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<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地




図書館でこの本を見つけたとき、
「ん〜、ウクライナに取材する今どきの日本人戦場記者のレポートなんか、もしかしたら左巻きかもしれないぞ」
と思ったものの、この手の新刊を読んでこなかったこともあり借りてみたところ、グググっと引き込まれて最後まで一気に読んでしまいました。

確かに左巻き的な箇所もなくはなかったものの、この本が意味する最大のポイントは、
「国を守るということはどんなことか」
ということ。
それもウクライナの置かれている現状からそれを考えることになるので、日本人としては深く考えさせられるものなのであった。

ある調査によると侵略を受けたときの「国防に従事したい」という人口のパーセンテージは日本がダントツの最下位。
全世界でも100位以下の驚く位置にいて、ウクライナ侵攻が始まったばかりの頃に橋下徹元大阪市市長・知事が発言した
「すぐに降伏すばいいじゃない。そしたら誰も死ななくて住むし」
と思っている人が多いことだ。

戦争に負けるということがどういうことなのか。
平和ボケのためにわかならなくなっているのはかなり重症だ。
多分、平和教育とそれに連なるメディアの平和一辺倒の副作用なのだろうが、少々憂鬱にさせるものがあるのも事実だ。

ウクライナは「戦争に負ける」ということがどういうことなのかを国民の大多数が理解してロシアからの侵略に坑がっている。
その流れをソ連崩壊あたりから詳しく述べているのも本書の特徴で、ただ単にウクライナが戦っているのは、国民の命や国土を守ることだけではなく、自身のアイデンティティやようやく獲得した自由主義を略奪されないための戦いであるということ。

ウクライナが未だソ連法時代の遺産として国内の腐敗と戦わなければならないことも含めて、非常に読み応えのある前線レポートなのであった。

戦況は刻一刻変化しているので情報がちょっぴり古い感じがあるものの、出版そのものは昨年暮れなので、著者の調査を含めた執筆努力はかなりのものがあったのだろう。

同じロシアの隣国として日本は何を考えるべきか。
そういう思いを巡らせる一冊だった。


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21世紀に入った頃から、
「鳥類は恐竜の子孫だ」
という説が出てきた。
私が子供の頃は「恐竜は大型の爬虫類」なんて言われていたのが方向転換した格好になった。
従って、もしもゴジラが恐竜の生き残りであったら全身羽毛で覆われパタパタと空を飛んでいたことであろう。
そういえば空を飛ぶゴジラも東宝の映画では出ていたように記憶する。

で、冗談は抜きにして現在の科学の検証では様々なエビデンスを総合すると、恐竜は恒温動物であったらしいし、羽の生えているものもいたらしいし、卵を温めて育てるという特徴もあったらしい。

総合するとどう考えても鳥類ではないか、ということになったようなのだ。

そうなるとスピルバーグの「ジュラシック・パーク」などという映画は裸んぼの恐竜ばかりが登場するから絵面的にリアルを訴えるのであれば作り直さなければ
ならないだろう。

そんな中、見つけたのが「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」。

鳥類学者の筆者が専門外の恐竜を語ることにより我々一般人が疑問を抱いている恐竜についての「なぜ」「なに」に一緒に考え回答するという内容で非常に楽しく、かつ分野違いといえ科学者が書くものだけにいくつかの気付きを与えてくれる読み物だった。

たとえば、恐竜の色はわからない。
とか、
卵の化石が見つかることがあるが、一緒に親の化石がみつからなければどの恐竜の化石なのか特定できない。
などなど

また恐竜の滅びた原因についても少しばかり詳細に解説されており隕石の衝突による天変地異と急激な気候変動がその時代に終止符を打ったが、結局完全に滅びたということではなく空を飛ぶ種類の小型恐竜は現在の鳥類として生き残っているということだ。

鳥類の知能がそれなりに高いことを考えると恐竜も高かったんじゃないかとも思えるし、鳥類は得てして姿の美しいものが少なくないので、恐竜も映画に登場する凶悪な人相ではなく、鳥のように優しいものもいたのかもしれない。

そんなことんなを想像しながら読んでいて楽しい科学エッセイなのであった。


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たまたま図書館で手にとって「面白そうだから」ということで借りた一冊。
「日本全国県境の謎」
という新書。
面白かったです。

これほどまでに県境が決められていないところが存在することも知らなかったし、微妙なところは現在でも、例えば昨日までは埼玉県だったけど今日から東京都というように譲渡されてしまう地区もあったりするみたいなので、都府県の境というのはかなり曖昧である、ということも知ることになって驚きなのであった。

そもそも現在の都道府県境は藩政時代の旧国境が基本になっているが、藩というのがややこしく、例えば全く関係のないところに飛び地があったりして、それが維新時に行政区としてどこに割り振るのかややこしく、今に引きずっている地区があるのだ。

昨年の春。
仕事で奈良県の下北山村へ出かけた。
奈良県といってもここの村の最も大きな街は三重県の新宮市というようなところで、"ど"山名の中の村なのだが、聞くところによるとこの村は「大和」「伊勢」「紀州」の3つの文化圏が存在しており、現在もなお、その文化的違いを各地区は引きずっているという。

現在の行政区としては間違いなく奈良県なのだが、一部は旧紀州藩の領域であもあり、紀州藩は支藩を含めて現在の和歌山市から三重県の松阪市までその領域があり、その中に大和の国が存在するだけにかなりややこしい。

しかも現在もなお、奈良県と三重県の県境には和歌山県北山村という和歌山県とは切り離された村が存在するのだ。

近畿ひとつとってもそうなので、全国となるとイヤハヤなのだ。

ともかく北海道の一部は青森県だった、とか、四国は愛媛県と高知県しかなかった、淡路島は徳島県で奥多摩は神奈川県だったというのは序の口。

本書を読むと日本の地理がさらに楽しくなるのは間違いないのだ。


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トレバー・コックス著『コンピュータは人のように話せるか?』は人が言葉を話すようになり、それを文字に記録し、近代になって録音することが可能になり、さらにここ10年ほどでAI技術を使って人間ではないものに言葉を操らせようと試みるようになった、そんな一連の歴史を様々なテーマとともに語っている面白いサイエンス本だった。

タイトルからするとAIによる会話技術に関する専門書のようなイメージだが、それは違う。
AIに関する部分は終盤の一部だけ。
ほとんどが言葉に関する進化の歴史だ。

そもそも人類がいつ頃から言葉を操るようになったのかはよくわかっていないようだ。
このテーマ。
今まで考えたことがなかったので冒頭から展開される「言葉のはじまり」にグイッと引き込まれた。
ダーウィンは認知能力の向上が大きく関わっていると唱えた。
100年以上前のこの考えは今も変わっておらず、言葉を話すだけならオウムにでもできるということ、そこへ意味があって初めて言語ということができるのだから確かに言葉を話すことは認知の力、文法を構成するだけの知能があることの証明でもあるのは間違いない。

文字が発明されて言葉が記録されるようになって久しいが、劇的な変化はエジソンが中途半端ながら録音する装置「蓄音機」を発明したことだった。
言葉は文字だけでは伝えられない抑揚やリズム、速さなどがあり、これが感情を含む情報伝達に重要な意味を持つ。

「おはよう」

実際にこの一言でも言い方一つで元気なのか病気なのか、それとも優しいのか厳しいのかが文字だけでは表現できない。
ところがこれを録音して再生して確認することで、言葉が持つ本当の意味を表現することができる。
考えてみれば言葉を操るのは人間だけではなくイルカやある種の鳥類などは同種間で会話能力が証明されている。
その多くは抑揚や声の大きさ、リズムなどで表現されていて、例えば人間が使う文字で表現するとなるとかなり難しいのではないか。

AIが語る言葉には、この文字のみで表現する言葉と共通するものがあるように私は感じていることが少なくなかった。
AIはある程度人に通用する言葉を構成することはできるが、AI自身は言葉の概念そのものを知っているわけではなく学習した機能を「機械的に」構成しているに過ぎず、感情や空気感、物事が持つ本質的意味合いを理解しているわけではないからだ。

読みながら色々と考えを巡らすことができ、かつ今まで気がついていなかった言葉の謎について知ることができる。
そんな興味溢れる内容なのであった。


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先月のこと。
アメリカの2つの研究機関が
「新型コロナウィルスの最初の発生は中国武漢の市場である」
と特定したニュースが流れた。

そもそも今回の新型コロナウィルスは武漢にある中国のバイオ研究施設から漏れ出したウィルスが市場で繁殖。
新型ウィルスは研究所で行った遺伝子組み換えに伴い人工的に生み出されたもので、それが人に感染って大変な事態に陥ったというのが一般的な認識だ。

「恥は葬り去る」という伝統のある中国共産党。

このつまらない伝統というか性癖というか、彼の国には情報公開がないので確実な証拠がみつからない上、習近平のメンツにこだわる中国の伝統的な態度がパンデミックを大きくしてしまったのも世界の悲劇でもある。
中国は人口は大きいが世界に出ては行けないのではないか、という疑問を抱かせる歴史的事件だった。

そもそも中国のように衛生観念や道徳観念の未熟な国家でバイオテクノロジーを研究するとろくなことはない。
落っこちてくる自国の人工衛星の情報を他国に警告しないお国柄。
経済が発展して宇宙計画も独自で新幹線網もあっという間に日本やEUを抜いたっても所詮基本モラルは以前のまま。
研究所で作り出されたウィルスをどのように管理しているのか。
人の質が大きく影響する分野にもかかわらず、研究管理はまったくのブラックボックスだし、それを扱っているスタッフの質もまったくわからない。

日本では一般に研究者は実験作業、装置や容器を洗浄・メンテナンス、記録、事務とだいたい同じ人が全部行う。
これがペーペーの研究員なら未だマシだが、教授に准教授となると会議が加わり自分のやりたい研究ができなくなる。
非常に気の毒な限りだ。
研究所や大学の管理部門は「実験は料理と同じ。食べた食器は自分で片付ける」という発想なので進歩しにくい。

これと対比して海外の研究機関は研究指導する人、実験作業する人、機器や容器を準備する人、事務をする人はすべて専業であることが多い。
とりわけ容器を回収して廃棄、消毒、洗浄などをする人はブルーカラーの人が多い。
これは研究者とブルーカラーでは賃金が大きく異なるための合理的な仕組みでもある。
日本では高額な賃金を受け取っているドクターの研究者がビーカーやフラスコなどガラス器具を洗浄するというような「食器洗いは自分でしましょう」的な作業に従事したりしている。
いたってコスト意識がいい加減で非合理的な世界なのだ。
イノベーションが起こりにくい原因の一つでもある。

で、本題へ戻すと中国は同じアジアの日本ではなく欧米先進国の仕組みを真似て研究施設を運営しているので地味な仕事はブルーカラー。
研究者はビーカー洗はしない。
そしてここが大切。
中国人のブルーカラーの質は推して知るべし。

今回のような「市場で発生」というような事態に至っても不思議ではない。

「このビーカー、ご飯炊くのに使えそう」
となると平気で持って帰るのではないかと思えてならないし、そんなこと他の産業の事例を見ると日常ではないかと思う。

で、ここに、中国のような国でも遺伝子操作ができるように技術がある。
それをクリスパー・キャス9という最先端の技術なのだ。
この技術はDNAの配列を正確に編集することができる
病気の治療から新種の創造、その他諸々。
夢の技術なのだが、使い用によっては大変な時代を招いてしまう。
そう、例えば新型コロナウィルスのようなケースだ。

このクリスパー・キャス9の開発者は2人の女性科学者。
エマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナ。
彼女たちはこの功績でノーベル賞を受賞している。

今回のめり込むように読んでしまった「CRISPA〜究極の遺伝子編集技術の発見」の著者なのである。

そもそも植物の品種改良でも多くは偶然が作用して生まれてきた。
開発といってもその偶然を起こりやすくするように、環境を促すようなことが従来の科学だった。
ところが高校生にでもできる技術として開発されたこの技術は様々な問題を解決すると共に、新しい問題を生み出している。

読んでいて最初に連想したのはこの技術が広く研究世界に知らしめられて暫くして出てきたのが新型コロナウィルスだったことだ。
これって偶然なのか、故意なのか。

いろんなことを総合すると最初に書いたような想像がやけにリアルに思えてきて空恐ろしくなってくるのであった。

面白い、しかし恐ろしい。
扱い方に注意を要する夢の技術実現の物語なのであった。


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パソコンが1人1台になり始めた頃、
「もう、紙に印刷することはなくなり複写機も減るだろう」
と言われていたが、そうならなかった。
それどころかパソコンからの印刷が増えて紙の消費量が増加した。

さらにもっと以前。

私が小中学生だった1970年代後半の頃、
「21世紀には石油が枯渇する。だからエネリギー危機がやってくる」
と言われていたが、そうならなかった。
トイレットペーパーの買い占め騒動なんかがあったものの、根拠の無いただの騒動だった。
それどころか最近は石油が余るという危機意識が産油国に出始めて生産量の制限を始めて価格維持に躍起になり始めた。

世に言っていることと、実際に起っていることが全く違う。
これではノストラダムスの大予言やハルマゲドンと同じではないか。

「二酸化炭素が増えて地球が温暖化して気候変動その他で大変なことになる」

と今騒がれている。
これも「石油がなくなる」「印刷しなくて済む」と同様。
根拠に乏しい「誰かが儲けようとしているだけの」特異なデータだけが抽出されて騒動を煽っているというのが真の姿のようだ。

二酸化炭素ビジネスを広めるためか、新型コロナ同様に中国の陰謀渦巻く作戦なのか。
数々のエビデンスが二酸化炭素による地球の温暖化はそんなに危機を持つほどのものではないことを示しているのだという。
この真実を言うことは新型コロナをインフルエンザと同じ第5類感染症にランクダウン指定することを躊躇している政府と同じようにいたって政治的で科学的ではないのだろう。

「脱炭素は嘘だらけ」を読んで、なるほどと思うところがいくつもあった。
とりわけ中国が西側諸国の世論を操作することにこの温暖化を使っているという。
そのことを考えるとグレた少女の一方的な叫びも、中途半端な完成度のEVカーの普及促進も、日本を含む旧西側民主国家の凋落も、よく理解できるのであった。

そもそも、
「石油や石炭を燃やして二酸化炭素を発生させないために、アンモニアを燃やす技術に注目が集まっている」
なんて報道を聞くと、
「二酸化炭素はだめだけど、人体にモロ有害な窒素酸化物はいいのか?」
ということになる。

脱炭素。
あなたはどう思います?


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漫画家の古谷三敏が亡くなった。
享年85歳。

古谷三敏というと漫画「ダメおやじ」がすぐに連想されるが私はこの漫画があまりお気に入りではない。
読んで面白くないと思ったので読まず嫌いではない。
ではなぜお気に入りではないかというと、なんだか人を馬鹿にしたようなストーリー設定が気に入らなかった。
「こんな漫画読んではいけません」
という親の圧力もあったのかもしれない。
でもこの漫画、父よりも母の方が嫌っていて息子に読ませまい、見させまいとしていたことが今になると思い出される。
ちょうど「8時だよ!全員集合」を見てはいけません、というあの時代なのでむべなるかなでもある。
ちなみに我が家は「8時だよ!」は見てはいけません番組ではなかった。

古谷三敏といえば私にとっては「BAR レモンハート」の作者としてのほうが重要だ。

今から30年近く前。
仕事もバタバタ。
家へは寝るためだけに帰っていたような頃。
この漫画を休憩で入った喫茶店で発見した。
赤塚不二夫調の絵は親しみやすく、毎回のお酒のうんちくと登場人物の魅力とストーリーの洒落っぽさですぐにお気に入りの漫画になった。
喫茶店で読むより家で読みたいとも思って書店で買い求めるようになった。

ちょうど同じ頃にFM大阪で放送されていた「Saturday waiting bar AVANTI」のバーの雰囲気が大いに気に入っていたことと、深夜放送されていた大阪ローカル「たかじんnoばぁ〜」が相まってBARが舞台の漫画の世界にグイグイと引き込まれたのだ。
私も仕事が無いときは英会話に通い始めていて、授業が終わった後に講師の外国人や生徒仲間と一緒に梅田界隈のバーへ通うようになってリアルな雰囲気も堪能できる年齢になっていた。

つい最近、「BAR レモンハート」がドラマになってネットに上がっているのでちょっと見たことがある。
マスターを小林稔侍が演じていて、あまり雰囲気がマッチしていなかったので「なんでアニメにせんのよ」とパソコンの画面を見ながらつぶやいていたことを思い出した。

「BARレモンハート」。
ダメおやじの作者は素敵な漫画作家なのだった。


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「地球温暖化の深刻さに大人は何も考えていない。こんなこと許してはならないのじゃ!」
と眉間にシワを寄せ、醜い顔を歪めながら魔法使いの呪文にかかったか、新興宗教に毒されたかというような雰囲気を漂わせながに叫ぶ少女。
しかも最も問題の大きい中国は非難せずに必死に取り組みをしている旧西側諸国に難癖をつけ続ける。
そんな性格のグレた少女がいる。

尤も最近は彼女も少女というには少々歳を食ってきた。
それでもまだ「ダメものはダメなのよ!」と往年のおたかさんにも負けない表情を、斜めに変形させながら呪文を繰り返しているところや、世の中はコロナで深刻な状況なのにたまにはマスメディアに取り上げられているところを見ると支持者はまだいるのであろう。

不思議な世界がそこにある。

こういう「一見正義だけど、実は...」というような世界の迷惑は至るところに存在する。
しかも迷惑を通り越し悲劇になっているものも少なくなく、それらが話題として取り上げられることはなかなかない。

ポール・A・オフィット著「禍の科学 正義が愚行に変わる時」はまさにそういう「これいいやん」が実は「え〜!なんで〜」という世界的規模で影響を及ぼした事例から7つを紹介した実に興味深く面白い一冊であった。

特に印象に残ったものから挙げていくと例えば、
「マーガリンはバターに比べて健康にいい」と思っていたら実はマーガリンに含まれる脂肪酸が重い心臓病を引き起こす原因物質であることが明らかになったという何年か前に話題になった事例がある。
バターは動物性だけどマーガリンは植物性だから健康にいいんだ、という一方的な思い込みの結果、各種お菓子の加工や朝のトーストまでマーガリンが安価であることから多用されるようになった。
ところが体に悪いと思っていたバターに含まれるコレストロールや脂肪分は人間の体の中でちゃんと分解できるて無害なのだが、マーガリンに含まれる脂肪酸は分解でずに蓄積され心臓疾患の原因になってしまうという。
実際にアメリカの研究機関が調査したらマーガリンに含まれる脂肪酸はどれくらいの量なら危険なのか特定することができず、少量であっても「危ない物質」にされてしまっているという。

我が家ではバターは価格が高いのでどうしてもマーガリンを買っている。
それもできるだけ安いものを求めるために雪印にするのかラーマにするのか、いつも喧々諤々なのである。
そんなマーガリンを焼いたバケットにたっぷりと塗ってハムとレタスを乗っけて食べるのが好きなのだが、これが体に悪いという。
尤も、日本人の場合「マーガリンは危ない」と言いながら毎日食べている欧米人に比べると10分の1も食べていないといい、しかもマーガリンメーカーのWEBサイトでチェックをすると日本のメーカーは悪質脂肪酸をできるだけ少なくする技術に邁進しているようで問題にするレベルではないのだという。
ということで脂肪酸問題は気にせずにマーガリンをいただいているのだが、できればバターにしたほうがいいというのが科学の真実なのだ。

で、さらに驚いたのはDDT。
戦後、米軍のDDT洗浄を受けた父や母の話を聞くと、
「シラミがおるからとDDTを掛けられたら、真っ白になったんよ。今はDDTは危険な薬やから使ったらアカンことになって見んようになったんや」
と話していたが、実は、「DDTは人畜無害の効果抜群で低価格の優秀な殺虫剤であった」ということがわかっており「DDTを禁止させたために死なずに済んだ数百万人をマラリアに罹患させて殺してしまった」という衝撃的なことが書かれているのだ。

DDTを悪者扱いしたのは「沈黙の春」という一冊の著書。
科学を十分に理解していないが文才のあった作家によって書かれた環境に関するベストセラーが世間に「DDTは超有害」というイメージをばらまいたのだという。
DDTが制限されることになったとき、専門筋はそれに大反対。
発展途上国でも効果的に殺虫対策ができる。しかも害を及ぼしているという事例がない薬品でもある。もし禁止したら大変なことになる。
と警告したが世の中の「空気」がそれを許さなかった。
結果的に「DDTは危ない」となんの根拠もないことが定説になってマラリア撲滅に高価な殺虫剤を購入しなければならなくなり、結果対策が中断して多くが罹患して死ぬことになったという。

詳細を知りたい方は是非読んでいただきたいが、こういうさまざまな禍はエビデンス無しに突っ走ってしまうところに恐ろしさがあると気付かされた。

考えて見れば今現在進行中の新型コロナウィルスに対するワクチンや女性の子宮頸がんワクチンに関してもデマや噂がまかり通って必要なのに接種しない、接種できない状態を生み出している。
今、読むべき一冊でもある。



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日本が欧米列強の植民地にならなかったのは欧州から距離が離れていたことが幸いしているという人も多いが、それ以上に為政者である侍階級の教養とモラルの高さと愛国心、市井の高い民度だったと言えるのかもしれない。
で、さらに一つ重要な要素がある。
それは「当時としての先進的な経済体制」だったんじゃないかと私は勝手に考えている。

江戸時代の日本は世界でも突出した資本主義の国であった。
こんなことを言うと、
「江戸時代は封建主義でしょ」
と突っ込まれるかもしれない。
確かに身分制度や家制度。
現在と比べると自由は少ないが、経済は紛れもない資本主義。
この経済の資本主義に引きづられ、封建制度はかなりのフレキシビリティをもって運営されており、幕府とて経済抜きに政を取り仕切ることなどできない社会なのであった。
幕府に限らず先進的な諸藩では有用な人材を身分関係なく取り込んでいたことは学校ではあまり教えない事実でもある。
それが証拠に新政府になっても経済の要の大蔵省は旧幕府の勘定方がそのまま移行して業務を継続。
現在の財務省に至っている。

この経済がどのように資本主義であったかを知るにピッタリなのが大阪の米市場を見つめること。

大阪は昭和の初めまで日本経済の中心地だった。
そのもとになったのが江戸時代前半に始まった堂島米市場。
現在の地下鉄淀屋橋駅近く。
日銀大阪支店の直ぐ側にあった米取引場での取引システムが日本全体を資本主義というか自由主義に否が応でも導いた。

当時は米が重要な役回りをしていた。
武士の給与は米。
公共工事も米換算。
諸藩の予算は当然米。
だから米の相場というのもは非常に重要で大中小に関わらず諸藩はその値動きに敏感になっていたというわけだ。

大阪の中之島周辺は現在は諸官庁や文化施設、大手企業の本社が建ち並ぶエリアだが、このあたりを中心に江戸時代は諸藩の米蔵が並んでいた。
各藩は収穫して納税された米をここへ持ち込み商社を通じ全国に売りさばいていたのだ。
でも実際のところ米の現物を取引するのは容易ではない。
重い。
扱いにくい。
場所を取る。
季節性がある。
などなどなど。
そこで登場したのが米切手。
現在の証券にあたるもので各藩はこれをもって取引を実施していた。

で証券になると扱いやすいことに加えて、実は現物がないけど証券を発行、金を調達なんてのも出てきたりした。
さらに見込みで取引することも可能になるので予め相場を立てて取引するというような先物も現れ活況を呈してくる。
これらが行き過ぎると経済が混乱するので幕府としても黙って見ているわけにいかないので経済介入する。
ところが大阪の商人たちは巨額の利益を上げながら市場を牛耳っているので権力で圧してくると経済でやり返すということが繰り返されたのだという。

まったくもって面白い。
この先物取引は現在では世界最初の先物取引として国際的に認識されているくらいなので、いかに当時の経済システムが進んでいたかが見て取れるというものだ。

こういうことを具体的に知りたいな、と長年思っていたところに見つけたのが高槻泰郎著「大坂堂島市場」。
とってもわかりやすい文書で書かれたこの分野を知ることのできる良書なのであった。
それにしても大同生命が米相場を采配していた大店がもともとだったなんて知らなかった。


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私の苦手な読書ジャンルにファンタジーがある。
例えばトールキンの「指輪物語」なんかは大いに苦手で、高校生の頃に映画の公開に合わせて「読んでみよう」と勇んで買ったものの、「んんん〜〜〜〜、よくわからん!」と途中で投げ出してしまった数少ない私の「投げ出し本」の一つになっている。
この作品の場合、単に現実ではない世界が描かれていることにとどまらず登場人物が多すぎるし、それらの名前が訳のわからないものが多かった。
このためファンタジーなのにイメージが膨らまず何がなんだかわからないまま強烈な疲労感が生じたため、あっけなく挫折したのであった。

でもファンタジー全般がダメかというとそういうことはなく、例えばオーウェルの「1984年」だとか、上橋菜穂子の「鹿の王」などは読めなくはないのだ。

とはいえ、どちらかというとファンタジー物は敬遠しているというのが正直なところ。
「指輪物語」がトラウマになっているということもできなくはないが、やはりリアルな物語に興味が誘われるのは性分なのかもしれない。

そんななか、久しぶりに買った小説は一種のファンタジーだった。

重松清著「ルヴィ」。

自殺を遂げた中堅作家が3年ほど前に自殺した女子高校生の「ルヴィ」に出会い、死ぬかもしれない人たちを死から救うという物語。
7人の命を救うとルヴィは天国へ行って成仏することができる。
それに同行するのが自殺したばかりの中堅作家なのだが、果たしてどのような死ぬかもしれない人たちに出会い、どのようにして救うのか。
なかなか面白い生と死の境目を扱ったファンタジーなのであった。

重松清というと「ファミレス」や「希望が丘の人々」など数作を読んできたが、いずれも現代の普通の生活を通じて家族や社会のちょっとした問題点をユニークに描いているのが魅力的だと思っていた。
今回の「ルヴィ」は少し表現は違うものの、死んだものの目を通じて、今まさに死を選ぼうとしている人たちに生きるきっかけを与える。
そのことが小さな希望を読者に感じさせ、自分にも少し当てはめたりして感動をもらう。

こういう物語がファンタジーだが真実性をもってリアルに迫ってくるのは、やはり自死に関するニュースが多すぎるからだろうか。
それでも圧倒的多数の人は苦しくても生きようとする。
それが惰性であるのか、はたまた意志の強さによるものか。
それは人それぞれかもしれないが、そういう現代人の姿をファンタジーで描いた読み応えのある小説なのであった。




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