<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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英国がEU離脱を選択した。

そもそもこういう重要議題を決めるために国民投票をするというのはいかがなものかと思っている。
世のミーちゃんはーちゃんが投票するわけだが、その中で「EU離脱」ということを真剣に考え、真剣に討議し、真剣に結論を出した英国民がどれほどいるのかどうか。
すっごく疑問である。

そもそも政治というものは民主主義であっても全員が専門的に参加するのは難しい。
みんな生活するために「自分の仕事」を持っているわけだし、朝から晩まで政治活動の為に肉体や思考を提供するわけのもいかない。
法律や経済に関する専門知識を持っているのかというものも疑わしい。
専門じゃないんだし、よしんば中学高校時代に真剣に社会科の勉強をしていたとしても社会人や大学生になってから新聞や週刊誌もろくに読まないという人も多い。
中には胡散臭い宗教団体に毒されて思考回路が停止したまま投票所に駆けつけているビョーキな人もいる。
日本の場合、このビョーキな人々の影響は深刻で、すでに政権与党の一部に寄生し政治の中枢を蝕んでいるのだ。

だから民主主義社会では選挙によって重要議題を決めるのではなく、選挙によって重要議題を審議して不採用を決めていく専門の人、つまり議員を選び出し政を委託するわけだ。
議員は一応専門家ということになっており、政治家以外の仕事で生計を立てる必要もないので真剣に社会の諸問題について検討し論議できる。
よって政治は機能的に効力を発揮するというわけだ。

英国のEU離脱の賛否を問う国民投票を見ていて思い出したのが昨年の大阪都構想府民投票。
これも僅差の勝負だったが、結論としてたった1万票で都構想は否決。
都構想の主導者だった橋下市長はキャメロン首相よろしく退任した。
大阪都構想とUE離脱投票が似ているのは何も投票結果だけではない。

大阪都構想は若年層では賛成が圧倒的多数を占めたのに対して、団塊の世代を中心とするシニア世代は反対に回った。
市バスの老人向け無料パスが廃止されただけで、これだけ怒りを買うとは橋下前市長も予想しなかったのかもしれない。
EU離脱投票も同様で若年層は離脱反対。
しかしシニア層は離脱賛成で、結果離脱になったわけだ。
未来を考え実際に生きていかなければならない若者の意見が否定され、もうそろそろお迎えがくるのでお迎えの顔を見るまでは利権の旨味を食って食って食い尽くしてやろうという老人の意見が通ってしまったというのも似たような構図だ。

都構想は経済的論点が中心だったが、EU離脱の是非のその論点に相当するのが「移民問題」と「貧富の格差」だったことは間違いない。
移民という名の人たちが異文化を持ち込む。
貧乏で自堕落なEU加盟国が稼ぎがよくて勤勉なEU加盟国からお金をいただく。
離脱組の言い分も良く分かる。
一方、これからヨーローッパは経済政治ともに一体になって未来をめざす。国境も取り払う。小さな国がバラバラはよくない。
だからEU残留という意見もよく分かる。

移民はIRA問題が解決した現在の英国にとって、新たな民族対立問題の火種になるもので決して歓迎すべきものではない。
この移民を受け入れたくないという考えは恐らく英国だけではなくフランスやドイツなどでも同じであるはずで、この移民問題を「ダメ」と結論を出さなかれば英国の離脱だけではなく、欧州そのものが崩壊する危機もはらんでいるのではないだろうかと思うのだ。
さらに言えば「移民」と報道されている人々の大半はホントは「難民」ではないのか。
私なぞ部外者のものから見てもそう映る。
移民は新しい大地を開拓し、そこの理想郷を創りだそうとする人々、つまりフロンティアのことなんじゃないのか。
すでにある文明へやって来る場合は、その文明に溶け込みその国を発展させるために尽くす人々のことを移民というのだはないだろうか。
今欧州を悩ませているのは「移民」ではなくて「難民」なのではないか。
自分の国が貧乏だから、自分の国が紛争地域だから、自分の国より他人が努力して気づいた国のほうが良さそうだから。
というような意見でイギリス、フランス、ドイツになだれこんでいるのではないか。

経済と安寧だけを目的として他の国に移ってくる人々には日本人も大きな経験値として辟易としている。

イギリスのEU離脱。
なんでも最低2年はかかるそうだが、なんでもかんでも皆同じのEUルールが今回の事態を招いたのではないか。
理想は遠く、現実は厳しい。

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久々に文庫を一気読みした。
その一冊とはノンフィクション「しんがり」(講談社刊)。
山一證券が破綻して、その原因を追求するために結成された最後の社員12人の物語だ。

山一證券の破綻といえば、どうしても破綻廃業を発表する記者会見で社長の野澤氏が号泣したのを思い出す。
「社員は悪くありませんから」
当時、社会はバブルが弾けた最悪のころ。
銀行は潰れるは証券会社が潰れるはで、従来の常識が通じない事態が次々に発生。
中小メーカーに勤める私としては会社が潰れないだけでも神様仏様に感謝しなければならないと思っていた時代だ。

そんな「潰れるはずはない」と思っていた会社が次々と潰れたのは、何も理由が無いわけではないだろう。
きっと大きな理由があるに違いない。
多分、きっとあれかな、と思っていたのだが、なかなか確認することができなかった。
今回この「しんがり」を読んで組織の脆弱さと恐ろしさをまざまざと知ることができた。
また恐ろしさだけではなく、人の素晴らしさも多く見ることができた。
それがこの本を一気に読んでしまった原因かもしれない。

山一證券の破綻の原因は取りも直さず「意見が言えない環境」の一言に尽きるのではないだろうか。
会社の絶対的権力を握る人間に意見を言えない環境は組織を破滅に導き災害をもたらす。
巨額の帳簿外の債務を抱え、それを知りながら歴代の経営者は監督官庁にも押し黙り、その監督官庁でさえ薄々知っていたにも関わらずパンドラの箱としてタッチしてこなかった。
そういう自社の環境と外部の環境が山一證券を破綻に導いたのだ。
最後の社長だった野澤氏が何も知らされずに自分が社長に任命され、会社の幕引きをさせられることになるとは、ある意味サラリーマン人生として気の毒の極みとも受け取れなくはない。

「しんがり」の凄いところはこういう潰れてしまった企業の潰れた原因を、その社員自らが暴き出し、世間へ公表したことだろう。
普通であれば自分たちの会社の恥部なので触れられたくもなく、自分の経歴に傷を付けたくもないだろうから、適当に発表し、適当にさっていくところに違いない。
ところが山一證券は破滅に導いた経営陣と対象的に最後まで自分たちの会社を愛し、信じていた人たちがいたことがこのノンフィクションの最も感銘を与えてくれるところだと私は感じたのだった。
多くの山一マンたちは外資系の同業者に受け入れられたのかもしれないが、多くは時とともに辞めているという。
山一證券は実に日本的な会社なのだったのかもしれないと思った。

東芝しかり、シャープしかり、三菱自動車、スズキ自動車しかり。
社員が経営に向かって意見を言えない会社がどうなっていったのか。
20年経った今も山一證券破綻はワンマン大企業にはまったくもってなんの教訓にもなっていない。
「しんがり」は必読の一冊だったのかもしれないと思った。

うちの会社の二代目経営者は読んでいるのだろうか。

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イチローが日米通算4256安打を達成。
野球の歴史にまたひとつイチローが伝説を刻んだのであった。

しかし世の中というものはよくできたもの。
天は二物を与えずとはよく言ったもので、快挙を成し遂げたイチローを賞賛したいところだが、あの「可愛げのなさ」というのは一体どういうのものなのか。
他の人の意見も聞きたいところだ。

「なんやねん、あれ」

と毎度毎度イチローのインタビューや記者会見を見るたびに不快感を感じることが少なくない。
確かに「あんたは凄い。でも」と否定形がついてまわる偉業の裏の悲しさがあったりする。
カミさんもイチローには不快感を示して、

「野球だけやってて喋れへんかったらええねん」

とハッキリ言う。

プロ野球選手は成績が第一かも知れないが、「可愛げ」というのも大切だと思う。
可愛げがなければ応援していてもつまらないのだ。
イチローと同時にメジャーリーグに移籍して今は隠居生活を楽しむ元阪神タイガースの新庄なんかはイチローとは好対照な男なのであった。
アホなこともたくさんやったが、成績もきちんと残した選手だった。
だからこそイチローのように凄くなかったが、人気は上だったのだと思う。
世の中渡るのはどちらがいいのか考えさせられるのだ。

ということで自信たっぷりの男の挑戦は続く。


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東京都の舛添知事が法のグレーゾーンを利用して公私混同している事件は、
「随分ひどいことをしているもんだ」
と市井の疑問を広げいる。
しっかりやりそうだからと信頼して一票を投じた東京都民にしてみれば許せないことに違いない。
知事の発言を聞いていて、どうしてこうも一般の感覚とずれているのかなと疑問に思っていた。
そうこうしているうちにとあるニュースサイトを見ていたら、
「舛添知事は日本人と韓国人のハーフで、日本人の父親が幼い時に他界したため韓国人の母親に育てられた。大学時代の留学も韓国の奨学金制度を利用。」
というようなことが書かれていた。
なるほど、と思わず膝を打ったのであった。

で、話題は替わって。

SNS大手のLINEが東証に上場したのは今週の大きな経済ニュースだった。
久々の大型案件ということで株価市場も大いに賑わい、ちょっとだけだが活気が出た。
そのLINE。
上場したトタンに79億円もの純損益があって、売上は大きいけど実は儲かっていない会社であることが発表された。
一時的かも知れないが、発表するタイミングが姑息である。
しかも親会社は韓国企業で経営トップは韓国人。
その年収はなんと52億円、日本人の社長が1億3000万円。
社員の平均年収は800万円弱で継続勤続年数はたったの3年。

法的に問題はないけれども、経常赤字と役員報酬のバランス感覚がグレーなのは都知事問題と共通している。

ということで投資家の皆さん。
LINEに投資は大丈夫?日本企業に見えるけど、実は韓国企業ですよ。

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地下アイドルに関連するニュースを耳にするにつけ、過去のアイドルとの違いに思いを馳せることがある。

その昔、アイドルはやはり時代のランドマークで一種近寄りがたい神聖なものであったように記憶している。
小学生の頃、いとこのお姉ちゃんが、
「野口五郎に握手してもらった」
と感激して暫く手を洗わないという事件が発生した。
「汚いやん」
とガキだった私は思ったのだが口に出しては言わなかった。
殴られるかも知れないと思ったのだ。
それだけ昭和40年代の終わりごろのアイドルはファンから見れば近寄りがたく神聖なものだったのだろう。

私が初めて生のアイドルを見たのは大阪厚生年金会館で開催された「山口百恵リサイタル」で見た百恵ちゃん。
なぜ山口百恵のリサイタルに行くことになったのかは記憶に無いのだが、多分私が母に「見に行きたい」と言ったのだろう。
当時はチケットを窓口で買い求めたと思うのだが、人気が爆発する前のデビュー1年にも満たない百恵ちゃんのリサイタルだったから窓口購入が可能だったのかもしれない。
これで母同伴の小学生の私は初めてのアイドルで初めてのコンサートと呼ぶものに出向いたのだった。
座席は2階席の一番奥。
百恵ちゃんは遠くのステージで歌っていて鉄道模型の人形ぐらいの大きさでしかなかった。
もちろん顔はよく見えなかった。
時々ニコッと微笑むのが感じられて子供心に「素敵な人や」と感じたと思う。
詳細は忘れてしまったのだが。
このリサイタルでしっかりと記憶に残っているのは、
「音が大きいのでびっくりした」
「百恵ちゃん登場の前に別の新人の紹介があった」
「司会者がいた」
「小さな百恵ちゃんがいた」
の4つだけ。
百恵ちゃんが何を歌ったのか今になるとまったく覚えていないのが辛いところだ。

それから程なく私は大阪フェスティバルホールで「フォーリーブス・リサイタル」を見ることになった。
当時私は女性アイドルは山口百恵、男性アイドルはフォーリーブスがお気に入りだった。
そんななか、なんかのきっかけでフォーリーブスのライブに連れて行ってもらったのであった。
座席は山口百恵リサイタルとは打って変わって1階最前列右端の方。
すでに人気絶頂だったフォーリーブスのライブであんな席をどうして入手出来たのかは謎のままだ。
で、これも覚えているのは、
「観客の女の子たちの叫び声が鼓膜を破りそうなぐらい大きかった。」
「握手できるくらい目の前までこーちゃんこと北公次がやって来た時に周囲の席のお姉ちゃんたちに踏み潰されそうになった」
の2つだけ。
彼らが何を歌ったのかは記憶に無い。
アイドルというものの人気の凄まじさを体験した唯一の事例となったのであった。
ちなみに私はその後のジャニーズのタレントの中でSMAPがフォーリーブスに一番似ていると思っている。

最近は先日の東京小金井の事件のようにアイドルが身近になってきて気軽に握手会なんかが開催されているようだが、昔は握手することが難しかったようにこれも記憶している。

私が初めて握手した有名人は伊吹吾郎であった。
中学に入ったばかりの頃、行きたくもないのに母に京都で開催される呉服市に連れて行かれた。
そこにゲストとして来ていたのが伊吹吾郎なのであった。
「伊吹吾郎に握手してもらえるんやて」
と母に言われたが、その時は伊吹吾郎が何者であるのかまったく知らなかった私は握手をしたものの感動はまったくなかった。
知らない有名人との握手は初めて会った外国人との握手よりも感動が少ない。

次に握手したのは高校生の時、なんばCityの旭屋書店でたまたま開催された浜田朱里との握手会であった。
今や浜田朱里と言っても知らない人が殆どかもしれない。
浜田朱里は1970年代終わりごろのアイドルの一人だった。
確か当時彼女は「ヤングプラザ」という大阪のローカル番組にキダタローだったか紳助竜介だったかと一緒に司会を務めていて関西では知られた存在なのであった。
とりわけファンでもなかったのだがカッパ・ブックスの写真集を買うとサインをしてもらって握手ができるということで、すでに高校生だった私は話のネタと思い小遣いで写真集を買い求めサインと握手をしてもらったのであった。

ここまで書いて思い出したのだが、ホントに初めて握手をしてもらった有名人はその名前すら忘れてしまった南海フォークスの選手なのであった。
それは私が小学4年生頃のこと。
大阪の狭山遊園地にあったプールで遊んでいた時のこと。
イベントで南海フォークスの若手選手3人のインタビュー会があった。
この時、私はどういうわけか選手の一人からサインボールを受け取り握手をしてもらったのだが、それが誰だったのかもはや思い出すすべもない。
サインボールも手元にない。

その後、社会人になってからも有名人と握手をする機会があったが、やはりそれは特別なものだったように思う。
そういう機会が特別だったからこそアイドルやタレントには価値が有るように思う。

簡単に目の前で会ったり、握手できる相手。
現在のアイドル。
もしかするとそれはアイドルとは言わないのではないだろうか、と思うことがある。
憧れで手の届かない世界。
夢を売るのが彼らの商売だ。
そんな夢をリアルにして頻繁に出会わす「身近なアイドル」の存在は小銭稼ぎになるかもしれないが何か大きなものが欠けているように思えて仕方がない。




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「東京都知事に橋下徹を!」

と言ったのは大阪人の私ではない。
親子三代江戸っ子のGさん。
私の得意先の担当者で週に1度程度、東京で一緒に仕事をさせていただいている方だ。
その江戸っ子のGさん曰く、

「もう舛添知事にもオリンピック委員会にもアタマに来てるんですよ。大阪から橋下徹前知事を貸してもらえませんかね、東京都知事に。」

冗談交じり。
でも目は結構本気だった。

舛添知事の法の網をくぐり抜けてグレーなことを実行し、詫びれもしないその姿は首都の知事にふさわしくないのは当然だ。
ついでに美容院費用を市に負担させている林文子横浜市長はそのミニ版といったところか。
この首都圏の予算潤沢な自治体以外、大阪府を含む各自治体は予算をいかに節約し、効率的に行政運営をするのか。
その方法に頭を悩ませている。
すでに多くの自治体は昔のようなお役所日の丸ではない。
一部にまだまだ共産党と組合を信仰しているおかしな人も居るにはいるが、のほほ~んとやっていてそのまま定年退職するという安直な世界ではないのだ。
若い人ほど将来の不安が大きいだけに真剣である。
知事だろうが市長だろうが贅沢は許されず、むしろ内には質素倹約が最も重要な行政の活動の1つになる。

だから東京都は異常なのだ。
予算がふんだんにあるために知事が何にどのくらい使おうが職員でさえ感覚が麻痺しており気にしないのかも知れない。

そこへ行くと大阪府知事と大阪市長を務めた橋下徹はこういう点を見逃さないだろう。
なんといっても大阪府はカネがない。
カネがないのに色々と官の事業を起こしては失敗して不良債権の固まりになりつつあった。
府民も市民もその点は「おかしい」と思っていた。
中央官庁上がりで旦那がコンサルビジネスで府から金を巻き上げるようなO女史のような輩はなんとかしなければなならないとも思っていた。
そこへ大阪人のノック知事の反省もないおもしろがり主義が幸いしてリアル冗談な投票で橋下知事が誕生。
しかしノックさんと違い橋下徹の有言実行はこの8年ほどでガラッと雰囲気を変えた大阪の姿そのものに結果として残っているのだ。

知らない人も少なくないが、大阪の秘密兵器・橋下徹は東京都生まれ。
大学も東京の早稲田大学。
少なからず東京には縁のある人だ。
育ちや社会人としての活動場所が大阪だったので東京生まれであることをついつい忘れてしまう。
そういう意味では橋下前大阪市長は東京の行政運営もできる「縁」があることは間違いない。

江戸っ子Gさんの「東京都知事に橋下徹を!」というひとこともあながち冗談ではないのも分からない。

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季節はまもなく夏。
そろそろ高校野球の地方予選が始まる。

最近は仕事が忙しくて高校野球をじっくりと観たり聴いたりする時間が取れない。
新聞やニュース、インターネットで結果を知るだけという楽しみになってしまっているのだが、記事から熱戦の様子が伝わってくる試合は少なくない。
中でも夏の甲子園大会は春の選抜と違って全国から勝ち上がってきた実力のチームの闘いということもあり、観ているこちら側も力が入る。
負けたらおしまい。
十代の若者がガチンコで勝負するその姿は逞しくも悲しく、そして美しい。
我々日本人はその姿に感動する。
高校野球があるからこそ、野球はアメリカから伝わった外来スポーツという存在ではなく、国技として定着しているに違いないのだ。
とはいえ、試合後の勝利インタビューを見ていたら、
「なんで東北地方なのに関西弁?」
というようなことも少なくなく、越境入学やスカウト活動が盛んな高校が全国大会出場校を占めたりすると、若干のガッカリがあるのも今の高校野球かも知れない。

高校野球夏の大会は1915年に始り100年の歴史を持つ。
だからといって100回大会が開催されているかというとそうではない。
第二次世界大戦中は公式には甲子園大会は存在していなかった。
戦争遂行のために国家と社会が大会だけではなく、野球をプレイすることそのものを公に認めなかったからだ。
そんな社会環境の中で、実は公式に記録されていない大会が存在した。
その事実はあまり広く知られることはない。
とりわけ戦後世代には。

「幻の甲子園」坂上隆著(文春文庫)は昭和十七年に開催された文部省主催の甲子園大会を取り上げたノンフィクションだ。
この大会は朝日新聞の主催ではなかったため全国高等学校野球選手権大会にはカウントされていない。
開催時に毎夏の大会と同じように注目を集めたものの、公式記録には残されていない大会なのだ。
その記録に残っていない戦時中開催された唯一の大会がどのように開催され、どのような試合が展開され、選手たちのその後がどうなっていってのか。
本書で語られる熱戦の様子と、戦争に巻き込まれていく生徒や先生、家族のその後が心を惹きつける。

すでにこの時、野球部が残っている学校が少ないこともあり、主催が文部省という国になっていたこともあって出場校は当時日本だった台湾を含む全国から8校。
公式記録から外された大会だが、残されたエピソードは試合はもちろん、それを取り巻くものも印象に強く残されるものが多い。

台湾から参加した台北工業は甲子園に出場するに際して「途中撃沈されることがあることを承知した上で本土へ渡航する」旨の許諾書を書かなければならなかった。
突然の年齢制限を設けられたため、たった数日の差で出場を断念。甲子園への夢を諦めなければならなかった学生。
徳島商業は四国勢としての初めての甲子園での優勝だったにも関わらず公式記録として残されず、四国の優勝は約40年後の1982年の蔦監督率いる池田高校の優勝を待たなければならなかった。
多くの生徒がその後学徒動員や予科練などで学生生活だけではなく、人生そのものを奪われてしまったこと。

通常の大会とは違う贖うことがない時代の流れに翻弄されてしまう厳しさ、険しさがそこここに溢れている。
それはプレイする側にも見る側にも当てはまることで、読んでいるうちに今の時代の平穏さとのギャップに思いを深くするのだった。

かといって重々しいことばかりではなく、この大会で活躍した選手たちやそれを支えた学生、OBたちの多くが戦後のプロ野球を隆盛へと導くことになるのも、また見過ごしにできない部分なのだ。

暑い夏。
蝉の声。
厳しかった時代に想いを馳せながら甲子園の歓声を感じる、そんな一冊なのであった。

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