<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





先月アメリカで発生した自動運転の自動車による死亡事故。
各方面で大きな衝撃を持って伝えられたが、果たしてそれほど驚くものであったのかどうか。
驚くことそのものを大いに疑ってみる必要があるのではないだろうか。

というのも、自動運転とはいってもそれは自動車のことであり、事故はいつ起こっても不思議ではなかったわけだ。
むしろ実証試験のテーマの中には事故が起こることも含まれていたに違いない。
実験を企画した研究者や技術者がもし死亡事故を想定していなかったとしたら、それは津波を想定していなかった原子力発電所の技術者と同程度の愚かさと断言できる。

それに自動運転技術はまだまだ発展途上である。
話題が先行しすぎて巷では「自動運転が世界を変える」と思い込んでいる人も多い。
それでも私のように、

「そんなものは永遠に実現するわけがない」

と思っている人も少なからず存在するはずだ。
でも、そういう人の意見は何が原因かわからないが伝えられることはほとんどない。
確実に事故を防止して、死者はもちろんのことけが人も出さないなどとうてい無理な話。
これまでの飛行機や鉄道といった自動運転が発達している分野においても確実などというものは存在しない。
まして一般道を走る自動車が人の力を全く借りずに安全を達成するなんてのは、ありえないと思うほうが正常ではないだろうか。

過去を例に取れば大阪メトロのニュートラム。
東京のゆりかもめと同じく全自動運転の新交通システムだ。
この線路を走る交通システムといえども事故とは無縁ではない。
最新の技術。
人のように勘違いすることもない。
確実に安全を確認しながら運行されいる。
そう思っていたら1993年にブレーキが効かなくなって終着駅で暴走。
200人以上が怪我をした。

また、1994年に中華航空機が自動操縦で名古屋空港に着陸中、着陸をやり直そうとパイロットが操縦したら装置が反発。
コンピューターと人間のつっぱり合いが発生して失速墜落。
200人以上が死亡した。

このようにコンピュータに頼って自動で運転すると事故が起こらなくて安全だ、というのは人間の「期待」に過ぎない。
現実は大いに異なる。

もちろん、
「これら20世紀末の状況と今は全く違うよ」
という人もいるかもしれない。
コンピュータの性能が20世紀末と現在とでは雲泥の差。
当時のコンピュータは考えることができなかったが、今はできる。
その根拠になっているのが「人工知能」だ。

人工知能は人に代わり目で見て考えて判断する。
どれが道で、どれが障害物なのか。
ルートは正しのか。
今、自分はどこに位置しているのか。
人工知能は数多くの事例を学習してこれら運転に必要な無数の知識を学ぶのだ。
判断するスピードは人間の数百倍から数千倍。
記憶力も抜群だ。
無数の情報を処理して安全を確保。
だから事故は起きない、と。

私はそういう考えはテクノロジーへの過信としか思えない浅はかな印象しかないのだが、他の人はどうなのだろう。

そもそも人間は道路を認識するのに学習する必要もない。
障害物も学習しなくても判断できる。
ハイハイする赤ちゃんが、わざわざぶつかって、
「これは壁だじょ」
などと考えているところを見たこともない。

人間だけではない。
芋虫の類でも何かにぶつからなくても障害物はわかるし、外敵も判断できる。
逃げなければならない時にノンビリ食べられるかどうかを待っている生物など見たこともない。

私は人工知能には大いなる夢はあると思っている。
でも生物ほどの荘厳なメカニズムはないのではないか。
どんなに高性能になっても、あくまでも「からくり人形」の範囲でしかないのだと。

世の中なんでも「人工知能」。
やがてシンギュラリティが訪れて人の仕事を奪い、社会が劇的に変わってしまう。
だから人工知能が変える社会に人々は備える必要があるのだ。

という考えに真っ向から哲学で挑んでいるのが「そろそろ人工知能の真実を話そう(ジャン・ガブリエル ガナシア著)」だ。
パリ大の研究者である筆者が語るのは「シンギュラリティ」は「アルマゲドン」と一緒。
要はグーグルやアップル、IBMなどIT大手が稼ぐために真贋取り混ぜて騒ぎ立てているに過ぎないまるでキャンペーンみたいなもんだ。
ということだ。

だから人工知能オールマイティなんてありえない。
商売と繋げるためのシンギュラリティなのだ。

いたって賛成したくなる時代を冷めた目でみつめる必読の一冊なのであった。

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「不審者は星野源さんに似ています」

と警視庁が都内で発生したわいせつ事件の犯人の人相を伝えたところ実在する固有名詞で表現するのは「人権問題だ」というものが現れ、慌てて訂正して詫びを入れた。
これって本当にいけないことなのか。
私には大いに疑問だ。

もしも、
「不審者は星野源さんです」

というと大いに問題だ。
でも似ているだけであって本人が犯人であるとは言っていない。
犯人の特徴を伝えるための最も効果的な方法である。
しかも私のようなテレビをめったに見ないようなオジサンでも星野源は知っている。
つまりそれだけ星野源は知名度が高く、誇れこそすれ傷付けられるものではない。
芸能人として「顔を指す」といって誇れることではないだろうか。

だから、

「エラの張ったウーパールーパーのような顔」

と表現するよりもよっぽど万人に記憶されやすい。
畢竟、犯罪を防止するのに役に立つのだ。

このように何が何でも個人名を出すな、意見を言うな、という最近の風潮は非常に恐ろしい傾向と言えよう。

尤も、出した名前が人気のある星野源だったからファンが怒ったのかも知れず、例えばこれが、

「不審者は池乃め○か似です」

とか、

「不審者は田代○さし似です」

とか報道されていたら問題になっていなかったかもしれない。

方やお笑い。
方や不審者の前科あり。
名前からして大いに印象が異なるからだ。

ということで人相の伝え方一つ、息苦しい左記の思いやられる世の中である。

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セクハラをしたという財務次官が自己退職するのに退職金が5300万円。
どういう仕組みになっているのか知らないが、多くの一般企業ではありえない金額なのだ。
だからかどうあは分からないが嫉妬も手伝って巷では非難が渦巻いている。

「なんであんなに払わなければならないのか」

と。

一部野党の女性議員は頭から湯気を沸かして怒っているが、それがルールであれば払わねばなるまい。
法律で決まっているのだ。
MeTooなどというプレート持って外国の真似はできるが肝心の国政については全く議論ができていない。
このような詰まらない議員たちにも私達国民は給料を払わなければならないのだ。
我々には本当に選択の自由がないというか人事権がないというか。
もう少しこましな国にするためにはどうすればよいのか。
最近の国会を見ているとお隣の半島国家を嗤ってばかりいられないな、とつくづく思うのである。

ところで、退職金。
公務員にどうしてそんな大金を払えるのだろうか。

私の知人はノーベル賞受賞者も出したことのある会社を親会社にもった某科学系会社に20年以上勤めていた。
しかし途中退職したところ退職金はたった数百万。
数百万といってもハイブリッド車も買えないような金額で、大いに落胆したのだという。
かくいう私も昨年会社を途中退職した。
23年も勤めたのだ。
件の知人よりは金額はマシだったものの退職金そのものはめちゃくちゃ少なかったのであった。
さらにさらに、私の別の知人は入社する時に「退職金の支給はしません」という条件の会社であったため、退職しても寸志も出ず。

つまり市井はこういう環境下で生きている。
嫉妬もするわけだ。

一方、国は借金だらけで人によっては「日本はもう破産している」という人もいるくらいだ。
一般に倒産しそうな会社は退職金を払えない。
払う金がないからだが、これが国の場合はどこから出てくるのかまったくもって不明なのだが払う金がある。

とりわけ今回の場合は財務省のお役人だけに、もしかすると日本銀行で刷り立てできたてほやほやの新札でも使って支払うのだろうか。
それなら理解できないこともないが、それはそれで恐ろしい。




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昨年の暮。
ふとバカバカしくなってアマゾンのプレミアム会員を解約した。

「ちょっと早く送ってもらうだけでなんで金払わんとアカンねんな」

と思ったこともあるが、なんでもかんでも通販のアマゾンになんとなく疑問を感じたからでもあった。
折しもヤマト運輸の宅急便の価格が上がるのどうのと話題になっていたときでもあり、アマゾンスタイルの通販そのものに疑問を感じ始めていたのであった。

それまでは何でもかんでもアマゾンでチェックして書籍なんぞを買っていた。
書店で探すよりも簡単に見つかるし、簡単に発注できるからでもあった。
例えばその昔、ちょっとした洋書を買おうと思うと大阪市内の旭屋書店、紀伊國屋書店、丸善の洋書コーナーに出かけて、

「すいません。スター・トレックのテクニカルマニュアルを取り寄せてもらえないですか」

と頼んだとしよう。
店員さんが差し出す伝票に書籍名と出版社などを記入して渡す。

「届いたら連絡しますね。でもお待ち下さい」

で、実際に届くまで半年ほどかかることはザラなのであった。
しかも価格は安くない。
10USドルの本が2000円以上したものだ。
為替レートのアップダウンはたしかに影響したが、最も大きなものは手数料の影響なのであった。
アマゾンが日本に進出してそれが一変。
10USドルの本は1200円ぐらいで売られるようになった。
つまり米国、日本の価格差がほとんどなくなった。
さらに注文したら遅くとも1週間もあれば到着した。
書店で買っていた頃とは雲泥の差だ。

書籍を頼むのなら消耗品もアマゾンで買うようになった。
例えばインクジェットプリンターのインクカートリッジ。
今もそうだがインクカートリッジはアマゾンが一番安い。
販売店の仕入システムの中身をお客さんの事務所で覗いたことがある。
なんとなんと、インクジェットカートリッジはアマゾンの小売価格のほうが卸売価格よりも安いことが少なくない。
一体どういう仕組にあっているのだろうか。
未だ謎でもある。

このように、安くて便利。
早いし簡単。
お店に足を運ぶ必要はもちろん全くない。

知らず知らずのうちに、なんでもアマゾンで買うようになって、それが当然のようになってしまっていたのであった。

アマゾン中毒。

この状態からの脱出が絶対に必要だと思った。

「書籍販売の4分の1はアマゾンだ」

そんなことを知ったのは4年ほど前にアマゾンの裏を描いたノンフィクションを読んだときであった。
それってちょっとおかしくはないか。
何故かこの時、私は商品というものは現物を見て、中には説明することの出来る店員さんがいるリアル店舗で買わなければならないのだ。
と思ったのだった。

以来私は書籍は近所の書店か大阪市内の大型書店。
目的の本が見つからない時は書店のWEBサイトに接続してお取り寄せ。受け取るのはリアル店舗のカウンター。
クレジットカードは一切使わない。
現金だけ。

書店を歩き、家電店を歩き、ものに触れ、人と触れ合う。

アマゾンを使うのをやめようなんて言わない。
でも、なんでもかんでもアマゾンもいかがなものか。
アマゾン中毒は買い物のホントの楽しさを失わせる副作用があることに注意が必要だ。

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「全裸でゴミ出しをしている人がいる」
と住民の指摘で逮捕されたのは高知県職員。
そんなニュースが産経WEBに掲載されているのを目にして思い出したのは、10年ほど前まで通っていた英会話教室のN先生のエピソード。

ニュージーランド人のN先生は中年の優しい男性講師で、教えかたが上手くて生徒たちからの信任も厚かっ
た。
もちろん私も人生経験豊富なN先生の授業は大いにお気に入りなのであった。

この英会話学校では時々先生と生徒が一緒に1泊の研修旅行にでるイベントがあった。
私はそれには参加したことがなかったのだが、参加経験のある友人Kさんから面白いエピソードを聞いたのだった。

みんなで淡路島に行ったときのこと。
20人前後の参加者で参加の男性生徒はKさん1人だった。
必然的に宿泊はN先生とKさんの二人で1部屋と相成ったわけだが、ここで小さなハプニングが起こった。

布団を敷いてKさんはラフなジャージに着替えて布団に入ると、N先生があとからやってきて就寝の準備を始めた。
まず服を脱いで、下着になった。
そしてなんと下着を脱いで全裸になったのだという。
N先生は婚歴がなく、中年を過ぎそうになっても独身を通していた。

「もしかして」

とKさんは身構えたのだという。
当然のことであろう。
N先生は実はあっちの趣味を持っていて自分はこれから襲われるのかもしれない、と戦慄した。
で、Kさんが布団の中で硬直したまま身構えていると先生はそのまま布団に潜り込んで寝てしまった。

「いつも寝る時は全裸になって寝る習慣があったんですって」

翌日恐る恐る訊ねてみると、N先生は寝る時は見に何も纏わずに寝る習慣があったのだという。
そういう人は地震や火災のような緊急時の時に困るのではないかと思ったのだが、寝るときの格好までくだくだ言われたくないのもわかるような気がした。

高知県職員もそういう人の一人だったのかもわからない。


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テレビのニュースを見ていると「森友」「加計学園」関連のニュースでもちきり。
もういい加減にしていただきたい問題だ。

要は野党やマスコミが安倍内閣打倒だけを目的にしているだけで、国会で議論すべき内容でない。
もし違法性があれば検察が動くべき事柄であって国会で論ずるたぐいのことではないはずだ。

正直言って国民の側は「もううんざり」というのがホントのところだろう。
少なくとも私はそう思っている。

国会で話し合わなければならない本来のテーマは目白押しのはず。

北朝鮮問題。
独裁色と軍事力増強が目立つ中国。
正常不安定な韓国。
アメリカが始めた保護貿易政策。
東京オリンピックとその後の経済。
働き方改革。
などなど。

これらは置き去りにされてどうでもいいような問題ばかりが声高に叫ばれていることに国民の側としては、
「国会議員はアホちゃうか」
と思えてしかたないのだ。
こういうことを野党もマスコミも感じないのはどういう神経をしているのか疑いたくなる。

実はこの背景には憲法改正問題がある。
そう私はと思っているのだ。

憲法改正を謳う安倍内閣と自民党。
それに対抗する護憲派野党、というのが根底にあり、なにがなんでも叩き潰す必要があるのだろう。
だから主に反安倍として活躍しているのがご護憲政党であり、中国韓国とつながりの深い政党やマスメディアであるのが何よりもその特徴を表している。

ところで、護憲派の皆さんのお題目に「日本国憲法は国民の総意にもとづいて制定されたもの。だから変えるのはけしからん」というものがある。

人の世は時間ともに移ろいゆく。
そういうことを頭に入れて冷静に考えると日本国憲法が制定された1947年に物事の分別がつく世代が今どれくらい生きているのか調べてみた。
対象は71歳以上ということになるが生まれたばかりでは判別がつかない。
そこで75歳以上の人工はとみると、高齢化社会もあって結構高いのだが、それでも国民の25%しかいない。
とても現憲法が「今生きている国民の総意に基いている」とは思えない。

しかも私の父は88歳になるのだが、改憲派だ。
「日本国憲法みたいなものは無効じゃ」
というのが現憲法ができたときに高校生だった父の感覚だ。
そういう戦前生まれの老人もいるわけで、何をもって総意というのかわけがわからない。

日本国憲法は国民の総意。
そろそろホントの総意を確認すべきときではないだろうか。

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兵庫県立美術館で開催中の「小磯良平と吉原良治」展へ行ってきた。
正直に告白するが、かなり地味な展覧会であった。
その証拠に始まったばかりの展覧会にも関わらず会場は空いていて、かなり自由に見ることができた。
自由というか式放題。
1つの作品に5分も10分も見入ったとしても、ほとんど文句を言う人はいない。
そういう展覧会なのであった。

そもそもこの展覧会へ行くことになったきっかけは、

「お父さん、兵庫県立美術館へ行かへん?」

と娘が誘って来たからなのであった。
娘は兵庫県立美術館の会員なので同行者1名が無料になるのだという話だった。
ところがその期限が間もなく切れるので、お父さん、一緒に行かへん?というありがたいお誘いなのであった。

「入場料無料」
なのも嬉しいが、この年になっても誘ってくれる娘が嬉しく、

「よっしゃ!」

と出かけることを決定したのであった。

結果的に無料ではなかった。
娘は学生会員で、一般会員の豪華版であればお連れ様無料なんだそうだが、学生の場合はそんな制度にはなっていないということだった。
ぶ~!なのであったが、せっかくの展覧会なのでお金を払っても見ることにしたのだった。

小磯良平と吉原良治という同時代の画家の作品を一同に集めているが、二人の接点はあまりないらしい。
ふたりとも関西を中心に活躍した画家であること以外に一緒に作品を制作したとか展覧会をコラボしたということもないらしい。
この不確実な情報というのは私が多分に不勉強なところもあるのだが、小磯はプロの画家なのに対して吉原は本業は実業家でプロとして絵画だけに集中して生活するようになるのは晩年なのであった。

この差は作品の中身にも影響を及ぼしていて、好みの問題でもあるのだが私は小磯作品には好みの作品があっても吉原作品にはどうしても好きになれる作品が少なかった。
写実的なものと抽象的なものの違いも大きい。
小磯良平は写実的で、その根幹をなすものは明らかに人並み外れたデッサン力だろう。
デッサン力が乏しい場合、写実的な世界よりも抽象的な世界に突入するのではないか、と思わず勘ぐってしまうのが吉原作品でもあった。

ともあれこの違った世界を同時に楽しみ学ぶことができるというのが本展の最も大きな魅力だと思う。
そしてゆっくりじっくりと日本洋画の名作を楽しむには実に面白い、静かな展覧会でもあった。

ちなみに県立美術館を出てから気づいたのだが、この美術館の道路を挟んで向かい側にある神戸市立渚中学校は先の平昌オリンピックの女子フィギュアスケートで活躍した坂本花織の出身校だった。
校舎に「感動をありがとう!坂本花織選手」の横断幕がかかっていたので気がついたのだ。
このように、オリンピック選手が卒業生にいるということのほうが大きな印象に残った一日でもあった。






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奈良県立図書情報センターというところへ行ってきた。
いわゆる県立図書館なのだが、ここで開催中のとある展示会を見るために訪れた。
ところが、展覧会を楽しむよりも結果的に「花見」になってしまったのだ。

なぜなら、図書館前を流れる佐保川の岸辺は桜並木が満開で、しかも絶景。

奈良とは言え観光地でもなんでもない、郊外の住宅地域のど真ん中にある図書館の真ん前の数百メートルが満開の桜で彩られていたのだ。
しかも、桜にも関わらず騒々しさはなく、桜並木を通る人々は静かに桜を愛で、或いは家族でランチを楽しみ、酒を飲んで騒いでいるグループはまったくいなかったのだ。

聞くところによるとここは地元の人しか知らない知られざる奈良の桜の名所。

ここ何年かはどこで聞きつけたか外国人旅行者の姿がチラチラとしているという。

奈良、佐保川。
先週末の景観なのであった。







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