その朝、トイレに行こうと目覚めたところ外からドドドドドドドという大きな音が聞こえてきた。
「誰や、こんな朝早く大型トラックで団地ん中に入ってくる奴は。迷惑やな。」
ガラッと障子を開けて外を見るとトラックらしき姿はない。
「どこにおるんかな。こっちは未だ眠たいのに。騒々しい。」
と障子を閉めて自分の部屋に入ろうとしたその時、俄に家が揺れ始めた。
揺れは急速に大きくなりビデオテープを入れていた奥行きの薄い棚が倒れた。
続いて大切にしていた高校生の時にアメリカで買ってきたプラモデルのコレクションが棚から落ちた。
周囲ではガラスの割れる音、家具か軋む音、それこそ建物がメシメシという大音響が鳴り響いた。
「起きろ!地震や!」
言われなくてもわかるような大地震だったが、私は家具を抑えながら家族に大声で呼びかけたのだった。
1995年1月17日の朝。
大阪堺市内の自宅での出来事だった。
当時住んでいた昭和33年に建設された古い我が家は日本公団住宅の建設のRC構造ということもあってか震度6でもびくともせず、しっかりと建っていた。だが、度々襲ってくる強い余震には「関西には地震は無い」などという常識を破られたばかりの私には恐ろしい物以外のなにものでもなかった。
最初の地震が収まってテレビのスイッチを入れるとNHKでは臨時のニュースが始まっており、今ではYoutubeにも上がっている宮田アナウンサーの、
「只今近畿地方で大きな地震がありました」
の第一報が放送されていた。
「大きな地震じゃったな」
と起きてきた父が言った。
父は大学入学から大阪に住んでいるのだが半世紀経過した今も随所に岡山弁が出る。
テレビでは各地の震度が表示され始めた。
不思議な事に神戸の震度だけがぽっかりと穴が空いたように表示されていなかった。
「地震計、壊れてんのかな」
と思った、
やがて鉄道が止まっていることが伝えられた。
電車が動かないとなると動くまで出勤するのは待つことになりそうだ。
やがて、
「死者の連絡です。神戸市内で倒れてきた壁に挟まれ新聞配達中の男性が一人死亡したとの連絡が入ってきました」
壁が倒れて人が死んだ。
ブロック塀は地震に弱いことを知っていてたので随分運の悪い人がいるもんだなと思った。
その時点では地震で死ぬ人がこの関西で出るなんて考えもしなかったからだ。
ところがこの一人の死者の報道は後に続く六千名を越える死者の一人に過ぎなかった。
時間とともに次々に「火事」や「脱線」のニュースが伝わり始めた。
最初の中継は神戸だったか芦屋だったかの国道43号線沿いの歩道橋からだったと記憶する。
この周辺ではそう変わったことはなかったのだが、
「大きの揺れがありました」
とのアナウンサーの言葉が妙に緊張していた。
やがてヘリコプターからの映像がライブで流れ始めた。
脱線している阪神電車。
倒壊している阪神高速道路。
この時点ではまだ火災の煙はそんなに上がっていなかったが電車が転覆しているのを見て、
「これはえらいことになった」
と思ったのだった。
結局電車がいつ動き出すのかわからなかったので古い50ccのバイクを自転車置き場から引き出して、エンジンをかけて堺の自宅から15km先の難波にある事務所に向かった。
テレビや新聞は次々に神戸市内の凄惨な現場を報道した。
倒れかけたビル。
1階がクラッシュしてしまったマンション。
中央付近の階が押しつぶされた神戸市役所。
大きくひび割れしたそごう百貨店。
内側へ倒壊している三菱銀行神戸ビル。
などなど。
やがて自分自身が支援のために神戸へ入ると正常に建っている建物が見当たらないような気がした。
怪獣映画に出てくるような瓦礫が広がるだけの町並み。
関西電力の10階建てぐらいの建物が形そのままに大きく傾いているのが今も脳裏に焼き付いている。
あまりに傾いたりつぶられたりしている建物が多いため自分の平衡感覚さえなくなってくるように感じたのだ。
疲れ果てて無表情になった販売店の社長の顔も忘れられない。
同じ無表情な顔は2011年5月に福島県庁を訪れた時も数多く目撃することになる。
テレビや新聞、週刊誌は神戸の惨状を伝えた。
長田の大火災。
山陽新幹線の高架橋崩落。
阪神高速道路神戸線の横倒し映像。
高架に引っかかったバスの画像。
プロ野球オリックスは「がんばろう神戸」というアプリケをユニフォームに縫い付けた。
大阪発のJRは芦屋駅まで。
阪神電車は青木駅まで。
代行バスでは電車の乗客を捌ききれず、おまけに渋滞で動かず多くの人びとが青木から三宮まで歩いた。
そういう報道が連日続いたが3月20日を境にピタリと止んだ。
少なくとも関西ローカルを除いて。
地下鉄サリン事件の発生である。
首都圏を中心に日本のほとんどでは地下鉄サリン事件が話題の中心になった。
メディアは連日カルト集団の起こした世界的な犯罪を取り上げ追跡を続けた。
しかしこの間、神戸を中心とする震災はなおも継続しており人々の生活は元に戻っていなかった。
今も戻っていない、という人もいる。
熊本で発生した大震災ではマスコミは自衛隊や消防のヘリの活動を妨害。
関西テレビの中継車はガソリンスタンドの列に割り込みをした。
避難所を取材に訪れた報道陣はインタビュー取りに夢中になり支援物資の整理配布を妨害。
ネットを見るとその傍若無人ぶりが目に余るものがある。
それでいて政府や自治体の揚げ足取りには余念は無く、自分たちの行為については気にもとめない。
やれ支援物資の配布が遅いの、原子力発電所が危険だとか不安を煽ることに余念がない。
阪神大震災でも東日本大震災でも同じだったのかもしれないが、ネットはより発達し、スマホも普及。
当時は無かったり数が少なかった「一般市民による情報提供」がマスコミを凌駕している。
だからマスコミの恣意的報道、傍若無人ぶりも顕になる。
今、騒いでる熊本の大震災も一週間が経過しようとしている今、新聞の第一面ではその面積も減り始めた。
取り上げられていない時もある。
テレビはバラエティーショウのほうが優先らしい。
地震が起こる度にマスコミの存在意義と立ち位置に疑問が生じるのは私だけだろうか。
| Trackback ( 0 )
|