仕事で時々研究施設のクリンルームに入ることがある。
白い防護服を着てフードをかぶり保護メガネを着用してゴム手袋、静電防止の作業靴。
面倒くさいことありゃしないが、そういう装備をしないと入れないので仕方なく着用している。
今のところ化学系のクリンルームに入っていることが多い。
これがバイオ系になるとどちらかというと入りたくないというのが私の要望だ。
なぜなら、化学はまだ何が保管されて、何が合成され、どういうものが出てくるのか想像できるのだが、バイオの方は、何がどこに居て、それがどこへ移動するかも知れないし見えないし、感染するかも知れないというところに言い知れぬ不安感があるのだ。
化学物質はちゃんと管理したら他の場所へ勝手に移動することはないが、生命体はそうはいかないという感覚がある。
尤も、多くの場合はその研究室で何がされているのかはほとんど知ることがない。
なんと言っても知財の塊。
我々外部の者に委細詳細伝えられることはめったに無い、というか絶対にない。
だから応用化学のクリンルームだと思ってはいっているところが実はバイオ関連であったりする可能性もあるわけで、なんともしっくりこないのである。
リチャード・プレストン著「ホット・ゾーン エボラウィルス制圧に命を懸けた人々」(ハヤカワ文庫)は1989年に実際にアメリカの動物実験用猿舎で発生したエボラ出血熱の制圧を描いたノンフィクションだ。
エボラ出血熱は現在知りうる病原体の中でも最も致死率の高いウィルスだ。
緊張を強いるその致死率は平均で50%。
種類にもよるようだが感染すると致死率は最高で9割に達することがあるという。
治療できる薬は今のところ存在しない。
この恐怖のウィルスがワシントンDC郊外に出現した。
東南アジアから輸入された猿から現れたのは最も殺傷力の強いタイプのエボラウィルス。
遺伝子構造の近い猿から人に広がる可能性は小さくない。
報道規制をどう敷くのか。
対処は軍の役目か、それともCDCなのか。
感染した者はいないか、また感染者から伝染した可能性のある者が街へ出て広げた可能性はないか。
などなど。
全編緊張の連続だった。
とりわけ前半の3分の1はエボラが初めて確認され、感染者が亡くなるまでの凄まじい過程や、そのウィルスを最高レベルのバイオハザード対策がなされたクリンルームへ持ち込み観察分析するための処理をする過程がスリリングを通り越して恐怖でもある。
新型コロナウィルスでも同様にこれら殺人ウィルスへの対策は多くの研究者の命を懸けた闘いの中で繰り広げられている。
「ホット・ゾーン」はその一例を綿密に取材してノンフィクションとして構成しているドラマだ。
私たちはそのドラマを通じ実際の現場やその扱いの難しさを知ることなる。
新型コロナウィルス禍が始まってから話題になっているカミュ著「ペスト」を遥かに越える読み応えがある。
それにしても正体不明の病原体がいかに多いか。
この本のあとがきにも記されていたがここ半世紀の間に出現した病原ウィルスの数は少なくない。
HIV、エボラ、SRAS、MARS、C型肝炎、狂牛病、武漢ウィルス、などなど。
人類がジャングルを切り開き自然を破壊する。
その過程でこれまでは表に現れることがなかったウィルスが宿主から解き放たれて異生物である人間に取り憑き大きなパンデミックを引き起こす。
実に恐ろしいことではないだろうか。
本書に登場するエボラ出血熱もアフリカから伝わったのではないところが注目点だ。
マレーシアから輸入された動物実験用猿がエボラを持ち込んだその事実は、アフリカだけではなく、世界中至るところから未知のウィルスが出現することを意味している。
そのことが不気味であり、いつ今回の新型コロナ禍を越えるパンデミックが発生するかわからない不安感を増幅させるのだ。