
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向日市・元稲荷古墳 西殿塚古墳の2.5分の1で造営

2012年02月15日 | Weblog
 京都府向日市埋蔵文化センターが15日、国内最古級の同市・元稲荷古墳(全長約92mの前方後方墳、3世紀後半)の前方部付近の約130㎡を発掘調査した結果、直線的に伸びる前方部(長さ約42m)の形が邪馬台国の女王・卑弥呼の後継者壱与(台与)の墓説がある奈良県天理市の大王墓とされる西殿塚古墳(全長約230mの前方後円墳、3世紀後半)の前方部と酷似し、2.5分の1サイズと分かったと発表した。
 また、前方部と後方(円)部の長さの比率が、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳(全長約280mの前方後円墳、3世紀半ば)とほぼ同じだった。 箸墓、西殿塚両古墳の造営方法が影響したのだろうとしている。
 現地説明会は18日午前11時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.23元稲荷古墳 くびれ部で葺石が多数出土し、造り方の技法が大和の大王級古墳と相似
 2010.2.27元稲荷古墳 葺石の構築方法に違い、複数の集団が関与か
 2009.02.19 元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う
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新宿区・高月山長善寺

2012年02月15日 | Weblog
浄土宗 高月山 瑞翁院 長善寺 (芝増上寺の末寺) 新宿区四谷4-33-2
 新宿区には長善寺という寺が2つあり、1つは笹寺として知られる曹洞宗四谷山長善寺、もうひとつが笹寺の北西約500mのところにある高月山長善寺である。


 浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚が開山、高月栄法比丘尼が開基で千駄ヶ谷名主太十郎(注1)の先祖にあたる人だという。元和9年(1623)神宮外苑付近に創建したと伝えられる。明治22年青山練兵場造成のため、当地へ移転した。
(注1)千駄ヶ谷名主太十郎家(西谷姓)は日蓮宗立法寺(杉並区和田)が現在の地に移る前の千駄ヶ谷の地(現、新宿区霞ヶ丘10)も寄進している。[参考:「新修渋谷区史」昭和41年発行]

 昭和39年(1964)に開催された東京オリンピックの時に設けられた外苑西通り(東京都道418号北品川四谷線の一部)により、北側にあった墓地が道路を挟んで北側に移された模様。

 この寺が世に知られたのは、1mほどの銅造釈迦如来坐像があったためである。背に応永14年(1407)8月鋳造の銘文がある。豊臣秀吉が大阪城に安置していたと伝えられ、大坂の陣の名残りの鉄砲の弾丸跡が八ヶ所ほどあった。天和3年(1683)以来当寺に所蔵されていたというが、今はなくなってしまった。
 2011.1.28付けで記した「千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの」の中で、慶長11年(1606) に崇源院(江姫)が寄進した浄土宗・霊山寺領50石の3ヶ所の土地の一つである、千駄ヶ谷御焔蔵の東(新宿区霞ヶ丘2 神宮外苑グラウンド中央付近)の場所の北約100mの所、現在は聖徳記念絵画館の場所に、浄土宗・長善寺があったと思われる。「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会 人文社 1983/3発行)の延宝年(1673-1681)の地図で記されており、明治22年までその場所にあったようである。

過去の関連ニュース・情報
 2011.4.9 杉並区・立法寺 長谷川正次系の墓
  元文2年(1737) 千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖弥次右衛門より土地を寄進され、千駄ヶ谷村へ移転。
  大正8年(1919) 明治神宮外苑造営のため、現在地(杉並区)へ移転。
 2011.2.12 新宿区・曹洞宗長善寺(笹寺)と、もう一つの浄土宗長善寺
 2011.1.28 千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの
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天理市・ノムギ古墳 発掘調査で3世紀後半築造の前方後方墳の埋葬施設が見つからず

2012年02月15日 | Weblog
 天理市教委会は14日、初期ヤマト王権の中心とされる大和(おおやまと)古墳群にある同市佐保庄町のノムギ古墳(全長63m、前方後方墳、3世紀後半) 墳丘中心部の後方部を発掘したところ、期待された石室などの埋葬施設が見つからなかったことが分かった。
 古墳一帯には太平洋戦争末期に海軍航空隊基地があり、造営時に破壊された可能性も浮上している。
 また、古墳築造前の表土層と盛り土が見つかった。元々高台だった場所に2m以上の土を盛って築造したとみられるという。 築造前の古墳の表土層が出るのは珍しい。
[参考:産経新聞、奈良新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.3.11 ノムギ古墳 前方後方墳の後方部の一辺が40mと確定
 20103.16 ノムギ古墳 後方部裾で花崗岩の礫が多数出土
 2010.2.23・ノムギ古墳 発掘調査を開始
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藤原宮跡出土木簡 和同開珎の銀銭の使用を示す墨書を発見

2012年02月13日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、橿原市にある藤原宮(694-710)の遺構から出土した木簡に、和同開珎の銀銭の使用を示す墨書があることがわかった。
 木簡(長さ9.4cm、幅0.9cm)は割れて左半分はなく下部も欠けた状態で、1980年、藤原宮の東側を区画する大垣の外濠跡で見つかった。 最近の研究で、「銀銭□文付□」(□は判読不能)と確認された。 一緒に見つかった別の木簡の年号と、藤原宮があった当時、銀銭は無文銀銭と和同開珎銀銭が存在し、無文銀銭は「枚」で、和同開珎は「文」で数えたことから和同開珎の記述と判断したという。
 銀銭は708年に発行されたが、翌年には製造を止め、その翌年には使用が禁止された(注)。 銀銭は銅銭と比べて流通の実態がわからなかった。使用を初めて裏付ける資料としている。

(注) 『続日本紀』
 和銅元年(708)五月壬寅十一日条 「始行銀銭。」
 和銅元年(708)八月己巳十日条 「始行銅銭。」
 和銅二年(709)八月乙酉二日条 「廢銀錢。行銅錢。」
 和銅三年(710)九月乙丑十八日条 「禁天下銀錢。」
[参考:読売新聞、NHKニュース]

和同開珎の使用示す木簡出土、流通裏付ける発見(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.2 藤原宮跡出土・富本銭 考察
 2008.6.17 隠岐・西ノ島・黒木山横穴墓群遺跡 銀の和銅開珎が出土
 和同開珎
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鎌倉市・法華堂跡 「源頼朝墓」が壊される

2012年02月12日 | Weblog

(左)源頼朝の墓(多層塔)   (右)白旗神社

 2月11日昼過ぎ、神奈川県鎌倉市西御門2丁目、国指定史跡の法華堂跡で、源頼朝の墓塔の一部が壊された、との報道があった。
 墓塔は180cmの石塔(多層塔)で、上部相輪部分が倒され壊れた。また、隣にあった、石灯籠も倒された。さらに、源頼朝の墓の下、参道入り口にある白旗神社の狛犬2体も台座から落されており、1体は胴体部分で真っ二つに折れていたという。


 写真は、いずれも2005年11月に撮影のものであるが、この時の「源頼朝墓」の説明板が上写真である。
 このとき、国指定史跡「源頼朝墓」 (昭和2年6月14日文部省指定)となっているが、現在は、神奈川県生涯学習情報センターHPを参考にすると、2000年1月31日源頼朝墓と法華堂跡を統合し新たに指定、2006年7月28日北条義時墓を追加指定し名称変更とある。
 この頼朝の多層塔は、安永8年(1779)に第25代島津家当主・島津重豪が勝長寿院にあったものを移築して再興したものであるが、実は、平成元年にも何者かに破壊されてしまい、作り直したそうである。
 いずれにしても、残念というべきか困ったものである。

源頼朝の墓、壊される 男が墓塔上部を押し倒す? 鎌倉(朝日新聞) - goo ニュース
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板東市・然山西遺跡 獣面把手が出土

2012年02月10日 | Weblog
 茨城県教育財団は9日、坂東市内野山の然山西遺跡(しがれやまにしいせき)で、土器の最上部にイノシシやウサギの顔を形取った「獣面把手」3片などが出土したと発表した。
 前回調査で11軒の住居跡が発見されたのに続き、今回、新たに30軒の住居群を確認。縄文時代前期に継続的に集落が形成されていたことが分かった。
 主な出土品は深鉢、浅鉢などの土器類で、スス跡などから煮炊きと食料品の貯蔵用に使用したとみられる。 ほかに、鏃や漁具の石錘などが見つかり、漁労と狩猟の両方ができる住みやすい環境だったと推定されるという。
 ヤマトシジミやサルボウ、ハマグリなどの貝殻も見つかっており、周辺が縄文前期の温暖化で県内南部に海水が流入して汽水域だったことを証明する遺物として注目される。
 当遺跡は,坂東市の東部から南部にかけて流れる飯沼川の支流である立川左岸の標高12~16mの台地上に立地している。
 現地説明会が、12日午前10時半~11時45分に開催される。
[参考:産経新聞、東京新聞、茨城県教育財団埋蔵文化財部HP]

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ひたちなか市・十五郎穴横穴墓群館出35号墓 正倉院宝物と同形の金具付刀子が出土

2012年02月08日 | Weblog
 茨城県ひたちなか市教委は8日、古墳時代末期から平安時代にかけて作られ、東日本最大級の集団墓とされる「十五郎穴横穴墓群(じゅうごろうあなよこあなぼぐん)」(同市中根)で、正倉院の宝物「斑犀把白牙鞘御刀子(はんさいのつかびゃくげのさやのおんとうす)」と同じ形の「帯執(おびとり)金具」が付いた鉄製の刀子(全長25cm)が発見されたと発表した。
 刀子は十五郎穴横穴墓群のうち館出(たてだし)35号墓の玄室(幅3・15m、奥行き2・7m)の発掘調査で、土中から見つかった。刀を腰に下げるための金銅製の帯執金具や鞘口金具、鞘尻金具、山形金(やまがたがね)、などが付いていた。帯執金具は銅製で紐を通す穴があり、刀を吊り下げるための道具で、刀子に嵌め込むように取り付けられていた。表面には金が付着していた。 付近で見つかった須恵器から8世紀頃つくられたとみられる。
 玄室にはこの他、9世紀前半の須恵器と、大刀1点(全長約55cm)や刀子4点、頭骨6体分、火葬された人骨2体分が見つかった。 前庭部からは須恵器など57点が出土した。
 正倉院にある宝物の刀子は聖武天皇ゆかりのものといわれ、こうした形の刀子が出土したのは全国初の可能性が高く、中央とつながりの強い人物が埋葬されたのではないかとしている。
 十五郎穴横穴墓群は7~9世紀前半に造られたとされる。300~400基からなるとされる。
 発掘調査は昨年10月から行われ、現在も継続中。
 出土品はひたちなか市埋蔵文化財調査センターで11日から一般公開される。
 また、2月11日(土曜日)午後1時30分から午後3時30分の間,発掘調査を行った館出35号墓を見学できる。
[参考:読売新聞、共同通信、時事通信、朝日新聞、毎日新聞、ひたちなか市HP]
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富岡市・上高田筑前上遺跡 幾何学模様が彫られた紡錘車を初公開

2012年02月08日 | Weblog
 富岡市妙義町の上高田筑前上遺跡(かみたかたちくぜんうえいせき)から、平成22年度の発掘調査で、古墳時代中期の花の絵のような幾何学模様が彫られたほぼ円形(直径約5cm)の石製紡錘車が出土した。
 同市黒川の市立美術博物館市民ギャラリーで開催される「市内出土品展」で、9日から19日まで初公開される。
 同展では、古代の牧関連遺構の大溝が確認された上高田熊野上遺跡(かみたかたくまのうえいせき)など近くの遺跡の調査結果も併せて紹介される。
[参考:産経新聞、毎日新聞、安中市HP]
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