上方落語の重鎮、桂三枝が師匠の名籍を継ぐというニュースが昨日流れた。
桂三枝改め、桂文枝。
上方落語というと、四天王と呼ばれる噺家さんが存在した。
六代目笑福亭松鶴。
三代目桂春団治。
三代目桂文枝。
三代目桂米朝。
この中で桂米朝と春団治は現在もなお活躍中。
米朝は私の大好きな落語家で、最近は忙しくてなかなか聞きに行く時間が取れなくて残念だが、数年前まで米朝出演の落語会がサンケイホールやその他身近な会場であるときはよく出かけたものだ。
もちろん人間国宝だけに落語の語りは上方一。
米朝落語を耳にしたら、なかなか他の落語は聞けない、ということもないものの、やはり安定感がベストで、枕の話など人生論にもなったりして楽しめるのだ。
春団治の落語は子どものこ「しょーもない、おもろない落語」と思っていたが、生で聞いて以来、この人の噺は生で、しかもテレビ中継のない寄席で効かなければ面白くないことがはっきりして、いまでは聴きに行く落語会に春団治が出ると楽しみになる。
というのもこの人、テレビで話す落語と、寄席で話す落語がぜんぜん違うのだ。
テレビは言葉の制限などがあり、やりにくいらしく、その点、寄席の落語は遠慮がないだけに次々とおもしろい話芸が飛び出し楽しめるのだ。
松鶴の落語は正直言って上手ではなかった。
でも、この人はなかなか正直で「ワシ、米朝嫌いや、落語巧すぎやもん」と言って笑いをとれるようなキャラクターなのであった。
普通人ではありえない、どこか超越した部分があってなぜか面白かった。
シラフのひとを演じていると呂律が回らず聞きづらい。
ところが酔っぱらいを演じると滑らかな話口調になるのには正直驚いたものだ。
普段アル中のような感じの人ではあったが、アル中みたいな人が酔っぱらいを演じると、ある意味リアルを通り越して素晴しを感じる域のものがあったのだ。
で、文枝。
この人は長らくテレビの「素人名人会」の審査員をしていて子供の頃から良くテレビでみかけたけれども、ついに生で落語を聞くことはなかった。
そのためかどうか、四天王の中でも落語家としての印象は一番薄い。
今も、見た落語のネタをちっとも覚えていないくらい印象が薄いのだ。
それでも文枝は上方落語にとっては重要な名前で、私は知らなかったのだが、「桂」の名前はここからスタートしているというのだから、文枝という名の重要性がわかろうというもの。
その文枝の一番弟子、桂三枝の落語も実のところ生で聞いたことがない。
ミャンマーへ旅行したときにガイドを務めてくれたTさんがウォークマンで落語を聞いていて、
「これ面白いんです」
と私に聞かせてくれたのが桂三枝の創作落語だった。
ミャンマーの人が落語を聞いて笑っている方が印象的で、噺のネタはなんであったかちっとも覚えていないのであった。
桂三枝といえば未だに落語家というよりもテレビのタレントという印象が私には強い。
そういう意味で「桂文枝」襲名は、なるほどでもあるのだが。
文枝という名前が落語会で重要と言うならば、三枝が文枝を継ぐのになんとなく違和感があるのはなんなのだろうか。
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