<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



正直なところ障害をお持ちの方は今回の事件をどう考えているのだろうか。
何のことかというと奄美大島でのバニラエアの1件のことだ。

なんでも車椅子の障害者を車椅子ごと持ち上げてタラップを上がれないので「這って上がらせた」という。
こんな非情なことがあっていいのかということがマスコミの報道を通じて拡散された。
私もそう思った。
なんてことするんだ、バニラエア。
さすが成田で国内線ターミナルと国際線ターミナルを間違えるエアラインである。
ANAグループの面汚し。
そのうちピーチに吸収されるに違いない。

なんて思ったのだ。

でも、よく調べると、どうも違う。
マスコミ報道は障害者側の一方的な情報ばかりを伝えるが、その取材の基本姿勢である相手方、つまり航空会社の言い分はほとんど伝えていないのだ。

でネットを検索すると出てくる出てくる。
クレーマー容疑。
今回の障害者の方は関西では有名なコンサルタントで、困ったさんとしてはちょっとは知られた存在のようだ。
ご本人のFacebookページを見てみるとバニラエアの対応をあざ笑うような確信犯的コメントがアップされている。
しかもそのフォーローには多くの人から批判的意見が掲載されているにも関わらず反省の弁はない。

今回どんな悪辣なことをしたかというと例えば、
・事前に障害者で車椅子が必要なことは伝えずいきなり窓口に行った
・バニラエアは車椅子で搭乗する場合は事前に連絡が欲しい旨告知しているのを無視
・突然の搭乗で困惑するエアライン側に「突然でも健常者と同じように搭乗できるようにするのは義務だ」との意味の発言
・エアラインが搭乗用車椅子(飛行機の通路を通ることのできる専用の狭いタイプ)に乗り換えてもらえるようお願いしても無視
などなど。

なんじゃこりゃ。
というものなのだ。

私の知人にも車椅子生活をしている人が数人いるし、実母は高齢で歩くのが次第に難しくなりつつある。
しかし彼らはこんな無茶は言わないわけで、相手の気持ちも十分配慮して話をするし頼んでくる。
権利を行使する時は責任もあれば義務もある。
なんでもかんでも無理強いするのはいかがなものか。

と、ここまで書いてこの車椅子の人と似たように他人の心に配慮のない話題の人がいたことを思い出した。
言い方はちがうけれども、
「バニラエアーのこのハゲー!」
と怒鳴ったのとこ変わらない。

これも一種の暴力に違いない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




もう7年前になってしまうだろうか。
大阪の近畿大学で開催されたとある化学系の学会でのこと。
私の所属していた研究会もセミナーを開催するというので出席したところ、そのセミナーの来賓は文部科学省の課長なのであった。

「それでは○○課長、ご挨拶お願い致します。」

と研究会の会長を務める東京文京区にあるT大学の教授が紹介した。
演壇に上がった文科省の課長は研究会の意義とその活動を褒め称え、研究内容に対する持論と自分自身がいかに研究会を大切にしているかを滔々と述べたのであった。

ところが内容に「?」というところがいくつかあったものの、相手は大学を統括するお役所のお役人。
楯突いてはよろしくないと、だれもがその矛盾を黙っていた。
少なくともその時点では。

「質疑はありますか?」

とT大学の教授が会場にマイクを降ったとき、一人の壮年の研究者が挙手した。

「いいですか?」
「はいどうぞ」
てな具合に。

彼はゆっくりと質問というか、彼の意見を述べ始めた。
自分の意見は意見として、今文科省の課長が話した内容の矛盾点を非難しないように気を使いながら訂正した。
聴衆はみんな彼の言い方に心のなかで賛同。
かつ、事を荒立てない話術に拍手を送った。

「で、○○課長。今の意見についていかがでしょうか?」

とT大の教授が文科省の課長に振ると、

「その通りですね。まさに私が言いたかったのは。」

件の課長。

吉本新喜劇ならここで全員ひっくり返るところだ。

自分の言ったことがトンチンカンだったことに気がついたのか、課長は意見を180度変更してさも自分が言いたかったのはそのことだとばかりに変節する。
みんな意見が逆に変わったのに気がついていたが、さすがのT大学のセンセイもそれを指摘したらどんな災がふりかかってくるのか分からないので黙っていた。

私はこの時目撃したこの役人の負の本質を今も忘れることがでないでいる。

で、文科省の役人がなにやらおかしな行動をしている。
どう見てもへんてこりんだ。
加計学園の一連のスキャンダルにもならない事件は、どうみても「国立大学への天下りを指摘されて窮地に陥った役人たちの仕返し」にしか見えない。

つい昨年までは得意気になって国立大学の主要職を自分たちの思い通りに操作していたら、
「法律違反じゃないか」
と指摘され甘い蜜を吸えなくなったその腹いせだ。

それをマスコミが騒ぎ立てる様子は、慰安婦問題で現在の新聞の多くが以下にインチキであるのかを露見させられた恨みが作用しているとしか思えない。
インチキマスコミと盗人役人のコラボレート。
そんな馬鹿げた光景を、国民の多くがシラケた表情で眺めているというのが、真実だろう。

学会の講演でいとも簡単に自分の意見を翻したあのお役人。
教育を司る文科省のお役人。
実は彼らこそ、その教育を計画するに最も相応しくないというのをあの時目撃したわけだ。
今の報道を見る限り、政権与党の古臭い政治手法もいまいちだが、それ以上に腐臭のする役人と使命の終わったマスコミは一蓮托生。

秘密の内部メモが出るちう話を聞くたびに、
「なんなのそれ」
という気分になるのは私だけではないだろうな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






東京から来た取引先の部長さんが、
「奈良って大阪から近いね...びっくりしましたよ」
と言われるまで、大阪人である私は地方の人にとって京都と奈良、神戸は大阪から結構距離のあるところという印象が強い場所であることをちっとも知らなかった。
むしろその一言に、
「えっ」
と驚いたのであった。

関西の都市ネットーワークは大阪を中心に西は神戸、東は京都と奈良、南は和歌山と四方八方に伸びている。
和歌山を除いて所要時間は30〜40分程度。
かなり近距離だ。
一方、街の個性は色とりどり。
どの駅を下りても印象がかなり違う。
関東では千葉も埼玉も横浜もどこもかしこもミニ東京になってしまっているが関西では間違っても京都、奈良、神戸、和歌山がミニ大阪になることはない。
そんなことはありえない。
神戸と京都なんかはどちからというと、
「大阪とは別個」
と割り切っており、一緒にされるとむしろ嫌な顔をする。

高校野球のシーズンや阪神タイガースが好調だとテレビやラジオで、
「今日の甲子園、大阪地方は....」
などと放送されると、神戸はおろか全ての兵庫県民が、
「甲子園は兵庫県!」
と訂正する。

京都に至っては今もなお、
「日本の首都は京都」
という信じて疑わない文化があるので1500年も前に一時的に都になっただけの大阪と一緒にされることは神戸にもまして屈辱だと思っている。
「いっしょにせんとおくれやす」
なのだ。

そこへいくと奈良は穏やかである。
奈良が都だったのは、はるか昔なので京都のように首都意識は無い。
さらに奈良県は産業が農業や観光が第一で、多くの県民は日中は大阪へ働きに出ている。
典型的なベッドタウンなのだ。

この至近距離に5つの街があることに目をつけたのが関東の人ではなく外国人。
関西を訪問する外国人旅行者が増加の一途を辿っており、とりわけ大阪滞在の外国人は半端ではなくなった。
このため心斎橋、道頓堀、宗右衛門町、新世界などミナミ方面を中心に、大阪はあたらかもアジアの観光都市といった雰囲気になっている。
正直、大阪人の私としてはウンザリすることもないではないが、街が活気に満ちて商売も繁盛するのであれば歓迎しなければならない現象だ。

彼らの多くは大阪に滞在し日中は京都、奈良に足を運び、大阪で夜遊びするというのがスタイルらしい。
この中でも奈良は京都と比べると地味な雰囲気が濃厚だが、その長き歴史に裏付けされた数多くの神社仏閣を中心にした奥深い文化遺産が主に欧米の旅行客をひきつけ増加させているのだという。

昼間は奈良で大仏さんを参拝し、鹿と戯れ、団子や葛きりに舌鼓を打つ。
で、夜は心斎橋や茶屋町で大騒ぎ。

考えてみれば関西アーバンネットワークはビジネスよりも観光に向いているのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






話題は昨日の続きのような一冊を紹介。

大澤昭彦著「高層建築物の世界史」(講談社現代新書)。

先々月。
休暇のごとく入院していた時に病院で大量に読んだ書籍の一冊がこれ。
古代ギリシャ時代から現代までの高層建築を扱った新書だ。

来月から大阪の国立国際美術館で「バビルの塔展」が始まることもあり、かなり気になっての一冊だった。

そもそも高層建築はいつごろから実際に出現したのか。
私は以前から大いに気になっていた課題なのだが、実際に自分で調べてみるところまでには至らず、今回のこの書物はその欲求を十分に満たしてくれる内容で溢れていた。
例えば最初に衝撃を受けたのはギリシャ時代のアテネの住宅は3〜4階建てのアパートメントだったということだった。

紀元前のあの時代に人々はすでに木造ではあるがアパートに住んでいたという。
この事実は同じ頃、吉野ヶ里遺跡で観られるような掘っ立て小屋のような家に住んでいた日本人と比較すると大いに驚くところなのだ。
また、灯台や教会のようなランドマークになる建物は当時から高さ50メートル級の高さがあり、構造計算なんのそので勇気ある建築家たちが様々な巨大建築を生み出していたことは建築テクノロジーの歴史認識を改めさせるものでもあった。

高層建築といえば幾つかの思い出がある。
まず、小学生だったか中学生だったかの国語の授業で霞が関ビルの建設を扱った話が教科書に載っていたことがある。
地震大国日本でどうやってあのような高層ビルの建築が可能になったのか。
五重塔の耐震性なども併せて解説されるその内容は、メカやテクニカルなものが大好きな私の心をぎゅっと掴んで今も記憶に刻み込まれている。
その後、多くの高層ビルが出現し今ではその霞が関ビルも高層ビルと呼んで良いのかどうか迷うような平凡なビルになってしまった。
周りには霞が関ビルを遥かに超える超高層ビルが立ち並び、どれが霞が関ビルなのか近くに寄ってみないと見つからないぐらい平凡だ。

国家や文化によって高層建築に対するこだわりがあるのかどうかも興味深いところだった。
昨日、深刻な住宅火災が発生したイギリスを始めとする欧州は高層建築に対するこだわりが小さいという。
とりわけ都心部は既存の景観を汚したくないために高層建築には強い規制を掛けている。
歴史とともに歩んできた景観を、簡単に破壊することは認められないという考え方だ。

それと対象的なのは中国。
今や高層ビルが最も多く建設されている国が中国だそうだが、ここは高さを競うこと金に貪欲なこととほぼイコールであり、高けりゃ歴史的景観などどうでもよく街のスカイラインを大きく変化させている。

二つ目の思い出は、他のブログ記事にも描いたことがあるがシカゴのシーアーズタワーに登った同僚が超高所恐怖症であったことだ。
エレベターでスカイデッキなる展望台へ上ると、彼は壁に背中を貼り付けたまま、

「窓に近寄ったら危ないですよ。危険です。わ〜〜〜高か〜〜〜〜」

と一向に素晴らしいシカゴの景観を見ようとしないのであった。

私も高所恐怖症ではあるが高いビルに上ることと、ヒコーキに乗ることは大好きな高所恐怖症持ちなのである。

シカゴのシーアーズタワーに上ること二ヶ月前。
私は台北にある当時世界一の高さだった「台北21」の展望デッキへ上がって日本人と台湾人による素晴らしきコラボレーションを思いきり堪能したところだった。
台北21から北方向をみると松山空港に着陸する飛行機が遥か下方向を飛んでいるのに目が釘付けになったものだ。

というように高層建築は実に面白いのだ。

エンパイヤステートビルは開業当時借りてがおらず8割がた空き部屋だったことや、9.11で倒壊したWTCのツインタワーを設計した日系人の建築士ミノル・ヤマサキの設計した建物は、ついタワーに限らず結構破壊される運命を辿っていることなど技術や歴史だけではなく、そのサイドスートリーのようなものも紹介されていて面白い。
本書は新書でもあり、内容は高層建築の歴史のDigestみたいなところがあったものの、知らないことがゴマンと詰まっていて読み応え十分なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




生まれて初めて映画館で鑑賞した洋画はジョン・ギラーミン監督の「タワーリング・インフェルノ」だった。
サンフランシスコにある138階建ての架空の超高層ビルが舞台。
完成したばかりのビルが中間付近の階の倉庫から出火して大災害に発展するというパニック巨編。
豪華客船が天地逆さまになる「ポセイドン・アドベンチャー」に続く映画ということで当時相当に話題になった。
確か製作はテレビ「宇宙家族ロビンソン」のアーウィン・アレンだった。

私は叔母に連れられ大阪の道頓堀松竹座でこの映画を観た。
今は歌舞伎の常設劇場の松竹座は当時映画館だった。
それまで特撮モノと言えばゴジラぐらいしか知らなかった私はアメリカの超大作の凄さにショックを受けた。
以後洋画、特にアメリカ映画の大ファンになったのであった。

昨夜発生したロンドンの高層アパートの全焼火災。
このニュースの映像を観ていたら自然に「タワーリング・インフェルノ」を思い出した。
あの映画の出火原因はコスト切り詰めで設計士の指定したケーブルを用いずに安物のケーブルを使ったために大火災になってしまった、というものだった。
ビルは新築で完成したばかりだった。
今回の火災になったアパートは1972年の建築ということだが、昨年に全面改装したばかりらしく、もしかすると映画と同じようなことが原因で火災になったんじゃないかと想像したりしている。

超高層ビルというのは高さが高いだけではない。
その階数が多い分、そこにいる人の数も半端ではない。

例えば60階建てのビル。
大阪のあべのハルカスや横浜のランドマークビルがそれにあたるが、1フロアに100人がいるとして60階建ての場合6000人がそのビルの中に居ることになる。
9.11の時にワールドトレードセンターのツインタワーが崩壊して3000人以上も犠牲者が出たのは、超高層ビルの巨大な人口も原因の1つだ。

実際はちょっとしたビルの場合、1つのビルに1万人以上が滞在していると考えていい。
これはちょっとした街の人口に匹敵する。
東京の新宿や大阪のOBPにはこの手の超高層ビルが幾棟も建っているのでその人口は凄まじく、ランチ難民が出てくるのもむべなるかなということになる。

今回焼けたロンドンのアパートは24階建てでそのうち20階がアパートとなっていて戸数は120。
1戸あたりの家族数を4人としたら480人が住んでいたことになる。
果たしてどれだけの人が深夜の火事に気づき脱出することができたのか。
今後のニュースが注目されるところだ。

で、タワーリング・インフェルノで一番思い出すのは映画そのものの凄さもあったが、実は他のところに印象に残る原因がある。
当時、私は小学3年生。
主役のポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンという二人の外国人俳優の顔の区別が暫くまったくつかなかったのが、今では最大の思い出なのである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




久しぶりにラジオで国会中継を聴いてみると、
「なんとかならないのか、この人たち」
と思うことが少なくない。
いや、少なくないというよりもほとんど全編「ええかげんにせい!」と思うことの連続だ。
思わずテレビに文句たらたら言っている老人のように呟いてしまいそうになる。

今話題の加計学園問題にしろ、ピコ太郎同様にすっかり影を潜めてしまった森友学園問題にしろ、国会で議論すべき内容ではない。
もし仮に、そこに違法性があるのであれば、その仕事は検察の役目であって民進党の議員や共産党がお節介約ことではないのだ。

暴走する北朝鮮と韓国をどう扱うのか。
来るべき東南海大地震はどう対応するのか。
原子力発電所を再起動するに際して、もっと慎重にならなくていいのか。
アメリカのトランプのおじさんとテロで保守化する欧州のお友達をどうするか。
貿易問題は。
防衛問題は。
エネルギー政策は。

どれもこれも切迫した問題なのだ。

なのに、やってることは子供だまし。
国民も安倍首相一人の長期政権で良いとは思っていないけど、他に誰がいるのか、というのが本音なのだ。
民進党や共産党、社民党や残りの少数政党のわけの分からない議論に金を払っている余裕はない。

ということで、会議ばかりやっている会社は潰れるといいますが、我が国はどうなることやら......。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )