<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



二枚目俳優の声優というと野沢那智、広川太一郎、城達也といったところか。

いずれの声優さんも亡くなってしまったが、未だにアランドロンやロバート・レッドフォード、ロバート・ワグナーの顔を見かけるとあの人たちの顔がよみがえってくる。

これとは反対に二枚目三枚目の声優さんというのがいて、たとえば内海堅二、熊倉一雄、古川登志夫というのがその代表声優さんだったというように思う。

滝口順平もそういう声優さんの一人で、決して二枚目俳優の声を当てることはなく、いつもちょっと間抜けで愛らしいキャラクターを演じるのがこの人の独特なまるっこい声の特長だった。
悟空の大冒険の八戒。
ヤッターマンのドクロベー。
そしてひょっこりひょうたん島のライオン。
などなど。

その滝口順平が亡くなった。
享年80歳。
昭和6年生まれ。
なんとわたしの父と同い年なのであった。

以前にも書いたけれども自分が子供の頃から耳にしてきた親しみのある声の持ち主が亡くなること。
これほど寂しいものはない。
それも自分の親と同世代の人がなくなると、感慨もひとしおである。

ということで、あの親しみのある丸っこい声のキャラクターやナレーションを聞けないと思うと、また寂しさが増してくるのであった。

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出張の多い私は普段は自分の泊まる宿は自分で予約するようにしている。
会社のルールでは総務課に依頼して宿を確保することも可能なのだが、絶対に依頼しないことにしている。
というのも、ずーと以前に東京での宿泊をお願いしたら、浅草雷門近くの宿を予約してくれたのは良かったが、「窓を開けるとそこはホテルの中の通路だった」という、まるでカラオケボックスのようなホテルを確保されやことがあったからだ。

窓の外が通路というのは落ちつかない。
なんといっても、カーテンの向こう側を人が行き来していると思うと神経質ではない私も寝付けないのだ。

東南アジア大好きな私もいろいろな宿に宿泊したが、浅草のこのホテルのようなわけのわからない間取りになったところは、ここしか経験が無い。
東京というのは、本当にラビリンスだとつくづく思ったものなのであった。

で、先日、山梨に出張することになり宿をどうしようか悩んでいた。
訪問先は山梨でも少々静岡県寄りのところで、甲府からは自動車で45分ほどかかるところなのであった。
ところが山梨のビジネスホテルというと甲府近辺に集中していて、私が落ち着いて宿泊できそうなところも甲府駅前のホテルなのであった。
そういうことで、山梨県内の移動にレンタカーを申し込み、甲府駅近くのホテルを予約して大阪を出発した。

ちなみに山梨は大阪から最も移動時間のかかる地域で、正直言ってタイのバンコクやベトナムのホーチミン市へ行く方が移動時間が少なく楽でもある。

ところが山梨県の訪問先に到着したら、先方の担当者が、
「今夜の宿、お取りしていますよ」
と言うではないか。
「結構です。甲府駅前に予約していますから」
とは言えずに、
「そうですか。ありがとうございます。」
と先方の機嫌を損なわないように甲府駅前のホテルをキャンセルし、訪問先が予約してくれていたホテルに宿泊することになったのであった。

正直、どんなホテルか心配ではあった。

で、その心配は意外な形で否定されたが、それでもかなり「普通ではない」ホテルに宿泊することになった。

ホテルは完成したばかりの奇麗で清潔なホテルなのであった。
フロントスタッフは親切だし、愛想もいい。
料金も一泊五千円以下だったので、出張費の安い私は助かった。
ところが、このホテル。
部屋の作りが一般のビジネスホテルとは異なっていたのであった。

なんとベッドが「2段ベッド」なのであった。

2段ベッドのホテルなんぞ高校1年生の時に友達6人と旅行した淡路島のユースホステル依頼の経験であった。

シングルルームで2段ベッドは予想していなかっただけに、落ち着かない。
寝てみると確かにベッドは広々としているのであったが、天井が低い。
当たり前である。
上の段の下面がベッドの天井なのだから低くて当然だ。

全室インターネット。
安価な宿泊料。
飲み物おつまみ、全品200円均一。
フロント前には100円ショップも。

ぎりぎりまでコストを切り詰めた宿でまさにびっくり。

しかも経営が九州の名門ホテル「亀の井ホテル」の系列だというのだから、何か旅館業界のものすごいものを感じるのであった。

で、宿は予想通り観光客でいっぱい、というよりも東京や静岡、名古屋からやってきた職人さんが宿泊客中心のホテルなのであったが、そらもう、繁盛していたのであった。

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もしかすると今の日本の報道をリードするのは週刊誌かもわからない。
その中でも週刊文春と週刊新潮は全国紙に負けない資本を持っているだけに機動力が凄い。
というのも、つい三日前に発表になった島田紳介の引退に関する昨日発売の今週号の記事が掲載されているからだ。

たぶん、この二誌の動きを察知した吉本興業とその関係者が事態が表沙汰になる前に本人を処分したに違いない。

それにしても「引退処分」まで至らせたものは一体なんなのか。
記事をまだ読んでいないので、空想の空想でしかないのだが、その概要をネット記事で読んでみるとかなり多額の金品のやり取りがあるような、どす黒い関係だったようだ。

島田紳介はタレントであって公の人と呼ぶにはいささか抵抗感はあるのだが、それでも数々のテレビ番組に出演し、知名度が大きく、若い世代には憧れる人もいるぐらいだから、その素行は極めて重要だ。
ヤクザと一緒に写真が写っているぐらいであれば、お笑い芸人であれば笑って済ますこともできるだろうが、師弟関係よろしく金品のやりとりを、それも常識を逸脱したような大きさのものをやっていては、もはや一般的価値観のそれではない。
ヤクザと師弟関係ならずとも濃い交友関係を持っていたなんて、ほんとの師匠・島田洋之介は草葉の影で泣いていることだろう。

「10年前に関係を持った」

という報道で驚くのは、10年前というと、島田紳介は中央出版という会社のTVCMで教育についてメッセージを発信していた頃と重なる。
公にはご立派な教育論を主張して、裏では反社会的組織と手を結んでいた、というのはどう考えても大人のすることとは言えない。

今回の事件をきっかけに芸能界が浄化されるとは思えないが、浄化するのなら、ついでに水道メータの入札で談合している会社を経営し、朝のテレビ説教垂れるような大物タレントも浄化していただきたいと思うのであった。
少なくとも島田紳介は公金に手を付け迷惑をかけることはしていないが、水道メータの入札談合は市民の税金で私服を肥やす重犯罪に違いないのでから。

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フランシス・フォード・コッポラの「ゴットファーザー」に映画プロデューサーのベッドの中に馬の生首が知らない間にぶち込まれている、という有名なシーンがある。
マフィアが後押しする俳優の出演要請を断った腹いせの脅しだったが、その生生しさと、豪邸の中で一人絶叫する映画プロデューサーの恐怖が強く印象に残っている同映画の代表的シーンだ。

このマフィアからの出演要請でも断られた俳優のモデルがフランク・シナトラであったこともまた有名で、米国に於ける芸能人とマフィアのつながりを示す代表例として今もたびたび出てくる話題なのだ。

元漫才師の島田紳介が「個人的な暴力団とのつながり」を理由に芸能界を引退宣言。
急なニュースだったので昨日の夕刊紙やスポーツ紙はその話題でもちきり。

「お世話になった方なので残念です。」
「紳介さんがいなかったら今の自分はありません」

という、紳派なタレントのコメントを伝えていた。

私は島田紳介のファンでもないし、むしろあまりいい印象を持っていない市井の一人だが、今回の暴力団とのつながりで引退しなければならない理由は一体なんなのか。
今後の報道は要チェックだと思っている。

というのも、先述のとおり、やくざと芸能人のつながりはなにも日本だけに限ったものではなく、米国をはじめ海外でも似たり寄ったり、
任侠世界とのつながりが無ければ、ある種、芸人生活できない面も無くはない。

昔であれば美空ひばりは山口組の組長の寵愛を受けていたことでも有名だし、西城秀樹の実姉もやはり山口組関係者の内縁だった。
任侠映画でならした東映映画では多くの俳優がその筋とつながりを持っていたと言われ、ただ北大路欣也のみ父の市川歌衛門からの強いお達しで、そういう人たちとの付き合いが一切なかった、と私の大学時代、映画関係者から話を聞いたことがあった。

「後輩800人に示しがつかない」

とは立派な言い草だが、きれいごとだけで解決できるような話ではない。
芸能人、とりわけお笑い芸人として、洒落た理由を話して去っていただきたいものだ。

話は違うが、「兄貴~、やられた」と腹にドスをさしたまま血を流したままヤクザの宴会場に逃げ込んで来て、余興に来ていた講談師をビビらせる、というような「どっきりカメラ」ももうできないのだな、と思うとつまらない時代になったものだとつくづく感じるのであった。

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ここのところ、公開される洋画の半分ぐらいは「日本語吹き替え版」。
なかには人気タレントが主人公の声を吹き替えをしている作品もあって、そっちの方が売り物になっているケースさえある。

そもそも日本語吹き替えの洋画は、テレビの洋画劇場というのが相場だった。

「日曜洋画劇場」
「月曜ロードショー」
「水曜ロードショー」
「ゴールデン洋画劇場」
などなど。

大画面なんかなかった昔。
ブラウン管の小さな画面で、しかも周囲で子供が玩具で遊んだり、お母ちゃんが食器の片付けをしていたりと、がちゃがちゃしている家庭で見る映画だから字幕は読みにくい。
だから日本語吹き替えが常識だった。

吹き替える声優さんも俳優ごとに決まっていて、例えばジョン・ウェインなら小林昭二。ロバート・レッドフォードなら広川多一郎、ダスティン・ホフマンは野沢那智、クリント・イーストウッドは山田康夫と言った具合。
テレビシリーズになるとさらに声優さんの声は重要で、声を聞くだけで役者の顔が浮かんでくる。

森山周一朗のテリー・サバラス、小池朝雄のピーター・フォーク、田島礼子のリンゼイ・ワグナー、古川登志夫のエリック・エストラーダ、久松保夫のレナード・ニモイなどなど。

ところがこれが劇場映画となると話は変わる。
日本語吹き替え版の洋画など、映画ファンにとってはほとんど見るに耐えないものになってしまうのだ。

もともと映画は劇場で見るものだからテレビとは異なり臨場感が大切だ。
音は立体的に流れてくるし、画面でっかく、周囲は真っ暗なのでスクリーンの世界に没頭できる。
だから映画を作る方もかなりのこだわりがあって、それが「芸術性」を高めているともいえるのだ。
音づくりについても力が入っていてアカデミー賞にも「音響効果賞」というカテゴリーが存在するぐらい重要な要素になっている。

映画「海峡」では、青函トンネルの大工事の臨場感を伝えるために、周囲で水のながれる轟音が轟く中、音響スタッフは工事責任者を演じる高倉健のセリフを収録し、アフレコを一切させなかったという。
それくらい生のセリフは映画にとって大切な要素だ。

それが最近吹き替え流行。
あちらの俳優が日本語で話したら「ヘンだろう」となぜ思わないのか不思議なのだ。

普通の映画で吹き替えがあるくらいだから、子供も見る映画というと吹き替えが主力になる。

ピクサーの映画は毎回欠かさず劇場で見ているのだが、最近困っているのが「吹き替え日本語版」しか上映されないこと。
上映されない、というと大げさだけど、ほとんど吹き替えばかりがかかる映画館なのだ。

「カーズ2」も見に行こうと思っていたのだったが、どこもかしこも日本語吹き替え版。
アニメ映画に臨場感は関係ない、という人もいるかも知れないが、原語で上映されるアニメ映画は重要で、製作者の気持ちを伝える重要な要素だと私は思っている。

最悪例で、たとえば「シュレック」。
この映画は原語の吹き替えはマイク・マイヤーズが演じているのだが、日本語版はダウンタウンの浜田。
なんでシュレックが関西弁で話さなければならないのか。
しかも感情表現がへたくそでセリフは棒読み。
観客を馬鹿にしているとしか思えず、この映画は見たい時はDVDを借りて英語と字幕スーパーで見ることにしている。

で、「カーズ2」の字幕スーパー版の上映館を調べてみたら、大阪では難波のTOHOシネマズでしか上映していないことがわかった。
しかも1日1回きり。
これではなかなか見に行くチャンスがないわいな、と思っていたのだが、その1回を見に行くことが先日できたのであった。

この映画。
見てすぐに感じたのは「やはり字幕スーパー版。世界中で展開されるレースシーンは吹き替えでは臨場感はつかめない」ということだった。
なんといっても前半の舞台の多くは東京。
レインボーブリッジを疾走し、銀座あたりでアクションする。
各所に出てくる日本語は、主題が英語だから臨場感がわかるもの。

ということで、映画は80点。
字幕スーパー版じゃなかったら減点しなければならなかったところだ。



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今年の春の初め頃、買い物に出かけた先のDIYショップで「唐辛子」の苗を見つけた。
1つ200円ほどだったの3つ買い求めてきて家の裏庭に植えて育ててみることにしたのだった。

「どこに植えたん。こんな近くに植えたらえらいことになるで」

園芸、というものを全く知らない私は、3つの苗を20センチ間隔くらいに植えて叱らた。
大きくなったときに収拾がつかなくなるのだという。

「そんなこと知るかい!」

とは思ったものの、確かに20センチ間隔だと大きくなったら隣通しが混み混みで大変なことになってしまうな、と思って植え変えたところ、1つ枯れて死んでしまったのであった。

幸いなことに残りの2つは元気に育ってついに花が咲き実をつけるまでに成長。
先週最初の収穫をしたところだ、といっても片手の手のひらに乗るほどの量しかなかったけれども。

で、どうして庭いじりなどしない私が唐辛子を育てたのかというと、ふと、6年ほど前、ミャンマーのヤンゴンからマンダレーまでを旅行した時のことを思い出したからなのだった。

その時私はヤンゴンからマンダレーまで列車で移動し、その後、船でエヤワディ川(日本ではイワラジ川とも言う)を川下りして遺跡の街バガンを訪れようと思ったのだった。
この列車プラス船の旅が苦難に満ちたことは時々紹介しているのでご存知の方も多かろうと思う。

この時、十時間以上遅れて走っていた列車の車窓というか、開けっ放しの扉からぼんやり眺めていた沿線の風景で最も印象に残ったのが延々と続く「唐辛子の畑」なのであった。



実のところ、ミャンマーへ行くまで私は唐辛子が育てられているのを実際に見たことがなかった。
子供の頃によく岡山の祖父母の家へ遊びに行ったので、都会育ちの私も田植え、稲刈りの経験はあったのだが、唐辛子の育っているところを見たことがなかった。

「あれ、唐辛子の木ですよ」

とボンヤリと景色を眺めている私に教えてくれたのはガイドのTさんなのでった。
クリスマスツリーと似たり寄ったりの大きさの緑の木。
あれが唐辛子なのかと、初めて見た唐辛子に異国を感じた。

ミャンマーはあちらこちらへ訪問したのだが、どこへいっても唐辛子を育てているところは多く、田舎の道に筵を広げて唐辛子を天日干ししている様子を頻繁に見かけた。

赤。
黄。
橙。
緑。
などなど。

唐辛子はカラフルで美しい植物なのであった。

裏庭に無事唐辛子が実り、たくさんの実をつけた様子を見ると、来年はもっとたくさんの唐辛子を育てて、ミャンマーのあの車窓の景色や、田舎道の景色のように、色とりどりの「夏」を演出できれば楽しいのではないか、と思うのであった。

なお、我が家の唐辛子の味は、まだ試していない。

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猛暑の中、東京都現代美術館で開催中の「フレデリック・バック展」を訪れた。

この美術館に行くのは初めてだったので予めホームページで行き方を調べてから出かけた。
ええ年をこいて迷子になっては恥ずかしいと思ったからだ。

ホームページに記載されていたとおり、地下鉄都営大江戸線の清澄白河駅を下車し、A3番出口を出た。
ちょっと歩くだけで、このあたりは東京には珍しく京都や大阪のように碁盤目状の街並みになっており、迷子になることなくすぐにその経路がわかった。

また、ここは下町でも最もディープなところらしく、美術館に至るまでの街並みは結構楽しめるものであった。
資料館通り、という名前のとおり、近くには江戸時代からの深川を中心にした江戸の民俗を知ることのできる深川江戸資料館がある。
並ぶ商店もなんとなくレトロっぽくて雰囲気がいい。

まず、佃煮屋さんが目に留まった。
佃煮屋さんも何軒かあるけれども、どれもお土産屋さんと一般店を兼ねたようなコンセプトに見受けられた。
一軒の店は「日本で一番まずい店」とあったが、その「まずい」という文字が逆さまになっていて、

「ん~、これは『美味い』の洒落か」

と、地域のセンスにちょっとばかり田舎っぽさを感じたりしたのであった。

また幾つかの食堂では「深川めし」が名物のようで、競うように「深川めし」「深川めし」と看板や幟が上がっていて、

「ま、これが現代の東京下町か。活気のあるぶん、大阪よりマシかもわからへんな」

と思ったりしてテクテクと歩いた。
ちなみに「深川めし」は数少ない私の東京での好物である。

最も感動したのは昔ながらのクリーニング屋さんを見つけたことだ。
入り口に受付があり、その奥にアイロン台があり、その奥にあずかっている衣類がハンガーに掛けられて並んでいた。
その店の風景から遠い子供の頃、洗濯物を母から預り近所の洗濯屋さんに持って行ったときのことを思い出した。
あの洗濯屋さん独特の薬液の匂いを思い出していたのだった。

ということで、あれやこれや懐かしいものや、大好きな「深川めし」などの看板を横目に歩いていたが、問題はめちゃくちゃ暑いことなのであった。

美術館のホームページには清澄白河駅から歩いて13分と書いてあったのだが、この夏の炎天下、「おひいさんが、か~~~!」((C)桂枝雀)の東京の街を歩くというのは並大抵ではなく、美術館の建物が目に入ったときは一刻も早くたどり着き、冷房のよく効いた館内に逃げこまなければ死んでしまうかも知れないと思ったのであった。

で、「冷房のよく効いた館内」を期待して中に入ったのであったが、よくよく考えてみると現在の東京は節電モード全開であったので、館内はさほど涼しくなかったのであった。
でも、外気温35度の状態から室内温度28度ぐらいにはいると、そこはやはり別天地。
汗が引くまで暫く佇んでいたのであった。



ところで、なぜ私が「フレデリック・バック展」を訪れたかというと、かくいう私も元々は映像作家を目指していた学生時代が存在し、映像に関連するものについては、一般企業のマーケティングマンとなった今も興味が溢れているからなのだ。
この展覧会のポスターを地下鉄の車内で見かけた時は、是非とも行かねばならないと思ったのであった。

美術館が辺鄙なところにあるためか展覧会のグレードの割には館内は空いていた。
というか、きっと暑いのでなかなかここまで来ないのであろう。

フレデリック・バックはカナダで活躍するフランス人アニメーター、というかイラストレーター。
中でもアカデミー賞を受賞した「木を植えた男」は有名だ。
有名だ、といっても実際に鑑賞したのは私にとって今回が初めてで、初めてだけにその手作り感覚でかつ、研ぎ澄まされた感覚の映像にが目が釘付けになったのであった。

全編にわたって作品はどうやら日本の影響を受けているのではないか、と思われるような筆致のものが少なくなかった。
これは私の勝手な考えだが、この日本の影響、つまり日本画や漫画のタッチに似ている部分がこの作家の日本での人気の重要なエッセンスになっているのではないだろうか。
それだけ私たち日本人の目から見ると親しみのある作風がフレデリック・バックの魅力になっているのだろう。

展覧会は1階と2階の2つのフロアで開催されていて、すべてを堪能するには2時間以上の時間が必要だと思う。
好奇心が強く、かつヒマな人は一日中楽しめる展覧会だ。

私は1時間ほどの急ぎ足で展覧会を鑑賞したのだったが、

「この展覧会は是非とも家族に見せてあげたい。どうして大阪で開催しないのか。一人で東京で行きました、と白状したら家の中でなんと罵られるかわからない。でも家族にこの素晴らしさを話したい。」

とジレンマに陥るくらい楽しい展覧会なのであった。

「.......暑いやろな、ぜったいに........」

と、覚悟を決めて美術館を出た。
灼熱地獄も駅までの辛抱と歩き出したら、向こうの方から都バスが走ってくるではないか。行き先は......。

「新橋」

なんと、この美術館には新橋駅から正面玄関すぐ横まで都バスで来ることができるのであった。
なってこった。
暑い中歩いてきたのに。

ということで、暑いので迷うことなく、美術館からの帰りは冷房のよく効いたバスに飛び乗った私なのであった。


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ろくすっぱ休みのない私は久しぶりのお盆休み、家族と一緒に旅に出ようと思っていたら、嫁さんが土日しか休みがないことが判明し、色々検討した結果、和歌山へ日帰りの旅にでることになった。

快晴の一日。
私たちか家族は、少しでも日帰り旅費を安く上げるため「おにぎり」のランチと、「高速道路を使わない」ことをモットウに大阪南部にある自宅から和歌山を目指した。

目的地はとりあえず、和歌山県有田川町にある「清水温泉」。

グーグルマップで和歌山県の山の中を無作為に見ていたらダム湖に近くに「しみず温泉」とあるのを発見。
インターネットで調べてみたら日帰り温泉があるらしく、なかなか素敵なところのように感じられた。
しかも和歌山県の山の中なので渋滞の心配はまずいらない。

この季節、和歌山の海岸線を移動することは海水浴目的のラッシュ渋滞に巻き込まれ移動は困難が予想される。
ところが山の中は盲点で、山中にぽつんとある温泉を目指すことは渋滞を気にせずのんびり楽しめる旅が可能になることを意味するのだ。

大阪からは和泉山脈に半程にある犬鳴山を通過して紀の川市へ。
そこからは国道を走り貴志川を通過。
通過といっても和歌山電鐵貴志駅に立ち寄り、かねてから娘が希望していた「たま駅長」こと名物の猫が駅長を努める駅舎を見学した。

和歌山電鐵はもともと南海電鉄貴志川線だったものを「儲からないから廃止します」と断言した冷血な南海電鉄から岡山の両備グループが譲り受け営業。
南海電鉄は「儲からないからプロ野球球団を福岡に売ります」とホークスを生み出した会社だけに、ローカル線を切るのは躊躇しなかったのだろう。
ところが岡山の両備グループは違ったようで、自転車をもったまま乗り込める電車や、この「たま駅長」のように様々なブランド化を実施して営業を強化。
全国の注目を集めている鉄道会社だ。
さすが、日本のユダヤ人と言われる(漫画家いしいひさいち談)岡山県の会社はその商才を発揮し、似たいようなゴロ(OKAYAMAとWAKAYAMA)の和歌山県の鉄道会社も見事に立て直し、今日に至っている。

それにしても貴志駅はすっかり「たま」一色の駅に変貌していたのであった。
まず、駅舎が猫型。
窓が猫の目になっていて入り口が口。
まるでジブリの世界のようだ。
駅舎の中にはカフェあり、売店ありで、近畿一円から「自動車で」おずれた観光客でいっぱいなのであった。

予想通り娘は大はしゃぎで携帯ストラップや飴玉を買っていたのであった。
ちなみに中1の娘には携帯電話は持たせておらず、これからもずーと持たせるつもりはないので、一体何に使用する「携帯ストラップ」なのか今後の観察が必要だ。

で、肝心の電車は、と時刻表を見ると一時間あたり2本あり、田舎だがそれなりに便利なようだ。
次回は是非、電車で訪れてみたいと思ったのであった。

貴志川を出発して山中険しい道を走ること1時間少し、有田川のダム湖のほとりを走る国道に出た。
実はこのあたりは10年ほど前の冬に仕事で訪れたことがあり、

「自然の綺麗なとこやな」

といつの日か、ここを訪れてみたいと思ったものなのであった。
ダム湖には長い吊り橋がかかっていて、ここを訪れることも、日帰り旅行としてはちょっとしたイベントになるに違いないと思ったのだ。

吊り橋を訪れて少しまた自動車で走ると道の駅があり、そこで休養をとると、ここが棚田で有名なところであることを発見した。
しかも近くには江戸時代に開墾されたという「あらぎ島」という農林水産省の日本の棚田百選にも選ばれている場所があるというのだ。

早速自動車を「あらぎ島」めざして走らせた。
有田川が大きく蛇行し、交差点付近がちょっとした街になっているところを通り抜け、坂道を駆け登っていくと左手の眼下にその「あらぎ島」が見えた。

「おおお!」
「おおお!」
「うううう!」

絶景なのであった。

「あらぎ島」を見下ろす展望場所には駐車場がなかったが、その先200mほどのところに有田鉄道バスの停留所もある駐車場があった。

それにしても青々とした棚田の見事なこと。
しかも「島」のように湾曲した輪郭は美しく、この景色は日本の景色の代表ではないか、とさえ感じたのであった。
水田は人間が自然と調和して生んだ代表作。
とりわけ日本の水田は東南アジアの水田と比べても几帳面に区画され丁寧に育てられているその姿は、芸術品ですらある。
夏、水田があるところは涼しく、秋になるとたわわに実る稲からは美味しい主食の米が取れる。
こんな素晴らしい景色はなかなか無いのであった。

棚田に感動した私たちは予定通り「しみず温泉」に浸かって、おのぎりを食べて、高野山経由で大阪に戻ってきたのであった。

走行距離約250km。
少々運転につかれたが、夏空の下、紀州の豊かな緑の中のドライブは、なによりの気分転換になったのであった。
なお、有田川町は秋篠宮妃の紀子さんゆかりの土地であるようで、和歌山というところは将軍様は産み出すわ、宮妃も出すわ、農家の平均年収が2400万円だと聞くし、ですごいところだと思った。

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早いもので日本航空123便の墜落事故から26年が経過した。

あの日、私は前日に大阪で開催したイベントの疲れでぐったりしていて、何もする気がなくボンヤリとNHKのテレビニュースを見ていたように記憶する。

「ニュースが入りました。羽田発伊丹行の日本航空機がレーダーから消えたとの情報です。」

というような速報が第一報。
イベントには東京からも大勢の人が来ていたので、

「羽田発伊丹行?反対方向やから、これに乗ってた人はおらへんやろな」

と考えたりしていた。

ニュースは次第に大きくなり、世界で最も利用客の多い路線の一つ、東京~大阪間を飛ぶジャンボジェットの墜落事故は以後、日本のみならず世界の航空機事故の代表として未だに語り継がれている。
事故機の残骸は羽田空港近くの日航施設に永久保管され、希望すれば見学もできるという。

「遺書書いていた人がいたんだろ?」

数年後、ワーキングホリデーで来日していたオーストラリア人の友人からも当時の事故の話を聞いて、世界中で報道されていたことを知ったものだった。

今では映画にもなった「クライマーズ・ハイ」や、数多く出版されている御巣鷹関連書籍で事故の原因や、その時の人々の様子をいろいろな方面から伺いしることができる。
また、数年前に公開されたフライトレコーダーに記録されたコックピットの生々しい会話が事故の悲惨さを薄れさせない。
薄れさせないために日本航空が倒産に至った原因のひとつになったことは一昨年のことにすぎない。

この日航機事故の悲惨さを最も伝えているのは、もしかすると飯塚 訓著「墜落遺体」(講談社プラスアルファ文庫)かもしれない。

実のところ、題名と予想される内容で、なかなかこの文庫を手に取り読む気にはならなかった。
あまりにも悲惨すぎて読後に気分が欝になってしまうのではないかと思ったからだ。
ところが実際に読んでみると、悲惨さもさることながら、そこで展開された極限の人間模様は、欝にするどころか、ある意味、家族のありかたを捉える奥深さが描かれてたのだった。

バラバラになった遺体から家族を探しだす、その執念は悲惨さというよりも亡くなった愛する者に対する家族のできる最大限の愛情表現に思えたからだった。
山崎豊子の「沈まぬ太陽」にも描かれた御巣鷹事故だが、ドキュメンタリーとしての本書の力にはなかなか及ばない。
そいういうエネルギーを秘めた一冊なのであった。

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ベトナム・サイゴンの朝の風景はというと、無数の自転車とバイクの群れ。
初めてベトナムへ行った時は、噂に聴いていた川の流れのようなこの二輪車の群れに度肝を抜かれてしまって、暫くの間、カメラをその群れに向けて無心にシャッターを切っていた。

交差点やロータリーでのその流れは圧巻で、

「どうしてぶつからないのか、不思議や」

と思ったりしたものであった。

ファングーラオ通りから参加した日帰りツアーのガイドさんの説明で、年間数万件の事故が起きると聞いて納得。
保険制度も無い国なので現地駐在の日本企業の人は自分で自動車の運転はすることなく、出来る限り運転手を雇って、あちこち回っているとも聞いた。

「なるほど、タイみたいにレンタカー借りて自分でドライブは無理なんや」

と納得した次第であった。

東日本大震災以降、この自転車とバイクの群れが東京でも見かけられるようになった。
数はベトナムと比べると圧倒的に少ないのだが、路肩を走るバイク、自転車の数が多くなっているのだ。



私は都バスでの移動が多く、先日も東武浅草駅前から東神田行のバスに乗り込んで江戸通りを南下中、朝のラッシュアワーということもあって自転車、バイクの群れとぶつかった。

ベトナムでもそうだったが、東京も変わらないのは、バイクや自転車といった二輪車は自動車の通行などなんら配慮して走っていないということだ。
バスがバス優先レーンを走っていてもお構いなし。
バス停に横付けしようとするバスの左側を抜けていく。
バス停からバスが発車しようとすると、今度は右側を走り抜けていく。
危なっかしいことこの上ない。
おかげでバスは徐行運転を余儀なくされて、必要以上に所要時間がかかってしまう。

至極迷惑だ。

サイゴンの街中は東京に比べると信号の付いた交差点が少ないし、どちらかというとフランス風のロータリーが圧倒的に多い構造の街なので、バイクも自転車も自動車もノンストップで走り抜ける。
しかし、先進国・日本の首都東京はどの交差点にも信号があって、システマチックに動いているのが交通システムだが、バイクはともかく自転車は例外で信号は赤だろうが、黄色だろうが青色と同じで疾駆していく。

スポーツサイクル。
ママチャリ。
折りたたみ自転車。

なんでもかんでも、多くは信号無視。
ロードレーサーよろしく、ウェアを来てスポーツタイプにまたがって走っている人たちが最もたちが悪い。
軽快に走っているから信号なんかで止まりたくないのか知れないが、スタイル良さとマナーの悪さに呆れること度々だ。
だいたいウェア着て申し訳程度の鞄を持って出勤なんて、ちょっと仕事を馬鹿にしていないか、とさえ思ってしまう。

このあたりはベトナム人の方がマナーがいいのか警察権力が強いのが原因なのかわからないが、サイゴンの二輪車ほうが信号ルールを遵守しているのではないかと感ぜられてならないのだ。

自転車通勤。
エコか交通費の節約か、震災対策か知らないが、ルールの完全無視は勘弁していただきたい、と思うのであった。

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