<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



インドは人口で中国を追い抜き、数学に強いアーリア人の優秀な性格で、やがて日本やアメリカを追い抜き世界一の先進国になるだろう。

最近、インドビジネスが注目を浴びている。
ムンバイのハイテク産業やタミル製鉄に見られる世界最高ともいえる経済発展状況が話題になることが多い。
その都度、インドを褒め称える人たちが現れ、口々に上記のような世界一のインド論をぶち上げるのだ。

しかし、果たしてそれは正しいのだろうか。
いや、正しくはあるまい。

なぜならインドにはカースト制という差別システムが存在し、社会を蝕んでいるからだ。
それも数千年の歴史を持ちもはや救いがたき様相でもある。
2500年前に登場した釈迦は思想家、哲学者といった面だけではなく、カースト制の打破を目指した政治家であった。
当時の人々には思いもよらない考え方を確立し、人類の倫理感に於けるひとつの標準をつくった。
しかし、この偉大な人をもってしても、インドに巣くうその悪習を粉砕することはできなかった。

インドではこのために現在でも極端な貧富の差を当然のものとしている国民性が存在する。
身分が自分よりも下の者は人にあらず。
身分の高いものと結婚した低い者は、社会から抹殺されるような社会である。
職種も身分によって決定され、それは未来永劫変わることはない。

そのような国家が、先進国に仲間入りすることは倫理上許されるものではないし、まずなり得ない。
カースト制度が存在する限り、真の意味での国家の繁栄はあり得ない、と私は考えるのだ。

石井光太著「物乞う仏陀」は、そうしたアジアの貧困の姿をルポルタージュした旅行記だった。
それも通常の貧困ではなく、身障者に関わる貧困の現実だ。

バンコクの繁華街を歩いていると盲目の歌手がカラオケで流しをしている姿を頻繁に目撃する。
また、子供の物乞い、そして四股の欠損した身障者が道端をはいずり、痛々しい姿で物乞いをする光景を目撃することも少なくない。
日本ではそういう姿を目にすることはまずあり得ない。
社会が許さないからだ。

本書ではそうした身障者物乞いと、その背景を取材しているだけに留まらず、恐ろしいことにインドにおける子供の人身売買から、子供を使った身障者の「製造」までレポートしている。
正直言ってかなり衝撃的だ。

インドは当然のことながらアジアの繁栄は世界中の注目の的である。
しかし、現実にそれは私たち日本人がイメージしている繁栄とはほど遠いものであることを、本書は如実に物がっているのだ。

~「物乞う仏陀」石井光太著 文春文庫~

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私はKBS京都で放送されていたテレビシリーズ「ハッピーデイズ」の頃からロン・ハワードのファンである。
しかしもはやハワードが米国製青春ドラマの人気俳優であったことを知っている映画ファンは少ないのではないか。

「え、ロン・ハワードって俳優だったの。あのはげ頭で?」

とビックリされるかも分からない。
でも私たち60年代70年代生まれにとっては、監督という存在だけではない。
で、どういう存在であったかというと、現在の青春ものにおけるザック・エフロンのような位置にあったのだと思う。
但しロン・ハワードの役柄は歌う高校生ではなく、超真面目な3人兄弟の真ん中で1960年代を代表する普通の高校生なのであった。

そのロン・ハワードは1977年作の「バニシング・イン・ターボ」以来、その映画人生のほとんどを監督業に捧げている。
そして映画監督としての業績は、もしかするとスピルバーグに匹敵するぐらい小さくない。
なんといっても駄作がまったくないのだ。
ほとんど全ての作品が面白く、斬新で、スリリングで人々の心を打つ傑作ぞろいなのだ。

私は「アポロ13」と「シンデレラマン」が最もお気に入りなのだ。
これら2作品を見ると勇気が湧いてくる。
生きる喜びが溢れてくる。
そんな映画なのだ。

そのロン・ハワードの最新作「天使と悪魔」は前々作の「ダ・ビンチ・コード」と同じシリーズということで、公開前から非常に楽しみにしていた。
トム・ハンクス扮するラングトン教授がまたまた謎の事件の解明に奮闘するというサスペンスで、ロン・ハワードによるアップテンポだが繊細な作りのドラマは大いに楽しめるものであった。

あえて欠点を上げるとするならば、やはりキリスト教徒ではない私たち多くの日本人にとっては「ダ・ビンチ・コード」同様、ドラマの根底に流れるものを理解することが難しかったということ。
なんといってもキリスト教の裏事情は興味あるもののやはり、そこは仏教という異教徒であるため、「それがどうしたの」という部分も理解できないので少なくなかったということ。
そして、殺人の描写がかなりリアルで、かつ、残酷であったことから、思わずスクリーンから目を逸らしそうになるほどなシーンが少なくなかったことであろう。
とは言え、ロンの演出、トムの演技、そしてユアン・マクレガーのベン・ケノービとは違った宗教的な魅力が相まって、2時間半のものすごく長い上映時間があっという間に過ぎ去った。そんなふうに感じることのできる「ちょっと怖い」娯楽作品なのであった。

ところで、ザック・エフロンが70年代のロン・ハワードの位置にいるからといっても、将来彼がハゲになる、かもという心配があるかどうかは不明です。
ハイ。

~「天使と悪魔」2009年作 ソニーピクチャーズ配給~

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関西の観光地は普段、どこもかしこも人人人で一杯だ。
関東で言えば鎌倉といったところだろうか。

たとえば奈良県明日香村。
まほろばの国を求めて、観光写真に見るようないかにも「日本の歴史の始まり」という雰囲気を堪能するために出かけたりすると、どこもかしこも人人人。
甘樫丘はもちろん、石舞台、岡寺、飛鳥寺、亀石、猿石、酒船石、高松塚古墳などなど。
レンタサイクルや観光バスが縦横無尽に走り回り、「まほろば」どころの気分ではないのが実情だ。
正直言ってがっかりする。

これが京都となると規模が違う。

年間観光客は4500万人。
JR京都駅を下車した時点で人人人。
バスの乗り場は言うに及ばず、観光案内所、地下鉄烏丸線、地下街ポルタ、どこもかしこもどこから見ても観光客な人たちであふれている。
さらに明日香村と異なるのは、世界各地からの外国人観光客。
こちらも団体旅行の韓国、中国の観光客に、バックパッカーの白人観光客など様々だ。

駅前でこれだから繁華街の四条河原町界隈は言うに及ばず。
三十三間堂に、清水寺、平安神宮に東山に嵐山。
どこもかしこも人人人。
「京のみやび」なんて楽しむ余韻はほとんどない。

新型インフルエンザ騒動で京都を訪れる観光客が激減しているのだという。
なかでも修学旅行生の京都旅行取りやめが2000校。
ホンマかいな。
こういう学校はどういう教育をしているのか知らないが、きっと新型インフルエンザよりも強烈な季節性インフルエンザなんかのときは旅行を実行し、日ごろの教育では「病気にかかった人に対する差別はいけません。」なんてことを言っているに違いない。
教条主義の無責任もいいところだ。

で、一方において地元関西のものにとって、自分たちが安近短な京都観光を楽しむのに一番目障りなのが、この修学旅行生の塊。
意味もなく騒ぎ回ってはあちらこちらで雰囲気をぶち壊す。
日本の文化の最大の特徴は「閑静なこと」だと私は思っているのだが、件の塊は閑静とは正反対。
新京極の商店街は言うに及ばず、祇園、三年坂、嵐山の竹林と、ワーキャーワーキャーと叫んでいる。

ということで、京都観光するなら、今。
ホテルや飲食店、観光土産の小売店の皆さんには気の毒だけど、「静かな京都」を楽しむのなら今しかない。

但し、外国人観光客にはこの新型インフルエンザ騒動はバカに見えるだけで関係ない(ニューヨークタイムズ紙談日本はパラノイアだ from 産経新聞)なので、雰囲気ぶち壊しの声デカ中国人観光客には我慢が必要だ。

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「畜生!どうして他人の方が自分の家族より俺のことが分かるんだ」

男というものは自分から「分かって欲しい」とは決して言わないもの。
沈黙を守り、それが歳とともに頑固さとして表面に現れてくるのだ。
だからこそ、映画の中盤はじめに隣家に招待されたイーストウッド演じる主人公が洗面所でボソッと呟くセリフが胸を打つ。

それにしてもクリント・イーストウッドが監督した映画は、どうしてこうも何かが胸に刺さってくるような「痛み」を持っているのだろうか。
しかもその「痛み」は決して完全に不愉快なものではなく、なにかしら自分の生き様を振り返り、そして「そうなんだよな」と思わせる郷愁と後悔が入り交じった「痛み」なのだ。

イーストウッドの最新作「グラン・トリノ」を観てきた。

「グラン・トリノ」とは一体何なのか?
映画を観て初めてそれが自動車の名前であることを知ったのであった。

1972年フォードモータース製。
アメ車。
「クラシックな言い車だ」
1972年の自動車はもう、クラシックカーの部類に入るとは私自身小さな驚きを感じた。
そしてこの自動車の名前がどうしてタイトルに採用されているのか。
最後の最後までなかなか分からないのだ、それを知った途端、大粒の涙が映画を観ているいい年をした男の目からこぼれ落ちるのだ。

ドラマは年老いたアメリカ人の老人と、インドシナから移民してきたモン族の家族との交流を通じ、老人の生き様(いや死に様だろうか)を描いている。
テーマはいくつかあるようだ。
そのひとつは人はいかにして自分の人生を締めくくるのかということ。
人は生まれる時はその方法を選択することはできないが、死ぬ時は自分がいかに死すのかを選択することができる。
そういう人もいるというものだ。
二つ目は、本当の家族とは何かということ。
血肉を分けた兄弟なのか、子供たちなのか。
それとも共通の価値観を持ち、考えていることを分かち合える血も繋がらない他人なのか。
そして三つ目。
神様の教えと言うのは、誰のためのものなのか。そしてそれは本当に人にとって正しいことなのか。
ということ。

まだまだ掘り下げると色々んなことが見えてくるのだが、映画はそういう小難しいことはちっとも感じさせず、クリント・イーストウッドが演じる一人暮らしの老人を通じて一個の人間が歩んできた時空の深さをライトコメディを観るような感覚で楽しむことができる作品に仕上がっている。

かつてイーストウッドが主演した映画の主人公達は外面性のヒーローであった。
イーストウッドがともに映画を作ってきたドン・シーゲルやセルジオ・レオーネといった監督達も男の生き様を描いてきた。
しかし彼らのもとで演技を積んだイーストウッドが最も素晴らしい男の映画を作る映画監督になるとは誰が予想できただろうか。

「グラン・トリノ」
めったにないグッと来る男の生き方を示した映画なのであった。

~「グラン・トリノ」2008年 ワーナーブラザーズ配給~

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日常、あまりテレビを見ない私にとって中村吉右衛門主演のテレビ時代劇「鬼平犯科帳」は、数少ないお気に入りの番組だ。

「鬼平犯科帳」シリーズは吉右衛門以外にも丹波哲郎や萬屋錦之助、それに先代の松本幸四郎も演じているが、私は吉右衛門バージョンが1番だと確信している。

その吉右衛門バージョンを晩年の池波正太郎が「これこそ鬼平だね」と誉めそやしたという話を以前耳にしたことがあり、本当にそう言ったのかどうか、その真偽を知りたいと思っていた。

このGW。
様々な理由で大好きな旅行にも出られず自宅で大人しくしていたのだが、読書だけは絶やしてはいけないと思い、近くのTSUTAYAに立ち寄った。
そこで見つけたのが池波正太郎「銀座日記(全)」なのであった。

鬼平犯科帳を見るまでもなく、池波正太郎は極めて東京的な通な人であった。
芸にしても、食にしても、色にしても、いたるところで「粋」なものを感じることのできる小説家なのであった。
「銀座日記」は1983年から銀座百点に連載されていたエッセイを収録したエッセイ集で、池波正太郎の日常の動きが手に取るように分かって楽しかった。
とりわけ終盤の吉右衛門版「鬼平犯科帳」が始まってからの、初期のエピソードに対する作者の感想が面白かった。
そこで気付いたのが、私が耳にしていた「吉右衛門は鬼平にピッタリ」という発言は、やはり正確ではないな、ということだった。
最初のエピソードは脇の演技者を中心にかなり辛口に評価しており、吉右衛門に関しても決して手放しで褒めているというわけではなかった。
放送回数が増えるに従って内容に納得のいくものが出てきたようだったが、結局、シリーズが何年も続く長寿番組になることなど予想もしないうちに自身が亡くなってしまったようなのだ。

そういう意味で「銀座日記」は鬼平ファンとしても楽しめる作品集であった。

ところで、ここ何年か、1週間か2週間に一度は東京に出かける仕事を続けているが、銀座の店で買い物をしたり、飲食をしたりという経験は未だない。
興味がないこともないのだが、大阪にも銀座に似た場所がないわけでもなく、そういう場所は金額が高くて、店の方もお高く止まっていることが少なくないので客が楽しめないことがないこともない。

「銀座のクラブで遊ぶのは粋がないですね。客がホステスに気を遣って。逆です。その点、京都のお茶屋は違う。芸妓も銀座のホステスとは比べられないくらい勉強していてどんな客にも気を遣わすようなことはしない。」

と、ずっと以前、井上ひさしが言っていたのが銀座へのいささか悪いイメージとして頭にこびりついていたのだ。

今回本書を読んで「銀座で一杯やってみたい」なんて思うようになってしまった。
浪費しないように注意しなければ、危ない魅力を持った一冊なのであった。

~「銀座日記(全)」池波正太郎著 新潮文庫~

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すっかり手に入れることを諦めていた文藝春秋社発行の雑誌「諸君!」最終号を購入することができた。

GW中や明けてばかりの頃はどこの書店を探しても見つからなかった。
先日、大阪難波のジュンク堂書店で別の本を探していた時、駄目元で文芸誌のコーナーを覗いてみたら普通に並んでいたのだ。
雑誌でも増刷することがあるのだろうか。
ということで、定価の800円出購入。
アマゾンドットコムで一冊2000円のプレミア金額で売ろうとしていた古書店の方。
残念でした。

ということで、過去半世紀近くの間、日本の保守的オピニオンマガジンのリーダー的役割を担ってきた文藝春秋社の「諸君!」。
その最終号はいつもの1.5倍くらいもページ数のある特別編集なのであった。
表紙にはメッセージを込めて「日本への遺書」と大きく書かれ、諸君!の休刊がどのような意味を持っているのか。
グレー色した「紅い空気」を暗示しているような雰囲気を湛えていた。
内容は現在読んでいるところなので、感想は後日書くことになると思うのだが、編集後記にはライバル誌「正論(産経新聞社)」への事後を託したメッセージが記されていて諸君!編集部の無念さが滲み出ているような気がしたのであった。

それにしても雑誌というメディアの役目とは何だろうか。
昨今の新聞やテレビの無味乾燥な報道や、事実を曲げて報道しようとする偏向した姿勢は、すでに第三の権力としての信頼性を著しく損なっている。
肝心のマスコミがそういう市井の感覚にまったく気付いていないということろにあると思う。
現にテレビはもちろんのこと、新聞も「議論する」という言論機関としての機能はすでに喪失していると言わざるを得ない状態で、例えばマスコミどうしの闘いといば、3年前のNHK対朝日新聞のような低次元で見苦しい罵り合い程度のことしかできないのだ。

そいういう意味で、雑誌は人々の意見を戦わす絶好の場所であった。
いや、今もそういう場であると思う。
だからこそ、先日の「週刊新潮」によるガセネタつかまされ事件も発生する。
それだけ雑誌には他のメディアではできない、主張する場所としての機能が期待されているわけだ。

現に、雑誌は他のメディアに比べて主義主張がはっきりしているという傾向が強い。

例えば岩波書店の「世界」や「週刊金曜日」が左派の代表であるのなら、文藝春秋社の「諸君!」や産経の「正論」は保守右派の代表
雑誌であった。
とりわけ「諸君!」は、その内容の硬派なことに加えて、かつ、歯に衣着せぬ正論は大いに魅力的なのであった。

「諸君!」が休刊することにより前者の雑誌を支持する人々の中には快哉を叫んでいるかも分からない。
しかしだからといって、前者の人々の意見が中核を占めるような国に日本がなってしまったとはいえないわけで、現に、保守派オピニオンマガジンの流れは「諸君!」がエールを送った「正論」以外にも数多くが創刊し、刊行され続けている。
むしろ「諸君!」なかりせば、という感慨がなくもないくらいだ。

ともかく、学生時代からの愛読誌がひとつ無くなった寂しさは「正論」で代用できるものでもないことは確かだ。

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yahooニュースの記事

なんでもかんでも続編を作ればいいという話ではない。

ちっとも知らなかったのだが、ドリュー・バリモアとスピルバーグが「ET」の続編を製作するという噂があり、それをスピルバーグが否定したという。

ハリウッド映画の不振は目を覆うばかりだ。
大ヒット作品に恵まれず、その凋落振りはアメリカの国力を象徴しているのか。
エンタテーメント力も国家の力に比例しているのかもわかならい実例だ。

でも日本映画が人気だからといって日本の国力が国際的に強いかどうかは大いに疑問だ。

ところで、ETが公開された当時、「ET」は「未知との遭遇」の続編、というような噂があったように記憶する。
「未知との遭遇の続編?」
「UFOに乗っていったリチャード・ドレイファスのその後の物語かな」
なんて思っていたら、「ET」だったわけ。

続編作って成功した映画は正直言って「ゴッドファーザー」だけだったような気もする。
柳の下にドジョウを狙うのは、あまり見上げた姿勢ではないと思うのだが。
どうでしょう。

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出光美術館で開かれている「日本の美・発見1『水墨画の輝き』」を観賞してきた。

出光美術館。
かつて大阪の長堀橋に「出光美術館大阪」があったときは、同美術館の会員になるくらい頻繁に通っていたのだが、数年前に閉館。
今はたしか大阪市立近代美術館分館となっており、一度も足を運んだことがない。
東京の出光美術館を訪れたのは今回が初めてで、やはり大阪とは規模が違うと驚きもひとしおなのであった。

ともかく、今回の「水墨画の輝き」は是非とも観賞したい展覧会だった。
というのも、私は水墨画には関心が少なくない。
なぜなら、私の大学の時の恩師の一人、宮川一夫先生は水墨画が先生の基礎であり、その濃淡の中に色彩を見いだす感覚を磨いたため、世界有数の映画キャンメラマンになったことを熱く語ってくれたことがあったからだ。
以来わたしは水墨画の世界に関心を持つようにこころがけ、こういう展覧会が開かれるとできるだけ足を運ぶようにしているのだ。

今回は雪舟や等伯など、国宝級の作家の作品が展示されており、水墨画の専門でなくても楽しめる内容だ。

会場は多くの来場者で賑わっていた。
平日の夕方ということもあり、多くは年配の人たちで、私のようなサラリーマンの姿もちらほらと見られた。
どれもこれも素晴らしい作品で、美術の教科書で見たことのあるような作品が数多く展示されていた。
とはいえ、私にとって最も印象に残ったのは宮本武蔵の「竹雀図」という作品と葛飾北斎の「亀と蟹図」なのであった。

宮本武蔵がまさか、こんなに素晴らしい「画家」であるとはついぞ知らなかったので、その衝撃は小さくなかった。
筆遣いといい、空間のとり方といい、「まさか、あの宮本武蔵?」と思える内容だ。
まさに「一芸に秀でる者は多芸に秀でる」を地でいっている作品なのであった。

もうひいとつの葛飾北斎の「亀と蟹図」は扇子に描かれた水墨画なのであったが、墨の濃淡を巧みに使った蟹のディテールの表現はまさに近代日本画の基礎と行っても過言ではない、新鮮さをを失わない生き生きとした北斎らしい作品になっていたのであった。

この展示会は今月31日まで。

出光美術館は景色も素晴らしく、恐れ多いことながら皇居も一望できる、かなり洒落たスポットでもあった。

出光美術館

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タイの北部で孤児となった日本人の少年が日本へ帰って連絡の取れない父を探すため、寺院で日本人観光客に写真などを見せて訊ね歩いていたことがタイマスコミの注目となりシキリット王妃陛下まで巻き込んでの大騒ぎになっているらしい。

少年の父は日本人。
母はタイ人。

年間100万人以上訪れる日本人観光客にはあまり縁のない話しかも知れないが、こういうタイに残された日本人とタイ人の混血児についてのは問題は、これまで見過ごされてきているように思う。
もちろんこれはタイだけではなく、日本人が進出しているほとんどの国で起こっている問題で、日本人がその問題に目を背けているだけなのかもわからないが。

今回のニュースを聞いて思い出したのが瀬戸正夫という人の存在だ。

瀬戸正夫。
バンコク在住の写真家。

テレビ朝日のニュース番組などにたまたま出演したことがあるので、その名を知っている人があるかもしれない。
このひと、今回の少年と同じく父親を日本人に持ち、母親をタイ人に持っている。
そして少年と同じく、父親は日本に帰ってしまい、母親に育てられたがその母親とも幼い頃に死別(だったと思う)して、一人バンコクに育った。

「バンコクの灯」というバンコク都内の紀伊国屋書店や東京堂書店で良く目にする瀬戸氏の著書には、そういう数奇な体験が綴られていて、ガイドブックや一般的な日泰歴史書では読めないことが書かれている。

瀬戸氏は1931年生まれ。

当然のことながら氏は戦前からのバンコクを知っており、当時から大勢の日本人がこの土地に居を構えていたことを現在のように見られている。
終戦時に日本の海外資産が官民問わず全て連合国側に没収されたことから、幼い瀬戸氏も家を失う。
この人の苦労は並大抵のものではなかったに違いない。

このような第二第三の瀬戸正夫が今回の少年であり、そのような少年少女は一人や二人ではないということだ。

日本人の父親がどういう人なのかはわからない。
個人的な事情もあるだろう。
日本に家族があれば、少年の存在は困ったものかもわからない。
しかし、人の親であるのであれば、きっちりと責任をとって少年に父として手を差し伸べなければ、この報道に注目するタイ人と日本人の納得は得られまい。

少年に「バンコクの灯」を書かせてはいけない。



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「モノ作り」に過信してはいけない。

先日、週刊誌だったか日経だったか忘れてしまったのだが、その記事の中に「モノ作り」にこだわりすぎて、その落とし穴にはまりこんでしまう危険性についての警告が書かれていた。
要約すると、いくらモノ作りをしたところで販売力がなければ企業は立ち行かない、ということだ。

考えてみれば当たり前のことで、いくら良いものを作ってもそれを販売する能力がなければなにもならず、ただただ技術の高さのみを誇る自己満足の世界に終始してしまうことになる。
あのパナソニックも「二股ソケット」という良いものを開発した上で、松下幸之助という販売の達人がいたからこそ、それを礎に世界企業に発展したのだ。
ホンダにソニー、任天堂にユニクロ。
成功した企業はいずれも販売力がまずあって、その販売する側が求める技術があって繁栄が成り立っている。

「モノ作り神話」は、神話でしかないのかもしれない。

ところで、何か製品を作る、設備を作る、建築土木をする、ということになれば、やはりモノ作りは必要だ。
モノ作りには今世の中に蔓延しているような「神話もどき」も存在するが、やはり哲学がないと成り立たない世界でもある。

その哲学のひとつ。
モノ作りは「芸術」である。

E.S.ファーガソン著「技術屋の心眼」はともすれば近年の技術者が忘れてしまいがちの、モノ作りは、つまり設計は単にコンピュータによる解析や論理だけで進められるものではなく、極めて奥深い、それは芸術のような人間の創造力(想像力)をもってして初めて成り立つものであることを伝えている。

この本のなかで、私が最も興味を持ったのは、その技術をどのように伝えるのかという伝達の技術だ。
図面の書き方についていの創意工夫。
寸法の入れ方。
構造の伝え方。
規格のもちかた。
美しい図面。
分かりずらい図面。
掻き方、書き方。
見方、読み方。

今では当たり前のこの技術も、ルネサンス以降、多くの知恵者たちによってあれやこれやと工夫を重ねて初めてでき上がったものだということに、今回初めて気がついたのだった。
そして、学校の歴史の時間に習うルネサンスという時代が、実際どのように現在の生活にまで影響をもたらしているのかも、この本を通じて初めて学んだのであった。

技術は芸術である。

現代人が忘れてしまいがちなモノ作りの本質がここにあった。

~「技術屋の心眼」E.S.ファーガソン著 平凡社ライブラリー文庫~


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