クリスマスなので、聖書の一節を。(新共同訳 マタイによる福音書 26章31節から抜粋)
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31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。
32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
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ペテロ(ペトロ)は、自分は何があっても師を裏切ることはないと言う。実際自分でもそう信じている。でも、そうではない。
師が捕らえられ、大祭司のところに連行される。彼は「遠く離れてイエスに従い」なので、遠巻きにして、後をつけていったのだろう。彼は大祭司の屋敷中庭に首尾よく入り込み、様子をうかがうことにした。何のために。師の身を案じてだろうか。実力で取り戻そうとしたのだろうか。それとも...
ペテロは庭にすわっていると、女中に見とがめられる。しかし自分がイエスの弟子であることを、あっさり否定する。別の女中にも正体がばれてしまうが、師のことを「そんな人」よばわりして関係を否定。さらに周りを人に囲まれ、詰問されるが、ふたたび「そんな人は知らない」と誓ってしまう。すると、鶏が鳴いた。事前に師が彼に述べたとおりになってしまった。
英文では以下のようになる。(New International Version)
69 Now Peter was sitting out in the courtyard, and a servant girl came to him. “You also were with Jesus of Galilee,” she said.
70 But he denied it before them all. “I don’t know what you’re talking about,” he said.
71 Then he went out to the gateway, where another servant girl saw him and said to the people there, “This fellow was with Jesus of Nazareth.”
72 He denied it again, with an oath: “I don’t know the man!”
73 After a little while, those standing there went up to Peter and said, “Surely you are one of them; your accent gives you away.”
74 Then he began to call down curses, and he swore to them, “I don’t know the man!”
Immediately a rooster crowed.
75 Then Peter remembered the word Jesus had spoken: “Before the rooster crows, you will disown me three times.” And he went outside and wept bitterly.
ペテロは師と行動をともにした(弟子であること)ことを「打ち消した(denied)」り、「誓って打ち消した(denied, with an oath)」のだ。そして、最後には知らないと「誓った(swore)」のだ。
ペテロはなぜ師を否定したのだろう。自己保身に見える。正当化することは難しい。なんてヤツだ。そんなふうに思える。けど、僕はペテロが好きである。人間くさくて、生きている感じがするからだ。
人は自分勝手で、自分がかわいいものなのだ。誰にでもある、普通のことである。
自分がペテロならどうする。
自己保身・保全は生命体の本能だと思う。自分が信じ、おそらく敬愛している存在でも、自分の命ためには裏切る。そんなペテロの存在に共感を覚える。奇妙な安心感がある。
裏切りを肯定するつもりはない。でも、人は困難からのがれたい、御身大切なのだ。それを理性とか規律とか様々なもので規制しながら、社会の中で生きている。でも、自分の命に関わる場合はどうなるか。ペテロの存在を見ると、福音書の記述が絵空事ではなく、何かホントに起こったことをベースにしている。そんな気がする。ペテロも2000年前に、間違いなくそこにいた。裏切った。自分が生きるためには、他にすべがなかった。仕方なかった。無力さに砂を噛むような思いで、師の処刑後、彼は生き抜いた。そう思える。
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この、師を否定するペテロの行為を、遠藤周作さんは「私のイエス(祥伝社版 昭和63年7月20日初版第1刷p.160)」でこう書いている。
以下引用する。
...この宮廷でペトロを尋問する女中や人々は、文字通り女中や番人と考えていいでしょうか。私は聖書に使われている”人々”という曖昧な言葉を、イエスを裁いた祭司たち、と考える方が妥当だと思います。言い換えるとペトロはほかの弟子たちの代表者として、この裁判をイエスとともに受けたのです。そして、彼は祭司たちの前でイエスと否認することを「烈しく誓った」のです。
イエスと否認することを、烈しく誓ったために、ユダヤ教の主流派と、弟子グループとの妥協は成立しました。弟子たちの罪はすべて不問に付され、彼らはその後の追求を免れえたのです。いわばイエスは、全員の罪をいっさい背負わされる生贄の仔羊とさせられたわけです。
わかる気がする。
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MERRY CHRISTMAS TO YOU.