<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



インドネシアとエチオピアで墜落したB787MAXの事故原因がわかってきた。
どうやら自動制御装置に問題がありそうだ、とマスメディアが伝え始めている。

これで思い出したのが1994年4月に名古屋空港で発生した中華航空機墜落事故。

ご記憶の方も多いことと思うのだが、この事故は死者264人、生存したのはたったの7名の大きな事故なのであった。
このとき、御巣鷹山の日航機事故から10年ほどしか経過しておらず、航空機事故に関する関心がまだまだ色濃く残っていたときなので受けるショックは小さくなかったな。
しかも中華航空が犠牲者家族に補償したのが一人あたりわずか300万円だったこともショックを増幅させ、

「つまらんエアラインは使うべきじゃない」
と思ったのは今も記憶から離れずにいる。

でもこの事故で最も驚いたのはその原因だった。

事故を起こした機体エアバスA300は自動操縦装置が充実した機種だった。
今もそう。
いくつもの安全装置が組み合わされていて人が起こすと考えられる小さなミスもバックアップ。
パイロットの技量による操縦安全性の差をなくすという、最先端技術の飛行機だった。

ところがこの安全のためと装備された自動操縦装置が事故の原因になってしまった。

自動で着陸をしようとしていたこの中華航空機は名古屋空港新入中に高度を維持しようとした装置側と、自動操縦解除と勘違いしたパイロットの手動操縦が双方で反発。
結果的に失速を招いて地上に激突することになった。
思いもしない人間対コンピュータという組み合わせが生み出した事故なのだった。

この時、手動装置と自動装置が反発し合うエアバスの設計思想に対して、

「ボーイングは自動であってもパイロットが操縦桿に少しでも動作を加えると全て手動に切り替えるので安全」

という情報が報道されて、航空機大手二社の設計に関する違いが鮮明に現れていた。

「いざとなれば人のほうが有効だ」

と私は強く感じた私はエアバスよりもボーイングの方が安全。
しかもコンピュータは所詮機械なので想定されていない事態が発生した場合、頼れるのは人だけ。
人が操縦できないヒコーキに乗るべきではない。
と今も思っているし、その延長上に自動車の自動運転なんかさらにあり得ないと思っている。

ところが信頼していたボーイングが墜落。
しかもその原因が「自動操縦装置は優先しない」と思っていた設計思想のいつの間にかの変更。

何を信じてヒコーキに乗ればいいのか。


自動か手動か。
さらにはAIか人間か。

変なオプションはつけないでいただきたいと思う航空機常習者の私の希望なのであった。


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その昔。
英字新聞の記事を自動翻訳で和訳させたところ、ブッシュ大統領を「藪大統領」と翻訳した。

藪さんて。
うちの近所の人みたいやん。

とズッコケたことを思い出す。

大阪メトロの英語サイトの英文が自動翻訳を使ってチェックもせずに掲載したため駅名がおかしくなっていると産経新聞が伝えた。
なんでも「堺筋本町」駅は「Sakai Muscle」Station。
「天下茶屋」駅は「World Tea house」Station。
と訳しているそうで、メトロでは自動翻訳をそのまま掲載してしまった結果だと言い訳をしているという。

こういう民営化されて1年足らずの大阪メトロの失敗は少々政治的な混乱をもたらす。
大阪府知事と大阪市長選挙が迫っているので、このような変な名前が掲載されたのも大阪市営地下鉄を民営化した大阪維新の責任と言い出す人たちもいるかも知れない。
でも、そんな英訳をチェックもせずに掲載したのは政治の責任ではない。
大阪メトロの組織そのものの問題。
民営化は当然関係なくて企業として「スタッフいないの?」という問題なのだ。

ちなみに大阪メトロの企業としての規模は東京メトロとほぼ同じ。
大阪は首都圏にも増して外国人観光客が多く、主要駅には外国語を操るコンシェルジェも配置されている。
決して人材に不足しているとも思えない。
そんな大手鉄道事業者が奇妙な翻訳。

笑いのメッカ大阪だけにもしかすると漫才か新喜劇の「ネタ」だったのかも知れない。

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10年ほど前にミャンマーを旅行したとき、利用した国内線の旅客機は個性に満ちた機種が少なくなかった。

日本ではなかなか乗れないエンバイエルのプロペラ機。
しかもそれなりにお年を召した機体のようで、私が座った座席の窓の下には大きな凹みができていた。

「こんなんで大丈夫かな。飛ぶんかな....。」

と若干の不安感はあった。
しかしヤンゴンからのフライトはまったく心配もなく1時間半の飛行を終えて無事にシットウェー空港に到着した。
凹みぐらいではまったく問題はなかったのだ。
凹みや故障箇所は見当たらなかったが最も驚いたのはシャン州の州都タウンジーへの玄関口ヘーホー空港からヤンゴンに戻る夕方便だった。
乗客が多く待合室は混雑していた。
「あの小さなプロペラ機にこんなに多くのお客さんが乗れるのかな」と思っていた。
そこにやってきたのはミャンマーの国内線にしては珍しくジェット機だった。

「全員乗れるそうです。それにジェット機だから早いですよ」

とガイドさんは言った。
ジェット機ならプロペラ機ほど揺れないし、スピードが早い。
根拠はないのだが、なんとなく安心感も少し大きい。
しかし座席に座って安全のしおりに記載されている機種名を見て不安が吹き出した。

「FOKKER 100」

フォッカー?

エアバスでもボーイングでもボンバルディアでもなくて、フォッカー。
聞いたことあるけど....。
ふと私の脳裏に二枚翼のプロペラ機が写った白黒のレトロな写真が浮かび上がった。

「大丈夫かいな....」

ミャンマーの国内線ではすでに消滅した航空機メーカーの最終製品が空を飛んでいたのだ。
それも機齢はたぶん20年以上。
メンテナンスは今はエアバス社が請け負っているようだが、古いことに変わりはない。

かように開発途上国での空の旅は中古機材が飛び回り、大変なリスクがあると思っていた。
現に地球の歩き方にも「ミャンマーの国内線は時々墜落するので要注意」みたいなことが書かれていて、ほんとに注意していたのだ。

そんなこんながあって海外で、とりわけ開発途上国で航空機事故があると、

「きっと古い機材でメンテナンスの不備が原因なんだろな」

と思う。
それも自然にそう判断してしまうのだ。
たぶん、実際にそんなことも少なくなかったんだろう。
かなり昔であれば。

だから昨年インドネシアでLCCが墜落したときも、

「中古機材かな、LCCやし」

と思っていたら最新機種のB737MAX8。

今回のエチオピア航空の墜落のニュースを聞いたときも自然に同じようなことを考えたのだが、機種はやはり最新のB737MAX8。
どちらの航空会社も新鋭機種を運行させて信頼性のアップを図っていたのだ。

そういえばこれも10年ほど前にベトナムの国内線でホーチミンからダナンへ飛んだときも機種はB777。
最新機種なのであった。

このように十年、二十年まえ。
もしかすると私は三十年以上前の情報をもとにその国に対する印象を抱いていたまま「今」を考えているのではないか。
そのことに気づいたタイミングとハンス・ロスリング著「ファクトフルネス」を読んだタイミングが合致して、予想以上に学ぶことが多い一冊になった。

本書では人々は古い情報に基づく先入観や、人間がもともと持ち合わせている本能に基づいた考え方、捉え方で物事を判断をしており、その正解率は著しく低いという。
著者その正解率の低さを「チンパンジー以下」と表現している。
実際、三択問題で正解率が三割を超えるものは殆ど無い。
ランダムに答を選択するほうが考えて選択するより正解率が高いというのだ。

確かに、本書で紹介されている問題の正解率はかなり低い。
「少しは電気を使える人は世界人口の何パーセント?」
「女性は男性と比較して教育を受ける時間はどれだけ少ない?」
といった問題。
いずれも私を含むほとんどの人が不正解。

また漠然と、
「世の中は悪くなっている?」
とみんなが勝手に言っていることが実は正しくないというようなことなどが「データ」を元に解説されており愕然とするのだ。

本書を読んでいて怖いなと思ったのは、もしかすると政治家やマスコミ、社会運動をする人たちはそのことを知っていて、時として悪意を持って発言しているのではないかと感じたことだ。

よく憲法9条の改正に反対する人たちは「改正したら日本は戦争ができる国になってしまう」と言う。
これも一種の人間本能にささやきかける印象操作ではないか。
こういう人たちに限って論理的な議論を避けて、彼らの結論だけを声高に叫ぶ。
しかもこういう発言をするのは善人顔の人が多い。
詐欺師や嘘つきは人相が良く、逆に正しいことをしようとするひとに悪人顔の人が少なくないのがなんとなく因果ではある。

よくよく考えてみると憲法を変えたからと行って戦争をする国になるわけがない。
そんなことをしても今の世の中誰も得をしないし、すれでも憲法を変えるだけで戦争をするという人たちは「日本人はバカです」と言っているのと同じではないかとも思う。
戦後半世紀かけて築き上げた信頼をぶち壊すわけがないのだ。

それによしんば憲法を変えなくて外から戦争がやってくる可能性は低くない。
現に、南シナ海に浮かぶ他国の島々を自分の領土と宣言して勝手に占領して軍事基地を作っている国が隣国にある。
また核ミサイルをぶっ放す、と言い続ける鬼ヶ島みたいな国も隣国にはある。
島を占領したまま手放さい隣国2つもあり、まともな国の方が少ないくらいだ。

こんな情勢だから、テロリストよろしく襲いかかってこないということは絶対に言えず万が一に備える必要がある。
大切なのは憲法で縛り付けて緊急事態が発生した時に足を引っ張るデタラメを作るのではなく、正しい情報を得ることで社会を妙な流れに導かないことなのだ。

で、かなり話は横道にそれてしまったが憲法で縛り付けるために嘘の印象操作をするところに怖さがある。

いずれにせよ社会問題、国際問題、近所の問題、家族の問題。
どれも真実を真のデータを知ることで解決あるいは改善できるということを本書は気づかせてくれるのであった。

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上野の国立西洋美術館で開催されている「ル・コルビュジエ展」へ行ってきた。
これは以前からチェックしていた展覧会だったが、期待に違わず豊富なボリュームと濃い内容の展覧会だった。

ル・コルビュジエ。
20世紀を代表する建築家の一人。

展覧会の会場である国立西洋美術館そのものもこの人が設計した。
コルビュジエの作品の一つとして世界遺産に登録されたことは記憶にまだ新しいところだ。

期待をして展覧会を訪問したのだが、私はホントに勉強不足なのであった。
この人はもともと画家であり、その択一な作品構成の思想を建築に用い、類まれなる優れた数々の建築作品を生み出したのだということを本展覧会で知ることになった。
このあたり、美術に造詣が深いカミさんのほうがよく知っていたのだ。

美術展は大きく2つのエリアに分かれている。
1つ目は入館した1階のエリア。
ここは撮影自由でコルビジュエが設計した建築作品の模型が展示されている。
もう一つのエリアは2階で、ここにはコルビジュエの絵画作品や彼に関連した作家や同時代、同世代の著名な作家の作品が展示されていた。
建築作品とその背景。
彼のデザインの考え方の基本になっている要素などを絵画から知ることにより、より深くコルビジュエ作品にふれることになるのだろう。

作品群を見ていて強く感じたのは、専門性とはなんだろうということであった。
建築のような工学上の専門知識を有している必要があると思われる分野で新たなトレンドを生み出すにはそれ以外の分野がどうしても必要で、必ずしも専門性を持った者が何かを生み出すということはないのではないか。
そういうことを強く確認するような感じだった。
例えば安藤忠雄がボクサー出身の建築家であるように。
専門性を必要とする分野に新しい流れを作り出すのはまったく別の世界を経験した、あるいは別の世界からやってきた鋭いセンスを持ったデザイナーが必要なのかもしれないと思ったのだ。

ともかく訪れたのは土曜日だったのだが、ただでさえ混雑している展覧会場に修学旅行で東京を訪れていると思われる中学生の集団が加わり会場は異様な熱気で包まれていたのであった。
なにしろ、体力の要る展覧会ではあった。

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映画は時として絵画のような映像を提供することがある。

「LALALAND」のエマ・ストーンが出演している「女王陛下のお気に入り」はその類の映画としては徹底した美術で迫るなかなか見応えのある作品なのであった。

ただし、シモネタ満載なのを除けば。

この作品は前評判が非常によくてアカデミー作品賞の呼び声も高かった。
なので大いに気になっている映画だった。
とりわけすっかりハマってしまった「ボヘミアンラプソディ」のライバルとなる作品ともなれば興味を誘われるというものだ。
チェク対象の映画といわけだった。
そういうこともあって身構えて鑑賞したのだが、私自身の感想はといえば悪い作品ではないかもしれないが前評判ほど楽しめるものではなかった。
私の好みの映画ではなかったのだ。

罵声。
スラング。
セックス。
レズビアン。
ビョーキ。
不倫。
その他諸々。

全編で展開される映像とは真逆のうす汚いギャグの数々がどうも興ざめを誘ってしまう。
本作はコメディに分類されるらしいがシモネタ満載のために、心の中では完全に「ボツ」。

再び見たいとは決して思わない作品なのであった。

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選挙というのはとかく人気投票になりやすい。
小学校の学級委員よろしく国会議員の選挙でも市議会議員の選挙でも同じ。

正直のところ、選挙の大半は内容や人物は関係なく、写真写りが良かったり、タレント上がりであったり、誰それの息子や孫であったりすることが候補者選択の基準になる。
つまり人気があることが当選の最大要因なのだ。
ひどいのになると「同じ新興宗教の信者である」なんてものも重要な投票の要素になったりする。
中身は全く関係ない。

かように選挙制度というのは果たして合理的なシステムなのかどうか。
大いに疑ってかかる必要のあるものだ、と私は以前から考えていた。
だから議員を選ぶ選挙はAKB総選挙と対して変わらないクオリティではないかと思っているのだ。

こんなレベルの低い戦いだから政党もマスコミも票の獲得のため候補者の印象操作に必死になる。
この場合、真実はどうでもいい。
自分たちの意向似合うように様々なイメージを創作し、有権者に植え付けられれば目標は達成。
その中身たるやデタラメなのはもちろん、捏造、偏向、差別、言論制限、なんでもありだ。
これには政党やマスコミからの上から目線「市井はそこまで考えちゃいない」というのが根底にあるのだろう。

議員選びがアイドル選びの下を行きそうな低レベルなので「住民投票」などにまともなものがあるわけがない。

先日の沖縄の米軍基地移設に関する県民投票。
ありゃなんじゃい、と思っている国民は少ないくないであろう。

反対するための投票じゃないか。
と思っている人が大半だろう。

米軍基地の移設は投票、もとい人気投票で決めるものではない。
そもそも大いに議論を尽くしてその方向性を決めるべきものであって、検討しなければならない項目はアイドル選びや議員選びの比ではない。
だから単なる反対、賛成の二者択一アンケートを取るような方法は意味を成さない。
そればかりか、印象操作の道具にされるだけで百害あって一利なし。
こんなものに何億も費用をかけるその考え方に能力を疑うのものがある。

米軍基地。
そりゃないほうが良いに決まっているが無ければ困る理由があることも事実である。
移設に反対か賛成かだけ問うのであれば、その理由も問う必要がある。
やり方は難しくはない。
投票用紙にアンケートの解答欄を加えるだけだ。

沖縄の地理的条件はどうなのか。
米軍がいなくなったときのためには憲法も変更する必要があるかも知れないという議論も必要だろう。
話し合いでなんでも解決できると言っている人には、まずウィグル人やチベット人の立場になってもらって話し合いで解決できるかどうか体験してもらうのも一案だ。
ただ単に綺麗な海を汚したくないからというものからとか那覇から普天間基地に通勤してるけど北谷町でも遠いのに名護よりも北に移設されたら通うのが大変だ、というような意見もあるであろう。

まったくもって理由は千差万別なのに、反対、賛成だけで評価できるわけがないのだ。




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