<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





「どういうわけかマスコミは市民団体だとか、ボランティアだとかの意見をさも真実のように取り上げて間違った知識が氾濫している。」
「欧米ではこういう時に動員されるのは核物理学の専門家ですよ。」

そう話してくれた先生は、インチキ学者でも、市民活動原発反対を叫ぶ活動家でもない。
核物理や放射線医学を研究する国立大学や国立の研究機関の先生方なのであった。
ちょうど福島原発事故が危機状況から脱するかどうかと騒がれていた5月頃の会話だった。

昨年の3.11から連鎖的に始まった福島原発のメルトダウン事故では、あまりに色々な情報が伝えら過ぎ、どれを信じていいのか分からない、というのが実情だ。
今もその状況は変わっていない。
だって核の知識など誰もが持っているものでもなく、唐突に襲ってきた事故だったから、マスコミが十分な知識も持たないないまま騒ぎ立て、必要以上に市井を不安に落としれ、さも知ったりの市民団体を持ち上げたりして混乱がひどくなったのも影響している。

中でも、放射線が人々に与える影響というのは、不安の中核をなすもので、これまで同様の事故事例が少ないだけに、
「この治療法が有効です」
とか
「この程度の放射線量は心配に及ばず」
と言えないところが難しい。
だから「怖い」という気持ちが先行し、論理的判断が薄れてしまい感情論が先行する。
総理大臣が感情爆発させるくらいだから、まともな判断、報道なんかできるわけもないかもしれないが。
それでも、例えば半世紀前に広島の原爆で被害を受けた人たちのその後の調査などはきっちりと予備知識として公にしてはどうかとも思う。
たとえば被害者の子供、いわゆる原爆2世には放射線障害は皆無であることや、あの原爆炸裂の下にいた人々の中に20名近くも助かった人達がいて多くが平成の御世まで長命したことなど。
広島の復興計画は他の地方からの援助もまともに受けられない状態で粛々と進められたことは、東北の人たちの大きな参考になるに違いないものがある。
なんといっても、あの時破壊されていない大都市は無いわけで、被害で言えば東京や大阪のほうが大きかったはずだ。
そういうことも考え合わせると、やはり核物理学や放射線医療の専門家のしっかりとした意見をもとに、何が安全で、何が危険なのか、感情に囚われない判断が必要なことがよくわかる。
議論と責任のなすりあいに終始している暇もなく、「生きている人たち」の明日をしっかりと考えなければならないはずだ。

ね、野田さん。
わかってるんかいな。

ところで、10シーベルトや20シーベルトといった致死量の放射線被曝を本当に受けてしまったらどうなるのか。
現代の医学でもその人の生命を救うことは本当にできないのだろうか。
その疑問に対する答えが「朽ちていった命 ~被曝治療83日間の記録」NHK取材班著(新潮文庫)に著されている。

本書は1999年に発生した東海村の臨海事故で致死量の放射線を浴びてしまった作業員の生命を如何にして救うかという被害者本人、医療チーム、そして被害者家族の壮絶な闘いを描いているノンフィクションだ。

この事故は当時大きく報道されていたので記憶している人は多いことと思う。
しかし、その事故に被災した人たちの結末を知ることはなかなかなかたった。
そして、強い放射線を浴びてしまった被害者がどのように生命を絶たれてしまったのか、私も噂は耳にしていたが、ここまで壮絶であったとは知らなかった。
放射線を浴びた側の皮膚細胞はことごとく染色体が破壊され、再生が不可能になる。
このため数日間は普通の状態だが、やがて火傷のように爛れ、肉が露出し、決して再生することのない姿に変貌し、被害者は激痛に苦しむことになる。
内蔵も蝕まれる。
普段は代謝の多い臓器ほど被害が大きく、白血球の生成もできなくなり、やがて自分の免疫系が自分自身を攻撃するというような事態にも陥ってしまう。

被害者を助けようと懸命に努力する東大病院の医療チームも目を見張るものがある。
未知の放射線災害に対して東大チームが立ち向かうその努力は、日本の医療最前線が世界最先端であり、しかも負けるかもしれない闘いにおいて弱音を吐かない力強さを感じるのだ。
その東大病院の医療チームよりも「生きる」ことへの努力を最後まであきらめなかった被害者とその家族の勇気は、いま原子力発電所の存続の是非の論議とともに必ず知っておかなければならない事実であると思った。

驚くことに、本書に登場する名前は被害者家族を含め、ほとんどが実名である。
実名で事故の経緯を記録することにより、後世への警告と放射線被曝へのさらなる医療研究の重要な資料になることは間違いない。
東大病院のチームの勇気もすごいものがあるけれども、実名での掲載を認めた被害者家族の勇気には将来必ず人々は感謝する日が来ると思った。

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ずーとむかし、ミヤコ蝶々がテレビのインタビューに答えるのを見て、なるほどと思ったことがある。
「東京のお客さんはミヤコ蝶々が舞台やるいうたら、それだけで皆さん切符買うて来てくれはる。ありがたいこです。でも大阪はミヤコ蝶々が舞台やる、言うたら『それで、蝶々が何やんの』と訊いてくる。聞いてつまらなそうなら来てくれへん』
と。

昨年春に大阪駅に華々しく誕生した伊勢丹三越。
産經新聞ネット版によると188億円の赤字で、JR西日本は特別損失を計上。
仕切り直して来年の春の黒字化を目指すのだという。

そもそも大阪は百貨店激戦区。
中でも梅田は阪急阪神の本拠地で、そこへ東京系の百貨店が店を出しても、なかなか勝ちをおさめるのは難しい。
例えば節季の贈り物では大阪のみならず関西では百貨店といえば高島屋、阪急、大丸の包み紙が好まれる。
いずれも受け取った側は、
「おお、ええところで買うて贈ってくれた。嬉しいやん」
となる。
ところが首都圏の人には信じがたいだろうが、伊勢丹も三越も大阪での知名度は極めて低く、正直イメージもない。
だから東京ではトップレベルの三越で買ったものと分かっても、関西ではイオンモールで買ったのとイメージは対して変わらない。
伊勢丹となると知らない人さえ存在する。

百貨店はイメージを売る店ではないかと私は思っている。
「これ難波の高島屋で買ったんです」
というのと、
「これ新宿のドン・キホーテで買ったんです」
では、同じブランド物のバックでも全然違ったイメージがある。
正直、後者の場合、
「それホンモノ?」
と訊きたくなるくらいだ。

これから大阪の百貨店は増々競争が激化する。
来月には阪急百貨店梅田本店が全館建て替えが完了し、グランドオープンする。
梅田の阪急は電鉄系百貨店のビジネスモデルを確立した伝説の店で、今でも一日の売上は1億円以上。
阪急阪神ホールディング、もといH2Oホールディングスのシンボルでもある。
さらに再来年には阿倍野の近鉄百貨店が日本一の高層ビルと売り場面積でリニューアル。

意外にも客単価は首都圏よりも2割ほど高いという関西圏。
それだけに東京資本の百貨店の関西制覇は難しいのかも分からない。
正直、似たようなコンセプトの店なら、私も伊勢丹三越では買い物をせず、阪急百貨店で買い物する。

「それで、何があんの?」
と効いてくるのが大阪のお客さん。
ひねりも何もない「退屈な」ところでは買い物しないことに気づく必要があるかもしれない。

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一昨日、東京出張が終わって大阪に帰るために羽田空港に着いたのが16:00すぎ。
なのに京急の地下駅から出て来てターミナルからガラス越しに外を見ると真っ暗。

「ん、もう日が沈んだんかいな」

と一瞬思ったが、やはり違った。
空が黒い雲に覆われて夕日を完全遮断。
しかも、ところどとろ渦を巻いている。

「悪天候のため、到着便と出発便に遅れが出ています」

とのアナウンスが流れ、掲示板には変更時刻が次々表示されている。

「えらいこっちゃ」

と私は思った。

「ジェットコースターちゃうか」

関連前線が関東地方を通過中で首都圏の天候は「嵐」なのであった。
これがアイドルの嵐との遭遇であれば娘あたりへの土産話にすると便利なのかも知れないが、本物の嵐はシャレにならない。
幸いなことに、欠航などは出ておらず、さらに幸いなことに関西空港行きは定刻の出発だという。

空を見上げながら、

「あそこに突っ込んでいくんだな」

と思うと、遊園地で絶叫マシーンに乗る順番を待っているような気がして来た。
実は私は絶叫マシーンが苦手なのだ。
せいぜいUSJのジェットコースターが私の限界値で、宙返りするものにはまだ乗ったことが無い。
どこかの遊園地で事故があったいすると、

「さもありなん」

と必ず思い、ああいううのには乗るのは間違っていると確信するに至ること、これ日常なのだ。

2年前に、娘を連れて伊勢長島の植物園に行った時はスパーガーデンを見つけられないように苦労して道を走った。
というのも、当時小学生だった娘は絶叫マシーンが大好きで、中京圏の本山ともいうべき長島スパーガーデンは、ある意味彼女のあこがれの地。
ジェットコースターのシルエットを見つけようものなら、植物園はぶっ飛ぶところだ。

一方、悪天候を飛行する旅客機は絶叫マシーンよりは遥かに安全でとわかっていても、やはりどこかドキドキするものがある。
というのも、絶叫マシーンはそもそも走るコースが決まっていて、どこで重力が変化するのか、どこでドスンっとなるのかがわかっている。
ところが悪天候を飛行する旅客機はどこでドスン、とくるのかフワッとするのか予想がつかない。
しかもその変動幅はジェットコースターのそれとは比べ物にならないほど大きいことがあり、かなりビビる。

最近の新鋭機は台風吹き荒れる中を飛行してもビクともしないらしいが、窓から見える主翼の橇具合を見ると、なかなかスリリングである。

ということで、結果、東京湾上空から静岡上空までは大荒れで、久々のジェットコースター気分を味わった。
疲れたので、
「早く降りて」
と心の中で懇願したが、

「関西空港、混雑のため当機は20分遅れで着陸の予定です」

のアナウンス。
関空名物・大阪湾一周コースの待機飛行。

絶叫マシーンは駅への到着は遅れないので、これも違いのひとつか。

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沖縄の新聞社・琉球新報が、
「沖縄の平和は米軍は沖縄から出ていくしかない」
という記事を掲載して、それが日曜の大阪のテレビ番組で取り上げられていた。
またまた米軍兵士が沖縄の女性に暴行をはたらいて、それで、「出て行け」というのが記事の趣旨らしい。
出て行ったらどうなるのか。
中国に対する防御は下がるし、沖縄県では失業者が万単位で発生する。

琉球新報というのは朝日新聞、北海道新聞と並ぶ変わった新聞。
どこまでホントのことを報道しているのか大いに疑ってかかる必要がある、いわば東スポ、大スポに匹敵するイエローペーパーだ。

私は営業マンだった頃、沖縄へは時々仕事で出かけたが、その仕事はだいたいにおいて、国の仕事か県の仕事か、米軍の仕事。
とりわけ米軍関係の仕事は少なくなく、

「一等地に居座りやがって。いつまでおるんや」

と思わないこともなかったが、安全保障の問題を考えると地理的要衝の沖縄への米軍駐留は日本だけではなく東アジア全体の問題だ、ということを忘れてはなけないことに、すぐ思い至って、
「まあまあまあ」
と自分を納得させるのだ。

また、沖縄の人の建前と本音を見極める必要もあるのも現実。
「米軍内と困るんですよね」
という声も直接聞く。
実際の所、米軍が一挙に撤退したらあとはどうする、というアイデアは県にも国にも無いわけで、ましてや琉球新報にあるはずはない。
「米軍出て行け」
は何の責任の無い部外者の発言だ。

今回の事件にしても女性の方に問題はなかったのか。
ちっとも報道されないのがかなりヘンだ。。
これってプライバシーの問題になるからアンタッチャブルなのか、報道の公平性で考えると「?」が灯る。
まず、女性が襲われたのが午前4時、というだけで、なんだかオカシイと思うのが普通の人なら考える。
大阪のミナミでも東京の渋谷でも、午前4時にウロウロしている女性にまともな人は少ない。
沖縄は時間的におおらかだけど、それでも午前4時に米兵のいるところを彷徨いているのは、何か目的があってのことか。

こと沖縄の駐留米軍の話になると、マスコミは騒ぎだし政府の対応や米国そのものを糾弾する。

これって一昔前のミャンマー報道と同じなのだ。

民主化以前のミャンマーは、
「まったく自由なしの弾圧社会。北朝鮮のような国」
と報道されていたけれど、実際に行ってみると人々はおおらかだし、仏教信心は敦いし、市場は賑やかだし、なんといっても怒らないし優しい人たちでいっぱいだった。

聞くと見るとは大違い。

今回の事件は以前の中学生暴行事件とはかなり違う、もしかするとオスプレイの問題を煽り立てる何かの陰謀か、と思いたくなるタイミングでもある。

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往年のエロティック映画「エマニエル夫人」で主役のエマニエル夫人を演じていたシルビア・クリステルが亡くなったという。
享年60歳。

エマニエル夫人にはちょっとした思い出がある。
その思い出は、中学の修学旅行とリンクしているのだ。
私は中学校の修学旅行で長野県の車山高原へ行った。
ビーナスライン。
富士山。
白糸の滝。
などなどなど。
なんでこんなところが修学旅行先に決まったのか、まったくもって謎なのであるが、ともかく車山高原にでかけたのだ。
この修学旅行の1日目だったか2日目立ったか忘れてしまったが、誰かが、
「今日、テレビの洋画劇場で「エマニエル夫人」の放送があるで」
となり騒然となったのであった。
折しも私たちは色気づき始めたばかりの中学生のガキども。
その手の番組に興味がないはずはない。
テレビの番組情報は口コミで見る見る間に広まった。
そして話題は、
「学校の修学旅行なのに、そんなエロ映画を部屋で見ることができるのだろうか」
という一点に絞られた。
まだまだ昭和50年代。
学校には力があり、今のように父兄にビクビクするような時代ではなかった。
普通なら、
「見たらアカン!」
となるところ。
なんと私の学校の先生たちは勇気ある決断をしたのであった。

中学校の修学旅行なので就寝時間は2200と決められていたのだが、
「今日の就寝時間は23:00でよろしい」
となり、しかも、エロティック映画の「エマニエル夫人」を中学生である我々ガキどもが見ることのできる許可まで与えてくれたのであった。
偉い校長先生であった。
もし見せなかったら中国のような暴動が発生するのでは、とでも考えたのだろか。

堺市立の中学校のなんとも粋な計らいなのであった。

結果的に、映画は大いに盛り上がったものの、何に盛り上がったのか記憶に無く、おっぱいが見えたぐらいで「おおおお~」っと叫んでいたウブな中学生なのであった。
今では「エロ映画を見たこと」だけが思い出となって残っている。

ところで、この「エマニエル夫人」や「エーゲ海に注ぐ」、「O嬢の物語」などのエロティック映画が流行った頃と、アリスの谷村新司がそのコレクターで有名なビニ本ブームはどちらが先でどちらが後だったのだろう。
時々そういうことを考える。
なんの意味も無いのだが、風俗に関する近代史、ということで、何らかの関係があるのでは、と思わずにはいられない。
阿部定事件を描いた映画「愛のコリーダ」なんかが普通に問題になる時代から、エグいアダルトビデオが出まわるようになるまでの過渡期に、このようなエロチック映画やビニ本が現れた。
今となってはそのように思えるサブカルティックなランドマークでもあったのではなかろうか。

シルビア・クリステル死去のニュースに接して、そんなことも考えたりするのである。

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人と言うものはその人生において、どのような道を歩んできたのか。
「顔を見れば、その他人の性格や生き方がよく分かんだよね。」
と一般によく言われる。
人物の良し悪しは人相でわかるというものだ。

この人相論で行くと、例えば日本の政治家先生たちは、実にバラエティに富んだ表情をしている。

悪人顔では小沢一郎、輿石東、野中広務、古賀誠、といったのが上位といったところか。
この悪人顔というのは、顔が悪人というだけではない。
セオリー通り本当に悪人なのだ。
小沢一郎は立ち位置定まらず、あっちへホロホロこっちへホロホロ。金の匂いに敏感で、政策は私のもの、国あらずという感覚が透けて見えるので困ったものだし、興石東は日教組、野中広務は京都の闇のドン、古賀誠は土建屋道路族。
ホントに表情に現れる感じがしてリアルだ。

一方、アホ顔、もとい頼りない顔では鳩山一郎、谷垣貞一、菅直人、福島瑞穂、石原伸晃、田中真紀子など、これも表情が体を表すで非常に面白いものがある。
共通するのはオボッチャマ、オジョウチャマ。
骨もなければ思慮もない。今政治で最も悪影響を放っている人たちだ。
その他、気色悪、もとい珍顔では石破茂、麻生太郎、野田佳彦など、上げれば切りはないほどだ。

芸能人とて同じかも。
と言いたいところだが、悪人顔は必ずしも悪人にあらず。
実は芸能界では例えば時代劇の悪役をやっている役者さんほど後輩に優しく面倒見が良いというようなことを良く聞く。
現に私の友人は大阪の新歌舞伎座でバイトをしていたのだが、ある深夜の稽古。疲れ果てて壁に持たれてうたた寝しそうなバイト連中を陽気に元気づけてくれたのは某有名悪役俳優さんであったという。
また、著名な悪役商会は品の良い印象が強い。

それとは対照的に、新歌舞伎座でも主役を張る、二枚目だが最近はテレビではあまり見かけなくなった某時代劇俳優さんにはベトナムへのボランティア活動と称しながら、かなり悪どいことをやっていると、現地で活躍するライターの人たちに曝露されている人もいるわけだから、ホントに人は見かけによらないのも。
政治家と違う世界なのかもわからない。

もちろん、役柄と本人は大いに違うわけで、悪役を演じる人が本当に悪人だったら怖いものがある。

そこへ行くと、酒井法子の復帰演劇のポスターは、かなり微妙なものがある。
こののりピー。
デビュした時は私が社会人一年目。
駅の高架工事の仕事でヘルメットをかぶって作業していた私は、「男の子になりたい」というデビュー曲のポスターが阪急池田駅前のレコード店に貼りだされているのを目にして、
「子ネコみたいな顔をした女の子やな、可愛いいんかな」
と正直に思ったのであった。
でも、
「きつそうやな」
とも思ってファンにはならなかったのであった。

あれから30年近くの歳月が流れた。
その酒井法子が演劇で芸能界へ復帰するという。
今回のポスターを見て、その人相から、

「薬やめますか、それとも人間やめますか」

というイメージが浮かんでしまったのもまた正直なところ。

「ええ女優さんが復活か」

なんてちっとも思えなかったのだ。
覚せい剤というケチのついたアイドルは、もうアイドルでないどころか、元アイドルでも無いのかもしれない。



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人というのは自分の夢を空想しては楽しむクセがあるものだ。
特に男はそうかもしれない。

私は子供の頃、自分が「仮面の忍者赤影」に登場する忍者のひとりであったら良いのにと、よく夢想したものだ。
半ズボンに半袖シャツ。プラスチックの刀を背中に差して、「◯◯影参上!」と言っては、木に登ったり走り回ったり、コケたりした。
なかでも、華々しく登場したにも関わらず、イザというときに背中から刀が抜けないのに往生した。
刀の長さが長すぎて、子どもには抜くことができないのであった。
なぜテレビの赤影にはできて、私にできないのか。
この不条理には無性に腹がたったのを今も鮮明に覚えている。
余談だが、最近の子どもは何故おもちゃの刀で遊ばないのか。
映画などでアメリカ人のガキが刀を振り回して「Ninja!」なんて叫んでいるのを見ると、どちらが日本か分からなくなってしまい、正直悲しい。

また、スペクトルマンを見た時も同じだった。
私も怪獣Gメンのメンバーになって活躍したいと思ったものだ。そしてネビュラ78に向かって「変身願います」と言ったら変身させてもらえるんではないかと思ったものだ。
で、「ネビュラはどこ?」と真剣になって探したこともある恥ずかしい履歴がある。
さらにジャイアントロボのように腕時計に向かって「行け!ジャイアントロボ」と言ったら命令通り動くロボットがあったらいいのに、とも思った。
そうすれば□組の▽▽君をやっつけてもらうのに、などと夢想したのだった。

この夢想癖は中学になっても若干残ってしまい、深夜放送のSFテレビ番組を見てからは、
「ん~~~、『学校まで転送!』してくれたら便利やのに。でもそれって、非論理的やな」
と、オタク志向とものぐさ志向を助長することになた。

だいたいこういう夢想癖は「男はつらいよ」の寅さんのようにおとなになっても続く人がいるが、だいたいそれをネタにしたり、リアルな行動に移すことはない。
移せば変人扱されることは間違いなく、社会的地位も、家族も何もかも失ってしまうこと、これ畢竟だからなのである。

ところが、この夢想を実行に移してしまった大人が現れた。
よりにもよって東大の研究員だ。

「iPS細胞を使って手術しました」
なんて言っていたのは守口尚史特任研究員。
自称ハーバード大学客員講師。

東京大学というところ、日本の最高学府だがこういう妄想癖の人を研究員としてラインナップしているところはかなり情けないといえるのではないだろうか。
「勢いで嘘をついてしまいした」
とも言っているようだが、これが4月1日のニュースなら「あはははは」で済むけれど、ハーバード大にメイワクをかけて、東大に恥をかかせたこの責任はどうとるのか。
しかもそんな記事を真実思って載せてしまった読売新聞の記者の今後が最も注目されるニュースでもある。

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私の東京出張時の宿泊場所は「浅草」だ。

「浅草って、観光地みたいなところに泊まるんですね」

と言われるかも知れない。
が、東京もあちらこちら宿泊してみた結果、浅草が最も落ち着くところと判明し、以後、その他の地域には余程のことがない限り宿泊しないことにしている。

思えば社会人になって20数年。
東京出張を幾度と無く繰り返してきた。
宿泊する場所も様々であった。
初めの頃、場所は定まっていなかったが、月島や築地、東陽町のあたりにランダムに宿泊していたが、やがて神田、水道橋あたりのビジネスホテルに宿泊するようになった。
バブルの頃は都内でのビジネスホテル確保が難しくなり、国立や八王子、千葉、横浜などに宿泊し、出張なのにホテルから1時間もかけて東京へ通勤するという事態に陥った。

やがてバブルが弾け、月日は流れて池袋、新宿、品川、蒲田などにも宿泊したのだが、どうも落ち着かない。
とりわけ新宿歌舞伎町と池袋北口に宿泊した時は、大いに後悔したのであった。
ちゃんとしたビジネスホテルにもかかわらず、白いワンピースをまとい、派手派手の化粧をした「いかにも」なお姉さんが廊下をあっちへウロウロ、こっちへウロウロしているし、外は外で呼び込みの声や酔っぱらい、救急車にパトカーの音がうるさく、

「お、ここはロサンゼルスのダウンタウンか」

という雰囲気でちっとも落ち着けなかったのであった。

浅草に宿泊しだしたのは3年ほどまえからで、この今は寂れた歓楽街が、東京らしく、それでいて片意地張らない、物価も安い気楽なところなのですっかり気に入ってしまったのだ。
大阪のように気さくに人が話しかけてくる雰囲気もいいし、寄席もあり、周囲には渋谷や新宿では感じられない「粋」さも辛うじて生き残っている。
祭りや縁日。
江戸文化が息づいている唯一の東京の歓楽街、という感じがして大阪人の私にも満足できる環境が揃っている。

ただ、欠点もある。
それは、この浅草のホテルの欠点は観光客が多いことであった。
日本国内だけではなく、世界中様々なところから多くの観光客が東京見物の観光拠点として浅草を選択し、宿泊する。
確かに周囲には東京を代表する観光地が点在する。
浅草寺。
雷門。
上野公園。
秋葉原。
神田古書店街。
そして最近はスカイツリーが加わった。

この観光客のうち、騒々しくて汚い、という人々がいた。
中国人観光客だ。
中国人観光客はうるさいだけではなく、ゴミを撒き散らし、部屋や廊下を汚し、ロビーを占領するという、他の地域の観光客ではありえないマナーレスな人々なのであった。
しかも個人では動かず、必ず集団だ。

団体観光旅行はかつての日本も同じじゃないの。

と言言いたい人もいるだろう。
私は1978年に高校生の時に海外旅行で初めてアメリカに行って以来、ずーと個人旅行を通してきた。
従って団体旅行を知らないが、それでも買い物以外の日本人のマナーの悪さは聞いたことがない。
だから同じ団体旅行でも中国人とは根本が違うと思っている。

仕事で疲れ、ホテルに戻ってくるとロビーで宴会をしている。
夜中、時間に関わらず廊下に出て大きな声で話をする。
今ではそれはすべて中国人。

「かなわんな~」

と思っていたら尖閣諸島でトラブル発生。
中国人旅行者が一斉に姿を消した。
ホテルにいる外国人は、韓国人か台湾人かタイ人か白人か。

かくてホテルに平和が戻った。

静かで清潔。
中国人がいないだけで、これだけ快適にあるとは。
予想していたとはいえ想像以上だ。

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司馬遼太郎がベトナムのサイゴン、現ホーチミン市を訪れたのは1972年9月。
世論に敗れた米軍がベトナムからの完全撤退を完了した直後だった。
南ベトナムというイデオロギーに後押しされた外国から止めどなく流れてくる資金で維持された国家は、その膨大な外貨で続け戦争を続けていたことが本書でも記されていた。
もちろん北ベトナムとて中国、ソ連の後押しで南の併合を目指していつ終わるかわからない戦争を続けていた。
驚くことに、ベトナム戦争はアメリカ軍の撤退で終わることはなく、このまま1975年4月30日まで続くことになる。

問題は、司馬遼太郎の未来のベトナムの予想が、ある面では的を射ているのだが、かなりの部分でやはり目算を誤っていたというところが、ある意味、本書の面白さかもわからない。

例えば、チェロンを訪れた筆者はベトナムの経済を牛耳っている華僑がこの国から出ていくことは永遠に無いであろうと語っているのだが、実際は1980年台に華僑の多くが国外に出ていかざるを得ない状態に追いやられた。
いわゆるボートピープルがそれだ。
統一ベトナム政府は故意に自由経済を圧迫し、長年ベトナム経済の支配者であった華僑を追い出したのだ。
当時の一般の日本人はそんな事情など全く知らない脳天気さで、
「ボートピープルを受け入れない日本政府に断固抗議する」
という人々が少なからずいたものだ。
しかし当時の日本政府はボートピープルの素性が華僑、つまり中国人で構成されていることを熟知していて彼らを受け入れることはなかった。

余談だが、同様の華僑追放は、今注目のミャンマーでも行われた。
ミャンマー経済を牛耳っていたのは華僑と印僑だった。
英国植民地時代に大量流入してきてミャンマー人を支配下に置いた彼らを戦後のビルマ政府は突然の通貨の無効、鎖国政策などで経済力を奪い、国外に出ていかざるを得ない状況をつくりだした。
中国人はどこの国に於いても問題を引き起こす存在なのかも知れない。

また本書では、司馬遼太郎はベトナムは日本史で言うところの江戸期の終わりで、そこに外国勢力をたくさん招き入れ資金に頼ったために自立ができない、というようなことが書かれていた。
日本は江戸期から経済活動が発達し、明治を迎えた時、アジアのどこの国もできなかった、既存の社会システムを切り捨て西欧式のものを取り入れたと。
ベトナムはそうではないという。
が、やはりこれも後のベトナムの歴史とは大いに異なる部分であった。
ベトナムは1980年代終盤から、経済開放政策に入り、一旦失敗をしたものの、やがて持ち直し、今や東南アジアでは最も成長著しい国家の1つになっている。

司馬史観という言葉あるように、日本史における幕末の歴史について大きな影響力のある筆者だが、こと未来の歴史のことになると、かなり内容が疑わしいものになってしまう。
いや、疑わしいというよりも、それだけ歴史の先を予見するということは難しいことなのだ。

なお、本書のあとがきの部分に近藤紘一の名前がでてきたのも、当時の著者の周辺の人々を想像する上で興味を誘う部分なのであった。

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私は2004年に初めてベトナムを訪れた。
サイゴンのタンソンニャット国際空港に降り立った時は、どういうわけか「ついに来た」という感慨が胸いっぱいに溢れてバイクの排ガス充満する空気で深呼吸したのだった。
ベトナムは東南アジアではミャンマーの次に訪れてみたい国なのであった。
ベトナムといえば、私が子供の頃は「戦争」をしている国という印象が強く、それは大人も同じで、母などは、

「ベトナムへ行って戦争は大丈夫なんか?」

と30年も昔に終結したベトナム戦争を心配した。
母にとって昭和40年代はじめに見たベトナム戦争のニュース映像の残虐なシーンが頭から離れないらしく、旅立つ私を心配したのだった。

ベトナムに関心を持つようになったのは、東南アジアを旅するようになってからだ。
東南アジアといっても最初はタイとシンガポールとマレーシアしか知らなかった。
しかもほとんどはタイでの滞在で、バンコクの安宿に宿泊してはバンコク都内のお寺をウロウロしたり、船着場でぼんやりしたり、チャオプラヤーエキスプレスの安近短な船旅を楽しんだりという、一般的な海外旅行とは言いがたい旅をしていた。
遊びに行くことなんか富んでもないことで、少々日本式の赤ちょうちんの飲み屋に出かけるくらいが関の山であった。
なんといっても、私に旅は予算が限られていた。
今も、限られている。

そんな旅なので金はないが時間はいくらでもあった。
従って、4日から1週間という短い滞在でも本を読む時間は結構あったので、文庫本を数冊買い込んで空港や駅、船着場、バスの社内、などで読み漁った。
初期の頃の私の東南アジアの旅は読書の時間の旅でもあった。

この旅で出会った本は林望の「リンボウ先生」シリーズ、佐藤雅美の「大君の通貨」のような歴史ノベル、沢木耕太郎の「深夜特急」など色々であった。
とりわけ自分自身がバックパッカー的な旅をしていることに気がつかないまま、沢木耕太郎の「深夜特急」を呼んだ時の衝撃は大きかった。
自分より遥かにダイナミックに旅をした人がいた事と、その旅の過程の面白さ、自分の旅の要素との共通点に大いに感銘を受けたのであった。
以後、たくさんの沢木作品を読み漁ることになったのだが、その作品のなかに、沢木耕太郎と一緒に文藝賞を受賞した近藤紘一のことが書かれていて、これがベトナムに大きな興味を持つきっかけになった。

作家近藤紘一はサイゴン解放時に唯一そこにいた日本人記者、産経新聞の特派員なのであった。

「サイゴンから来た妻と娘」を皮切りに「サイゴンの一番長い日」などその著作を貪るように読んで、ますますベトナムへの好奇心がそそられた。
その好奇心は近藤作品ではなく、他のベトナム関係の書籍を読み漁るというところまで加熱して、ついに近代東南アジア史と日本史の複雑に絡み合った関係に面白さを見つけて、以後の旅行スタイルまで変えてしまうような衝撃を受けたのであった。

近藤紘一が同じ産経新聞の記者であった司馬遼太郎と交流があることは様々な書籍で聞き知ることになったし、近藤紘一の遺作とも言える作品集に弔文を載せたのが司馬遼太郎であったことからも、司馬遼太郎のベトナム史観というものを知る機会があれば知ってみたいと思っていた。
だが、知ってみたいと思っていてもわざわざ調べるところまでは至っていないところが、私の「好きだけど面倒くさい」ものぐさ癖の悪弊だったのかもわからない。

そんなこんなで随分時間的に経過してしまったつい先日、近所の書店で「人間の集団について ーベトナムから考えるー」(中公文庫)を見つけ、即買い求めてしまったのであった。

つづく

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