<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



スターウォーズが公開されてからあと2年で50年になる。
日本では3年で50年だ。
日本での公開は米国で公開された1年後だった。
なぜ1年もあとになったのか。
そんなことは正直知らない。

とはいえ、1年待つことで当時スターウォーズを取り巻く空気感は独特のものがあった。

まず、
「なにやらアメリカで凄いSF映画が公開になって「ジョーズ」を超える興行収入の新記録を作ったらしい。」

という噂が入ってきた。

「スターウォーズってどんな映画?」

とうのが当時の映画好きティーンエイジャーの話題だった。

「もしかして宇宙大作戦 スター・トレックの新作?」

という勘違いも生んだ。

「ロードショー」や「スクリーン」といった月刊映画誌に写真は掲載されるが、なんかよくわからない。

金色のロボット?
ドラム缶みたいなロボット?
猿みたいなんはなんや?

と、言う具合に。

サントラ盤が先行して発売されたので買って聞いてみると迫力満点のクラシカル。
クラシックは学校の授業であまり好きではなかったのだが、ロンドンフィルが演奏するスター・ウォーズ楽曲の珠玉の数々を聞いているうちにオーケストラのサウンドに大いに魅了されるようになった。

だけど、音楽だけでは映画の内容は音楽からはわからない。

そんなこんなで1977年暮れの「未知との遭遇」の公開時に予告編として動くスターウォーズ」を見たときに、

「なんじゃこれ?」

となり、だんだんと「大ヒット作」「SF」「なんだか凄い」というのが重なって1978年6月の公開まで、ワクワク感が時が経つほど強まっていったのであった。

そのスターウォーズの最新が発表された。
物語はなんでも25000年前の舞台設定。
なんじゃいこれ?
地球の歴史やったら「はじめ人間ギャートルズ」じゃないか。

フォースを始めて使うことになる人物に焦点を当てたストーリーだそうで、この時代設定にしたのは、

「手錠をかけられたようなルーカスが作った世界観にとらわれず物語を描けること」

なんだそうだ。

「ルーカスの世界観ががスターウォーズ違うんか」と思ったけどボヤくと、

「ジジイがまた騒いでる」

とカミさんに叱られるので黙っている。
が、これってなんなのか。

ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズの権利をディズニープロダクションに譲渡した後の最初の映画公開時のインタビューで、

「非常に後悔しています」

という発言をされていた。

25000年前のスターウォーズ。
ワクワクしないのは何故なのだろう。


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アマゾンプライムでの正月の映画鑑賞。
フランス映画「人生ブラボー!」に続いて見たのがイギリス映画「ロスト・キング 500年越しの運命」。

2012年にイギリスのレスター市で発掘されたリチャード3世の埋葬地発見と発掘につながる物語で、その重要な役割を果たしたリチャード3世協会に所属する女性にスポットライトが当てられている。
事実を元にした物語なのだった。

リチャード3世というとシェークスピアの戯曲が有名だ。
残念ながら私は読んだことがなかったのだが、その中ではリチャード3世は「偽悪で狡猾で残忍な人間として描かれていて、簡単に言うと悪人である。

そのシェークスピアが描いたリチャード三世は戦争で亡くなったあと遺骸は川に投げ捨てられていたと思われいたが長年の調査の結果レスター市内の学校の運動場あとに埋められているのではないかとの説が有力となる。

主人公の女性はリチャード3世の幻と対話しながら、その場所を特定する。

どんよりとした雰囲気のイギリスの空気感と歴史館、大学の権威と個人の力量と限界。
活動を見守る家族。

それぞれが交錯して物語としてはスリリングでもあり、一種のファンタジーとしても楽しめるような映画だった。

この映画を見てつくづく感じたのは、死後その人の人生を描くのは他人であり、時事が書かれるわけではないということ。
そしてそれが一旦世間に受け入れられると変更を迫るのは容易ではないということだ。
400年前にシェークスピアが執筆した戯曲はその100年前の出来事であり、今の感覚からするとより時代が近いのでシェークスピアの考えは正解なんだろうと思う。
ところが実際に100年のブランクは明治維新を描く今の時代と一緒なので、どこまで正しいのか判断しかねる部分でもあるのだ。

2012年の歴史的発見はDNA鑑定という最新の科学が介在して証明された。
果たしてリチャード3世はどういう人であったのか。

見終わったあと、色々と想像を巡らすことのできる映画なのであった。



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年末年始、普通であればどこかへ出かけたり初詣に参ったり、映画を見に行ったりということをするかも知れないが、なんと言ってもうちは喪中。
昨年3月に父が亡くなり年賀状も出さず、おせちも作らずの新年を迎えた。
さらに昨年末の忘年会でのカラオケが祟ったのか元日夕方から体調がすぐれず3日、4日は37℃の発熱でくたばってしまった。

お正月は自転車で遠出をしようと目論んでいたが遠出どころか外出もままならない状況に陥ってしまったのだ。

そういうときに頼りになるのがネットで映画を見ること。
レンタルビデオと違って手軽に自宅でネットアクセスでいろんなコンテツを楽しむことができるという時代。
とっても有り難い時代ものだ。

で、大晦日に選んだのがフランス映画「人生 ブラボー!」。
これ、面白かった!

コメディというよりも日本語で「喜劇」と言ったほうがいいような映画で、かなりの泣き笑いだ。

若い頃、小遣い稼ぎを目的にとある病院で頻繁に精子を提供した男。
この男の精子が手違いで使いまくられ生まれてきた人が500人以上。
約20年ほど経って500人のうちの142人が、

「実の父が誰なのかを知りたい」

と集団提訴に踏み切るが。

という物語だ。
主人公の男は独身で結婚したい恋人がいるけど借金その他で大変な生活。
そんな中でも持ち上がった世間を騒がす集団訴訟。
男はいったいどいう人たちが自分を提訴しているのか、身分を隠して密かに会いに行く。

この142人の一人ひとりに会うたびに、彼は予想もしなかったこの人たちに対する「愛情」を感じ始める。

ある娘は麻薬中毒。
あるものはストリートシンガー。
あるものはゲイ。
あるものは身体障害者で施設ぐらし。

自身同様、精子提供で生まれた子どもたちの人生も様々なのであった。

昔はあり得なかった100人を超える子どもたちというシュチュエーションが妙にリアルでアイデア賞かもしれないが、そこには家族、親子、恋人、愛があるので、すごい引力をもった物語でもあった。

折しも大阪・関西万博EXPO2025 フランス館のテーマが「愛の讃歌」。

フランス映画だけにクスクスと笑えるエッセンスとともに愛のあふれるエンディングを迎える素敵な映画なのであった。


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最近の関西の鉄道ニュース。
企画列車・急行「鷲羽号」の復活運転ということで、大阪駅や三宮駅では大勢の鉄ちゃんが押し寄せちょっとした話題になっていた。
この「鷲羽号」。
本物は165系湘南色の電車だったのだが、今回復活は通勤電車113系での運行だったので、巷では「なんちゃって鷲羽号」と呼ばれていたりして、実際に鷲羽号に乗ったことのある私の世代には無理やり復活させんでもよかったんと違うのか、という疑問符も灯っている。

そもそも鷲羽号は山陽新幹線開通まで大阪〜宇野間を走っていた宇高連絡船連絡の急行だった。
途中どういう駅に停車したのかは全く記憶にないのだが、姫路駅停車時に食べる「駅そばん」は父の実家のある岡山へ向かうときの私の最大の楽しみなのであった。

急行列車なのか準急なのかの正確なところは記憶にないが、乗ったのが自由席だったことは記憶に残っている。
というのも、乗車列に並んでドアが開くととも猛ダッシュをして座席確保するのが私の役割だったからだ。
並みいる大人を押しのけて2人分、ないしは3人分の座席を確保する。
子どものやることなので大人はあまり文句を言わない。
実に今ならぶっ飛ばしてやりたいようなガキなのであった。

座席は全席向かい合わせの垂直クロスシート。
113系のような中途半端なロングシートは付いていない。
扉も両開き式で3ドアの113系とは違って片開き式の2ドアタイプなのであった。

この電車。
子供心に家の近所の阪和線を走るボロ電車と異なり湘南色で格好良く、大好きだったことは事実だ。
なんといっても「同じ山陽本線を走る特急しおじに乗ってみたい!」と贅沢なわがままを言うこともなかったのだ。
単に特急の存在を知らなかっただけかもしれないが。
当時の私は特急といえば阪和線を走る「くろしお号」ぐらいしか思いつかず、山陽本線に特急が走っていることに注意を払う知恵がなかった可能性がある。

なお、特急しおじには新幹線岡山開通後、鷲羽号が無くなってから1度だけ乗ったことがある。
「時間かかるね」
と母が言ったのが印象的で、あのとき早くも新幹線に毒されているとは私は気づかなかったのだ。

ということで113系で限定復活した「鷲羽号」。
名前とヘッドマーク以外にあまり魅力的なポイントがない、なんちゃってな世界なのだと思った。


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「ダイハードってまだ見たことがない」 
とカミさんが話したので、実家の書棚で眠っていたダイハードのDVDを取ってきてパソコンの画面で見せたのがつい先月のこと。

我が家では昨年から20年ほど前のアメリカのテレビコメディ「F・r・i・e・n・d・s」をネット配信で見るのが日課になっている。
この「F・r・i・e・n・d・s」の後半のシーズンの数話にブルース・ウィリスが登場していて、以来彼の作品を見たいというのがちょっとした口癖になっていた。

「こちらブルームーン探偵社」はどの配信サービスでも提供されていないし、「フィフィスエレメント」や「アルマゲドン」などはご飯を食べながら見る映画でもない。
どうせ食事しながら見るんじゃないのであれば「ダイハードシリーズ」は必見だ。
でも、このシリーズは繰り返しテレビで放送されているからカミさんは既知のものだと思っていた。

ところが、未だ見たことがないという。

DVDを英語字幕スーパー版で鑑賞したところ、最初は、
「なにこれ?どこが面白いん?」
という表情をしていたが、やがて緊張し始め目が話せなくなってしまった。
「ね、ね、これどうなるん?大丈夫なん?」
と訊いてくるが、私は原則映画の途中ではストーリーを知っていても絶対に教えないことにしているので黙っていた。

これと同様のことが娘にもあり、初めて「ジュラシックパーク」を見せたときもしきりに「なぁ、なぁ、これどうなるん?助かるん?」
とか訊いてきたのが一切教えなかった。
実際カミさんと娘はよく似ていると思った瞬間でもあった。

結局、一気に最後まで見てしまったのは言うまでもない。
次は「ダイハード2」を見せなければならないが、そのDVDがどこにあるのか。
実家の書棚を捜索するのが今の私のミッションとなっている。

そのブルース・ウィルスが認知症にかかっていることを発表。
昨年、失語症のために引退すると発表したが、長い診断の結果「認知症」であるということがわかったという。

死去のニュースを聞くのも辛いが、元気にしているのに認知症というのも心底寂しと思う。
そんな年齢に自分もなっているんだとつくづく感じたのであった。


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昨日、忘年会から帰宅したところカミさんが縫い物をしながら一心にテレビを観ていた。
何か新手のバラエティでもやっているのかと思ったら、ディズニーの「ライオン・キング」が放送されていたのだ。

「お。いんちきジャングル大帝か」

という私の一言は無視された。
著作権で揉めた話などどうでもよろしく、要は面白ければそれでいいのか、判断に苦しむところだが、聞き捨てならなかったのは、

「この映画、アニメ版と違って実写やねん」

の一言であった。
実写でライオンやマントヒヒが喋ったりするのか。
ペリカンが演技をするのか。

昔、わんぱくフィリッパーや名犬ラッシー、ミスターエドなど、イルカや犬や馬が演技をするテレビ番組が無くはなかったが、人間のように演技するものはひとつもなかった。
動物は動物。
カメラワークとそれなりに見える調教師の動きのつなぎ合わせで物語が成り立っていたのだ。

昨日見たのは明らかにCGアニメ。
実写とは言えない。

ここ数年、CGのクオリティが目を瞠るほど高くなっている。
現実と虚実の見分けがつかない。
それだけ多くのデータをPCが処理できるようになったことが背景にあるのだろうが、中でも動物の描写は「不気味の谷」が小さいからか、かなり以前からCGによる描写がなされていた。

このCG映像を実写というカミさんはもしかするとボケたか。
と疑ってみたころ、多くの映画関連サイトで、

「金曜夜放送のライオン・キング実写版」

と謳っていることが判明。
世の中何をもって実写というのかアニメというのか判断がつかなくなってきているらしい。

そういえば、ジャック・ブラックが出演したキング・コングではすでにCGでゴリラのデカイのが不通に演技していたものだ。
ジュラシックパークのように実物を誰も観たことのない恐竜のようなものなら、多少の嘘があっても騙されることはないが、キングコングの描写には目を疑うリアルさがあったのだった。

今回のライオン・キングはそれと同様。

先が読めるストーリー展開よりも、実写と見紛うCGを実写と呼ぶ時代が来ているのではないか。
そのことが結構ショックな映画なのであった。


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還暦男のトム・クルーズが走り回る映画「トップガン マーベリック」。
まだまだ絶賛大ヒット上映中なのだ。

この映画。
公開当日に近くの劇場のIMAXで観てきた。
そこで目に飛び込んできた光景は、信じられないものなのであった。
なんと、ほぼ満席になっていたのだ。
ここ数年、私は主にこの劇場で映画を観ているのだが、いつもはガラガラ。
貸し切り状態のことも少なくない。

「この劇場大丈夫かな〜」

と閉館してしまわないかずーっと心配していたのだ。
それが特別料金を払わないと観ることのできないIMAXでほぼ満席。
私もチケットを買い求めたときは前寄りの席か端っこの方しか空いておらず果たしてIMAXの特別料金を出してまで観て良い映画かどうか、大いにためらったのであった。

「観ようよ」

というのはカミさんなのであった。
始末屋の私が料金をためらっていることを微妙に感じて、
「見に来たのに何してんねん」
という暗黙の圧力を掛けてきたのだった。

思えば、IMAX登場以前の巨大スクリーンといえばシネラマ方式の梅田OS劇場であった。
この劇場で初めて観た映画は「未知との遭遇」で前から8列目での鑑賞だった。
シネラマ方式のスクリーンサイズは横30mx高 9m。
そんなでっかいスクリーンの前から8列目がどのような状況になっているのか。
だいたい想像ができよう。
まず、視界の中はすべて映像になる。
スピーカーが近いので立体音響が耳をつんざく。
というようなことになる。
で、なぜ9列目より後ろの席にしなかったかというと、8列目までが普通の料金で、それより後ろは特別料金が必要だった。
OS劇場にはA席、S席、SS席と席が3種類あってS席とSS席はオプション価格が必要になる。
そしてたとえA席であっても学割が存在しない劇場でもあった。
このようにOS劇場は普通の映画館ではない威厳のある料金体系なのであった。
しかも当時は珍しい全席入れ替え制でもあった。

そんなこんなでIMAXはシネラマの系譜を引き継ぐだけに前の席というのは、辛いものがあると思ったのであった。
でも仕事が終わってからせっかく無理してやってきたのに、という圧力を無視するわけにはいかない。

ということで端っこはいやなのでIMAXの前から10列目に座ることに決めたのであった。

悪い席ではなかったが、映画の予告編が始まってすぐにカミさんが、
「ボリューム落として欲しいなあ」
と無理な注文をつけてきた。
「テレビ見てるんとちゃうぞ」
「だからIMAXの前の方は大変なんや」
と思ったが言わなかった。
言ったらカミさんに叱られると思った人は、残念賞。
言っても聞こえないくらいの大音量だったのだ。

結果的に、この席で見てよかった映画だった。
今どき特撮がほとんどない空中撮影。
たぶん撮影機材がデジタルになったので可能になったのだと思うが急加速や急停止。急旋回に宙返り。とアナログのフィルムをカタカタ回して撮影するフィルムカメラだったら動きで生じるGによってモーター駆動部が正確に動作しないのではないか。
時代は流れたのだ、と感心した。

さらに時代は流れたのに、と感心したのは主演のトム・クルーズの大活躍ぶりだ。
体を張って自ら操縦、走り、飛び越え、ジャンプする。
とても還暦のオッサンとは思えないエネルギーで大いに尊敬できる融資なのであった。
こんな還暦の猛烈野郎が主演なので前作で知名度を得たメグ・ライアンを出さなかったのは正解だと思う。

ともかくクライマックの作戦遂行シーンはどう見ても「スターウォーズ エピソード4 新たなる希望」のパクリで、見ているうちに、トム・クルーズの乗っている戦闘機の後ろにタイファイターが出てくるのではないかという雰囲気に満ち満ちていたのだ。



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アカデミー賞の発表前か気になっていた映画「コーダ あいのうた」を観た。

正直に告白するとそもそも障害者を題材にした映画は苦手なのであった。
小学校、中学校時代の道徳の時間に使われるテキストや教材映画などが影響しているのかも知れないし、普段の障害者に対する何か特別な配慮のようなものが性に合わないというところもあったのだろう。
学生の頃、電車で座って本を読んでいたら隣に座った中年の男が反対側に座った同じ年格好の女性に対して手話を始めた。
最初は気にならなかったのだが、次第にその手のジェスチャーが私の目と本の間に頻繁に飛び込んできたことがある。
「手話、鬱陶しいな。大声で話しているのと同じやん」
と迷惑な表情をしたら、動きがさらにエスカレート。
その二人、なんと電車で降りがけに、
「手話を迷惑がる人もいるからね。はははは」
と声に出して話していたのには驚くよりも怒りを感じて、以来、好感を持てなくなっていたのだ。
こういうの、なんで特別扱いしないといけないのか、と。

ところが「コーダ」が話題になり始まる前にWEBに上がっていた簡単な解説を
読むとコメディなのだという。
私は米国や英国のコメディ映画やテレビ番組がお好みで、最近は特撮、CG満載の映画が多すぎて何か「普通の映画」が観たくてしかたがなかったところに「コメディ」であるという本作を見つけたのだ。

この映画、問題は上映館が少なく上映回数も少なく、結果的になかなか劇場に向かうことができなかった。
そこへアカデミー作品賞受賞のニュースが流れるとともに近所の映画館でも上映が決定。
さっそくカミさんを伴って会員デーに見てきたのだ。

1時間30分ほどの短い時間にこれだけのユーモアと暖かさを詰め込んだ映画は最近少ない。
コメディと聞いてたが、どちらかというと笑いはテーマの重さを見事にカモフラージュしているスパイスという存在だ。
ろうあ者の家族に囲まれて生きる高校生。
彼女が稀代の歌唱力を持っていることを家族はわからない。
先生をはじめ彼女の周囲はそのことを認め、卒業後にバークレー音楽院を目指すことを薦めるが、家族にとってはその価値がわからないだけに困惑が広がる。
バークレー音楽院卒業生には日本人のミッキー吉野や渡辺貞夫がいる。
さあどうなるのか。

登場人物がすべて魅力的で汚い言葉(手話)で笑わせてくれるお父さんもそうだが、私には兄さんと音楽の先生も非常に魅力的に思えたのだ。
もちろん主人公の高校生の娘を演じたエミリア・ジョーンズの可愛さと歌の巧さは、クライマックスのオーディションシーンを中心に見とれてしまう魅力を感じたのは言うまでもない。

「CODA〜コーダあいのうた」
この作品が最優秀作品賞のアカデミー賞は健全なのであった。
今年は色々あったけど。


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興行映画というのはどんな人でも自分で好きな作品は作れないんだ。
たとえ出来上がった作品が素晴らしいものになるとしても簡単には許されない世界に違いない。
と、今回スピルバーグが監督した「ウェスト・サイド・ストーリー」を観てつくづく感じたものなのであった。

スティーブン・スピルバーグは小学生の時にテレビで見た「激突!」以来、ほとんどの作品を見てきた。
当然のことながらテレビシリーズ「コロンボ 構想の死角」ももちろん小池朝雄の吹替版を見ているのだ。

「ジョーズ」から「インディ・ジョーンズ」シリーズの頃はスピルバーグは大ヒットメーカーで製作側や投資側からは絶大な信頼のある監督だったはず。
ところが「ミュージカルを作りたい」という欲求を叶えてくれる機会がまったく訪れない。
自分で金を出して作ればいいじゃないか、と思うこともないが、映画とてそれはビジネス。
個人の欲求で作って失敗できない世界でもあるので簡単にはいかなかったのだろう。

「きみは出来損ないのミュージカル監督だ」
とスピルバーグに言ったのはジョージ・ルーカスだそうで(パンフレットより)、「1941」「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」で一部分だけミュージカルみたいなシーンを撮っては「ミュージカル作りたい」というスピルバーグはからかわれていたのだ。

ということで映画監督になって50年。
若き天才も老境に入ってやっとのことでメガホンを取れたミュージカルが「ウエストサイド物語」のリメーク版だった。

リメークと言ってもそこはスピルバーグ。
ロバート・ワイズ版とは一味違った魅力が炸裂した素晴らしいミュージカル映画に仕上がっていた。
若きダンサー(俳優)陣はもちろん、歌、踊り、カメラワーク、映像美。
どれをとっても従来のスピルバーグ作品に遜色ない魅力満載で予告編を含めた3時間近い上映時間はあっという間に過ぎ去ってしまったのであった。

結末を知っている映画なので、正直のところ最初は観に行くかどうか少々迷ったのも事実。
私は基本的に悲劇で終わるストーリーは好きではないので躊躇したのだが、それでも劇場に足を運んだのはミュージカルが好きなこともあるけれども、それを老境に入った若き天才スピルバーグがどう調理したのか大いに気になったからだった。

この映画、ビデオで観るよりもまずは劇場で。
あの大画面、素晴らしい音響のある環境下でバーンスタインの名曲の数々をスピルバーグの演出で見ることが最も重要だと思う。
そんな映画なのであった。



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クリント・イーストウッドの「クライマッチョ」を見てきた。
御年91歳の監督主演。
おそらくハリウッド最高齢の現役映画監督+主演俳優だろう。
お年は召したとはいえ、やはりクリント・イーストウッドがスクリーンに登場するとなんとなく安心感がある。
さすが「ハリウッドのスター」だ。

米国映画が米国映画たる雰囲気を醸し出さなくなって久しい。
アメリカを感じさせる映画が減ったという意味だが、アメリカそのものの魅力が20世紀に比べるとかなり衰えていることもある。

映画の制作方法も大きく変わった。
CGで作られたアクションや差別回避で白人、黒人、アジア人とまぜこぜの無理やりキャスティング。
暴力。
あからさまな性描写。
正直言ってそういう映画を見るために料金を払いたくないし、時間を無駄にしたくない。

気楽で陽気でハッピーエンドなドラマがアメリカ流の映画だと思っていたのだが、最近は暗い題材も少なくなく、
「ああ、アメリカ映画は変わっちゃたのね」
という感覚を抱くことも多い。

そんななかで「クライマッチョ」。
実にアメリカ映画的なロードムービーなのであった。
ロードムービーと潜水艦映画にはつまらないものはない、という共通点があるがまさにそれ。
途中でなんとなく結末が見えてしまう感じもないではないかったが、それだけに安心して見ることのできるアメリカの映画なのであった。

クリント・イーストウッド。
あと何作品の映画を作ってくれるのだろうか。


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