<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地






「フィンランドは日本から一番近いヨーロッパです」
と紹介してくれたのは大阪を拠点で活躍するフィンランド人のデザイナーJ Vさんなのであった。
なんでも関空からフィンエアーを利用するとたった8時間でフィンランドの首都ヘルシンキへ到着できるといい、オーストラリアのシドニーや北米のロサンゼルスよりも近いことになる。

10数年前に友人の結婚式でシンガポールへ行った時、そのパーティでロンドンから来たイギリス人と話をしていたら、
「シンガポールは遠い、18時間もかかりました」
と言っていた。
その影響かどうかはわからないのだが、ヨーロッパはやたらと遠く、海外旅行は行きたいけれど遠すぎるといけないという印象が焼き付いている。
シンガポールと日本では条件は違うのだが、同じアジアなので、
「アジアからヨーロッパは遠いんだ」
という固定観念が植え付けられフィンランドは大阪からわずか8時間の距離になあると聞くと、
「なんだー」となるのであった。

このフィンランド。
どういうわけか、ここ数年北欧ブームの中心的役割を果たしている。
何故なのであろうか。
とりわけデザインの分野では北欧の質素だが洗練されたデザインは日本人好みで、私を含め、魅了されてしまった人も少なくない。
マリメッコ。
イッタラ。
ノキア。
などなど。
知り人ぞ知るブランドが数多く存在する。

そんなフィンランドのデザインを代表するものの1つがガラス製品。
そのガラス製品の展示会が大阪の中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館で開催されている。

この東洋陶磁美術館は破綻した安宅財閥の残した美術品、一般に安宅コレクションと呼ばれている重用な陶器類を中心とした美術品を安宅グループを継承した住友グループが1980年代に大阪市に寄贈して誕生した美術館だ。
そもそも、大阪の美術館は民間で作られたもの、とりわけ住友グループの援助で建設されたものが少ないない。
大阪城。
大阪市立美術館。
で、ここもその1つなのだ。

この美術館の特徴は自然光を取り入れた展示室のあることで、それは開館当時世界初。
今回のフィンランド・デザイン展では関係のない部屋なのだが、初めてここを訪れたとき私は思わずそこに展示されている陶器類に目が釘付けになり、長い時間見つめていたことを思い出すのだ。
フィンランドデザイン展では様々なガラス製品が展示されていた。
フィンランドを代表する4つのガラス工房というか、ガラス製品の会社が手がけてきた製品や作品が展示されていたのだ。
その中でも、やはり中心的なメーカーがイッタラ社とアルバ・アルトを代表とするデザイナーの作品が目を引いた。
陶磁器と違うガラスの透明感と質感。
光の織りなす陰影、反射が絶妙なバランスで有機的な生命力を感じさせる。
陶器と違って、ガラス製品は光の使い方が作品のデザインに重要な役割を果たすことがよくわかる。

東洋陶磁美術館はどちらかというといつもは空いている文化施設なのだが、展示されている作品が魅力あるフィンランド・デザインだからか平日なのに、そこそこ混みあっている上質の展覧会なのであった。
特別展大人1000円というのも、優しい金額なのであった。

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全国的に有名になってしまった讃岐うどん。
私は家族と一緒に時々大阪からマイカーで四国高松まで出かけてうどんを食べることがある。

「わざわざ饂飩のために四国へなんて」

とおっしゃる方も多いかもしれないが、私の場合は「うどん」と「金比羅参り」「フェリーでの瀬戸内クルーズ」がセットになっていることが多く、気分転換には持って来いなのだ。

大阪からは神戸へ出て、そこからはジャンボフェリーで一路高松へ。
運転する必要はないし瀬戸内なので船は大きく揺れにくいし、言うことなし。
難を言えば最近は深夜便に乗ることが多く、瀬戸内の景色が楽しめないこと。
楽しめるのは明石海峡大橋のライティングだけ、というのはいかにも勿体無い。

うどんで美味しいのは金毘羅さんの参道にあるいくつかのうどん屋さんで、そこで食べる「きつねうどん」がなかなか結構な味だ。
但し、休日ともなると行列ができたりするので注意が必要でもある。

ところで、最近全国チェーンの讃岐うどん店が、
「讃岐地方の特定都市名を店に使うのはまかりならん」
と、競合他店を提訴しようとしたことにネットが炎上。
「本社が神戸の似非讃岐うどんチェーンが何様だと思ってんだ」
という声が炸裂したのはニュースとして取り上げられていた。

それだけ讃岐うどんがビッグビジネスになっている証拠なのか。
金欲恐るべしといったところだ。

さて、最近あまりに讃岐うどんばかりなので「うどんはいかが」という状態になりつつある。
腰のある麺。
魅力的な歯ごたえ。
関西風の味付け。
セルフサービスの手軽さ。
などが魅力なのだが、あまりにシステマチックになりすぎて「うどん」そのものに飽きが来てしまいそうなのであった。

そんな時に、昔から付き合いのある普通のうどん屋さんに夕ごはんを食べに行くことになった。
大阪風のうどん。
というか江戸の蕎麦、大阪の饂飩で、大阪で饂飩はあたりまえなのだが、讃岐うどんに押されて暫くご無沙汰していたのであった。

で、久々に食べたうどんは、自分の味覚の中にルネサンスを起こしそうな美味しさなのであった。
麺はほどほどの腰があり、讃岐うどんほど太くない。
汁は出汁がよく効いていて、ほんのりとした甘みと青ネギの風味が絶妙にからみある。
七味唐辛子も大いに結構。
この時私は卵とじうどんを食べたのだが、これが素晴らしい。
卵の柔らかさ、出汁とのコンビネーション。

これぞ大阪のうどんという素晴らしさなのであった。

ということで、讃岐うどんもいいけれど、大阪のうどんはやはり奥が深いと思った夕食なのであった。

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「ジョージ・ブッシュ・JRは大馬鹿野郎だ~!」
とホワイトハウス前で叫んだ男が逮捕された。
容疑は「国家機密漏洩罪」。

というのは、私の大好きなアメリカンジョーク。
自前の大統領をこき下ろすのに、これは結構洒落ていると思ったものだった。

この国家機密漏洩罪。
公務員や軍人が国の重要機密を漏らした時にかせられる重い罪で、一般的には死刑になるケースもなくはなかった。

その国家の情報を他国に売買していたスパイが第三国へ亡命を希望して大ニュースに発展。
それもそのはず、そのスパイはロシア人でもイスラエル人でもなくアメリカ人。
祖国アメリカを捨ててベネズエラへ行ったというのだから驚きだ。

このスパイ事件。
今後どのように発展するのか注目されるところだが、翻って我が国日本。
週刊誌では度々伝えられるように重要政治家や国家公務員に女を抱かせて情報操作をしようとしている某大陸国家が暗躍しているという。
アメリカのスパイ事件はショックが少なくないことだろうが、きっとそれ以上のことが日本の現実社会では展開されているに違いないのだ。

スパイゲーム。
ゲームで済まされない凄みを事件は持っている。

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先週末、大阪のテレビ番組「たかじんnoマネー」で生放送中に事件が発生した。
橋下徹相手に議論をしていたコメンテーターの水道橋博士が放送中に突然番組降板を宣言。
スタジオから立ち去るという事件だったのだ。
大阪ローカルの番組なので大きな話題にならないと思っていたら大間違いで、ネット時代の今はローカルだろうがなんであろうが、番組そのものがネットで流れ全国通津浦々に流れた。
多くの人達がコメンテーター退場にコメントする、という状態が出現しているのだ。

事の次第は広く報道されているのでここでは述べない。
でも、言い負かされそうになったから、という理由でコメンテータを辞めるというのは何なのであろうか。
プロのコメンテーターの話ではなく、単なる未熟者のすることではないか、と私なんかは思うのだ。
そもそも一介の漫才師がコメンテーターをしていること自体、どういう位置づけでこの人物を番組に出しているのかという疑問が制作側にはあるように思う。
一般大衆の意見なのか。
それとも「笑い」を穫るためのクッションとしての役割を期待してのことなのか。
残念ながら「一般大衆の意見」はまったく代表していないことがわかった。
番組内で視聴者に対して行ったアンケートでは実に8割の「一般大衆」が橋下発言は正しいと判断したのだ。
満足に勉強もせず、通り一遍なマスコミの偏向報道を鵜呑みにし、それを信じていただけだった、というお粗末な知識をさらけ出してしまったというわけだ。
それとも日韓クウォーターの自らの師匠に義理立てしての意見なのか。

かといって「笑い」をとることもできなかった。
「小銭稼ぎのコメンテーター」
という悪口に負けて笑いも取れず、きり貸すこともできなかったのは、お笑い芸人としても、コメンテーターとしても中途半端だったという姿をさらけ出したにすぎないのであった。

ここ10数年。
この手の番組でお笑い系のタレントが出演し、政治向けの話をしたり顔で演じることが少なくない。
政治ネタを売り物にしている者もいるくらいだ。
その者たちのほとんどは水道橋博士同様に笑いを取ることも、一般大衆の意見を代表することも無く、
「なんでこの人がここにいるの?」
「わかって言ってるの?」
「何を偉そうにわかったふりを」
という疑問を視聴者に抱かせながら存在していたわけで、奇しくも今回の退場事件は、そういったテレビ局本意の芸人タレントのコメンテーターがいかに一般と隔離した存在で不必要なのか、ということを露にした事例ではないかと思うのであった。

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姫路の駅ビルの硬いが決まった。

といえば、JR姫路駅でも解体されるのかな、と思ったひと。
あなたは早とちりだ、まるで私のように。

駅ビルといってもJRの姫路駅ではなく、姫路のビルの中にある駅がビルごと解体されることになったのだという。
その駅は姫路モノレールの「大将軍駅」。

かつてちょっとの間だけ走って廃止になってしまった姫路モノレールは姫路駅から手柄山までの数キロメートルを走っていた単線のモノレールだ。
経営がうまく行かずに廃止になってしまったという。
実際、私は子供の頃に父の故郷岡山へ行く途中に何度かこのモノレールのレールだけは見ていたのだが、電車が走っているのを見たことがない。

このモノレールは今でも鉄道廃墟として部分的に線路が残っていて、
「なんだこれは?」
というルーインになっていたのだが、そのルーインの最大のものであった公団住宅の建物内にあった唯一の途中駅「大将軍駅」が建物の老朽化と、阪神大震災後の診断で震度6強程度の地震で倒壊する可能性があることがわかったため、耐震補強を諦めて建てなおすことになったのだという。
今でもその住宅では多くの世帯が生活しえいるということで、その人達は別のところに引越しするのだろうが、無くなってしまうものに姫路モノレールの駅があった、というわけだ。

それにしても駅名が凄いと思った。
「大将軍駅」。

イメージからすると松平健の顔写真でも飾らているんじゃなかろうか、と思えるような刺激的な駅名である。
なぜこのような駅名がついているのか定かではないのだが、姫路藩は代々松平家が治めた期間が長いことからこんな名前がついてるのかもわからない。

なお、「大将軍」という名前で「大統領」という十三のキャバレーのコマーシャルを思い出した。
1970年代の昔、キャバレーのコマーシャルでも深夜の関西テレビで放送されていて、ここの社長がなぜか「ナポレオンの帽子」を持っていて、それを被って「わはっはっは」としていたのが印象的であった。
あの帽子はどこに行ってしまっているんだろうか、と気がつくと姫路のモノレールの駅の取り壊しより気になっていたのであった。


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酒飲みだが、甘いモノもの大好き、という甘辛両刀の私なのだが、ものには限度というものがあり、それはなかなか突破出来ないものだ。
それは何かと尋ねたら、
「その甘辛フードを食べるための予算の限度」
なのだ。

私は冬は熱燗、夏はビールというスタイルを通してきて、独身時代はできるだけ家飲みを心がけていた。
ところが結婚してからというもの、カミさんの監視があるために思うように飲めなくなってしまい、ちょっとこう酔いたくなると、
「外飲み」
になってしまう。
畢竟お金がかかることになってしまい、お小遣いがビューンとどこかへ飛んでいってしまうのだ。

そうなると甘いもんを食べることが極めて困難になってくる。
なぜかというと、甘いもんは辛いもんに勝るとも劣らない高価格のものが少なくないからなのだ。

先日、大阪のある百貨店の地下食料品売場をウロウロしていると美味そうなショートケーキが目にとまった。
サイズは拳大ほどもある「モンブラン」似のケーキで、モンブランと違うのはそこにいくつかのフルーツが添えられていることであった。
私はケーキの中でもモンブラン系が好みで、カフェに入ってもモンブランがあると、思わずそれを注文してしまうのだ。
このモンブランを超えるのがミルフィーユ系のケーキなのだが、最近その手のもので好みのサイズのものをとんと見なくなってしまい、ドトールのミルフィールで我慢することも少なくない。
そんな、ケーキ欠乏症の時に発見したのが、百貨店のモンブラン似のケーキなのであった。

ところが、私はそれを買うことが出来なかった。
なにも金を持っていないので買うことが出来なかったというわけではなく、その価格が私のランチの価格を遥かに上回っていたからなのであった。

ショートケーキ1個が680円。

私の会社の社員食堂の定食は370円。
じつにほとんど2倍の価格をつけていたのであった。

あゝ。
なんたることか。
仕出し屋の弁当と百貨店のケーキを比べるのはいかがなものかもしれないが、それにしても吉野家の牛丼並2杯と味噌汁が頼めるケーキというのはどういうものか。

世の中理不尽なのであった。

なお、写真のケーキは堺市内の某ケーキ屋さんのショートケーキ。
これも価格は1個480円。
ドリンクとセットで700円という価格で、これがランチになったのは言うまでもない。

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どうもお下劣でどうにもならない芸能ニュースが「元モーニング娘矢口真里の不倫事件」。

旦那のいぬ間に間男を連れ込んで好き放題。
そこへ仕事が早引けして帰ってきた旦那が自宅の寝室で間男と鉢合わせ。
ベッドを見たら脚が4本あるのでおかしいな、と思って女房にたずねてみると、
「あら、これはあなたなの足よ。嘘だと思ったらベッドに来てみて」
で、旦那がベッドに入って脚をだしたら4本あって、
「あ、ホントだ」

と落語みたいな話が元人気アイドルを主人公に展開したものだから世間に与える影響も少なくないだろう。

これを事件と呼ぶほどのものであるのかどうかはともかくとして、今の若い世代に与える影響は小さくないはずだ。
このまま矢口を社会的制裁なしに芸能界に戻すと、

「なんだ、あんなことやっても世間に顔を出しても恥ずかしくないんだ」

なんていう間違えた倫理観が浸透するかもしれないので、社会的影響が大きすぎるような気がするのだ。
かと言って江戸時代の法律を適応し、

「矢口真里とその相手を死罪にせよ」

となるには双方が武家でなければならないし、そもそも江戸時代の法理を適用というわけにはいかない。
見せしめということで、今も不義密通死罪(但し女のほうだけ)というイランに連れて行けば、矢口真里のほうだけ石打ちの刑という、聞くも無残な刑罰に晒され、なぜか男の方だけ嗤われて終わり、という理不尽が刑が執行されるだろう。

かくして不義密通なるは倫理観の欠如として世界の普通の人々には忌み嫌われるわけで、それに対する世間からの非難は身をもって受けてもらわなければ、若い世代の教育に良くないと思う。
石打ちの刑も死刑もでいるわけはないけれど、芸能界から追放ぐらいは遭ってしかるべきだ。
盗撮マニアの某元タレントのように。

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大阪のランドマークと言えば、なんといっても通天閣。
高さはなんとたったの地上100メートル。
展望台の位置はさらにたったの地上約70メートル。
正直いって、そこら辺の高層ビルよりも圧倒的に低いタワーなのだ。
それでも子供の頃は、

「通天閣に上がりたい」

と動物園に行った帰りに母にお願いすると、

「高いところは危ないからアカン!」

と言われたくらい、高所恐怖症の母には危険に感じられるところなのであった。

ところが、通天閣へ上がると今でも展望台としての役割を果たしていることに驚きを感じることになる。
見晴らしがいいのだ。
通天閣は新世界地区の中核を成し、その周囲には通天閣より高い建物がない。
だから、結構遠くまで見渡すことができる。
西は南港大橋。
東は生駒山。
北は日本橋の電気街からなんば・梅田の高層ビル。
南はジャンジャン横丁から釜ヶ崎。ちょっとそのヨコを見ると通天閣の3倍の高さのあべのハルカスがずずず~んと建っている。
主要な大阪観光が一発で完了できるような場所なのである。
だからかどうか知らないが、休日は観光客がエレベータに列を成し、さながら大阪のスカイツリーという様相だ。
通天閣はスカイツリーと比べると高さはスカイツリーの第一展望台と第二展望台の差程度しか高さがない。

その通天閣が今年で100歳の誕生日を迎えた。
東京スカイツリーの百倍のご年齢なのであった。

尤も、現在の通天閣は2代目だから、建物は100歳ではないのだが、通天閣という名前は100年目を迎えるということになる。
初代通天閣はご存じの方も多いように戦争中に鉄骨材としてお国のために解体して差し出された悲しい歴史がある。
そんな悲しい歴史を乗り越えて昭和31年に建ったのが現在の通天閣。
2代目だが、それももうじき還暦を迎えるような建物なのだ。

この、通天閣とそのお膝元、新世界はお世辞にも綺麗な街とは言えなかった。
私が大学生だった頃の1980年代が最悪だったかもしれない。
釜ヶ崎という労働者の街が近くにあるために繁華街は日雇いの労務者が多く、昼間でも酒を飲み、くだを巻いている連中がそここにいた。
畢竟、若者はなかなか寄り付かず、天王寺動物園や市立美術館への玄関口であるにも関わらず「小汚い街」という印象が離れなかった。

そんな通天閣と神世界に異変が起きている。
アートな街として少しづつ変貌しているのだ。

先々週に新世界界隈で実施された「ツムテンカク」なるイベントは、数多くの若手アーティスが新世界地区を舞台に様々なパフォーマンスを実施するという、大規模なものであった。
たまたま実行委員の一人が交流会での知り合いであったので出かけてみたが、普段は寂れた商店街やちょっといかがわし気なレトロなエリアも若者を中心としたアーティストのパフォーマンスですっかり華やぎ、30年ほど前のグレーな雰囲気はどこかへ消えてしまっていた。
通天閣こそイベントには参加していないかったが、通天閣が呼び込む多くの観光客やその周辺に点在する観光ガイドでお馴染みの「串カツ屋」などに列をなす人々がまたアートイベントを楽しんでいた。

100歳通天閣はくすんだ街に新しい色を付けるエネルギーを放っているのだった。

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昨日のネット版日経をiPhoneで検索していたら、
「誤算のウィンドウズ8,マイクロソフトに迫る落日」
という記事が載っていて、思わず読みふけってしまったのであった。

実のところ、私はまだウィンドウズ8の実物に触れたことがない。
会社ではウィンドウズ7のPCとMacBookを使用していて、自宅ではiMac。
なのでWindows8は家電量販店でも行かなければ見かけることはないPCだ。

記事によると、PCの出荷台数はすでにタブレットに抜かれていて現在主流のOSはAppleのiOSかグーグルのAndroid。
そこにはマイクロソフトの出番は無く、存在感が著しく低下しているのだという。
しかも、Windows8で製造された商品も結局はWindows7にダウンロードして出荷されるものが9割以上を占めているというのだから、マイクロソフトのOS販売はそのピークを過ぎたのは明らかだ。

業務にPCを使っていていつも感じるのは、あまり高機能を必要としないワークが多いこと。
私の場合、OfficeとIEとAcrobat Readerが使えればそれでよく、特別高度な能力は必要としない。
映像を加工したり、プロモーションビデオを作ったり、原稿を作成するのはMacBookかiMacなので、WindowsPCに求めるものはタブレットレベルでもやれば出来ない話ではない。
私のようなユーザーが多分半分以上いるのがWIndowsPCの世界だと思うので、きっとどの人もWindows8は必要ではなく、できればXPの安定性と安全性を向上させてくれればそれで良いと考えているに違いない。

数ヶ月前、ある人にマイクロソフトの未来戦略のプロモーションビデオを見せてもらったことがあるのだが、それを見ていて愕然としたのは新鮮さがあまりないことなのであった。
ほとんどがタブレットとフラットディスプレイによるアプリケーションによる生活スタイルなのだったが、マイクロソフトが最も太くとする分野であり、その映像のほとんどは現在のiPadや店舗案内などに使われている大型タッチパネルディスプレイがあれば実現できる話で、
「お~これはすごい!」
となるものでは無かったのであった。
むしろ、
「おーそおれがどうしたの?」
といった世界で、マイクロソフトのイマジネーション力の欠如に哀れさまで感じてしまったのであった。

記事では、この秋にマイクロソフトのOS戦略がはっきりするだろうと、締めくくられていた。
Windowsアプリを製作しているソフト会社の姿勢がはっきりするからだそうだ。
今や、WindowsアプリよりもiOSやAndroidのアプリの方が数が多い時代になっているそうで、ちょっとの油断が大木をなぎ倒す事態に発展しかねない。

IT産業は恐ろしく水物の世界だと思ったのであった。

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私の住んでいるところでは、古紙回収を町内会で行なっている。
その販売益を子ども会の運営費の補助に充てるためだ。
それがどれほどの金額になるのか知らないが、制度として無くならないところを見ると、古紙集めという労働に対するだけの価値があるのかもしれない。

この古紙。
我が家では1ヶ月の間にだいたい3束の量がたまっていく。
新聞を四つ折りにし、それを高さ30cmほどに積み上げたサイズが1束なので、3束というと結構な量だ。
我が家だけがそんなに多いのかと思って近所の古紙量を観察すると、うちより多いところもある。
毎月毎月これだけの量の紙を処分していると考えると、全市的、全府的、全国的にいったいどのくらいの紙が消費されているのか気になってくるのだ。

紙というのは記録するためのメディアというよりも、もしかすると作っては捨てて、作っては捨ててという、単なる消耗品という存在であることのほうが多いのかもしれない。

我家では購読紙は日経。
私は「日経はネット版で十分」というのだが、なぜかカミさんが「ネット版より紙の日経」とこだわりを持つ。
そもそも私は日経よりも産経のほうが好みなので、ビジネスウーマンでもないカミさんが日経にこだわるのは、なんだか少しばかり変のように思う。
もっとも、経済面ではなくて文化欄が魅力だからだそうで、それだけなら図書館でそのページだけを読めば、まずは我が家の古紙処理の手間と新聞代金を省力化することができるのに、と思うことが少なくない。

日経は一部の夕刊を除き、結構ページ数がある。
その大部分は私のあまり興味のない株価や物価指数である。
そういうページを見ていると、時として面白いのだが、どちらかというと競馬の予想新聞と同種のつまらなさを感じるのだ。
それに、こういうものこそネットで見れば良いわけで、でかい紙面をぶわわわ~~んと広げて見るのは、いささか「お金いのち」みたいで品格にもかけるような気がする。
日曜日に競馬新聞を広げて電車に乗っているオッサンらと何ら変わらない気もするのだ。

さらに宅配の新聞というのは、折込広告が大量に挟まれている。
土曜版、日曜版は特に多く、その処理で古紙回収袋はどんどん膨らんでいく。

折込広告はだいたい内容が決まっていて、マンション、建売などの不動産関係、パチンコ屋関係、スーパーの特売、家電量販店のセール、自動車ディーラー、求人広告がほとんどだ。
不動産は関係ないし、パチンコは生涯で3度しかやったことがないほど興味がなく、スーパーマーケットは行くところがだいたい決まっているので見ることはない。
家電の価格チェックも折込じゃなくて価格ドットコムでチェックするから折込不要。
さらに頻繁に自動車を買うほど生活に余裕はなく、古い車に乗り続けても日本車なので故障もせずに走り続ける。
自動車買うなら旅行するのが我が家の方針だ。
かといって旅行会社の折込が入っても見ることはない。
ツアーで出かけることは国内外でもまず無いし、旅行者のツアーよりも面白いツアーを企画する自信があるので見ることはないのだ。

だから折込広告は、読まずにそのまま回収袋行きになる。

で、どうせ捨てるのならトイレットペーパーに印刷してはどうなのかと思ったりするのだ。

トイレットペーパーは使ったらすぐに捨てられる運命にあり、それに記事を印刷したら一石二鳥。
紙資源も報われるというもの。
それに日頃の鬱憤を晴らすのにちょうどいいかも。

「今日はこの記事でお尻拭こう」
と嫌で嫌いな政治家の顔写真を取り出して、トイレに流す。
しかも、トイレに新聞持って入っては長く占領するオトウサンにもメリットが有り、トイレットペーパーの記事を読むだけなので、
「新聞、汚~い」
といわれることも無くなり、清潔でもある。

ということで、新聞雑誌(とりわけ朝日新聞や琉球タイムズのような新聞社の記事は)トイレットペーパー印刷で良いと思う。

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