不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



カミさんが使い続きてきたcore 2 duo搭載のiMacが私のように酷使され続けたためか、最近頻繁にフリーズするようになった。
「こりゃあ寿命かな」
「もうあかんみたい」
カミさんはちょっとした雑誌の編集やブログを担当しており、iMacの使用は私に負けず劣らぬハードぶり。
ここんとことりわけiMovieの編集時にFreezeを繰り返すため30分ほどで終わるような編集作業に2時間もかかったりしてイライラすることが少なくなくなっていた。
もともとこのiMacは私の使っていたお下がりで、私は3年前に新しいiMacを買ってもらい、それを自宅の仕事に使っている。
私は3DCGを作成したり、ビデオ編集もファイナルカットなるソフトを使うのでマシンへのストレスはカミさん以上にあるという。
なので私はストレス無しに仕事が進むのだが、カミさんは反対にストレスだらけ。
ついに新しいiMacを購入することになった。

購入に際して新しいiMacをカミさんの私のどちらが使うのかが注目されるポイントとなったのだが、
「あなたのほうがハードに仕事をしているんだから、新しいのはお父さんが使って。私はまたお下がりをもらうわ」
とカミさんはすんなりと新しいiMacを私に譲ってくれることになった。
こういうところは優しいカミさんなのである。
但し、しっかりと稼げという意味に受け取れなくもないことはない。

新しいiMacを購入するに際して実は大きな問題があった。
OSと手持ちのソフトを相性の問題だ。
3年前に買ってもらったiMacは購入した時のままのOS「Mountain Lion」を使い続けた。
これまでの3年間に新しいバージョンのMac OS「Yosemite」と「Marveric」が出てきたが、どちらもアップグレードしなかった。
仕事で使っているソフトが動かなくなるかもしれないからなのであった。

いくつか常時使っているソフトウェアで使えなくなると極めて困るソフトが、実はワープロソフト「ezword」。
かつてこのワープロソフトはMacではスタンダードな日本語ワープロだったのだが2008年に販売終了。
2009年からはサポートさえなくなってしまい、
「何すんじゃい、この会社は」
と怒りと困惑が綯交ぜになり、具体的な解決策を見つけることもできずに今日に至っている。

なぜ、そんなにezwordに拘るのか。
その理由は何もAppleユーザーだからMSwordは使いません、というようなちゃちいものではない。
ezwordは日本語ワープロとして絶対に必要な縦書きの編集に富んでいて、しかもタッチは軽く、文書は美しい。
400ページを越える文章を作成しても速度が落ちたりフリーズすることもない。
段組簡単、画像差し込み簡単、エディターとしても優秀だった。

縦書きということについてはMacでは他に選択肢がほとんどなく、まさかAdobe Illustratorでワープロするわけにもいかず、販売終了7年を経過した今もワープロはezwordを使っていたのであった。

今回購入することになったiMacのOSは「ElCapitan」というバージョン。
果たして動くのかどうか。
動かなくなったらMSwordを使うしか無い。

ネットで検索したら多くのezwordユーザーが勇敢にもElCapitanにアップグレードしてその結果を報告していた。
それでみると「ezword universal 2」というこの製品では最後のバージョンであれば「動いた!」というレポートが載っていた。
しかし「ezword universal」では「死んだ」というレポートが有り、緊張することになった。
で、私のezwordのバージョンを恐る恐る調べてみると、なんと「2」であることが判明!
これは使えそうだ、と喜んだのは言うまでもない。

しかし、念には念を入れて。
と、いうことでほとんどezwordを使わない会社から支給してもらっている昨年購入のMacBookProをElCapitanにアップグレードしてみた。
するとどうだ、ezwordは立ち上がり、編集画面がでるものの、入力しようとキーを叩いた瞬間にフリーズしてしまうのだ。
「なぜだ!」
私は叫んだ。
但し心のなかで。
ホントに叫ぶと「危ない人」になってしまうので注意が必要だ。
ウィンドウ隅の赤いボタンをクリックしても閉じないので「強制終了」させるしかない。
何度起動させても同じ症状がでる。
これは、ネットのレポートは嘘っぱちではないか。
と愕然としたのだった。

新しいiMacを買わなければカミさんのイライラを解決することはできない。
しかし、ezwordが動かなければ買う意味が無い。
カミさんは私の使っているiMacをすでに使うモードになっているし、できるなら私も新しいのが欲しい。
新しいおもちゃがほしいとねだる子供のようだが、男というものは元来そういうものである。
威張れないけど。

そんなこななしているうちに、今回購入のiMacには仕事の都合上Windows10を入れることになった。
会社の仕事ではWindows版しかないソフトを使うことがあり、以前から検討課題になっていた。
今回新しいiMacを購入するにあたり、Windows10も一緒に買って1台2役にしようと決めたのだ。
問題はMac起動時にMac OSなのかWindowsなのかを選ぶのか、仮想PCのソフトを購入してその中でWindowsを使うのか。
前者だとWindowsを購入するだけで済み、余計な費用はかからない。
でもこの方法だとWindowsで作成したデータをMacで使うため、あるいはその反対の場合でも、いちいちマシン終了させ再起動させて2つのOSのうちのどちらかを選ぶというプロセスが生じてしまう。
面倒くさい。
しかし仮想PCソフトを使うと見かけはMacOSの中でWindowsが動くので、双方のウィンドウをマウスでドラックアンドドロップするだけでデータのやり取りができてしまう。

悩んだ結果仮想PCソフトを購入することにした。

仮想PCソフトには大きく2社の製品があった。
どちらも「うちの製品が優れている!」と自慢していて価格も似たようなものなので随分悩むことになったが、このなかで面白い表記を見つけたのだった。
なんでもこの仮想PCはWindowsを始めとして200種類程度のOSをMac上で起動させることができるという。
ということは古いMacOSを使用するとezwordをそのOS上で運用することができるんじゃないか。

Windows10を使用しようというところから思わぬ副産物を得たのであった。
私がMacを使い始めた時のOSは漢字トーク7.5というバージョンで、その後Mac OS8からだいたいのCDないしはDVDを持っているので古いMacを今のMacで動かすことができる。

決まれば早いもので、私はカミさんと大阪市内の家電量販店に出かけiMac、Windows10、仮想PCソフトを購入。
自宅に戻って早速移行作業に入った。

移行作業は簡単なのだが、いかにせん時間がかかる。
従って夜、作業を行い双方のiMacのデータやりとりの間は寝ることにした。
なんといっても4時間はかかりそうだったので、ぼ~と見ているわけにいかず、かといって使えないので寝るしか無かったのだ。

で、朝。
どうなっているんだろうと移行作業を確認すると終了しており、私は新しいiMacを立ち上げた。
動作を確認して異常がなかったらWindowsをインストールしなければならないし、他のソフトが動くかどうかも大いに気になる。
問題がなければ移行が終わった古い方のiMacはフォーマットしてカミさんのものに設定し直す必要がある。
これも時間のかかる作業だ。
3DCGのソフトを立ち上げる。
問題なし。
iWorkの各種ソフトはAppStoreにアクセスしてアップグレード。
ファイナルカットやモーションもアップグレード。
そこそこ時間がかかる。
さて、ezwordが使えないことを考えて保険として実はMS-Officeも買っていたので、それをインストールしようと思ったまさにその時、私はezwordを起動してみようと思ったのだ。
どうせ動かなくても仕方がない。
ペン画をしたアイコンクリック。
やがて入力画面が開いた。
ここまではMacBookProと同じだ。
これで編集を始めるとフリーズするはず。
と、私はキーを叩いた。
するとどうか。
普通に今までどおりに日本語ワープロとして編集できるではないか!
縦書き、横書き関係なく。
しかも買ったiMacがRetinaDisplayだったので、これまでにない美しい編集画面のezword universal2になっていたのだ。

2008年に販売を終了したソフトウェアが今も動く。
長年Macを使い続けてきたが、最も感動したのはこの瞬間だったのかもわからない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




映画といえば今最大の話題はスター・ウォーズ。
1977年に公開されてから全世界に膨大なファンを抱え、その10年ぶりの新作が公開されるといって全世界的にお祭り騒ぎの様相だ。
なお、日本での初公開は1978年だった。

他に007も公開されていて大作映画が話題を独占する年末年始ではあるわけだが、先日私は小作品ながらホッとする映画に出会った。
タイトルは「マイ・インターン」。
ニューヨークを舞台にした現代ドラマで主演はアン・ハサウェイとロバート・デ・ニーロ。
アン・ハサウェイは「インターステラ」というSF映画に出ていた女優で、私が見たのはこれが二作目。
デ・ニーロは説明の必要はいまさらない。
私は三年前に見た「ニューイヤーズデイ」以来久々のご対面なのであった。

物語はファッション関連のネット通販会社を舞台に、ハサウェイ演じる主婦上がりの企業家社長とかつては電話帳制作会社のベテラン部長だったデ・ニーロ演じる老新入社員の交流を描いた心温まる交流を描いたもの。
テーマ的には少々重いのだが、それが総じて軽くて楽観的なのはアメリカ映画の個性であって、特撮ばかりが目につく最近の映画の中で私はこういう普通の映画を見るとなんとなく故郷へ帰ってきたような安心感があった。

この映画の最大の魅力は実はロバート・デ・ニーロ。
その老紳士ぶりは優しくて経験豊富で、何かこう相談したくなる人となりなのであった。
しかも妻に先立たれたシニアというその設定から、ピクサーアニメの「カールじいさんの空飛ぶ家」のじいさんを彷彿させるものがあり、より一層魅力を発揮していたのだった。

全編に流れる音楽も素敵だし、何より肩が凝らないのが良かった。
DVDが発売されたら買ってみたいと思う映画だった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






関西空港の外国人利用者数が来年は成田空港を上回る勢いらしい。

昼間、関西空港から大阪市内に向かう南海電車の急行やJRの快速電車はとびきり巨大なスーツケースを引きずった外国人旅行客で混雑している。
途中駅から座ることが困難なのは言うまでもなく、加えて少々車内が喧しいというおまけまでついてる。
理由は簡単で中国人、韓国人が嫌いなはずの我が国大挙押し寄せ観光という名のもとに大騒動しているからだ。
おかげで台湾からの観光客は、
「中国人と一緒にされてはたまらない」
と無口になっているという。
気の毒な話ではある。

この外国人観光客の劇的増加で迷惑をしているのは何も台湾人だけではない。
当の日本人も迷惑しているのだ。
外国人が増えているからかどうかはわからないがここ数回、飛行機に乗るのにチェックインをしてから検査場を抜けるまで45分もかかってしまうことがあり非常に困惑していることろなのだ。
普段、ANAを利用するのであればチェックインそのものがカードかスマホで即実行。
非常に便利なのだが、これがピーチとなると話は難しくなる。

ここんところ二週間に一度の割合で仙台へ出張している。
仙台に新しいオフィスを借りることになったので、その手続やらなんやらでバタバタしているのだ。
もちろん私が借りるのではなく、私の会社が借りるのだが、そこで業務をするのは私ではない。
今の仙台の事務所に勤務しているもののうち、何人かがそこを拠点とすることになっている。
仙台に転勤という意味ではないので念のため。
おかげで東京に加えて仙台を含めて行き来することになった。
これはかなり疲れる出張の連続となっている。

例えば、先日などは一日のうちに関空から仙台に入って午前中に用件を済ませ、牛タン定食も食わずに東北新幹線で東京へ移動して上野で大して美味しくもない中華を食べてまた打ち合わせ。
それが終わって、新橋で一杯飲んでから羽田空港から関空へ戻って来るという、まあ一見忙しそうに見えるが、実は無駄の固まりのような動きをしていたりしたのだ。
従って疲れが非常にたまりやすい。
その原因が飛行機の移動。
さらに絞り込むとLCCピーチでの移動が問題なのだ。
「ANAかJAL乗ればいいじゃない」
と言うなかれ。
うちのような中小企業は経費を節減することを美徳と心得ている総務担当者なんかがいたりするので出張族は苦労することになる。

そもそもピーチが就航した頃は私もお上りさんなので、
「LCCって思ったより乗り心地がええやん」
と思っていた。
ところがこれに何回も乗っていると流石に疲れてくる。
座席は乗合バス並の狭さで身動きできない。
ドリンクサービスもなく、何か飲みたいと思ったら有料で買わなければならない。
しかし、買ってもいいと思っても買うことができる人は通路側に座っている人に限られ、窓際に座っていると通路側の2人に気兼ねして買うことがなかなか難しい。
客室乗務員の質は上下かなり開きがある。
とりわけアナウンスに特徴があり、ある人は関西弁丸出しだし、ある人は英語のアナウンスの時にメチャクチャな速さで、しかも日本人訛りのガクガクした英語で話すので聞いていてイライラしてくることもすくなくない。
運賃相応だから仕方がないと諦めるしか無いのだ。

やはり空の旅はANAかスターフライヤーなのだ。

実はこの仙台行きに乗るのが大変なのだ。
朝の仙台行きは関西空港を7:10に出発する。
このため空港には6:00には到着しておく必要があり、畢竟電車は初発に乗ることになる。
夏はまだいいのだが、冬は寒く、駐輪場も開いていないので哀しい気分で自宅を出発することになる。
ところが先述したように関西空港は24時間空港ととしていっちょ前に機能しているために、初発の関空行きはすでに混雑していてたいてい座れない。
空港駅に着いてもまだここからバスに乗らなければならない。
ピーチの出発はターミナル2からなので駅からはバスで移動することになる。

問題はターミナル2に着いてからだ。
倉庫のようなターミナル2に到着するとピーチは自分でチェックインをしなければならない。
国内線は8台並んだパソコンの前で自分の予約ナンバーをインプットするか、チケットをバーコードで読み込まなかればならない。
「スプレーなどの危険物は持ってませんか?」
などのアンケートに答えるとレシート上のチケットが発行される。
ここで運命の分かれ道。
もし荷物を預ける場合は検査場を抜けるまで45分。
荷物を預けなければ、運が良ければ5分ほどで抜けることができる。

しかし朝のピーチは厳しい。

仙台だけではなく、鹿児島、成田、石垣、那覇、新千歳など東西南北に向かって一斉に出発するためお客の方も一斉に集まっており、大混雑となっている。
手荷物預けの検査器械は2台しかない。
その先のカウンターは3つだけ。
スムーズなANAがエコノミーでもプレミアムクラスに思えてくるのはこの瞬間だ。
各方面を順に呼ぶため、異常に時間を要することになる。
ここを通過するのに20~30分。
やっとのことで預けたら、今度は検査場前で長蛇の列。
並ぶものの一向に前へ進む気配がないまま15分ほど経過すると、

「仙台へ出発の方はいませんか~~~~?」

とスタッフが呼びにくる。
まもなく搭乗が始まる時間になるので優先的に検査場へ導いてくれるというのだ。
そういうことなら最初からそうせんかい!
と叫びたくなるのをグッと我慢して指示される検査場へと向かう。

結局1時間も前に空港に到着しながらロビーでゆっくりと寛ぐこともできずに飛行機に乗り込むことになる。
というのが仙台出張の苦行なのである。

検査場を抜けるまで45分。
LCCは見えない時間をロスするエアラインなのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




難民問題が深刻だ。

イラク北部からシリアを中心にイスラム過激派集団ISが展開する地域から多くの人びとが脱出し、ヨーロッパを目指している。
その人数、数百万人。
子供の頃に習ったゲルマン民族の大移動を彷彿させる雪崩のような数だ。
問題はその大量発生している難民にISの戦闘員が混じっていることで、彼らが起こすテロリズムの国際社会に与える負の影響はあまりに大きい。
また彼らの大部分はヨーロッパとは文化も宗教も価値観をも異にするイスラム教徒。
移民後に問題にならないはずはなく、それが国際パワーバランスの均衡を打ち破ってしまう可能性も秘めている。
この大量の難民をヨーロッパ先進国は受け入れるというが、私は個人的な意見として、そんな寛容な態度を示す必要があるのかどうか。
旧宗主国という立場に配慮しても十分に考える必要があるのではないかと思っている。

世間一般に流れているマスコミ報道や社会活動家たちの発言と異なり、私は難民は容易に受け入れる必要は無いと思っている。
というのも、難民の人たちは自分の生活のみを考えて自分の国を愛する気持ちが十分ではないのではないかと思えてしかたがないのだ。
「それはあんた、間違っているよ」
と言われる人も多いであろう。
しかし日本というガラパゴスな国家で生を受け、歴史を学んできたらどう考えても難民はおかしい。
なぜあらゆる手段を講じて自分の国を護ろうとしないのだろう、かと。

サミエル・ハンチントンは「文明の衝突」の中で日本を他の世界とは切り離された1つの文明圏と捉えていただが、あながちわかならないこともない。
なぜなら歴史的文化的に世界で常識的に存在したもので、日本では存在しなかったものがあるからだ。
例えば奴隷制。
日本史ではまったく習わないのが日本の奴隷制。
習わないのは当たり前で歴史上奴隷制は存在せず、人を奴隷扱いすると古の時代からそれを「犯罪」と呼んだ。
だから都から女を立ちしてにした大江山の酒天童子は成敗された。
文明開化の時に中国人奴隷を満載して横浜に入港したペルーの奴隷搬送船マリアルス号は日本の官憲により検挙され船に繋がれていた奴隷を解放。国際社会がビックリした。

難民も同じ。
日本では自然災害に巻き込まれて住まいを奪われ、そこが自然条件の変化により住めなくなることを除いて、そこを放棄することはまずない。
先の大戦でも明らかなように自分の国を捨てることは考えに無く、追いつめれた場合は戦うか自決するかのどちらかを選ぶ民族だ。

この感覚は島国で逃げるところが無いこともあるが、例えばベトナム人であればそういう日本人の感覚は理解できるのではないかと思っている。
ベトナム人は先の大戦以降、最後のアジアの戦いとなったベトナム戦争では時に一般市民までが戦闘員となり欧米からの独立と南北統一という目的に向かって邁進したわけで、戦争しているから国外脱出は多くの人が考えなかった。
「それは違うよ。ベトナム戦争が終わってからボートピープルとなって国外に脱出したベトナム人が多勢いたじゃない」
と反論するなかれ。
彼らのほとんどは華僑、つまり中国人だった。
だから「ボートピープルに救いの手を」とかなんとか人権団体等が声高々に叫んでいた頃、外務省はほとんどボートピープルの日本受け入れを認めなかった。
中国人と知っていたからだ。

話は逸れたが日本の物語にはISのような悪が出現するとそれを退治する人が出てくる話が少なくない。
桃太郎に一寸法師。
先にあげた大江山の鬼退治。
あの織田信長の叡山焼き討ちでさえ非難する人はあまりいない。強欲な坊主は鬼と同じだからだ。
映画だって農民が野武士をやっつける「七人の侍」がある。

難民問題は厳しいが、もしかするとかの地には雇えるサムライがいないか、またはその発想がないのかも知れない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




漫画家の水木しげるが亡くなった。
ここのところ自分が子供の頃から親しんでいたテレビドラマやアニメ、漫画、漫才・寄席の著名人がなくなることが多く非常に寂しく感じている。
水木しげるもそういう著名人・漫画家の一人なのでいたたまれない気持ちになってくるのだ。
寿命とはいえ、そんな感慨にふけってしまうとは私も年をとったものだ。

水木しげるといえば妖怪漫画のゲゲゲの鬼太郎の作者。
水木しげるの描画タッチは妖怪漫画を描くのに向いていたのか、独特の暗さと味わいがあった。
不気味で、陰気で、それでいてどこかユーモラスな妖怪たちのイラストだ。

いくつの時だったか忘れたが妖怪大辞典みたいなものを母に買ってもらったことがあった。
その絵の作者が水木しげるで各妖怪を解説するキャプションと共に読み進んでいき「あちらの世界」をリアルに想像したものだった。
そんな世界をリアルに想像したのが原因かも知れないが、臆病者の私はお寺や墓場に行くとそういう妖怪がいるんじゃないかと思えてきて一人でトイレに行けなくなるくらい夜になるとビビっていたものだ。

とはいえ、そんな本を買ってもらうぐらいだから妖怪話は嫌いではなかった。
もちろんTVアニメの「ゲゲの鬼太郎」もお気に入りでほぼ毎回見ていたように記憶している。

このゲゲゲの鬼太郎は熊倉一雄の歌で始まるのだが、そのイントロのムードがでいかにも「おばけ」が出そうな雰囲気なのが子供心にオドロオドロしかった。
そしてこのアニメにはカラー版と白黒版があり、当然のことながら白黒版の方がなんとなくリアルで不気味さが募っていたような印象が残っている。
白黒画面で展開されると画面の中の妖怪や環境には自分の脳の中で色を付けることになる。
カラーの画面と違って想像力が高まるのだ。
この白黒のカラー感覚効果ははるか下って大学生の時、映像論の講義の時に映画キャメラマンの宮川一夫先生の一言で論理的になぜそのように感じるのか理解することができた。

「君たち、白黒には色があるって分かるかい? 私は子供の時に水墨画を習っていたんだ。よく見ると水墨画の隅の濃淡には色がある。その経験が映画の撮影の時にすごく役に立ったんです」

と先生は講義でおっしゃっていたのだ。
さすが溝口健二や黒澤明の作品のカメラを任されてきた宮川先生だと感心した。
その時に白黒の色の世界の「色気」に気づき、以後、白黒映画の魅力やヌード写真も白黒の方が妙に艶っぽかったり感じる理由がよく分かるようになった。

妖怪の世界も同じ。

水木しげるの訃報に接し、妖怪の世界も「白黒に限る」ということを思い出した。
もう、ああいう作家は出てこないかもしれないと思うと、それはそれで非常に悲しいと思うニュースなのであった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )