<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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仕事の納品で京都に出かけた。
烏丸丸太町近くに建設中のとある大型施設に設置する装置の納品だ。
設計は私。
製作は大阪府下のパートナー工場さん。

お昼過ぎの早めの時間に納品が完了したのでさっさと帰ろうと思った。
さて、どのルートで帰ろうか....。

来る時は大阪からは阪急電車で四条烏丸へ出てそこから地下鉄に乗って丸太町に出た。
ご存知の人も多いことと思うのだが京都はさして大きな街ではない。
かといって小さな街でもないのだが、こと御所のあたりから繁華街のある四条通までの距離というのは歩いてもさして遠い距離でもない。
しかし、京都は地下鉄が高い。
これはきっと建設の時に遺跡がわんさか出てきてその調査のためにかかった莫大な費用を利用者に利用させているにちがいないと私は信じている。
だから丸太町から四条烏丸までの2駅間を電車利用はいささかもったいない気がしないでもない。
歩いても15分ほどの距離だ。
でも正直散策でもないのに歩くには少々距離がある。
途中の御池通まではすぐなのだが、御池通から四条通が意外に距離がある。

そこで私は御所の南側を通る丸太町通は東に向かって歩き京阪電車で大阪へ戻ることにしたのだった。
京阪の神宮丸太町という駅から大阪京橋まで乗れば地下鉄代は不要だ。

季節に関わらずここ数年、京都の観光客数は半端ではない。
一説には国内外から合わせて年間5千万人の観光客が訪れるという。
ほんまかいな、と疑いたくなる数なのだが、石を投げれば観光客にぶつかりそうなほどあちこちを徒歩で歩く観光客、バスに乗る観光客、自転車で爆走する観光客などがそここにいるのできっと本当なのかもしれない。

そんなことを思いながら丸太町通りを歩き河原町通を越え、鴨川を渡ると京阪の「神宮丸太町」駅に到着。
ここもかつては「丸太町」という駅だったのに地下鉄勢力に負けたのか同じ名前を放棄して「神宮」を頭に付けて、なれないこっちとしては少々ややこしい。京阪丸太町のほうがそれらしくていいのだが、あくまでも京都にこだわる京阪電鉄なのでそういう名前になったのであろう。

で、電車に乗ろうと地下駅への階段を降りかけると観光客と思われる老若男女取り混ぜて一ダースほどの人の群れが上がってくるではないか。
大きなお声でお話をしながら。
あのイントネーションの言葉。
そう、大陸からのお客様なのであった。

普段なら何も感じない私だが「今」は違う。
一瞬、
「なんでここにおるの?入国できるの?」
と恐怖感に襲われた。
「ビョーキ感染ったらどうすんねん」

新型コロナウィルスがパンデミック状態の国の方々がなぜ都をウロウロしているんだ?
私は慌ててマスクを付けたのは言うまでもない。
そして京都だけに攘夷征伐を心に思ってしまった本日の京都なのであった。



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カフェを出て東に向かって歩いていくとアーチ状のコンクリートでできた橋梁の廃墟があった。
橋梁は北からカーブを描いて南下してきて吉野川の手前で途切れていた。
JR五新線の未完の廃墟なのであった。
JR五新線は五條から新宮を結ぶ山岳路線として計画され3分の1ほどが完成していたにもかかわらず平成になってから完全に諦められた計画路線なのであった。
一時期バスが走っていたが今では単なる廃墟と化している国鉄時代からの産業遺物なのである。

さらに先に進むと歴史的景観地区としての本領お発揮する場所に出てきた。
殆どの建物が古い町家でまさしく映画のセットのような景観になっている。
空き家も少なくないようで町を活性化し入居者を確保するための窓口オフィスになっている町家もある。
実はこういうところは不動産としての投機対象になることがあり十分に買い手を選定する必要があると他の地域でお聞きしたことがあった。
古い建物にはそれなりの価値がありある種のデベロッパーからすると魅力的なんだそうだ。
その最大の問題点は外国人が買いたがること。
東京や大阪でも都心部の高層マンションを大陸の人たちが投資目的に購入するなんて話が少なくなく、珍しい話ではなくなってしまった。
そのようなことがこういう伝統的な地域でも起こっているのだという。
一度彼らに売ってしまうと景観を守るとか伝統や文化を守ることが極めて難しくなる。
多くの弊害が生まれているところも少なくないというのだから事態は深刻になってきているのかもしれない。

ここ五條はどうなんだろうか、と考えながら歩いていくと古い建物にコラボオフィス施設が入居しているところも発見したりして意外にもこの町は色々な試みをしていることに驚きを感じたのだった。
そして頼もしくも思ったのである。
小さな川に橋がかかる。
その袂に今は閉店してしまったお餅屋さんの建物があった。
看板には「餅商 一ツ橋」とある。

「へー、ここにお餅屋さんがあったんやね。」
「どんなお餅ちやったんやろ」
とそこまで話た時にふと数年前に放送されたNHKのローカルニュースを思い出した。
奈良県五條にある古い100年も続くお餅屋さんが店主が高齢のためいよいよ閉店してしまうことになった、というニュースなのであった。

「ここ、あのテレビでやってたお餅屋さんちゃうかな」
「え?」
「覚えているか?あの毎日休ます営業していたお餅屋さんの話」
「あ〜〜〜!」

あのテレビでやっていた、
「美味そうやな」
「食べてみたいね」
「でも、もう閉店なんやて」
と話していたお餅屋さんがここにある。
その瞬間、ここへ来るのが遅かったと大いに後悔してしまったのだった。

閉店したお餅屋さん。
まだまだやっている酒屋さん。
牛乳屋さん。
などなど。
寂しくなってしまっているところもあることは事実だが、まだ生きている町。
歴史的景観地区ということで観光に力を入れるのか。
それともコラボオフィスがあるように、ビジネスの場にも活用しようとしているのか。
交通の便がそれほど良くないとは言いながら、かつては吉野や和歌山への交通の要衝として栄えた重要な街・五條。

時刻は夕刻。
西に沈みゆく太陽が赤い夕日を街道の古民家に深い陰影を与えていた。

おしまい




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柿パフェはよく熟した吉野の富有柿がたっぷりとデコレーションされていた。
何年か前から流行しているマンゴーパフェの柿版といった趣だが、そのテイストは間違いなく和風なのであった。
ボリュームもたっぷりとある。
文句なし。
柿のパフェそのものが珍しい。
そのことに加え、考えてみれば今どきその季節にならないと食べるのことのできない果物としての柿の存在感が大きいこと。
それをつくづくと感じたのであった。

そして最も好奇心が注がれた「柿プリン」。
柿でつくたプリンとはいったいどういうものであるのか。
私もカミさんも大いに期待していたのだ。
そこに登場したのは一般的なプリンとはイメージの違う純和風のデザートなのであった。
和盆に載せられた漆塗りの枡。
プリンはその枡に入っていて色は深い熟柿色。
その上に生クリームが小さくデコレーションされている。
そして小皿に添えられた干し柿もなかなか。
プリンを木のスプーンでそっとすくい上げて口に含む。
舌触りはプリンだが風味は子供の頃に従兄弟につれられ柿山に行ってその場でもいで食べた熟柿にそっくりなのであった。
懐かしい。
でも新しい。
この季節でないと楽しめない嬉しい味。
なんという贅沢であろうか。

子供の頃、奈良というのは食べ物が美味くないところだと思っていたことがある。
たぶん奈良は宿泊することもなく行って戻ってくるだけの観光地だったせいなのかもしれない。
いや、子供の私には観光地というよりも大仏さん、鹿、鹿せんべいで完結していしまうようなところだったのだろう。
それがやがて「だんご庄」の団子に衝撃を受け、「菊屋」の御城之口餅にパンチをくらい、三輪そうめんの繊細さ、東吉野のキノコ料理に感動をし極めつけは「今西酒造」のみむろ杉で日本酒の源流を見つけたような感動を受けたのであった。。
考えてみなくても奈良は日本文化の生まれた特別なエリアでもある。
今回の柿プリンは明らかに新しいデザートなのだろうが、この新しさのベースには確固たる文化がしっかりとあるんだなと改めて感じさせるものがあった。

つづく






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柿プリンの幟を出しているカフェは築250年の古民家を市が買い取り交流施設としてリノベーションしたものだという。
中へ入ると右手にカフェのカウンターがあり左手奥に続くうなぎの寝床状の土間はテーブル席。
壁隔てて土間の右側は広い上がり框になって広い板の間だ。

「ここで色々なイベントがあるんですよ」

とカフェの人が教えてくれた。
広さはちょっとした集会所ほどもあり奥に小庭が見えている。
絵画展や写真展のようなアートイベントやセミナーなどが開催されるという。
板間への上がり框の横に本棚がありそこには多くの絵本を始めとする児童本が並んでいた。
そこは川村たかしという人のコーナーになっていた。
川村たかしといっても名古屋市長ではない。
あっちは河村、こっちは川村なのである。
川村たかしは昭和に活躍した児童文学作家で私は不勉強でよく知らなかったのだが遠く全国からファンが訪れてくるような人気作家さんなのだそうだ。
この人はここ五條に生まれ、県立五條高校を卒業後国立奈良教育大学へ進学、その後多くの作品を生み出したのだという。
そういえば「新十津川物語」という題名はどこかで聞いたことがあると思った。
すでに故人になっているのだがこの街の一つの文化的シンボルな人でもあるようだった。
ちなみに漫画家の楳図かずお同じ高校の卒業生である。

カフェの中を色々と探索した後、私とカミさん、長い土間に設置されているテーブルの一つに腰をおろした。
そして熟考思案大議論のうえ「柿プリン」「柿パフェ」「ホットコーヒー」を注文した。
なんといっても柿プリンを食べてみたい。
でもメニューで柿パフェなるものも見つけてしまったため柿パフェも食べたくなるという事態に至ったのだ。
そこで二人して散々悩んだあげく少々贅沢ではあるがどちらも注文することにしたのだった。

期待に胸を膨らませながら待つこと数分。
運ばれてきた柿プリンと柿パフェはコーヒーの存在を忘れてしまうほど感動してしまう見栄えと味なのであった。

つづく


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歴史的景観保存地区。
世の中にそういうものがあるとは耳にしていたものの、実際に行政によって手厚く管理されている地区があることをリアルに知ったのは昨年の夏であった。

昨年、奈良県橿原市にある歴史的景観保存地区である「今井町」へ出かけることがあった。
今井町は近鉄電車大和八木駅から徒歩15分ほどの住宅地に忽然と存在する全国でも有数の歴史的景観保存地区だ。
大阪から電車でわずか30分のところにこのような場所があることに軽い衝撃を受けた。
ここの特徴は街道沿いに残っている「線」の景観ではなくブロックとして残っている「面」の景観であることであった。

ここ五條市新町の歴史的景観保存地区は紀州街道に沿った線の町並みだったが、これは今井町にもまさるとも劣らない風情があり凄かった。
それは五條はもともと幕府の領地、つまり天領だったからかもしれない。
ここは明治になるまでは吉野への入り口として大いに栄えた街なのであった。
それだけではない。
吉野川との位置も重要だ。
川の北岸に位置するこの町は吉野物産を全国へ出荷する物流の拠点なのだ。
それだけに南北朝時代は南朝の拠点が置かれたことでも知られ、さらに幕末は天誅組の本拠地にもなった。
この景観が残っているのはある意味当然ということが言えたのかもしれない。

駐車場から徒歩で街道を自動車の進行方向とは逆を歩く。
町家を使ったフレンチレストランがある。
そして少し行くと古風な宿もある。
そしてさらに進むと古民家を使ったカフェがあった。
入り口に「柿プリン」と書かれた幟が吊るされていてゆらゆらと揺れている。
富有柿はこの地方の名産でありしかも吉野は全国2位の柿の産地でもある。
以前ANAのマイチョイスというメニューで柿の生搾りジュースを売っていたことがあり試しに買って飲んだところ劇的に美味かったことを思い出した。
しかし柿のプリンというものはまだ体験したことがなく、ぜひとも試さねばと思い早速カフェへ入ってみることにしたのだった。

つづく


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国道310号線と国道24号線の交差点本陣で少しの混雑の後、吉野川を渡る橋のあいだまでに小さな交差点がある。
ここが以前チラ見をして、

「ん、なんか映画のセットみたいない景色やな」

と思ったところだ。
こういうところは道が狭くて自動車は通りにくいところが少なくない。
私の自動車は少々小回りの利きにくい車種のため狭いところに入って往生したことがある。
入って大丈夫かどうか悩みながら来たのだが、運のいいことに私の前を走っていた宅配便のトラックがその狭いであろう道路に向かって右折したのだ。
これは大丈夫だ。
私は迷うことなく宅配便のトラックに続き交差点を右折。
その狭い道路に進入した。

新入して数十メートルも行かないうちに私の感は的中。
まるで時代劇映画のセットのような町並みが眼前に広がったのだ。
道路の両側には築100年は簡単に超えてしまうであろう町家がならぶ。
それが道路沿い、というかこの狭い道は紀州街道だったのだが、その両脇にずっと向こうまでその町並みが続いていたのだった。

確かにところどころ新しい家も見るのだが、それでも周りの景観に合わせて建てられているところが少なくなく景観を害するほどではない。
人通りは少ない。
街道は東から西に向かっての一方通行。
どこかに車を駐車して歩いて見て回りたいのだが、それらしいところがなかなか見当たらない。
「まちや館」
という小さな博物館を見つけた。
ここには駐車場があるようでその入口に入ったものの駐車できる台数が少なくすでに満車。
ナンバープレートがすべて奈良だったのでもしかすると観光客ではなく地元の人が止めているのではないかと思えるような雰囲気が漂っていた。
観光客の歩いている姿も見当たらなかった。

街道が狭いので慎重にバックして道路へ出る。
再び西に向かってゆっくりと走り始める。
街道沿いには数件のカフェや旅館もある。
カフェはカフェだが、旅館はまさしく旅籠という名前のほうがふさわしいのではないか思われるような古風な建物で決してホテルではない。
落ち着いた、どことなく懐かしい雰囲気だ。

数百メートル進むと信号にぶつかった。
古い町並みはここで途絶えてるようで、駐車場を探して国道24号線方面に曲がることにした。
曲がってすぐに幸運なことにスーパーマーケットの大きな駐車場を見つけた。
私達はここへ自動車を停めておいて今来た道を徒歩で歩くことにしたのであった。

つづく




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京奈和道は阪和道から分離して和泉葛城山、金剛山、葛城山、生駒山と大阪府と和歌山県、奈良県の府県境にある山脈の南側と東側に沿って京都府の久御山で第二京阪道路と接続する。
大阪を通らずに和歌山から名神方面に抜けるバイパスの役割をしているのだ。
ただしもし完成すればの話なのだが。
今、この道路は奈良県の大和郡山市と奈良市内が未完成。
そのため中途半端で使いにくい状況になっている。
そもそも未完の区間が最も混雑するところなのだ。
さらに数年前に和歌山県内の工事のクオリティが悪く談合の温床だ、と週刊文春に記事告発されたこともある曰く付きの高速道路。
それをはぐらかすためかどうか不明だが京都まで全通する日が車で今は無料で通行できる。
よって私も「かつらぎ西IC」から「五條IC」まで遠慮なく無料で利用させていただいてるのだ。

片側一車線の京奈和道路は交通量もそこそこで快適なドライビングができた。
道路は山裾の標高の高いところを走っているので右手に見える紀の川とその向こうの高野山の景色もなかなかだ。

「ちゃんと運転してね、危ないから」

景色に見とれながら運転しているとカミさんから物言いがつく。
確かに景色を堪能するのはいいけれども危ないといえば危ない。

途中和歌山県橋本市を通過するあたりが最も街らしい光景が一瞬広がる。
ここは難波から南海高野線で45分程度の大阪のベッドタウン。
高野山への玄関口でもある。
そこを通過して10分ほどのところに五條ICがある。
ここまでくるともう下界の川は紀の川ではなく吉野川に名称が変わっている。
五條ICを降りて突き当りが国道310号線。
ここを左に曲がるとやはり峠越えの狭い道になるのだが、その先へ進むと大阪府堺市に出る。
ちなみ私の堺にある実家はこの310号線が最寄りの道なのだ。
大阪方面へ曲がらずに右折して坂道を下る。
1kmも走ると国道24号線との合流地点。
「本陣」交差点。
名前からして曰く有りげな交差点である。
ここが五條市の入り口だ。

つづく


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年も押し迫ったその日。
珍しいことに午前中に殆どの仕事がおわり私は午後の時間が自由になった。

「おーい、奈良でも行けへんか?」

とたまたまアルバイトのシフトが休日になっていたカミさんに声を掛けた。
私たちは奈良国立博物館で開催された今年の正倉院展を見逃していたこともあり、かねてから奈良でのんびりしたいと思っていた。
そんあところに「奈良へ行かへんか」と私が提案したものだからカミさんは喜んだのだ。

「わ、ガチャポンができる!」

と。
ええ年をこいてカミさんは奈良でガチャポンにハマっている。
カミさんは仏像の小さなレプリカが入ったカプセル玩具の収集に1年ばかり情熱を燃やしているのだ。
三条通り商店街の角で。
あるいは奈良町の街角で。
あるいは世界遺産元興寺の門前で。
アマゾンで検索するとセットで販売しているから、一気に買うこともできるのだが。
そういう買い方は認めないのだ。

「これは大阪でもネットでも買えるけど、こういうのは奈良で買うから値打ちあるねん。」

わけがわからん、変なカミさんなのである。

「でも今日は奈良は奈良でも五條へ行くで」
「五条? 弁慶と義経か?」
「それは京都!今日行こうと思ってるのは奈良の五條。ほら柿を買いに行ったときに通ったとこ。」
「?」
「奈良市内へ行くよりこっちのほうが近いし高速料金も要らん。初めてのところのほうが発見もあるかもしれんやん。」

「初めてのところ」と自分で言いながら本当に見てみたいと思うあの交差点からちらっと見えた光景を思い出していたのだ。

早速準備を整え自宅から車を出し、国道170号線・外環状線を東へ向かう。
やがて「泉大津ー粉河」という看板がでてきた。
国道480号線との交差点でここを右折。
ここには地元野菜の直売所などがあるのでたまに買い物に来ることはあるが今回はパス。
そのままルートを和歌山県へ方向へとった。
いくつかの短いトンネルを通過。
アップダウンを繰り返し2つの長いトンネルを抜けた。
ここがつい数年前までは自動車が1台やっと通れるほどの峠道を通らなければならないところだった。
それが今では立派な2車線道路である。
トンネルを出てきいて暫く走ると串柿の里という道の駅のあるエリアへ出てきた。
両側に山が迫る。
このあたりは室町時代の頃から干し柿作りが盛んなところだそうだ。
一昨年、試しに国道を逸れて山道へ入ってみたことがあるが干し柿の台が道路沿いにズラッと並んでいる景観は圧巻であった。
しかし道は極めて狭く、そして険しかった。
さらに片方が断崖絶壁になっていてビビったことがある。
ガードレールはない。
その断崖絶壁側に一干し柿の台が並んでいてそれがガードレールの役目も果たしていたのだ。

紀の川が見えてきて集落も出てくるとやがて国道は京奈和道と交差。
京奈和道は高速道路なのだが一部が完成していないため今は無料で走ることができる。
ここからは京奈和道を東に向かって走る。
紀州の陽光は冬なのになぜか暖かなのであった。

つづく



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去年の11月。
一昨年に引き続き富有柿を求め西吉野へ向かったときに途中通過した五條の町並みに気なるところを見つけた。
そこは国道と旧街道と思しき道路が交差するところで、その信号のある交差点からちらっと横目で見ると何やら映画のセットのような光景を目にしたのだ。

「これはもしかすると凄いところかもしれない」

その時はただそう思っただけでそこを通過。
そのまま吉野川にかかる橋を渡って西吉野を目指した。

奈良県五條市。
ここは和歌山県と大阪府の府県境にある街だ。
とはいえ大阪からは非常に行きにくいところでもあった。
五條市は大阪府河内長野市と千早赤阪村と隣接しているのだがその市境には標高1000メートルの金剛山がある。
その金剛山が壁の役割をしている。
だから大阪から五條市へ行くには山越えの道を通るか和歌山県橋本市か北の大和川が流れる亀の瀬や旧竹内街道を経由しなければならなかった。
JR線も大和路線、和歌山線を経由して天王寺から2時間以上かかる場所でもあった。

この状況が数年前に変わった。

2017年に大阪の泉北ニュータウンの最南端部から和歌山県かつらぎ町を貫く鍋谷峠・父鬼バイパスが開通したからだ。

これまでは車一台がやっと通れる山道を峠越えする必要があった。
そんなに狭くても国道480号線なのだが、このバイパス道路の完成で大阪外環状線道路から京奈和道までわずか20分ほどで抜けられるようになった。
結果、私のように大阪南部で生活している者にとっては高野山や吉野方面が劇的に近くなったのだ。
つまりうちのようま真言宗の家ではいつでも本山の高野山にお参りできるようになったというわけだ。
でも、実際はそんなに信心深くないので、高野山へもめったに行くこともなく、たとえ行ったとしても、
「さすが高野山は夏も涼しくていいね。ごま豆腐でも食べて帰るか」
とか、
「羽田空港から飛んできた関空に着陸する飛行機はこの高野山の上をかすめるように飛んで和歌山市の沖合で関空に進入するんだ」
などと単なる観光気分かヒコーキマニアなのである。

そんなこんなで途中にある五條市も自動車でなら我が家からは1時間かからない距離になった。
壁である金剛山の向こうの街、ではなくなったのであった。

つづく




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台湾で総統選挙が実施されている。
この選挙。
日本にとっても非常に重要な選挙なのにマスメディアはトンチンカンな報道に終始して嘘とも洗脳とも疑われる情報を流し続けている。
その最大のトンチンカンテーマは、
「2つの中国を認める中国を受け入れるか」
である。
そもそも台湾は中国ではない。
なんで日本のマスメディアはそれを明確に主張しないのか。
マスメディアは第3の言論機関だというが、実は中国共産党の駐日宣伝機関ではないのか。
とりわけNHKと朝日新聞社はその色合いが濃いことは多くの日本人の知るところだ。

台湾は日本はポツダム宣言を受け入れた時に中国に返還したというがそれ自体大きな間違い。
台湾の統治を手放しただけで中国に渡したわけではない。
日本の統治を離れた台湾の混乱を避けるために「一時的」に連合国が地理的に近い中華民国に統治を依頼しただけに過ぎないのだ。
日本が離れた台湾の治安が悪化するのを防止するためが主な理由だが、ここに連合国の大きな認識間違いがあった。
治安を悪化させると思った台湾人の民度が統治にやってきた中華民国のいろんな人々よりも民度が格段に高かったのだ。
今思えば中華民国により一時的統治なんか必要なかったのだ。
なぜなら台湾人は50年の日本時代を経て、日本式モラリティを構築しており中華民国による統治は余計なお世話以外の何物でもなかった。

この一時的統治が国民党が中国共産党により大陸から追い出され、東西冷戦が悪化する中でいつのまにか恒久的な統治になり始め、それが今日に至っている。

「2つの中国」を受け入れるのかどうかという問題以前に台湾は中国ではないという前提を無視してはいけないのだ。
台湾は独立国であるべきであるし、日本人にとってはアイデンティティを一番近く持っている国家でもあるので地理的政治的に極めて重要でもある。
これをして「台湾は2つの中国を受け入れるのか」と言っているマスメディアはなんなのか。

「2つの中国」in台湾。
じつは中国による台湾侵略というのが正しい。


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