昨日からアカデミー賞のニュースで持ち切りだ。
日本映画が2作品も同時に何らかの賞を受賞したのは史上初めて。
関係者がエキサイトするのも分かろうというも。
正直、映画大好きの私としては「良かったね」というよりも「ヒジョーに羨ましく思う」吉報なのであった。
政治で恥じかいて、芸術で面目躍如した感じだ。
思えば、私の師(と言っても学生時代の師ではあるが)だった宮川一夫先生はアカデミー賞受賞作品を撮影した名カメラマンなのであった。
受賞した作品の題名は「羅生門」。
監督は世界の黒沢。
そのような立派な先生に映画の撮影術、いや、社会で人間として生きる道を授けられた一教えられ子として、一介のサラリーマンに甘んじている現在は、いかんともし得ない情けなさがつきまとうのである。
ところで、このアカデミー賞。
今回が81回目なのだという。
ひと言に81回目というが、その1世紀に近い歴史には侮りがたいものがある。
日本で81回といえば夏の高校野球ぐらいしかない。
(と思っていたら「キネマ旬報賞」は82回を数えていたのだった。.....凄い!)
恥ずかしいタイトル「日本アカデミー賞」はわずか32回でしかない。
何故恥ずかしいのかというと、なんでも「日本」をつければええっちゅもんではないわけで、例えば「日本ノーベル賞」なんてあったらイグノーベル賞(これはそれなりに権威があるが)よりも遥かに恥ずかしい。
それくらいアカデミー賞は歴史が有るのだ。
一方、日本でもアカデミー賞には遥かに劣るが、かなり権威のあった賞があった。
それが「日本レコード大賞」だ。
かつて昭和40年代から50年代。
日本レコード大賞はある意味「日本グラミー賞」と断言してもいいくらい権威に満ちたアーティストのための金看板なのであった。
私が小学生のガキだった頃は歌謡曲もレベルが高く、題名を聞いただけでカラオケで安易に歌うことができないくらいに、テクニックを要する歌ばかりなのであった。
例えば、尾崎紀世彦の「また遭う日まで」。
ちあきなおみの「喝采」。
森進一の「襟裳岬」。
沢田研二の「勝手にしやがれ」。
などなど。
どれもこれも素人が歌うようにはできていない歌ばかりで、かといってショーモナイのかというと全然違う。
感動に満ちた歌ばかりなのであった。
そのレコード大賞も60回近くなると荒んでくるようで、最近は市井の関心を引くこともできなくなり、ニュースにさえならないのだ。
アカデミー賞は81回で今なお権威キラキラ。
一方、日本レコード大賞は没落の一途。
この相違は一体なんなのだろう?
アカデミー賞は金がモノを言うコンペティションで審査委員を買収するのも違反にならないそうで、スピルバーグかオスカー欲しさにユダヤびいきの映画「シンドラーのリスト」を製作・監督したのは、なんとなく有名である。
だからといって、賂だけが全てなのかというと、そうではない。
今回の「おくりびと」が受賞したように、単なる映画に金を積んでも容易に賞をもらうことはできない、競争の激しい、ガチンコ勝負のコンペなのだ。
本当に良い映画であれば、袖の下がなくても受賞するのである。
だから、
「Now OSCAR goes to .........○○!」
とプレゼンターが叫んで、
「なんじゃコリャ?」
と視聴者が卒倒するような俳優や映画が選ばれることはないのだ。
一方「日本レコード大賞」は松田聖子の嘘泣き事件以来(ん?これは別の賞であったかな)、すでに出来レースの感がみなぎっており、プロダクションのコネやテレビ局の都合で受賞者が決められていることがありありで、ちっとも面白くなくなってしまっているのだ。
この現象は現在の政治家先生とちょこっと共通しているといえなくもない。
それにしても、長く続けるというのは難しい。
あらゆるコネを排除しつつも、お互いのパワーバランスをぶつけ合いながらというのが、良き歴史を築く秘訣なんだろうと、この2つの賞を比較してつくづく思うのであった。
プロダクションのコネ。
映画会社のコネ。
親のコネ。
これらがまったく効かない外国での快挙。
日本の映画文化は政治とは対照的に地味に力強く生きていたのであった。
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