<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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今年の元旦の新聞を見ていてSDGsってなんだろ〜と思ったのは、もしかしたら私だけのことではなく、多くの人が感じた事かもしれない。

というのも、大手企業がこぞって新聞の一面広告あるいは見開き広告で「あけましておめでとうございます」とご挨拶。
でっかい写真に大きな文字。
デザインも凝って、なかなか景気がよろしい。

でも、これってとてつもない無駄じゃないかと思う。

10万部の新聞があるとすれば1面広告で10万枚。
見開き広告で20万枚。
それだけの新聞印刷用紙を消費するわけで、重さに換算すると新聞紙1面1枚あたりの重さを9グラムとして10万枚で9トンの新聞紙。
20万枚で18トン。
こういう広告を出しているのが仮に10社として(とても10社程度ではありませんが)90トンから180トンの紙が「挨拶」だけに消費されており、まったくの無駄としか言いようない状態だ。

1トンの紙を作るのに100トンの水が要るそうなので、10万部の全面広告に必要な水資源は1000トン。
1トンの紙を作るのに太さ14cmで長さ8mの丸太が30本必要だというので、10万部の全面広告に必要な丸太の本数は270本。
くどいようだが広告を出したのが10社だとしたら1万トンの水と2700本の丸太が必要。

さらに同じ広告を大手5社に出していたとしたら5社合計で水5万トンと13500本の丸太が必要だ。

なお、製造するために必要な電力費と読んだ後の処分費は含んでいない。

ということで、大手企業が中心に声高に叫ぶSDGs。
「あけましておめでとうございます」
と印刷された大きな紙がなんの役に立つのか知らないが、
SDGsの各目標は新聞広告には適応しない、なんてことは聞いたことはない。


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今年のNHK大河ドラマを見てもう一つ気がついたことがある。
それはCGを多用していること。
まるでSF映画やファンタジーのようなセットではない世界が展開していたのだ。
なんじゃいこれ。
空想時代ドラマ、との印象を持ってしまう大きな原因の一つなのであった。

これまでの大河ドラマでもCGは使われていたが、今回はほとんどがCGじゃないかと思われるくらい画面がビデオゲームだ。
美術担当者もそのあたりを狙っているのか、リアルであるはずの衣装の色彩計画も時代考証や服装の基本はどこへやら。
出演者のメイクもビデオゲームのように奇抜でケバく、日本の時代劇というよりも中国映画の三国志を見ているような雰囲気が漂っている。
いや、映画ではなくゲームの三国志か。

このためというかなんというか、ライブシーンが著しくアレンジされているので凝った画面でも薄っぺらく見えてしまう。
製作の本人たちは「大スペクタクル」感覚で作っているのかも知れないが、見ているこっちは「漫画」感覚になっているのだ。
おまけに肝心の脚本も「画面での迫力」が優先されているためか人間が描けておらず、
「こりゃ、演じる役者さんが可愛そう。きっと楽しくないに違いない」
と思うほど登場人物に感情移入できない残念な仕上がりになっているのだった。

このような画面づくりは最近の若いクリエーターの作品に多い。
とりわけ芸大やデジタル系のアート専門学校の学生が作成する画像にこういう手合の作品が多く、
「テクニック」
を駆使し、
「描写力でアッ!」
と言わせ、
「どうだ、すごいでしょ^^」
という仕上がりなのだが、正直言ってパソコンのキーは触れても鉛筆使って手描きのスケッチなど描けそうにないスキルなんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。

これでは高校の文化祭で学生諸君が作っている映像作品のほうがよほど楽しいんはないかと思うのだ。

映画の好きな人ならよくわかると思うけれども、下手なリアルCGよりも手書きの絵や人形アニメーションのほうが感情移入しやすいケースは少なくない。
CGならフォレストガンプの卓球シーンのように、CGと思わせない魅せ方というものがあるはず。

ということで、ビデオゲームに興味のないので次回からの大河ドラマもたぶん見ることは無いだろう。



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映画「ギャラクシー・クエスト」はTVシリーズ「ギャラクシー・クエスト」を遥か彼方の宇宙で見ていた異星人が「本当のこと」だと信じ込んで、それを信奉し、現実化して地球に助けを求めてやってくる、というスタートレックのファンダムをそのままパロディにしてしまったような超良質なコメディなのであった。

ここで問題なのは「TV番組」を「本物」と思っていたという設定で、実はこれが現在の大河ドラマの最も大きな「罪」ではないかと最近考えるようになった。

なんといってもNHKの大河ドラマは歴史上の事実を下地にした長編連続時代劇で、見ているものの多くが、
「ほんまにこんなんやったやろね」
と思ってしまう。
それほどの重厚さがあり、現実味がある。
放送しているのがYoutubeではなくNHKというところにも真実味があるのだ。

ところがこの歴史劇。
とんだ空想時代劇であることを多くの人は実感せずに見過ごしているのだ。
単なる娯楽。
根底は往年のTV時代劇「水戸黄門」となんら変わらないものであることに気づいていない。
このため大河ドラマを見た子どもたちが、
「歴史はこんなんだったのだ」
と思い込む怖さがある。
例えば「戦前の日本は非民主的な侵略国家だった」と教えていた一時期の歴史教育のような悪弊を含んでいる。
みんなが選挙で選んだ内閣が今も偏向報道で定評のある朝日新聞などマスメディアに圧されて戦争に突っ走った事実は無視されている。
そんな感じなのだ。

この「大河ドラマ=空想歴史ドラマ」と私が気づいたは「龍馬伝」を観ていた頃で、私もNHKドラマのマジックに催眠術を掛けられていたのだ。
龍馬伝の最初の方の1シーンで江戸の不清潔な市場や通りが描かれていたのが衝撃敵で、当時来日した外国人が記した日本の印象とはことごとく異なり、中国か韓国のような日本を描いた脚本家は何を考えているんだ!と思った時なのであった。
その頃、ラジオで件の脚本家が出演し、
「私は歴史に興味がなくって、幕末維新にこんなことがあったんだ、と後で知りました」
というような意味合いのことを述べていて、
「なんじゃ?!こりゃ?」
と怒るのを通り過ぎてNHKのドラマ制作の質の程度にびっくりしたのであった。

ということで、本編を観るまでもなく今年の大河ドラマ「どうする家康」。
ますます空想は広がり幻想の大河が流れているようで。
どうするどうする。



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昨夜の紅白歌合戦。
その見どころはもちろん桑田佳祐が招集したオールスター軽音楽部であったことは間違いない。
間違いないが、午後7時20分に放送が始まってから初めてわかったのだが、最大の見所は紅組の司会者だった橋本環奈だったのではないかと私は思っている。
しかもものすごく強く思っているのだ。

何が見どころだったかというかと、単なるアイドルの一人だと思っていた橋本環奈が完璧に司会を熟したことだった。

なぜなら、最初から終わりまで自然な笑顔のままで緊張感を一切見せなかった。
そればかりかセリフ一つ噛むこともなく、アドリブの会話もなんなく熟し、会場の歓声の強弱に配慮した絶妙の間で話を入れ、これら超ベテランのタレントもなし得ないことを「普通に」熟してしまっていたことなのであった。
1000年に1人の美少女は1000年に1人の鉄の心臓の九州女子だったのかも知れないと思った。

相方の大泉洋も難少なく熟していたが、ヨイショを感じさせる部分がかすかにあるところや、終盤についにセリフを噛んでしまうところがついに1箇所出でしまったのと比較してもパーフェクトピッチングな司会だった。
正直言って過去10数年間に見た司会者では最も巧みな司会者だったんじゃないかと思われてならない。

私としては、
「うちの娘と同い年のアイドル・タレント」
程度の認識だったが、どうも間違っていたようだ。

2022年の紅白歌合戦は橋本環奈の紅白なのであった。


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