<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



昨日、キャノンがフィルムカメラの出荷を終了したと発表。
メジャーなカメラメーカーでフィルムカメラを出荷しているのはニコンだけになった。

そいえば1982年ごろ。
学生の時に写真論の先生が、
「そろそろ写真の感光剤である銀の資源が枯渇してきているので、それに代わるものを見つけなければなりません」
と言っていたのを思い出した。
フィルムは感光剤の化学変化で画像を物理的に記録する。だから感光剤がなくなれば写真産業は終了するのでは、なんてことを考えたりしていたものだが、写真はフィルムそのものを必要としなくなった。

先生とこの話をしていた頃にソニーが世界初のデジタルカメラ「マビカ」を発表した。
画素数は35万画素だったか41万画素だったか忘れてしまったが、お世辞にも素晴らしい画質ではなかったのだ。

「こんなん、カメラちゃうし」

というのが学生だった私の感想なのであった。

それか30有余年。
カメラはほとんどすべてがデジカメとなり、フィルムカメラの新品は姿を消しつつある。

とはいえ、一方ではフィルムカメラで写真を撮るのが若者の中にはブームなんだという。

フィルムカメラ。
みんなに惜しまれつつ姿を消しそうなところは絶滅危惧種の一種と思ってもおかしくない光学機器なのだろう。

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日大アメフト部の元監督とコーチの記者会見はこれまで見た記者会見の中でも最も見苦しいものであった。
あまりに見苦しいので、もしかすると台本でもあるのかと思えるほど「見苦しさ」というところでは完璧な内容なのであった。
その見苦しい会見が終わると首謀者の元内田監督はそのまま入院。
原因は「心労」と伝えられていたが、目的は明らかにマスコミからの隔離で守ってもらうこと。
これは非常に古い手法での責任逃れだ。

その昔、スキャンダルで立場が苦しくなったら政治家先生はよく入院した。
入院は病院の個室に立てこもり、医者に守られマスコミの追求から逃れるという手段なのであった。
まさか今どきこの手法で逃げる輩がいるとは思わなかったのだ。

元監督の風貌と心労はどうイメージしても結びつかない。
失礼かも知れないが時代劇に登場する悪役のような面構えなので「心労」と「悪徳代官」が結びつかないのと同じように関連性があるように思えないのだ。

関連性があるとすれば、それは金欲。
お金に対しては随分強欲な面構えをしており、私は彼らに最も処罰としてダメージを与えるのは資金を断つということではないだろうか。

伝聞によると株式会社日本大学事業部という会社があるそうな。
日本大学の施設の管理運営、人材派遣、生協もどき、備品購入、保険業務、日本大学ブランドの入った製品の販売などなど。
年商はなんと69億円にも達するという。
ちょっとした中堅企業なのだ。

この株式会社日本大学事業部のナンバー2が元監督。
ちなみにナンバー1は運動部長だそうだだが、いずれにせよ彼らの重要な懐であることは間違いない。

今回の関東学生連盟の処分に基づき大学側がどのような処分をしていくのか。
大いに注目されているところではある。
部活動関連からの解任はもちろんのこと大学経営側からの解任もあり得るだろう。
でも最も厳しいのは強欲を支える株式会社からの解雇なんじゃないかと思えてならない。

ああ、永久追放よりも強欲追放。
その点、最も重要なんじゃないだろうか。

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国会で野党がやれ「加計学園だ」とか、やれ「籠池だ」などと発展性がまったくない、無意味な議論で明け暮れている中、世界はアメリカと北朝鮮の会談のあるやなきかに注目が集まっている。
ほんと国民がうんざりしていることに気づかんのか、この空気読めない人たちは。

もっとも日本の野党の皆さんのうちの半数ぐらいは北朝鮮を養護してきた人たちなので、膿が出てきたら困るから、そちらの方はあまり積極的に話題にしたくないのかもわかないのだが、したくないといっても隣国の情勢緊迫化である。
従って6月12日に何が起こるのかに野党議員を除く一般国民の注目は集まっているわけだが、ちょっと気になることがある。

北朝鮮の金正恩がアメリカのルールに則って核を放棄した場合、アメリカのトランプ大統領は本気で北朝鮮の経済を支援するのだろうか。
ということだ。
よしんば北朝鮮が核を放棄したからと言って金正恩の独裁体制は継続されるわけだから大いに考えものである。
北朝鮮国民にとってそれがいいことなのか悪いことなのか。
これまで犯してきた罪はどうするのか。
そんなことは何も話し合わされず、核を放棄するだけで独裁体制を補償するのでれば、それはそれで問題であろう。

そもそも、金正恩は数々の犯罪を犯してきた。
自分の兄貴の暗殺。
おじさんの処刑。
核開発そのもの。
密輸。
麻薬栽培。
偽札づくり。

独裁をいいことに好き勝手してきたという実績がある。
こういう悪の百貨店みたいな輩に金を与えてなんとするのだろうか。
トランプ大統領は独裁制に賛成なのだろうか。

この点、非常に気になっているところだ。

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中学生の時にラジオの「欽ドン!」にやたらめった作品を投稿したことがある。
結果は欽ドン!賞3回、その他賞7回。
3回の欽ドン!賞のうち1回は放送を聞き逃したのか、それとも野球中継の延長でキャンセルされたのかで何が読まれて賞をとったのかは今持って謎である。

このように中学生以前から私は萩本欽一のファンだった。
もちろん坂上二郎とのコンビの「コント55号」も大好きで、なかでも「なんでそうなるの?」という番組は楽しみで、今も時々ビデオで見ては笑っている。

この欽ちゃんが駒沢大の学生になっていたというのは以外なニュースだった。
ほとんど芸能の前面に出てこなくなったと思っていたら大学生になっていたというのも面白い。

以前、加藤茶との掛け合いを見ていると加藤茶のベタな逆を逆手にとって巧みに観客のクスクス笑いを取る欽ちゃんの浅草芸人としてのワザに笑いながらも度肝を抜かれたことがあるけれども、この人はすごく賢いんだと同時に思ったことも記憶に残っている。

「ダメなときほど運が貯まる」は他の人が書いていたら多分読まなかったジャンルの一冊だ。

これは欽ちゃんによる運のバランス理論書で、最低のときは運を蓄積していてこれからど〜んと良くなるよ、てなことが書かれているのだ。
ぱっとみ運勢本みたいな感じがするのだが、実はそうではなく、

「人間努力が肝心なんだよ」

ということを案に欽ちゃん独特の語り口で表現しているのだろう。

色々な舞台裏のエピソードもからめならが私のようにコント55号のコントや欽ドン!などを楽しんだ世代の元気づけにはピッタリの一冊なのであった。

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仕事で東大阪に打ち合わせに出かけた後、ちょっと寄り道をして花園ラグビー場に立ち寄ってみた。
一年後に迫ったワールドカップを控えて、日本のラグビーの聖地花園ラグビー場がどうなっているのか見たかったのだ。

地下鉄・近鉄吉田駅から歩くこと15分。
すっかり雰囲気は夏。
ラグビースタジアムは外周の整備工事をしていて見た目ほぼ大きな工事は終了している感じだった。
内部に入ることはできないので外から雰囲気を伺うしかできなかったのだが、東京オリンピックと違って余裕で準備が進んでいるという雰囲気が漂っていた。

南側のエントランス側へ回ると工事フェンスにスローガンが。

「4年に1度ではない。一生に一度だ!」

なるほど。
ワールドカップは4年に1回あると思っていても実際自分の住んでいる国や地域で開催されるのは一生に一度。
これはなるほどと思った。

私はラグビーについてはファンと言うほどではない。
ところがラグビーにはなぜか親しみを持っている。
これは中学生のときの体育の授業でラグビーを盛んにやらされたというのがまず最初の理由だ。

中学の時の体育の先生が日本体育大学卒で学生時代はラグビーの選手だった。
そのため教え子たちにラグビーの面白さを伝達しようと授業にラグビーを取り入れたのだ。
今なら、
「そんな危険なことを」
と父兄は心配するかもしれない。
なんと言ってもボールを持って全力で走ったり、タックルしたり、グランドに滑り込んだりするスポーツだ。
怪我しないというと嘘になる。
私は気の弱い子供でお世辞にもスポーツは得意ではないかった。
だから野球をやっても下手くそ、サッカーなんか論外、ハンドボールは下級生にゴールを決められる。
泳ぐのは金槌。
てんでだめだったのだ。

ところがラグビーは性にあっていたのか、最初から大いにおもしく思えた。
ボールをパスされて走る。
それも全力で。
タックルされてヒックリが返っても、それはそれで楽しい。
体操服がドロドロになろうが、「洗濯して」とそれを受け取ったオカンがびっくりしようが楽しかった。

ちなみに走るのはそこそこ得意だった。
高校生のときの体育祭800mリレーで陸上部員を含むランナーをごぼう抜きすることになる素質は少しはあったようだ。

この中学の体育教師は3年のときの担任になり、高校受験の時も大いにお世話になった。

その後、スポーツは相変わらずだったが、社会人になってから通った英会話スクールで出会ったオーストラリア人の講師と友達になった。
この友達がさすがオーストラリア人というかラグビーマニアで、授業のない日に、
「ラグビー7をやろう」
と言い出した。

ラグビー7は1チーム7人でやるオーストラリアスタイルのミニラグビーだが、体力は正規のラグビーよりも必要かもしれない。
このラグビー7がめちゃくちゃおもしろかったのだ。
走る。
パスする。
走る。
避ける。
走る。

最初の試合で私は勝利の一因になったトライを決めることができたのだが、パスを受け取り全力で走り、だれもついてこれなかったときの快感が今も心に残っている。
25年ほど前の話だ。

ともあれ、世紀のイベント、ワールドカップラグビー日本大会がいよいよ来年。

花園ラグビー場だけではなく、他の開催地にも足を向けてみたいと思っているところだ。

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アマゾン・ドット・コムでできるだけ買い物をしないように努力した結果、Tポイントが貯まるようになった。
アマゾンで買い物をしないぶん、TSUTAYAで買い物をする回数が増えたのだ。

Tポイント・システムはTSUTAYA以外でも使えてポイントを集約して貯めるのに便利なのだ。
ファミリーマートにウエルシア、カメラのキタムラに旭屋書店、といった具合に。
ただTポイントが使えうからと言ってTSUTAYAが最も便利かというとそうでもない。

書店としてラインナップのバリエーションが弱いという欠点がある。

多くのTSUTAYAでは一般的な雑誌や売れ筋文庫や単行本が主流でちょっとマニアな雑誌やこだわりの一冊を店頭で見つけるのが難しい。
これは店舗の大きさ問題もあるのだろう。
TSUTAYAはレンタルビデオがそもそもなのでレンタルエリアがあって、それに付随するように書店エリアがある。
だから置かれる書籍も限定されてしまうのだろう。

と、思っていた。

ところが面積のそんなに大きくない書店でもしっかり雑誌や文庫、単行本の種類を揃えているところもあることに気がついた。

くまざわ書店。
ここはなかなか心憎いラインナップを備えている。
始めてこのチェーンストアを訪れたの品川の店だった。
一般的な書店の大きさしか無いのにデザイン系、ビジネス系、科学系の書籍が充実していたのだ。
ビジネス系が思いっきり充実していたのは「もしかして品川だからか」と思ったのだが、そうではなかった。

大阪の天王寺にあるくまざわ書店は品川よりも小さいのだが、ラインナップは充実していた。
同じ本は複数ないけれども歴史関係やビジネス、IT関係の欲しいところもしっかりと押さえていたのだ。
とりわけ話題の書籍や新刊は本好きが読みそうなタイトルを揃えていて読書好きからすると嬉しくなってくる内容だった。

普通なら紀伊國屋書店ジュンク堂書店などのメガブックストアに行かなければ置いていないような雑誌をみつけることができる。
これは嬉しい。

実はわたしはあまり大きな書店では買い物がし辛いという思いがある。
ビル一つそのまま書店といった大きな店では欲しいのもがありすぎて選択が難しく、悩んだ挙げ句1冊も買わずに出てくることが少なくない。
目的を持たずに書店に入るのが悪いのかもしれないが、書店のいいところは一冊との出会いなので、目的無しで書店をウロウロするのもまた読書好きにはたまらないものがある。
リアル店舗だけで楽しめる要素でもある。

書店の大きさ。
ラインナップの豊富さ。
一見相反する条件だけど、最近本が売れないというのはこういう工夫の有無にも大いに影響されているのではないかと思えるのだ。


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「マサル」という名前を聞いてすぐに思い出すのは「じゃりン子チエ」に出てくる意地悪な「小林まさる」くん。
腰巾着のタカシといつも一緒に行動していてチエちゃんにちょっかいを出しては殴られる。
男のくせに意気地のない性格の悪いヤツだ。

私は平昌オリンピック女子フィギュアで金メダルを獲ったロシアのザギトワに贈られるというメスの秋田犬に彼女が「マサル」と名付けたことを悲劇だと思った。
メスやのになんでマサルやねん、と。

ザギトワは「勝つこと=マサル」という意味として理解して犬に名前を付けたというが、メスに男の名前をつける事そのもので日本が馬鹿にされたような感じがして私は不愉快に感じた。
もちろん単純に性差別ではない。
文化を否定されたような感じがしてならないのだ。
あのローソク演技のロシアの小娘に。

とはいえ、そもそも日本とはなんの関係もないザギトワに秋田犬を贈らなければならないのか。
メス犬マサルはロシアへ旅立つ。

何も知らない、何もわからない。
マサルの悲劇なのだ。

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今の時代にそういうことがあるんだ。
と驚いたのは日大アメフト部の宮川選手の記者会見。

「監督・コーチに指示されました。でもそれが悪いことだと判断できなかったの自分なので」

という発言は世間を色んな意味で驚かせただろう。
勇気ある発言だという人もいる。
20歳にもなってそんなこともわからなかったのか、という人もいる。
しかし私が最も驚いたのはここではない。

「監督と直接話ができる立場ではないですから」

日大ではスポーツにおいて選手は監督と話をしては行けないのか。
それだけ監督は雲の上の人なのか。
日大という大学の学風はそういう「恐れ多い」がまかり通る文化なのか。

私はそれが一番恐ろしいと思った。
監督、何様やねん、と。

組織で最も重要な要素の1つに風通しがある。
会社であれば末端で発生している物事が経営トップに以下にスピーディーに、正確に伝わるかが重要だ。
従って一般社員やパート社員と社長の距離は近くなければならないのだ。

何代目の社長だったかは忘れてしまったが、昨年ブラック企業として叩かれた広告代理店の電通の社長は全社員の名前と顔を記憶していて社内では「キミ」とか「アナタ」ではなく必ず名前で呼んで末端の社員まで感激して、今の業界トップの地域を築き上げたということを聞いたことがある。
また社員間でのフラットさを重要視して役職を付けて呼ばない企業もある。
○○部長、○○課長ではなく○○さんという具合に。

日大では選手が監督に直接口を利くのは恐れ多いことのようだ。
だからコーチを経由して選手に伝えられる監督の指示は「監督のお言葉」。

起こるべくして発生した事件だったのかもわからない。

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是枝裕和監督の「万引き家族」がカンヌ映画祭で最高賞を受賞したというニュースは大いなる喜びだ。
日本の映画ファンにとっては宮﨑駿がアカデミー長編アニメーション賞を受賞して以来のビッグニュースに違いない。

そこで思い出したのはいつ頃から日本映画に魅力が復活したのか、ということだ。

映画好きの私だが、一時期日本映画をまったく見ない時期があった。
なぜなら、めちゃくちゃつまらなかったからだ。

それは1970年代から1980年代。
私は中学生、高校生、大学生の年代だった。
その頃、ティーンの私には日本映画には正直言って魅力ある作品がほとんど無かった。
もちろん若かった私が大作主義、世界的な俳優が出ている米国映画へ憧れていたということもあったのだが、日本映画にお粗末なものが少なくなく、見たものほとんどが期待を裏切る内容であったことが大きく影響している。

例えば1977年のスターウォーズの大ヒットを背景に制作された日本のSF映画はどれもこれも拍子抜けするような代物だった。

東宝映画の「惑星大戦争」。
森田健作や浅野ゆう子が出演していた作品で面白かったのはタイトルの出し方だけ。
話題になった宇宙船轟天も糸で吊っている模型まるわかりのチャッチさでちっとも凄いと思えず期待していだけ大いに失望したものだ。

東宝がだめらな東映があるさ。
で、期待して見た「宇宙からのメッセージ」はもっとつまらなかった。
ウェディングドレスを着た志穂美悦子。
帆船型の宇宙船。
日本映画なのにTVシリーズ「コンバット」のビック・モローが主演しているし、特撮もそれなりに力が入っていて当時相当話題になっていただけに失望感も半端ではなかった。

SFが駄目なら他の映画ということで、大好きな高倉健が出演していたので観に行った「南極物語」は人の映画ではなく犬の映画だった。
オーロラを見て犬が「くーーーーん」と鳴くシーンに何で感動しなければならないのか。
腹が立った。
最後にタロとジロが救出されても感動はなかった。
学校で見た「太陽の子 てだのふぁ」は社会問題を扱っていたからか娯楽を求める子供にとっては面白くない。
それでは時代劇をばと観に行った「柳生一族の陰謀」はそこそこ面白かったものの、それに刺激されて登場した「赤穂城断絶」、黒澤明の「影武者」「乱」「夢」は作っている人や出ている役者が一流だけに、その内容は惨劇以外のなにものでもなく、これをきっかけに私は日本映画をほとんど見なくなってしまった。

尤も、大阪芸大の学生であった時は宮川一夫先生や依田義賢先生が撮影や脚本を書かれた作品は必ず見た。
今でも宮川一夫先生が撮影監督した「瀬戸内少年野球団」は私の撮影に対する構図や動きのキヅキを与えてくれた作品で、その他宮川作品にビデオなんかで触れることで大いに勉強をさせていただいたのは大いに感謝しなければならない。

とは言え、今考えてみるとそのつまらなさの最大の原因は巨匠先生方の威厳と映画会社の過去の成功体験へのシガミツキが大いに悪い影響を出していたと思われる。
常にイノベーションを起こさなければならない映画業界でイノベーションを起こすためにしてはならないいくつかの原則を率先して実行していたのが日本映画界なのだろう。
当時、大阪芸大にもそういう意味のことを言う先生もいたように記憶する。

この詰まらない日本映画を面白く見せてくれるようになったのは巨匠先生方ではなかった。
それは、無名の人々のエネルギーだったの違いない。
ポルノ映画出身の周防正行監督の作品であったり、俳優出身の伊丹十三監督であったり、或いはアニメの宮﨑駿監督であったりしたわけだ。

是枝監督の作品は未だ見たことがないがもしかするとそういう現在の日本映画を支える巨匠の次世代の面白さを作品に持っているのかもわからない。

公開したら観に行きたいと思っている。

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モディリアーニの「横たわる裸婦」という作品が172億円で落札された。
そのニュースを聞いたカミさんが一言。

「生きてるうちに買うたらんかい!」

思わず地が出て叫んだのであった。

それにしても絵画作品というのはどういうわけか作者が死んでから価値が出ることが多い。
モディリアーニしかり、ゴッホしかり、ミレーしかり、なのだ。
絵の世界ではもしかすると、

「生きてる間に儲けさしてたまるかい」

という何か陰険な要素がはびこっているのか、それとも、

「魅力ある絵画は作家の人生と作品がワンセット。人生は苦しい物語であるほど価値があり、それが生きているうちに儲けたりすると『苦悩する人生であった』などというストーリーを作り出すことができなくなるって魅力が半減するから」

というような冷たい理由があるのだろうか。

いずれにせよ、すごい金額の落札価格は凄いという以上にカミさんのような絵画ファンに言わねばならない一言を叫ばさせるという、何やら矛盾に満ちた印象も抱かせる。

そういうところももしかすると魅力の一つなのだろうか。



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