小田原を出発したJR東海道線は海岸線に沿って走る。
海岸ギリギリではなくて少し高い所を走る。
従って眺めが良い事に加えて、海岸線を走っているときにいつも不安がつきまとう万が一の災害にも強いところを線路は走っているという印象がいい。
なんといっても東海道線の沿線はいつ発生してもおかしくない東南海地震の被害発生想定地域であり、かつ日本の大動脈。
なにか異変があって何ヶ月も東西が分断されてしまうのは重大問題だ。
阪神大震災後の4ヶ月は山陽本線が不通になってしまっていたので生活だけではなく日本中の物流に苦労したのは、関西人の私にはまだまだ記憶にあたらしいところだ。
いくつかのトンネルを抜け山の斜面に色々な建物が立っているエリアに近づいてきた。
ところどこ湯けむりも上がっている。
熱海に到着だ。
東京駅から乗ってきて快速電車の終点は熱海駅。
ここで私はその先に向かう普通列車に乗り換えなければならない。
乗り換え時間はわずか5分ほど。
ところがここで困ったことがあった。
私は馬喰町駅から交通ICカードのICOCA(JR西日本のカード)で乗車して、そのまま熱海まで来た。
ネットで検索すると熱海もSuicaのサービスエリアなので当然ICOCAが使用できる。
ところがこのICOCAを持ったまま次の電車に乗り換えることができないことに、途中気づいたのだった。
熱海駅はJR東日本とJR東海を隔てる境目の駅であり、ここから西はJR東海の運営エリアになるため交通ICカードを連続して使用することができない。
一旦改札を出て「切符」を買って乗車しなおさなければならないのだ。
ああ、めんどくさ。
これはJRのシステムがそうなっているからだそうで、例えばJR西日本とJR九州が接続している下関駅でも同じらしい。
ICOCAやSuicaのシステムは中途半端なシステムなのだ。
このため5分間の乗り換え時間では下りの静岡方面の電車に乗り継ぐのは不可能。
1本見送ることにしたのであった。
次の電車は約20分後に発車。
中国地方にある私の父の故郷のように次の列車は2時間後でなくてよかった。
熱海は言わずと知れた温泉町。
温泉町の玄関口の駅には各旅館の旗を持った出迎えの人が大勢屯しているのではないかと想像していたのだが、やはり時代は21世紀。
そういう昭和な風景は一切なく、熱海の駅前も普通のどこにでもある地方の駅の風景なのであった。
ちょっぴ残念であった。
沼津までの切符を自販機で買い求めた。
自販機にもちゃんと手作りのサインで「静岡方面へはSuicaでご乗車できません」の表示がされている。
この付近に住む人にとってはホント不便なんだろうなと想像してしまった。
ICカードが使えないのは熱海駅と次の函南駅の1区間だけ。
函南駅から西側はJR東海のToicaカードのサービスエリアになり、再びICOCAもSuicaも使用することが可能になる。
ところで熱海は新幹線の駅もある大きな駅だが、次の新幹線の駅は三島駅。
この間在来線の東海道線も間に函南駅があるだけで新幹線にしては随分と短い区間に2つも駅があると思ってしまう。
駅だけで言うと東京駅の次に新橋駅に新幹線の駅がある感覚だ。
しかし、距離でいうと熱海と三島の間はかなりあり、それこそ東京駅と品川駅くらい、いやそれ以上に離れているかも分からない。
これは熱海駅と函南駅の間に丹那トンネルという長大トンネルがあるからで、この区間は丹那トンネルの前にある数百メートルの短い
と7km以上もある丹那トンネルで構成されており、ほとんど地下鉄状態なのだ。
この丹那トンネルが完成することで御殿場線周りで山登りをしていた東海道線が繋がり今に至っている。
そしてこの丹那トンネルこそ日本の土木史上空前の難工事で、その名を歴史にとどめているのだ。
私は今回の移動で最も楽しみにしていたのがこの丹那トンネルの通過であった。
御殿場線を利用しなかったもう一つの理由が寄り道になること以外にここにある。
もうかれこれ20年以上になるが吉村昭著「闇を裂く道」というノンフィクション小説を読んで戦慄を覚えたことがあった。
もう凄すぎて感動を通り越してしまったのだ。
「闇を裂く道」はこの丹那トンネルの工事を扱った小説で、調査終了の頃から着工、開通に至るまでのその苦難な道のりを克明に描いた物語だった。
この丹那トンネルは鉄道省主導のもと鹿島建設と今は無くなってしまった建築会社の2社で着工。全長7.8kmで当時としては日本最長。工期は7年の予定だった。
ところが困難、困難、また困難の連続で超難工事になってしまったのだった。
どれほどの難工事かというと、途中でマスコミが騒ぎ出し「工事断念」の話まで浮上。
恐ろしいことに60名を越える殉職者を出し、関東大震災、北伊豆地震ともに被災。
なんと最終工期16年を費やして完成したのだった。
昭和9年に東京発大阪行の列車を最初として開通したという。
工事開始時はこの長いトンネルの中を走る蒸気機関車の煙をどうするのか、というような議論があったというのだが、完成時にはすでに電気機関車の時代になっていたという。
それだけ時間軸が動くまで完成を見なかったトンネルなのであった。
吉村昭にはこの小説以外に関西電力の黒部鉄道のトンネル工事を描いた「高熱隧道」もあるが、その工事にあたる人々の凄まじさには21世紀の今にはない人としての途方も無い力強さを感じて畏敬の念を抱くとともに、今のノホホン日本に対し、自分に対し、しっかりせんかい!と思う物語なのだ。
熱海駅からは3両編成のステンレス製の電車に乗った。
電車は静かに発車してゆるやかに右カーブを描きながら1本めの短いトンネルを通過。
それから1分ほどのしないうちに丹那トンネルに入った。
熱海からの入り口はゆるい右カーブになっていてトンネルの中は非常に暗かった。
丹那トンネルは火山性の地層を貫くトンネルであり、かつ途中には活断層があり、工事中発生した北伊豆地震の震源であり、なんとトンネルの穴が2メートル以上もズレるという経験をした、というようなことを思い出しながら暗闇の中、電車に揺られていたのであった。
また膨大の量の湧水が出たことも思い出した。
今も湧き出しているそうだが、この湧水のために丹那トンネル上の丹那盆地の農業が壊滅状態になったことは、今なら社会問題になって世界中が大騒ぎしたであろうことも想像していた。
ちなみに山陽新幹線の六甲トンネルからも膨大な湧水が湧きだしているそうだが、これは「六甲のおいしい水」の原料なのだそうだ。
本題とは関係ないが。
やがてカーブが終わると遥か前方に白い点が見えた。
なんだろう?
よくよく見るとトンネルのカタチをしているようなのでトンネルの出口のようだ。
トンネルに入ってまだ時間が経っていないので、もしかするとこのトンネルはほとんど直線なのだろうか、と思った。
で、その想像は正解なのであった。
沼津に着いてからiPhoneでマップを確認すると丹那トンネルはほとんど直線で熱海の入り口箇所だけが僅かにカーブしていたのだ。
それが証拠に白い点が見えてからそこを電車が通り抜けるまで何分もかかった。
でもほとんど入り口から出口までカーブの箇所を除くと出口の見える途方も無く長いトンネルなのであった。
アメリカの州間高速道を夜間、レンタカーで運転したときに遥か彼方に対向車のランプが見えてからすれ違うまで10分以上かかってビックリしたことがあったのだが、丹那トンネルの出口が見えてから通り抜けるまでの長時間は、それに似た感覚があった。
このただただ直線のトンネルを掘るのに16年という歳月は、恐ろしく長く感じられるとともに、そのわずか50メートル北側を貫いている新幹線の新丹那トンネルはわずか4年で完工したことを考えると土木技術の進歩というものに驚くことしきりなのであった。
最も、大正時代から昭和時代にかけての土木技術が未熟であったというわけではなく、例えばこのトンネルは熱海と函南から掘り進んだのだが、中央で出会った時の誤差はわずか8cmであったという。
改めて先人の凄さに感謝と驚きなのであった。
つづく
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