1975年といえば、いくつかの印象的な出来事や思い出が蘇る。
夏休み中だったか、夏休みが終わった頃だったか忘れてしまったが、ある日の夜、突然19歳年上の従兄が訪ねてきた。
私には父方母方双方を合わせて従兄が21人いるのだが、その従兄は最年長で私とは親子ほど年が離れているのだが、「お兄ちゃん」と呼んでいた。
ちなみに嫁さんのお父さん、つまり私の舅はこの兄ちゃんよりも一つ年下である。
この日、お兄ちゃんは私へのお土産にカシオの電卓を持て来てくれた。
6桁の加減乗除しかできない電卓だったが、当時、電卓は最新機種。
結構高価な代物だったが、なぜ私にこんなものをくれたのか今となれば忘却の彼方だ。
とはいえ、この電卓は携帯型で、サイズはなんと今日の「テレビのリモコンぐらいのコンパクト」なものなのであった。
私は初めて目にする緑色に輝く数字が表示される携帯タイプの電卓に胸がドキドキしたが、
「こんなもん、こいつに与えたら筆算も暗算もできんようなもんになったら、どうするんなら」
と父はお兄ちゃんに皮肉を言った。
もっとも、私は日頃、父のタイガー計算機を玩具にしては叱られていたので電卓は願ってもない「おもちゃ」なのであった。
1975年は我が家に初めて電卓がやってきた年なのであった。
この時、そのお兄ちゃんは晩ご飯を食べながら、
「おじさん、すごい映画を見たんじゃ」
と話しだした。
なお、お兄ちゃんは岡山生まれの広島育ち、ちょこっとだけ大阪育ちでその後、愛媛大学を出ている関係で中国地方の方言で話す。
私の父は岡山生まれで大学から大阪なのだが、未だに岡山弁で話す。
この時は大阪の自宅での会話なのであった。
「で、何を見たんじゃ」
「映画の『ジョーズ』見たんじゃ。おじさん、僕はたまに釣りをしおるんじゃが、もう船にのるんが怖おうなってしもうた」
と感想を話したのであった。
1975年はスティーブン・スピルバーグの名前が一躍有名になった「ジョーズ」が公開された年なのであった。
このように以後、社会に大きな影響を与えたものが身近に現れ始めた年でもあった。
スピルバーグは以後、未知との遭遇、レイダース、E.Tと矢継ぎ早に大ヒット作を生み出し映画の様相を劇的に変え、電卓はやがて訪れるパソコン文化の先駆けとなった。
しかし、1975年の最も大きな出来事は4月30日に起こった。
南ベトナムが消滅してベトナム戦争が終結したのであった。
当時は子供であったために、その歴史的重要性をちっとも理解していなくて「それがどうしたの?」という他人事であったが、長じてから、ベトナム戦争が第二次世界大戦の継続されたカタチであったことに気づいて愕然とすることになった。
沖縄の暖かい空のもと、様々な想像が去来する。
1945年の沖縄占領から日本そのものの敗戦。
その直後に始まったベトナムの独立闘争と分割、そして統一と、その激動の最前線に位置したのも、ここ沖縄なのであった。
フォークソングのかぐや姫の歌の中に「彼は戦場へ行った」なんて歌詞のあるものがあったと記憶するのだが、そういう歌も、ここ沖縄のような場所があったからこそ生まれた訳だ。
この1970年代。
日本各地にある米軍基地から多くの若い米国人が出征していった。
時に彼らは同世代の日本人と接し、友人、家族となった。
彼ら、命を賭してインドシナへ向かう若き米兵たちを見つめる日本の若者の心情は複雑であったことは、子供であった私には当時、想像しようもないものであった。
このように、イルカのムクちゃんをボンヤリ見つめ続けていると切りがない。
どんどんと過去を振り返ってしまうし、考え込んでしまいそうなので、これは良くない。
そろそろ植物園に立ち寄ってから海洋博記念公園を出発しようと園内を走る電気自動車バスのバス停に向かったのであった。
つづく
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