<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



ずっと以前、
「旅客機でも宙返りがでますよ」
という話をどこかで聞いて、
「ほんまかいな」
と思ったことがあったのだが、今朝のニュースを読む限り、ホントに宙返りができそうで驚いた。

報道によると6日に急降下事故を起こしたANAの那覇発羽田行のB737-700機は、副操縦士の操作ミスでほとんど背面飛行状態だったのだという。

さすが、中型の最新鋭機B737-700。

などと呑気なことは言えない。
なんといっても事故寸前。
背面飛行になった旅客機に載っていた乗客の感覚はいったいどんなものだったのだろうか?
知りたいところだ。

飛行機は進路を変えるときもかなり傾くが窓の外を見ていない限り、分からない事が多い。
もしかすると私の平衡感覚に問題があり耳鼻科で見てもらわなければならないのかも知れないが、ほんとに進路を変えているのが分からない時がある。
ジェットコースターとはえらい違いだ。

そのことから自然に「ぐわ~ん」と傾いて背面飛行になった場合も、もしかすると分からないかも分からない、と想像してしまう。

これもずっと以前、週刊文春のグラビアでカメラマンの宮嶋茂樹氏が航空自衛隊の戦闘機に搭乗し、急旋回や急上昇、宙返りなどを繰り返していただいき死にそうになったというルポルタージュを掲載していたことがあったけれども、旅客機はどんなんだろうと、事故に遭遇した人には申し訳ないけれども興味がそそられる。

なお、何もB787の1号機が納品される日にこんなニュースを流さなくてもいいものを、と思ったのは全日空関係者だけではあるまいに。
もしかするとライバル他社の陰謀かも分からない、と競争激しい航空業界を事故以上に心配する私なのであった。

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「あの人とは、友達以上、恋人未満関係やねん」

などと言いながら、いつまで経っても結婚しない人々が多いのが昨今の日本の社会事情。
私もかつてそんなひとりだったのだが、その「◯◯以上、〇〇未満」という言葉に「中途半端な関係だ」という意味合いが含まれていることには、あえて誰も踏み込まない。
一種のアンタッチャブルになっているのだ。

今デジタルカメラ業界はミラーレス一眼カメラが話題になっているが、これこそ「コンデジ以上、デジイチ未満」という中途半端なコンセプトになっているのだが、これについても誰も深く踏み込まないところを考えると、一種のアンタッチャブルになっているのかも分からない。

今売れ筋だし。
根本的なところを突かれるのはメーカーも販売店も誰も望んでいないことなのだろう。

で、このミラーレス一眼カメラの何が中途半端かというと、コンセプトが中途半端な上に、撮像素子のサイズが中途半端なのだ。

先週発表になっていきなり話題をさらっているカメラにニコンのNikon 1というミラーレスカメラがある。
このカメラはNikonユーザーの私からみても、なんとなく中途半端。
ミラーレス一眼というからには、一般的なデジイチと同等の機能がなければならないのに、撮像素子が小さいばかりに中途半端な状態になっているのだ。

正直、レンズ交換のできるコンデジでしかないように見えてしまう。

撮像素子の大きさは、一般的なデジイチはAPSーCサイズ。
これに対し、ソニー製品を除きミラーレスはかなり小さい。
カタログをチェックするとNIKON 1は13.2x8.8mmしかない。
APS-Cサイズだと23.7x15.6mmだから、その1/4しかないのだ。
これではカメラの基本的な表現能力がどうしても「一眼レフと同じ」とはまったく言えない。

ミラーレスの先駆者であるパナソニックはフォーサーズといって、これもAPS-Cの半分ぐらい。
ソニーだけがAPS-Cサイズでミラーレスを実現している。

撮像素子が小さいと例えば被写界深度を調節して表現する「ボケ」の味が出しにくい。
Photoshopでデジタル的に加工して「ボケ」の味を出すのを良しとする傾向が多少ともあるが、そんなことを言っている人は「ボケ」に「ナス」を加えたいところだ。
このボケナス手法を推奨するのがミラーレス一眼の本骨頂ではないだろうが、カメラ好きの人にしてみれば、コンパクトで表現が良いというカメラは、例えばコンタックスGシリーズのようなものを求めているわけで、なんちゃってデジイチを買い求めたいと思っているわけではない。

ということで、友達以上恋人未満なら恋人がもちろん良いわけで、カメラにしてもコンデジ以上デジイチ未満であるのであれば、デジタル一眼がもちろんベスト。
もうちょっと工夫していただきたいメーカーさんたちなのでった。

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「天空の城ラピュタ」や「火垂るの墓」など、ジブリの作品も含めて数多くのアニメーションの背景画やコンセプトデッサンを手がけている山本二三の展覧会を訪れてきた。
神戸に買い物に出かけてLLビーンに寄った後、神戸市博物館の前を通りがかったら偶然に開催されていたのであった。
しかも、偶然にも本日が最終日で、このブログを見て「おお、ジブリ関係の展覧会じゃないか」と思って出かけても、もう明日からは開催していない展覧会なのであった。

ジブリの作品と言うか、日本アニメーションの作品は作画が美しいのが特長で、毎回それが一つの魅力になっている。
多くの人は宮崎駿自身がその美しい絵を描いているように錯覚しているのだが、実際はそうではない。
多くの優秀なスタッフが一コマ一コマ丁寧に仕上げている。
宮崎駿は監督なので、そのスタッフたちを束ねて統率しているのだ。
山本二三もその優秀なスタッフの一人で、この人が描き上げる数々の絵は、多くのジブリファンを魅了している。

先述の「天空の城ラピュタ」はもちろんNHKTVシリーズの「未来少年コナン」、大阪民放の「じゃりン子チエ」、アカデミー賞作品の「千と千尋の神隠し」などなど、数々の作品を手がけている。

実際に展示会で公開されていた作品は「火垂るの墓」の背景画を中心に、その他実際の映画の製作に使用された「映画用絵画作品」なのであった。

殆どの作品が映画の縦横比に合わされた水彩画だった。
横30cmくらいで縦20cmくらい。
光と影の表現が素晴らしく、知っている映画作品であれば、どのシーンに使われたものであるのか容易に判断することのできるものを中心に展示されていた。
とりわけ「もののけ姫」に使われた村の背景画や、風景はリアリティが強く印象的であった。
また、闇の表現や草木の描写は驚くものがあった。
これらは自分で何か絵を描きたいと思う場合、その筆致を学ぶことでかできる優秀なお手本作品でもあったのだ。
尤も、芸大での私はここ十年以上自分で絵を描くことはほとんどない。
企画書などに添付する絵が必要な場合は絵筆を使うと面倒くさいので、いつもコンピューターにCGを描かせてしまっている。
正直、芸大卒業の企画マンではなく、手抜きマンと言われても仕方がない技量ではあるのだ。

ただ、こんに素晴らしい映画用の背景やコンセプトの絵であっても、絵画として見た場合はかなり物足りなさを感じることも、これまた実感なのであった。

これは随分と以前になるが、京都国立博物館で「スターウォーズ展」が開催された時に、実際の映画のマットペイントを見たときにも感じたものと同じ感覚であった。
つまりどういうことかというと、フィルムに撮影されたものをスクリーンに投影してみるのと、実際に絵画作品と同じようにして見るのとでは大きな違いがあることであった。
リアルに描かれているアニメ用の絵は、なんとなく物足りない。
何かが欠けてしまっているように思えてならなかった。

きっとこれは絵画は人の心のフィルターを通して鑑賞するように描かれている。
ところがマットペイントやアニメーションの絵はレンズを通して鑑賞するようにできているという違いがあり、この違いはかなり重要なんじゃないかと思えたのだ。
また、アニメーションの絵は、それだけでは完結しているものではなく、セル画やその他のエフェクトと組み合わせなければ作品としては、何か物足りないものになってしまうものだとも、思えたのであった。
なお、展覧会そのものは素晴らしく、会場はごった返していた。

雑踏の嫌いな私は祭りもUSJも苦手なのだが、このような有名でポップな展示会は、かなり苦手なのであった。



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「あの、新しいのに機種変更したいんですけど」
「どれですか?」
「この機種です」
「これですか、高いですよ」
「え?」
「高いですよ、手続き代とか、本体の価格とか。買取になりましたからね。」

ぶっきらぼうな携帯ショップの店員は面倒くさそうにそう言って書類を差出した。
私は長らく使っていた携帯電話が古くなり、電池の寿命も短くなって、他の新型ち比べて表示も荒くなってきたので機種変更をするために大阪府堺市内の携帯ショップを訪店した。
しかし、店員のあまりにぞんざいな対応に呆れ返って、そのまま数十メートル離れた別の会社のショップへ足を運び、携帯電話会社ごと機種を変更したのであった。

ボーダフォンがソフトバンクに代わって暫く経ったあと。
私は関西デジタルホン時代から使い続けてきた携帯電話を、auに変えた瞬間なのであった。

その一ヶ月後、ソフトバンクから初代iPhoneが発売された。

随分前からMacユーザーだった私がいつまで経ってもiPhoneを買わなかった。
周囲からは「なんでや?」という声が度々聞かれた。
私がMacを愛用していたことは周囲では周知になっていて、パソコンはMac、携帯音楽プレーヤーはiPodの私がなぜ携帯は普通のau携帯なのか、みんな不思議に思っていたのだ。
でもいくら愛用のパソコンがMacだからといって、オーナーが変わって横柄な会社に変貌した携帯電話会社にはびた一文稼がせてやる気持ちなど毛頭生まれなかった。
したがって、iPhoneを購入する気にはまったくならず、そのまま今日に至っている。

会社というのは不思議なもので、オーナーの人間性が社員の性格にも反映される。
が、こんなにも端的に反映されるとは、これほど露骨な例は後にも先にも見たことがなかったのであった。

一昨日、iPhoneがau から発売されることが決定したというビッグニュースが流れた。
件のオーナー氏は「邪道か正道か、どちらを選ぶかだ」とツイッターでつぶやいたことがさっそくニュースに取り上げられた。
私はすっかり彼自身が自分を邪道と認めたのかと思った。
随分おとなになったものだ、と思ったのだ。
でも、よくよくニュースを読んでみると、まったくそうではないようで、市井の人々の感覚からは異なり、本人側が正道でauが邪道と思っているフシがあるらしい。
さすが震災にかまけて金儲けをしようとするような御仁だけではある。

どっちが正道で、どっちが邪道か。

そんな話は難しいというか、判断の下しようがないように思ったのだが、意外にもというか、やっぱりというか、投資家の人々は株価というカタチで答えを示した。
経済はいつも正直だ。

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理想科学のプリントゴッコの消耗品の生産が終了する。
本体の販売はもう何年か以前に中止されていたので、これでプリントゴッコは製品としての寿命を終了するわけだ。
少し、寂しい。

思えば、プリントゴッコは偉大なシルクスクリーンキットなのであった。

学生時代。
作品発表会やイベントなどのポスター作成はシルクスクリーンを多用することがあった。
心斎橋のカワチか、あべの橋のナカニシ画材店で木枠とシルクと漆紙を買ってきて、枠組みしてシルクを張って、原稿に合わせて丁寧に漆紙をカットし、アイロンで溶着させる。
複数色を使用する時は、位置合わせが大変で、今となってみればシルク印刷屋さんというのは、本当に偉大だと思うことしきりだ。

それを「パタン!」と上げ下げできるプリント台に固定してインクを敷いて丁寧に印刷していく工程が、これまた面倒くさく、
「こんな役回り、もう、やらへんわい!」
と幾度となく思ったものであった。

プリントゴッコははがきサイズながら、この工程のかなりの部分を省略できる、優れもののグッズなのであった。
とりわけ原稿を直接シルクに焼き付ける工程は、精密な絵が描かれるだけではなく、カットしなくてもいい、アイロンで漆の溶けるクサイ匂いを嗅がなくてもいい、という超メリットがあって感動したものであった。

しかも位置合わせも簡単で、多色刷りの楽しみもあり、重宝したものであった。

以前務めていた会社で、試作品の布製の小物を作ったことがったのだが、それにロゴマークを刷るのにプリントゴッコを使用した。
「これ、どうやって印刷したんや」
と社長と上司が聞いてきたので、
「ひ・み・つ」
と言おうと思ったのだが、さすがに20代後半の大の男がもったいぶるのも何だったので、
「プリントゴッコで刷りました」
と正直に告白したら、大いに感動されたものなのであった。

1990年代の終わりごろから、パソコンのプリンタが飛躍的に進歩。
そのおかげでプリントゴッコの活躍する場所が少なくなってしまい、私も世紀が変わる頃に従姉の娘にくれてやってしまったのであった。

そんなこんなで、プリントゴッコの完全終了はある意味、自分のデザインを支えた小道具の消滅でもあり非常に寂しい。
尤もプリントゴッコで倒産寸前の会社が復活し、以後リソグラフや様々なプリンタを開発している理想科学の人達にとっては、もっと寂しいものに違いない。

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イスラム教というと、どうしても厳しい戒律、日本人の感覚からは理解しがたい宗教的の強さ、狂信者、テロリスト、といった負のイメージがつきまとうことが多い。
これはイスラム教が日本では日常生活でほとんど接することのない宗教文化だからであり、普段はテレビや新聞などで伝えられる「事件」ばかりが目に止まり、プラスのイメージをなかなか持つ機会が無いからに違いない。

ドイツの冒険小説家カール・マイの作品「砂漠への挑戦」では、主人公のカラ・ベン・ネムジの従者にオマールと言う名のアラビア人がいる。
このオマールは魅力的な男で、勇気と知恵に優れたカラをも凌駕してしまうような、頭の回転が早く機転を効かせられる有能な従者なのだ。
このオマールが熱心なイスラム教徒なのだ。
だからキリスト教徒である主人、からをイスラム教徒へと改宗させようというのが、彼の密かな目標でもある。
目標である、といってもネチッコく執拗な、という感じはまったくない。
むしろアッラーの神を敬い、誠実そのもの。
その真面目さが彼の魅力でもある。

実は私はこの物語を今から30年ほど前にFM大阪のラジオドラマ「音の本棚」で初めて知り、その魅力にとりつかれたのだが、私のイスラム教徒に対するイメージは長い間、このオマールが代表していた。
だから「変わった宗教だな」というイメージと共に、プラスのイメージを抱いていたのであった。

このイスラム教に対するイメージは度重なる原理主義者たちのテロ行為や、アフガニスタンの仏像破壊などで壊されてしまっている。
私も9.11からさほど経っていない頃、電車の中でコーランを読んでいる人をみかけて、少しビビってしまったことを記憶している。
しかし、実際にモスクを訪れると、異教徒である私にもにこやかで親切にしてくれる人々がいるのも事実であって、やはり千四百年もの長きにわたって多くの人々に信仰されている宗教であるわけだ。

そのイスラム教の戒律に従って運営される金融機関が、ここ十数年世界に大きな影響を及ぼし始めているという。
その最大の特徴は「利息を取らないこと」。
一般常識からすると利息をとらないでどうやって営業をするのか、はなだは疑問だが、そこはイスラムルールを適応して遠まわしに利益を確保する。
その方法が、なかなかわかりにくい。

「イスラム金融入門ー世界マネーの新潮流」門倉貴史著(幻冬舎刊)はそういうイスラム金融について、一般の人にもわかりやすく書かれた解説書だ。
実際、イスラムという日本人にとって関わりの薄い文化を基礎に動く金融について、その概要を知ることができるのが最大の魅力だ。

とはいうものの、やはり理解しにくい部分がたくさんあるのもこれまた事実。

21世紀は欧米、日本以外の様々な文明が世界の表舞台に次々に登場していく100年なのかもわからない。

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アメリカの大気観測衛星が落下してくるのだという。
重量が5.6トンもあるので破片が地上に落ちてくる可能性があり、そのうち人に当たる確率は3200分の1。

これって3200人に1人に破片がぶち当たるという意味なのだろうか?
意味がわからないのだ。

確率で意味がよくわからないのに聞き流しているものの中に天気予報の降水確率がある。
この「人工衛星の破片が当たる確率」もよくわかない。
3200分の1というのは3200個のパーツがあったら1個は人に当たるかも知れないということなのか、3200人に1人の割合でコツン!と当たることなのか、説明が不十分だ。

いずれにせよ、人工衛星の落下予報は、傘を持ったらなんとかなるというものではなく、かなり物騒なシロモノだ。

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島田紳助が暴力団と深いつながりを持っていたことを理由に吉本興業を退社。
タレント人生にピリオドを打った事件はこの夏最大の話題だった。

反社会組織とのつながりというのは、それだけ人々から蔑まれ行為で、だからその人がパブリックに現れるのは好ましくない、ということで社会の表から消されていく。
紳助の場合は付き合っていたのが組の親分でも、本人は暴力団でも最下層のチンピラのような役割を果たしていたようで、その部分がかなり情けない。
空港で声をかけられた若者に凄んでみたり、女性マネージャーに大怪我するような暴力を振るったり、新聞沙汰は少なくなかった。
また、普段でもテレビ番組でも若手芸人に意味不明な挑発や乱暴をはたらいたり、暴言を吐いていたのは誰もが見ていて、「紳助、何様?」という印象を持たれていたことも、これまた確か。
だからテレビから消えても、ほとんど視聴率に影響が出ない。
そもそも暴力団が悪いと言うよりも、暴力団のダークサイドなパワーを背景に威張っていたのが情けないのだ。

その社会の嫌われ者、ダークサイドな暴力団の最大組織、山口組が先の東日本に震災や16年前の阪神大震災で大活躍したことは週刊誌や口づての情報で有名だ。

阪神大震災の時は親分自らが陣頭指揮に立って子分を大量動員。
大規模な炊き出しをして無料で市民に配布。
今回の東日本大震災でも関西や関東からトラックで被災地の避難所へ乗り付け「ボランティアです」と炊き出しをして批難している人たちに無料で食料を振舞った。
どうみても「その筋」の人たちなのに「ボランティア」というのはどこか滑稽だが、これがもしかすると日本の任侠の海外とは違う「正義」なのかもわからない。
先の阪神大震災の時は、それを海外メディアが報道した。

週刊新潮にコラムを連載している高山正之。
この人のコラムは毎回痛烈で面白いのだが、その内容に共通するのは日本人の価値観は外国人のそれとは大きくことなること。
往年の竹村健一と異なるのは、それは日本の方が正しく、外国のほうが「人々にとって」少しくおかしいというということだ。
しかも外国の、とりわけ米国や中国は平気でウソを付くということが述べられている。

あのハーバード大学のマイケル・サンデル先生はハリケーン・カトリーナで大規模な被害を受けた地域で、よろずやが価格を何倍にも釣り上げて被災市民に生活品を売りつけようとしたことを当然のことのように「どう思う?」と学生に訴えかけている。
価格を上げるのは当然だと思うけど、どう?という感覚だ。

これ、日本人からすると「ヤクザにもほどがある」ということになり、正義ではない。
先述したように災害時の日本では「ヤクザ」も無償で奉仕する。
そういう時にはヤクザの団結力は市民にとって非常に頼りになる存在になる。

「苦しいのはお互い様ですから」と2000円相当の食品を600円で販売した宮城県だったか福島県のスーパーがあるのも日本ならでは。
一般市民も奉仕なら、ヤクザも奉仕。
自衛隊、消防隊、警察に至っては命をはってまで奉仕する。
それが日本。

そういう「日本」が変な国だと報道する朝日新聞や海外勢力に断固とした主張を自身のコラムで展開する。
高山正之著「サンデルよ、『正義』を教えよう」(新潮社刊)。
今回もまた、一気に読んでしまった痛快コラム集なのであった。

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「あまり縁起のよさそうなマークじゃないな」と思っていたクールジャパンのロゴマーク。
なんと盗作疑惑が浮上しているのだという。

エライコッチャ。

ニュースによると日本オリンピック委員会のロゴマークとそっくりだというので、さっそくチェックしてみると、似ています。
オリンピック協会のロゴマークは左側に伸びている日の丸の溶け出した炎が二重になってたなびいている図柄で、日の丸の中に白抜きでJAPANの文字。
マークの下には五輪が描かれており、それなりにバランスのとれた図柄になっている。
デザインしたのはコシノジュンコ。
著名なファッションデザイナーで来月から始まるNHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」の主人公小篠綾子の二番目の娘さん。
つまりは大阪岸和田のおばちゃんがデザインした図柄なのだ。

岸和田は昨日から全国的に有名な「だんじり祭」が開催されており、だんじり祭の神様が、天から盗作を指摘したのかも分からない。
なお、その図柄をパクった疑惑が浮上しているのは、先日もここに書いたように東京で活躍する佐藤可士和という人で、セブンアンドアイなどのロゴなのど実績があるようだ。

政府は「模倣ではない」と噂の打ち消しに必死だが、どうみたって似ているから仕方がない。

もともと日の丸はそれそのものが非常に完成されたデザインのため、アレンジしにくい国旗ではある。
したがって、どういう状態が一番訴求力があり美しいかというと、オリジナルのままが美しい。
だから東京オリンピックのポスターででかでかと輝いていた赤い丸は赤玉ポートワインのマークを除き特別な意味を持っていると思う。

例えば世界史上最も成功したといわれている博覧会「EXPO70大阪万博」のマークは、教えてもらわないと、どこに日の丸が入っているのかわからないデザインになっている。
基本は桜の花をかたどっているのだが、その中央の「小さい●」が日の丸をイメージしているのだそうだ。
私はそんなことも知らずに、その日の丸の部分が軸になった独楽を持っていて、子供の時にクルクルろ回して遊んでいたのだが、それだけ日の丸をイメージし、落としこむのは難しい。

今回のクールジャパンのロゴマークは野田首相が選んだそうだが、いかに日頃からデザインについて勉強していないのかが公になった格好だと思う。
尤も、歴代総理大臣がデザインの勉強に精を出している、なんて聞いたことはないが。



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この春先にデジタル一眼のニコンのレンズが故障しているのに気がついた。
18-200mmのレンズなのだが、望遠側でピントが合わなくなってしまったのだ。

「おおお、えらいこっちゃ」

18-200mmのレンズは私が購入した5年ほど前は超人気レンズでなかなか入手困難だった。
当時私はデジイチを持っておらず、機会があったら買おうかな、と思っていたところだったのだが、ある時、近所のカメラ屋さんに寄って何気なく、

「ニコンの18-200mmのズームレンズって、あります?」

と訊いてみた。
するとカメラ屋さんの店長は麻薬の売人のように声を潜め、

「実は.......1本あります。」

と私の耳元でささやいたのであった。

インターネットでプレミアが付いているくらいに人気のレンズだったし、カカクコムの書き込みには予約してから手に入れるまで「3ヶ月はかかるレンズ」とも聞いていたので、

「うううううう.....それ、買います」

と、衝動買いしてしまったのであった。

清水の舞台から飛び降りるような間隔で購入したので、カメラ本体は当時最安のD40という機種だった。
ボディは標準レンズキットで18-200mmのズームレンズの半額なのであった。

その思い出のズームレンズが故障して修理をしなければならなくなったのだったが、修理にいくらかかるのかネットで調べると、どうも2万円ほどかかるらしい。
正直、ショックなのであった。
2万円なら、新しいコンデジが買えるような金額ではないか。

結局、何ヶ月間か修理することをためらい続け、その間、コンデジで対応していたのであったが、どうしてもコンデジでは対応できない写真があり、思い切って修理することにして、梅田にあるニコンの修理センターに持ち込んだのであった。

「すんません。これ、修理して欲しいんですけど」
「はい....ああ、な、緩んでますよね。ここが」

なんと、レンズの先端部分が緩んでビヨヨヨ~ンとバネみたいなものが飛び出しているのだ。

「おおお!ここまで、ボロボロになっとったんか」

と心のなかで叫んだ。

「2万円で済まんかも」

と続けて叫んだ。

「このゴムも、劣化していますね。交換したほうがいいですね。これ、500円ほどしますがいいですか。」
「......はい。」

そうか、2万円のうちの500円。大した影響ではないし、修理するなら徹底してもらって。

「悪いところはよろしくお願いします。」
「一時間ほどかかりますが、どうしますか。」
「ちょっと近くで所用を済ませて戻ってきます」
「ではお預かりしますね」

梅田界隈でウロウロしてもどってきた。支払いはクレジットカードを使用するつもりだった。

「修理できてますよ。ここ、交換しましたし、ご確認ください。」
「はい。」
「よろしいですか。」
「どうもありがとうございます。お幾らですか?」
「部品代ともで....12◯◯円です。」
「?」
「12◯◯円です。」
「そんなに、安いんですか?」

この瞬間私は「ニコンにしてよかった!」と心のなかで叫んだのであった。

簡単な修理は2万円もしなかったのであった。
たぶん、レンズにひびが入ったり、カビが生えたりした時は2万円以上の修理費がかかるのだろうが、今回の故障は超単純なものであったらしいのだ。

それにしても作業費も含めて1300円以下とは驚いた。
ビデオデッキの簡単なゴム部品の交換だけで技術料8000円を請求された大手家電S社とはエライ違いだと思った。
やはり本業に徹底し、創業者の意に反して保険業や銀行業に手を出すようなところの製品はいかがなものかとも思った。
やはり、帝国海軍の潜望鏡の製作以来、光学製品一筋のニコンはなかなか優れた、だてに世界一のカメラメーカーではなかったと感動することしきりなのであった。

同時に、修理が1200円ちょっとで済んだことは、嫁さんには内緒にしておこうとも思った私なのであった。

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