<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



スター・ウォーズのダースベイダー。
その声を担当していたジェームズ・アール・ジョーンズが9日亡くなった。
93歳だった。

アメリカの映画やテレビでは時々美声で思わず聞き惚れてしまう声質の俳優やアナウンサーがいる。
サタデー・ナイト・ライブのドン・パルドは私の大好きな声のアナウンサーだがジェームズ・アール・ジョーンズもそういう人の一人だった。

あの低く重厚な声。
まさしく悪の権化ベイダー卿の声としてそのインパクトは小さくなかった。

このジェームズ・アール・ジョーンズがテレビのミニシリーズ「ルーツ2」に原作者のアレックス・ヘイリー役で登場していたことに私は長らく気づかなった。
というのも、「ルーツ2」は日本語吹き替えで見ており、声は名古屋章だったためあのジョーンズらしい低く魅力ある声質を聞くことなく最後まで見たことだった。
後年、あのヘイリー役の俳優がベイダーの声を演じたことを知り、日本語吹き替えはテレビを鑑賞するためには良いときもあるが、悪いこともあることを意識することになったきっかけの一つでもあった。

とはいえスター・ウォーズシリーズはまだまだ続いていてベイダーの出演の機会もあり続けるだろう。
これから声は誰が担当するのか。

AIではないことだけはお願いしたいところなのだ。


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「おいしくしたい。ただそれだけ」

最初の一言でおそらく95%ぐらいの関西人はひっくりがえって、たぶん緑茶買うなら「おーいお茶」になってしまうだろう。
で、なんのことかというと伊右衛門のCM。

伊右衛門といえばサントリーの緑茶。
サントリーといえば本社は大阪。
つまり関西の企業だが、その関西の企業が展開する緑茶のCMで「えせ京都弁」が使われている。

これって結構大きな驚きなのだ。

出演は本木雅弘と永野芽郁。
両者とも東京都出身。
永野芽郁の実力は知らないが本木雅弘は演技力では定評がある。

そのこの二人が向かい合ってお茶を飲み、話している。
そのイントネーション、言葉遣いがすべておかしい。
もしかして、このへんちょこりんな京都弁を語らせることで視聴者に印象付けを図っているのか。
制作者側の意図はよくわからないが、これを見させられる関西人はどのように感じているのか。

サントリーのスタッフはわからないのだろうか。
それとも「売れたらええねん」というような思想なのだろうか。

二代目社長だった故佐治敬三氏が見たら腰を抜かしそうなその演出。
「企業は文化に貢献する」という思想そのものがこの会社から失われつつあるのではないかと疑ってしまうものがある、嫌なCMだ。

真面目に下手くそをすると、こういうCMになるという代表選手みたいで、まだ放送されているところを見ると、地上波はあまり見ない時代だけに誰も指摘しないのかもしれない。


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今年のNHK大河ドラマを見てもう一つ気がついたことがある。
それはCGを多用していること。
まるでSF映画やファンタジーのようなセットではない世界が展開していたのだ。
なんじゃいこれ。
空想時代ドラマ、との印象を持ってしまう大きな原因の一つなのであった。

これまでの大河ドラマでもCGは使われていたが、今回はほとんどがCGじゃないかと思われるくらい画面がビデオゲームだ。
美術担当者もそのあたりを狙っているのか、リアルであるはずの衣装の色彩計画も時代考証や服装の基本はどこへやら。
出演者のメイクもビデオゲームのように奇抜でケバく、日本の時代劇というよりも中国映画の三国志を見ているような雰囲気が漂っている。
いや、映画ではなくゲームの三国志か。

このためというかなんというか、ライブシーンが著しくアレンジされているので凝った画面でも薄っぺらく見えてしまう。
製作の本人たちは「大スペクタクル」感覚で作っているのかも知れないが、見ているこっちは「漫画」感覚になっているのだ。
おまけに肝心の脚本も「画面での迫力」が優先されているためか人間が描けておらず、
「こりゃ、演じる役者さんが可愛そう。きっと楽しくないに違いない」
と思うほど登場人物に感情移入できない残念な仕上がりになっているのだった。

このような画面づくりは最近の若いクリエーターの作品に多い。
とりわけ芸大やデジタル系のアート専門学校の学生が作成する画像にこういう手合の作品が多く、
「テクニック」
を駆使し、
「描写力でアッ!」
と言わせ、
「どうだ、すごいでしょ^^」
という仕上がりなのだが、正直言ってパソコンのキーは触れても鉛筆使って手描きのスケッチなど描けそうにないスキルなんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。

これでは高校の文化祭で学生諸君が作っている映像作品のほうがよほど楽しいんはないかと思うのだ。

映画の好きな人ならよくわかると思うけれども、下手なリアルCGよりも手書きの絵や人形アニメーションのほうが感情移入しやすいケースは少なくない。
CGならフォレストガンプの卓球シーンのように、CGと思わせない魅せ方というものがあるはず。

ということで、ビデオゲームに興味のないので次回からの大河ドラマもたぶん見ることは無いだろう。



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映画「ギャラクシー・クエスト」はTVシリーズ「ギャラクシー・クエスト」を遥か彼方の宇宙で見ていた異星人が「本当のこと」だと信じ込んで、それを信奉し、現実化して地球に助けを求めてやってくる、というスタートレックのファンダムをそのままパロディにしてしまったような超良質なコメディなのであった。

ここで問題なのは「TV番組」を「本物」と思っていたという設定で、実はこれが現在の大河ドラマの最も大きな「罪」ではないかと最近考えるようになった。

なんといってもNHKの大河ドラマは歴史上の事実を下地にした長編連続時代劇で、見ているものの多くが、
「ほんまにこんなんやったやろね」
と思ってしまう。
それほどの重厚さがあり、現実味がある。
放送しているのがYoutubeではなくNHKというところにも真実味があるのだ。

ところがこの歴史劇。
とんだ空想時代劇であることを多くの人は実感せずに見過ごしているのだ。
単なる娯楽。
根底は往年のTV時代劇「水戸黄門」となんら変わらないものであることに気づいていない。
このため大河ドラマを見た子どもたちが、
「歴史はこんなんだったのだ」
と思い込む怖さがある。
例えば「戦前の日本は非民主的な侵略国家だった」と教えていた一時期の歴史教育のような悪弊を含んでいる。
みんなが選挙で選んだ内閣が今も偏向報道で定評のある朝日新聞などマスメディアに圧されて戦争に突っ走った事実は無視されている。
そんな感じなのだ。

この「大河ドラマ=空想歴史ドラマ」と私が気づいたは「龍馬伝」を観ていた頃で、私もNHKドラマのマジックに催眠術を掛けられていたのだ。
龍馬伝の最初の方の1シーンで江戸の不清潔な市場や通りが描かれていたのが衝撃敵で、当時来日した外国人が記した日本の印象とはことごとく異なり、中国か韓国のような日本を描いた脚本家は何を考えているんだ!と思った時なのであった。
その頃、ラジオで件の脚本家が出演し、
「私は歴史に興味がなくって、幕末維新にこんなことがあったんだ、と後で知りました」
というような意味合いのことを述べていて、
「なんじゃ?!こりゃ?」
と怒るのを通り過ぎてNHKのドラマ制作の質の程度にびっくりしたのであった。

ということで、本編を観るまでもなく今年の大河ドラマ「どうする家康」。
ますます空想は広がり幻想の大河が流れているようで。
どうするどうする。



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昨夜の紅白歌合戦。
その見どころはもちろん桑田佳祐が招集したオールスター軽音楽部であったことは間違いない。
間違いないが、午後7時20分に放送が始まってから初めてわかったのだが、最大の見所は紅組の司会者だった橋本環奈だったのではないかと私は思っている。
しかもものすごく強く思っているのだ。

何が見どころだったかというかと、単なるアイドルの一人だと思っていた橋本環奈が完璧に司会を熟したことだった。

なぜなら、最初から終わりまで自然な笑顔のままで緊張感を一切見せなかった。
そればかりかセリフ一つ噛むこともなく、アドリブの会話もなんなく熟し、会場の歓声の強弱に配慮した絶妙の間で話を入れ、これら超ベテランのタレントもなし得ないことを「普通に」熟してしまっていたことなのであった。
1000年に1人の美少女は1000年に1人の鉄の心臓の九州女子だったのかも知れないと思った。

相方の大泉洋も難少なく熟していたが、ヨイショを感じさせる部分がかすかにあるところや、終盤についにセリフを噛んでしまうところがついに1箇所出でしまったのと比較してもパーフェクトピッチングな司会だった。
正直言って過去10数年間に見た司会者では最も巧みな司会者だったんじゃないかと思われてならない。

私としては、
「うちの娘と同い年のアイドル・タレント」
程度の認識だったが、どうも間違っていたようだ。

2022年の紅白歌合戦は橋本環奈の紅白なのであった。


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NHK朝ドラ「おちょやん」が完結した。
始まったときはどうなるものやらと心配したドラマだったが、結果的には久しぶりに楽しめる「なにわど根性ドラマ」なのであった。
しかも本家松竹新喜劇が得意とした形式の泣き笑い劇場でもあった。

最近は少なくなってしまったが大阪を舞台にしたドラマに面白いものは少なくなかった。
機械工具商社の創業者をモデルにした「どてらい男」
メリヤス問屋を舞台に「あかんたれ」
などなど。
いずれの作品も脚本家・花登筺の存在が大きいがそれなりに楽しめる物語でいずれも全国ネットで高い視聴率を獲得していた。
とりわけ「どてらい男」は主演の西郷輝彦のはまり役となり、今でも西郷のことをドラマの主人公の名前「猛やん」と呼ぶこともすくなくない。

「おちょやん」はそういう意味で花登筺が描いていた浪花ど根性物語のエッセンスを持っていて回を重ねるごとに面白くなってきたのだった。

このドラマの魅力はなんといっても各キャラクターを演じる俳優陣にあった。
主演のおちょやんを演じた杉咲花は東京出身だそうだが大阪弁のセリフを巧みに扱い不自然さを感じさせず、かつ各回ごとに魅せる部分があり、この人が主人公でピッタリとしかいいようがなかった。
正直、次回作が楽しみになるほどの俳優なのであった。

この人がピッタリと言えば主人公の父を演じたトータス松本。
もし日本にエミー賞があれば間違いなく助演男優賞だと思う。
朝ドラ史上最低の父親なんだそうだが、この人がいることでシリーズ前半に大きくインパクトが与えられたのは間違いない。
篠原涼子の「ごりょうんさん」。
名倉潤の「だんさん」。
成田凌の「天海一平」。
富川みつえの岡福の娘。
全編を通して実に魅力的なのであった。

忘れてならないのは子供時代と養女を演じた子役の毎田暖乃と鶴亀の社員を演じた西川忠志が光っていたのも忘れられない。

コテコテの大阪弁。
これもまた大阪人である私には魅力的で、どこまで正しいか判断しかねる部分もないこもないが、大いに楽しめるエッセンスだった。

ということで「エール」「おちょやん」と個性の強いドラマが続いたので来週からの現代劇「おかえりモネ」が楽しめるかどうか大いに心配していることだ。
カレーライスを2杯食べた後にお粥を飲むようなことにならないか。
注目されるところである。



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時代劇ファンには衝撃的なニュースが今週流れた。

再来年にあの鬼平犯科帳が映画化されるに際して鬼平役を松本幸四郎が演じるのだという。

ん〜、無理だろ。これ。

フジテレビ系列で放送された鬼平犯科帳シリーズは他の時代劇の追随を許さない優れたドラマ展開と個性的な俳優陣で過去に例をみない魅力をもっていた。
中でも長谷川平蔵を演じる中村吉右衛門は原作者の池波正太郎をして感動させた役作りで今や鬼平といえば吉右衛門。
その国宝的役作りはかつての松本白鸚、萬屋錦之介、丹波哲郎バージョンを忘れさせてしまうほどのインパクトがあった。

もはや長谷川平蔵の厳しく優しく、それでいて粋な雰囲気を生み出すことは他の役者には非常に難しいものになっているといっていい。

そこへ大胆にも松本幸四郎がその役を引き継ぐのだという。

松本幸四郎その人が役者としては人気も演技力も力不足。
そのような俳優に人気キャラクターを演じる勇気があったとは。
びっくり仰天なのであった。

この役にハマった役者以外がその役を演じることの難しさは、例えば映画「男はつらいよ」の車寅次郎を渥美清以外が演じるのはほぼ不可能であることと同意義と言えるのかも知れない。

この人だからこの役が、とうキャラクターを他の人が演じて失敗している例は少なくない。

松本幸四郎の長谷川平蔵。
かなり無理があるように思うのだが、いかがか。




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先日の日経だったか産経だったか忘れてしまったが現在のラジオ放送に関する記事が載っていた。
インターネット配信が一般的になりラジオ放送の価値が再認識されている一方、その肝心のラジオ局の経営は大変厳しい状態になってきているのだという。

スポンサーがつかない。
売上は伸びない。
設備は老朽化。
でもカネがないので刷新できない。
どうしようもない状況なんだとか。

記事によると昨年ラジオ大阪で中継所のヒューズが飛んで1時間も放送が中断するという事故があったという。
ラジオ大阪といえばラジオ局では関西主要局の一つ。
その設備老朽化に起因する事故は全国のラジオ局が置かれている厳しい状況を象徴した出来事だったのだ。

かくいう私は中高生時代にはよくラジオを聴いた世代。
今もラジオを聴く時間の方がテレビを見る時間よりも多い。
よく聞く番組はNHK-FMの「Saturday Music Sunshine」、「トーキング ウィズ 松尾堂」、FM-Oの「山下達郎 サンデーソングブック」、「NISSAN あ、安部礼司」、毎日放送の「ありがとう浜村淳」「こんちわコンちゃん」などなど。
よく見るテレビ番組「笑点」「日曜美術館」「NHK朝の連続テレビ小説 エール」「人生最高レストラン」。
このように二つのメディアを比較するとラジオの方が圧倒的に多い。

学生時代は勉強をしながら聴いていたので多くは深夜放送。
尤も勉強をしながら聴いていたので勉強の中身はむべなるかな。
勉強せずに投稿に精を出していたことは言うまでもない。
今もやってることは変わらない。
仕事をしながらラジオを聴いていることが多い。
勉強と比較して仕事についてはその品質への影響は小さい。
仕事をしながら投稿を考えることは無いからかも知れない。
いずれにせよ両時代ともに「ながら勉強」に「ながら仕事」なので畢竟テレビよりもラジオの方がわかりやすく楽しいのだ。

このラジオの聴き方に今、大きな変化が起きている。

これまでラジオといえばその時間にダイヤルを合わせて聴くか、またはカセットテープやHDDドライブに録音してから聴くのかの2者選択だったが、ここにきてネット配信が強化された関係でお手軽さがかなり向上した。
例えばNHKなら「らじるらじる」というサイト、民放なら「radiko」というサイトにアクセスすると聞き逃した番組を放送から1週間以内であればいつでもどこでも聴くことができる。
このために保存する必要がなければタイマー録音する必要がない。
WEBサイトを通じて仕事や旅行、寝坊などで聞き逃していた番組を自動車や電車の中で好きな時に好きな場所で聴くことができるようになった。

とりわけ私の場合「Saturday Music Sunshine」と「山下達郎 サンデーソングクブック」はうっかり聞き逃しが多く後悔することが少なくなかった。
両方とも選曲が秀逸な上、トークが面白いのだ。

さらに最近これにAmazon Primeのポッドキャストが加わった。
このポッドキャストのおかげて他地方の番組も気軽に聞けるようになった。
この中にニッポン放送の「辛坊治郎ズーム、そこまで言うか!」は東京の番組ながらパーソナリティが辛坊治郎だけに内容に容赦がなく面白い。
radikoの有料サービスを利用しなくても聴くことができるので気軽でいい。

このように場所、時間を問わずスマホがあればどこでもいつでも聴くことのできるラジオ放送はリスナーの聴き方スタイルを大きく変えつつあるのだ。





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一般的にスーパーヒーローはその正体を隠しているものだ。
ウルトラマン然り、レインボーマンしかり、そしてスーパーマンしかりだ。

ところがTVシリーズ「スーパーガール」は第一シーズンの第一回目で一部の人が新聞社で働くカーラが実はスーパーガールであることを知らされるのだ。
知っている人と知らない人がないまぜになっているところが従来のスーパーヒーローものと大きく異るところだろう。
この異なるところがドラマを面白くしているエッセンスの一つなのだ。

そもそも「スーパーガール」なんてTVシリーズが面白いなんてちっとも予測していなかった。
新型コロナウィルスで家に籠もることがなければ見ることはなかった番組なのだ。
私はスーパーガールよりも往年のコメディ「アメリカンヒーロー」のほうを見たいぐらいだった。
どうせ面白くないだろうか、ちょっとくらい見ていてもいいかな、とアクセスしたのがいけなかった。
最初はスーパーガールを演じるメリッサ・ベノイストのチャーミングさに魅了され、そのまま特殊撮影の物凄さに引き込まれてしまったのだ。

1978年作・クリストファー・リーブ主演の「スーパーマン ザ・ムービー」では、スーパーマンの飛行シーンがいかに自然で素晴らしいものであるかを映画雑誌は盛んに取り上げていたものだが、もはやその域ではない凄まじい特殊効果だった。
映像技術の賜物だろう。
この40年間にエリアル合成からCGに変わった特撮はスーパーマンを遥かに超えるスーパーヒーローの世界をテレビ番組で実現していたのだ。

ということで墜落しそうな飛行機を助けるところから樹から下りられなくなってしまった猫ちゃんを助けるお決まりのシーンまで。
津津浦浦まで楽しめる特撮TVシリーズなのであった。
ま、最大の売りはコメディタッチであるということかも知れない。


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毎年数多くの番組が生み出されるテレビ放送。
一体どれほどの数の番組が生み出されるのか。
その新作番組が新型コロナウィルス禍の影響で作れなくなってきている。
撮影や製作作業時の安全の確保が十分で出来ない可能性があるため、撮影がストップしているためだ。
この作れずにいる番組の穴を埋めるために過去の番組が再放送されるケースがみるみる増えてきている。
この再放送のテレビ番組。
なかなか楽しませてくれるので面白い。
正直言って新しい番組は製作せずに昔放送した膨大な数のドラマやバラエティ、教養番組などを再放送するだけでいいのではないか、と思えるようになってきたのだ。
新作の番組よりも過去にヒットした番組を見るほうが断然面白いケースが少なくない。
出演者も卓越した顔ぶれであったりするので今どきのおこちゃま番組を見なくて済むというメリットがある。

再放送オンパレードは過去のコンテンツの価値を再認識するとともに、番組は量より質であることを改めて感じるシビアな機会になってきているようだ。


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