<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





南海電車難波駅の大階段のエスカレータを降りていると、目の前に「大阪マラソン2012」のビッグサインが。

橋下徹大阪市長は今や野田総理よりも目立つ存在になってしまい、発言の一言一言にパンチがある。
しかも中味は痛烈で、主に市民が言いたいけれど言えなかったことをベラベラしゃべるものだから「あの人、刺されるかも」という心配をしている大阪人も少なくない。
例えば、市営サービスの民営化。
市営交通だけでなく、ごみ収集まで民営化計画。
各種補助金の打ち切り。
不採算公共事業の廃止。
ついに大阪維新の会は政党でもないのに世論調査で自民党に継ぐ第二党に踊りでた。
逆差別の糾弾。
などなど。
アンタッチャブルなことにメスを入れ続けている。

かと言って、全部が全部正しいかというとそうでもなく、たまに暴言はいては叱られて謝っているところが、また面白い。

そんな橋下市長が知事時代に打開出したのが「大阪マラソン」。
市民が気軽に参加できるマラソンイベントが少ないから、という理由でスタートしたイベントのようだが、生粋の大阪人の私にすれば「東京マラソン」のパクリと思えて仕方がない。
大阪が東京を真似る?
とんでもないことやおませんか!

というわけで、大阪マラソンはもっと大阪っぽいコテコテにできないものかと考えた。
難波駅の「大阪マラソン」のサインを見て考えたのだ。

そこで思い出したのが、先日開催されたロンドン五輪のマラソン。

いつもなら全コース大通りというのが相場だが、ロンドンは違った。
狭いロンドンの街の路地を走り抜けるマラソンは新鮮で面白く、妙にイギリスらしさを伝えていた。

そこで「大阪マラソン」はロンドン五輪に習って、なにわのコアゾーンを走ってみてはどうだろう。

スタートは大阪市役所じゃなくて通天閣。
だからメインストリートは御堂筋ではなくて新世界ジャンジャン横丁。
途中、串カツでエネルギー補充。
通天閣を見ながら日本橋の電気街を快走し、堺筋を北進、
道具屋筋や久太郎町の繊維問屋街を抜けて本町通りを西へターン。
大阪中央卸売市場のドヤドヤとした場所を通過して進路を南へ。
沖縄文化花ざかりの大正区でハイサイおじさんの演奏を聞きながら眼鏡橋を住之江区の加賀屋へ。
南港通りをまっすぐ東に走ってご存知、長居公園に。
でも中に入らず周回道路をぐるっと回って北にとり、あべのハルカスから阿倍野斎場の広大な墓地をのぞみ、クライマックスは飛田新地。
遊女のお姉さん方からエールをもらい、重要文化財「百番」前を通過。
中には飛田で20分遅れの元気なランナーが出たりして。
ゴールはスタートと同じ通天閣。

というのはどうだろう。
アホか、と言われそうだが、鶴橋を通らないのは国際的問題、抗議の姿勢を貫くことによります。
はい。

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デジタルカメラを使い始めてから10年以上が経過した。

最初の頃は、
「デジタルカメラなんて、絶対にフィルムカメラには勝てやしない」
と思っていた。
頭の中に常に学生時代の新聞記事で読んだ「ソニーのマビカ」があり、デザインはかっちょ悪いし、動作も鈍そう。それになっといっても数十万画素なんてCCD、35mmリバーサル”エクタクローム”に勝てるわけがない。
と思っていたのだ。

ところがある日、大阪難波のカメラ店を訪れるとソニーの100万画素のデジカメが数千円で販売されているのに遭遇した。
それは見るからに玩具っぽいカメラなのだが、単焦点で大きさが名刺箱の半分ぐらい。
持ち歩いて街のスナップを写すには丁度いいかも、と購入した。

結果、びっくりした。

100万画素の単焦点のデジタルカメラは、いにしえのコダック社のポケットカメラなんか話にならないくらい美しい映像で、しかもデジカメ写真のパソコンで見るというスタイルは、現像代もプリント代もかからない、まさに金欠ぎみの私にはピッタリの映像アイテムなのであった。
結果、次のタイ旅行に喜び勇んで持参したのは言うまでもない。

以来デジカメを何年かおきに購入し、5年ほど前には念願のデジイチも購入。
仕事にプライベートに多用している。

このデジカメ。
滅多に故障もしないし、壊れにくいので重宝しているのだが、ただひとつ、たまに悩ますのがレンズの内側、撮像素子に付着するゴミ。
撮影した写真を台無しにするのはもちろんのこと、これを修理するにはかなりの費用を要する。

先々月。
愛用しているパナソニック製のコンデジで撮影した写真にゴミを発見!
望遠にしなければはっきり見えないので我慢して使用していたが、スチル写真はともかく、動画は修正するのが厄介。
実際は厄介というより、ほとんど不可能。
パナソニックを愛用しているのは、ハイビジョン画像も鮮明に撮影できるからで、その鮮明画像にゴミがあると、かなり問題だ。

夏休み前。
大阪府下の中学校陸上部の記録大会に娘が参加。
何を思ってか800メートルを走っているノホホン娘はなかなか記録が伸びず、

「たぶん、カタツムリの方が早いと思う」

とからかったりしているのだが、この日、日曜日ということもあり動画撮影してやろうとグランドを2周走っている娘をシュートした。
結果、撮像素子についたゴミが娘の前方を走ることになり、

「お、このゴミの方が早いやん」

とからかいネタが増えることになった。
「む」
でも、これって記録としては良くないことで、ゴミ除去のために修理にだすことに。

2週間後、修理から戻って来てゴミがとれてスッキリしたが、費用はほとんど1万円もかかかってしまったのだ。

修理したカメラは快調で、仕事にプライベートに娘の陸上競技にと大活躍。
1週間経ち、2週間経ち、3週間が経った。
先日の夕方、錦糸町駅から新小岩に向かおうと電車を待っていると、横からの陽光に照らされキラキラと輝いている東京スカイツリーが目に入った。

「お、これはベストショットや」

とiPhoneではなく鞄から愛用のコンデジを取り出し、パシャっと撮ろうとしたら、青空のところに黒い点が。(冒頭の写真参照)

「.............」

またまた撮像素子に付着したゴミだった。
なんでや........。

だいたいレンズの取り外しもできない密閉された空間であるはずのコンデジ内にどうしてゴミが入るのかが謎だ。
これがデジイチならレンズを外して、シュポシュポとブロアで掃除をしたらそれで終了なのだが、コンデジは分解しなければならない。

「ううううう、また1万円が」

怒りをぶつける場所も無く、大阪に戻って来て少し経った先週末。
私は勇気を持って精密ドライバーでデジカメ分解にチャレンジした。
途中、精密ネジを1本紛失するという犠牲者を出したものの、無事に撮像素子を取り出してブロアでシュポシュポ。
ゴミは消え去り再び美しい映像を撮影できるようになったのであった。

費用は失った精密ネジをホームセンターで購入した220円のみ。

コンデジ解体という勇気が効果を発揮した訳だが、良い子の皆さんは真似しないように。
コンデジもレンズを外せばクリーニングできるようにしていただきたいものだ。


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サイズが小さな国ベトナムと大きな国中国。
この2つの国は歴史的にとっても仲が悪いことで知られているが、例えば日本が付き合うべきはどちらの国であるのか、明らかだ。

1974年。
日本政府はベトナムのハノイ市内のホテルに大使館準備事務所を開設。
来るべきサイゴン解放に伴う南ベトナム崩壊に備えて、ベトナム全土を統一することになるであろう北ベトナムを正式の国家として認めて大使館を置く準備を始めた。
この準備には外務省から外交官が一人だけ派遣され任務についたという。

準備室に相応しい事務所を確保したホテルにはオランダ他、日本と同じ他の西側の国々が大使館設置準備のために事務所を開いていたという。

ある日、雇い入れている公用車で郊外に出かけ、戻ってくる途中に大きな橋があり、そこを通りがかった所で橋を渡る群衆に遭遇し、車が前に進めなくなってしまった。
外交官は「大丈夫かな」と思ったという。

長年に渡り日本は米国が肩入れしてきた南ベトナムを支援。
当然、北ベトナムの国民は米国や南ベトナム軍の空爆などで大きな犠牲を出していて、少なからず日本に敵愾心を抱いている可能性が考えられる。
折しも、大使館準備室の車だけに、通せんぼされてしまった車には日の丸が翻っていた。
群衆が車の日の丸に気づいた。
男たちが車を取り囲む。

「これはやられると思った」

というようなことが確かその本には書かれていた。
日本の外交官の乗った車だとわかったら、石礫でも投げつけられるものと思ったのだ。
ところが違った。
ベトナム人の群衆は日本政府の公用車を取り囲み、ニコニコしているではないか。
ドライバーだったか、通訳だったかが、その日本人外交官に通訳した。

「みんな『嬉しいな、懐かしいな、日本が帰ってきたよ』って言ってます」

北ベトナムの日本への感情は悪いものではなく、みんな自動車についていた日の丸を見て喜んでいたのだった。

考えてみれば第二次世界大戦中にバシー政権下のフランス領ベトナムに進駐した日本軍はベトナム人にとっては特別の存在だったことが様々な書籍に書かれている。
それまで主人格であった白人にとって代わり、自分たちと全く同じ顔立ちと肌の色をした日本人が正々堂々と白人国家に対している。
ベトナム人がこれに大きく動かされ、戦後、独立への険しい戦いに臨んだのは歴史のとおりだ。

このエピソードが書かれていたのは確か元外交官、今川幸雄著「ベトナムと日本」(連合出版発行)。
駐ベトナム民主共和国日本大使館の開設準備をした人で、私もこの本を読んだ時はビックリしたと同時に、ベトナムが日本にとって良きパートナーになっている現在を納得もしたのであった。

翻って中国はというと。
走行中の日本大使の公用車を別の自動車2台で塞ぎ、日の丸をもぎ取って走り去ったのだという。
まるでチンピラ、暴力団。
ハリウッド映画の1シーンのようだ。
これがメキシコと同じなら拉致もありうるシチュエーション。

ベトナムと中国。
国の大きさと民度のレベルは比例しないいい例だ。

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「アポロ16号が残した月面の星条旗が今も同じ場所に立っていることが確認」

というニュースを読んだのはつい先週のこと。
月面の強い紫外線や太陽の熱線にも朽ちること無く同じ場所に立ち続けていることがNASAの最新の月面探査機で確認されたのだという。
記事の文面が面白いのは「同じ場所に立っている」ことを感激で書いていることで、これが「違う場所に移されて立っていた」らもっと感激したに違いない。
というよりも大ニュースになっただろう。

星条旗の場所を移したのはいったい誰か?
宇宙人か、それともあの月面探査そのものがフィクションで、今回見つかったのは「旗に似た影」だ。
というミステリーな会話がなされていたに違いない。

この月面に立てられた星条旗はアポロ16号のもの。
ではいったい、最初に立てられたアポロ11号の旗はだうなったのかというと、11号のイーグル着陸船が離陸した時の噴射で吹き飛ばされているのが確認されているそうで、残念ながら静かの海のどこかで、バタッ、と倒れているのを確認するのは難しいようだ。

そのイーグル着陸船で人類初の月着陸を成し遂げた、ニール・アームストロング船長が亡くなった。
享年82歳。

「月に最初に降り立った人の名前、知っているか?」

と中2の娘に訊いてみた。

「ん~~~~、分からへん」

聞くところによると、最近の小中学校では月に降り立った初めての人類の名前を教えないようだ。
これは大津市の陰険イジメ事件に例を取るまでもなく、教育する側が、子どもに夢を与えることが自由主義という、彼らの信奉する共産主義や社会主義に反するからだ、と思わず疑いたくなるような事態だ。

「アームストロング言うんや。」
「え?アームストロング」
「そうや」
「うた歌ってる人やな?」

なんでルイ・アームストロングを知っていてニール・アームストロングを知らないのかわからない。
これもある意味、謎の一つだ。

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いつも自宅から大阪市内には移動するには南海電車を利用しているのだが、この日、久しぶりにJRを利用した。
大阪城でのイベントに参加するのでJRのほうが乗換その他で便利だと思ったからだ。

利用したのはJR阪和線。
ここの路線は国鉄時代は大変な路線だった。
何が大変だというと車両がおんぼろ。
プロ野球球団も持っていて、並行して新型車両の走る私鉄の南海電車とは正反対。
なにしろ小学生の頃に利用した時、車両に「昭和7年製造」と書かれているプレートを見てビックリしたものだった。
当然車体は木造で、加速する時は、

「うぃい~~~~~~ん、うぃい~~~~~ん、うぃい~~~~~、ぼっ(一瞬、一呼吸休憩)、うぃい~~~ん」

とモーター音も息が絶え絶え。
要は首都圏で走っていた電車のお古が回ってきて関西で走っていた、ということ。
中でも国鉄阪和線は最もオンボロの電車が走っていた路線で、私はそれに乗っていたというわけだ。

国鉄が民営化されてJRになって、関西空港もできて、環状線と繋がって京都からも列車が走ってくるようになると、古い電車は次々引退。
次第に新しい電車が投入され始めた。

民営化から20年。
今や快速電車はすべて新型。
走行中も揺れず、静かで、座席も特急レベルの心地よさ。
ホークスも手放した南海電車とは立場が逆転。
どうしても時代の流れを感じて、
「エライ違いや」
と昔と今を思い比べて溜息をつくことが少なくない。

そんな国鉄時代も今も変わらずあるのが、天王寺駅の立ち食いうどん。
変わらずあるが、スタイルが屋台からちゃんとした店に変わってしまったところは時代の流れ。
国鉄時代は快速が発着する4番ホームに屋台がいて、そこでうどんを売っていた。
値段は一杯120円くらいだったか。

詳しいことは忘れてしまったが、大阪市内に買い物に出かけて堺の自宅に帰る時、母が、

「うどん食べよか」

とご馳走してくれたのが、メチャクチャ美味いと感じたのが懐かしい。
母と一緒にうどんをつるつる。
汁まで飲んでしまうかどうか悩んだ。
で、飲んだら飲んだで、

「喉、乾くで」

と母に叱られたことも、懐かしい。

その屋台のうどん屋も今は快速ホームの手前と環状線との乗換ブリッジのところに2店がある。

「うどん食べよか」

と今、娘に聞く。
娘は食べ盛りの中学二年生だから、なんだって食べるし、口癖は、

「お腹すいた~。何か食べたい」

だから、「うどん食べよか?」の私のオファーに「ノー」とは言わない。

ということで、私はきざみうどん、娘は天ぷらうどんを注文。
二人で値段は700円でお釣り有り。

「美味しいな」

と娘はご機嫌、私も久しぶりの天王寺の立ち食いうどんで大満足。
親子2代で楽しめるエースコックのワンタンメンのキャッチコピーみたいな天王寺の立ち食いうどんなのであった。

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人と待ち合わせをするのに錦糸町駅でぼーっとしていると、

「スカイツリーは錦糸町駅からあるいて20分!」

という手作りポスターが.....。
思わず、

「この暑いのに、20分も歩けるかい........」

と口をついて出たのであった。

ということで、東京下町のスカイツリー効果はかなりのもので、いたるところにスカイツリー。
東京での宿泊先が浅草の私には少々食傷気味。
JRも最寄りの駅は錦糸町ということをアピールしたいのか、ポスターや看板で誘導しているとおもいきや、なんと、パンフレットまで作っていた。



ということで、個人的な意見ですが暑いので錦糸町駅からスカイツリーへは地下鉄半蔵門線か都バス(日暮里行き)をご利用ください。

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あるデザイン雑誌のグラビアに代官山にオープンした蔦屋書店が紹介されていて、

「あのTSUTAYAが蔦屋書店。ちょっと見てみたいな」

ということで、行ってきたした代官山。

大阪人の私としては「東京にあるものはたいてい大阪にもあるもんや」と思っていた。
当然、TDLやスカイツリーはないけれでも、それも無理すればUSJや通天閣で代用することも可能であろう。
しかし、代官山の雰囲気と比較するところがないのが、ちょっと悔しいと思っている。

ブティックやデザインショップ、家具屋、レストランが並び、ちょっと路地へ入ると高級住宅街。
外国の大使館があったりして洗練された雰囲気が漂っている。
というのが代官山だが、大阪で同様のところといえば南堀江や新町といったところだが、ここらあたりには高級住宅街は無いし、大阪だから領事館はあっても大使館はない。
最も大きな相違はなんといっても地形だろう。

大阪と東京の地形はまったく異なっており、その地形が双方の町の雰囲気形成に大きな違いを生み出していると私は常々考えている。
大阪は太古より東西に連なる上町台地は挟んで西に大阪湾、東に河内湖という水辺を持っていて、それが仁徳天皇の時代頃から埋め立てが始まり今の「フラット」な大阪ができあがった。
一方東京は徳川家康が江戸を開拓するまでは、山、大地、川、森、などでできた、いわゆる武蔵野で「アップダウン」のある地形である。

このため、大阪は何を作っても上町台地、今の大阪城や天王寺公園のあるあたりを除き、ほとんどが平地。
坂もなければ谷もない、という地形で正直面白みにかける。
その点東京はアップダウンが結構きつい。
下町の本所や深川あたりを除いて都心部は山あり谷ありで、例えば渋谷駅から周囲に伸びる道は道玄坂をはじめすべて坂道である。
このような傾斜のついたところには建築デザイン的に結構綺麗な建物が形成さて、フラットな街よりも綺麗に見える。
神戸しかり、長崎しかり、サンフランシスコしかり、リスボンしかり。
なのだ。
そこへ行くと大阪は、バンコクしかり、サイゴンしかり、ヤンゴンしかり、の違いがある。

代官山も地名のとおり山の傾斜を利用した街並みが形成され、しかも一種独特の「外国に来てしまった」というようなコンセプトの街のため、非常に洗練されて、
「ああ、これは大阪にはないわな」
ということになる。
大阪でも帝塚山あたりを開発したらこうなるのだと思うのだが、そうなると東京の真似しゴンボになってしまうため大阪人の気質が許さない。
一般に大阪で開発された文化技術は関西弁やコテコテ要素をろ過して東京に導入されるのが普通だが、東京で開発されたものが大阪に来て成功することはまず、ない。

ということで、蔦屋書店。
TSUTAYAとは大きく異るコンセプトで、CCCの勇気ある出店は大いに讃えなければならないと思った。
店舗自体は2階建て。
敷地内に3棟ほどの同じデザインの建物が並んでいて、それぞれの2階を渡り廊下でつないでいる。
1階は総ガラス張り。
代官山駅方面から歩くと、まず、蔦屋書店の1階にガラス張りの窓の向こうにダークブラウンの木製書架があり、まるで図書館のような蔦屋書店が目に飛び込んでくる。
しかも、並んでいる書籍が洋書なのだ。
それもかなりの冊数が置かれており、

「おお、ここはTSUTAYAではなくて丸善か」

と、思えるくらいにTSUTAYAではない。

尤も、今時洋書を書店で買う人がいるんだろうか、と私は思ったりする。洋書はアマゾンのほうが断然安くて種類が豊富。納期も分かりやすくて使いやすい。
そんな時代に、大きな規模の洋書コーナーもまた勇気ある店づくりだと思った。

もちろん一般書籍もたくさん置かれているのだが、雰囲気は図書館で書店という感覚を失ってしまいそうだ。
スタバも入店しており、書店とコラボ。
難波のジュンク堂書店のように書籍を手に取り、カフェを楽しむコンセプトを採用している。
もちろん雰囲気はこちらのほうが優れているが、正直混みすぎ。

レンタルCDやDVDは2階に。
しかし2階の最も注目すべきところは3棟ならんだ真ん中の建物にあるレストランで、ここはかなりの高級志向で書店のカフェとしては他の大きく引き離しているものがある。
まるでインターコンチネンタルホテルやリッツ・カールトンのラウンジ思わせる豪華さだ。
とりあえずここでコーヒーでも、と思って案内されたソファに座ってみたが、ゆったりしていて昼寝ができそうである。
ただ、雰囲気が超豪華なため昼寝をするには若干緊張感が高すぎるとおもわれる。

周囲を見渡せば、設計事務所やデザイナー、編集者と思われるファッションセンスのいい方々が「東京弁」あるいは「標準語」で話をしている。
ここで大阪弁、なかでもアクのきつい泉州弁や河内弁で話すと、なんとなく店のコンセプトを潰してしまいそうで、私なんかは無理にして大阪弁を話したい衝動にかられるぐらいの雰囲気なのだ。

「精算はテーブルでお済ましください」

と各テーブルに案内が置かれている。
ここのメニューはiPadで検索するようになっていて、家具も高級、雰囲気も高級、にも関わらず「精算は....」とお客様を田舎者扱いのような感じである。

とはいえ、なかなかお目にかかれないコンセプト店舗。
蔦屋書店。
結局、コーヒーとケーキのセットを食べただけで何も買わずに出たのであったが、インテリアであれ品揃えであれ、かなり見応えのあるところなのであった。


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書籍の世界はいま、宇宙ブームなのだという。
これは一昨年の「はやぶさ」以来、宇宙に対する関心の高まりに原因があるという説が有力なのだが、例えばいま、新しい惑星探査機が火星に着陸して活動をしていることを世の中の人が殆ど知らないことを考えると、このブームの原因や盛り上がり度には大いに疑問を感じてしまう。

かくいう私は、子供の頃は天文学者や宇宙飛行士を目指した時期も少しはあり、宇宙には今だ多大な関心を抱いている。
元々は昭和40年台に「火星大接近」があり、会社から帰ってきた父が「おい、生駒山行くぞ」と、ボーとしては私と母を無理やり連れ出し、途中のショッピング街で安もんの天体望遠鏡を購入し、観測したのが天文に興味を持つ発端だったが、決定的にしてしまったのは中学の時に見た深夜番組「宇宙大作戦」で描かれた恒星間旅行の世界だった。

ドラマの世界にはまってしまったその結果、私は天文に興味を持っただけではなく、理屈っぽい中学生になってしまったのであった。
その理屈っぽさは30年以上経過した今も踏襲されており、仕事上でも敵を作ってしまう原因になっている。
もし自分の子供がかわいいのなら「宇宙大作戦=スタートレック」は見せない方がいい。
ただ、この理屈っぽさは科学やDesignを考える上では重要で、物事を深くつきつめて考える癖がつき、それはそれでプラスの面であるということができる。

ところが、世の中には深く考え過ぎないほうが良い物がたくさんある。
例えば、冷凍食品を作っている中国の工場の衛生度だとか、美味しいはずの韓国キムチの漬け込み現場だとか、韓国人にとって竹島は本当は誰ものであることだとか、中国人にとって尖閣諸島や南沙諸島の領有問題はホントは誰が原因で発生しているのか、ということを韓国人や中国人が知ることである。

私にとっては、「宇宙の果ては何処にあるのか」とか「宇宙の外には何があるのか」とか「宇宙はなぜ存在しているのか」といった問題がこれにあたる。
中国人や韓国人は尖閣諸島や竹島の問題を普段は忘れている。
これが内政が混乱し、不況がやってきて、民主化、報道の自由化が叫ばれると思い出したように隣国の優等生を叩きたくなる時に思い出すのがそれぞれの問題だ。

私にとっても「宇宙の果て」問題は日頃意識しない課題なのだが、書籍「太陽系はここまでわっかた」(文春文庫)や「タイムマシンのつくりかた」(草思社)なんて本を読むと、こういうわけのわからない問題を思い出してしまい、思い悩むことになってしまうのだ。

大栗博司著「重力とは何か」(幻冬舎文庫)もまたそういう一冊なのであった。

日頃私たちの意識しない力に重力がある。
これは一体何なのか。
真剣に考えたことのある人はいるだろうか。
磁石でもないし、接着剤でもない。
あらゆるものは惹きつけ合う力、引力をもっているいるというが、重力なんて目にも見えないモノが、どうして力として作用しているのか。
川の流れなら水。
風の流れなら空気。
といったものがちゃんと存在するのに、なぜこれだけの力がある重力は何にも見えないし、存在しないのか。

考えただけでノイローゼになってしまいそうだ。

本書を読むと、重力は未だ発見されていないが、「粒」か「波」のようなものとして存在しているらしいのだ。
従って粒や波のような重力が作用することで、ゴルフのティーグラウンドで私のショットしたボールがコロコロとラフとフェアーウェイを転がっていくことや、何度ショットしてもバンカーからボールが飛び出さないことが証明できるようなのだ。

先日物理学会でセンセーションを巻き起こしたビックス粒子もそういうものの1つなのだそうだ。

こういうことを研究することはつまり、宇宙の形や成り立ちを研究することと同意であり、実に壮大な学問なのである、と思った。
しかしながら、実際には目に見えないものや、3次元だとか4次元だとか、果ては9次元なんてものが飛び出したらどう理解していいのか想像すらできなくなっていき、最期は「鬱」の世界に張ってしまいそうでなんだか怖いものがある。

本書は一般向け新書でとってもわかりやすく書かれているが、わかりやすく書かれているだけに、「それで?」と突っ込んでいくと益々鬱蒼とした思考の世界に陥りそうなだけにスリルのある科学本ということができよう。

そもそも本書を買った理由は、なんばの旭屋書店で平積みされている幻冬舎新書の「職業としてのAV女優」が面白そうだと思い、買おうとしたところ、嫁さんが、
「そんな恥ずかしいもん買わんとって」
というので、その隣に陳列されていた本書を手に取りレジに持って行ったことから今回の読書が始まったのであった。

AV女優という職業をする女性には、どのような社会的背景や人生が存在するのか。
決して恥ずかしい本(例えばエロ本)ではない、なかなか社会のディープエリアを取り上げたドキュメンタリーとして面白そうだと思ったのに、重力の世界を堪能することになってしまった。

なかなか読書をするのも難しいものである。

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もうかれこれ10年ほど前になるのだが、大阪市内のお客さんのところに納品した製品の不足していた部品を取り付けに行った時のこと。
作業している途中で部品を目隠しするための金属製パネルがツルッと落ちてきて、作業していた右手の甲を切ったことがあった。
ちょうどギロチンの要領だ。
あまりにもスパッと切れたので、切った時は痛くなかったのだが、切れ目が長くて深いので、
「これは大変な傷ができたわい」
とすぐに分かった。
自分が凄く冷静だったのは先述したように痛くなかったことと血が出ていなかったこと。
そしてお客さんが雰囲気が静かな弁護士事務所であったことだろう。

「すいません。ちょっと、病院へ行ってきます」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」
「救急車呼びます?」
「救急車を呼ぶに及びません。ほら、傷は大きんですけど、血が出てないので」
「ホントですね」
「ホントです」
「血、無いんですか?」
「そんなわけありません」
「そうですよね」

と妙な会話を事務の女性と交わしてから北区役所の近くにある総合病院へ向かった。

病院に到着したら係の人が傷を一目見るなり、

「すぐこっちに来てくださいね」

と救急受付へ私を誘導。
すぐに診察室から呼び出しがかかって私より5つ以上は上の年齢らしい男の先生が、

「これはこれは。よ~切れてますね」
「はい」
「痛くないですか?」
「あまり痛くないんです」
「スパっと切れてますもんね。縫いましょか。」
「ない」
「え~と、(看護婦に)みんな呼んできて」

先生が「呼んできて」と指示したのはインターンの学生で、白衣を着た学生5~6人が私と先生を取り囲むとボードを片手にメモを取り始めた。
私は麻酔薬を注射され、あとは先生のなすがまま。

「ここ、白いの見えてるでしょ。これだけ深く切れてるのも珍しい。」

真剣な学生たち。一方私は「実験台かい」と心のなかでつぶやく。

「消毒します。それピンセット。(傷口に綿に含んだ消毒液を擦り付けながら)ほれほれ、これ、麻酔なかったら、この患者さんメチャクチャ悲鳴上げてるはずやけど、麻酔しているから、ケロッとしているでしょ」

「放っといてくれ」と私は心でつぶやく。

結局7針を縫ってそのまま客先へ帰って残りの仕事を部下に指示。
今ではその傷跡もほとんどわからなくなった、まあ、ちょっとした事件だった。

それで思い出すのが「もし麻酔がなかったら」
というシュチュエーション。
人類が医学の中で最も大きな発明というか発見をしたといえば、もしかすると「麻酔の発見」だったのかもわからないと、今更ながら思うのであった。

ジェリー・M・フェンスター著「エーテル・デイ 麻酔法発明の日」(文春文庫)は1864年にボストンのマサチューセッツ総合病院で初の麻酔手術が行われたその日を中心に、麻酔薬の発明・発見に関わった男たちを取り上げたノンフィクション小説だ。

当然、この1864年までは外科手術は麻酔なしで実行され、腕の切断、足の切断、抜歯、内蔵摘出、がん摘出、なんでもかんでも麻酔なしで行われていた。
そのため患者の苦痛は並大抵ではなく、このあたりは今でも想像するとサブイボが立ってしまうくらい恐ろしい。

まず、手術室は今とは全く違った。
中央には手術台ではなく患者を縛り付けるための台または椅子が置かれ、外科医は体格の良い男性で、補助する看護師たちは屈強な男たちであった。
執刀する外科医は飛び散る血を受ける作業ズボンとエプロンという姿。
手術室は患者の叫び声が聞こえないよう病院の最上階に設置されていた。

患者の扱いも当然異なる。
患者は手術用の台または椅子に縛り付けられ身動きできないようにされた上、外科医の執刀を受けた。
これを恐れるがあまり、手術の前に自殺する患者さえいたという。

麻酔の登場で、この地獄の外科室は一変した。
外科医にとっても非常に苦痛だった、患者を押さえつけ、その叫び声を聞きながらの作業はなくなった。

当然こういう薬が登場すると金に群がる人たちも登場するのは今も昔も変わらない。
本書はそのへんを詳しく描いているのが魅力的で、ともすれば、麻酔の登場が人の命を金にすることに人が無神経になった最初のケースではないかとも思えるのだ。

エーテル・デイ。
手の傷を考えるたびに、麻酔があってよかったと思う、一冊なのであった。

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今から十数年前、初めてタイへ行った時は、暑さと慣れないタイ料理と白タクの運ちゃんへの対応で、私はヘトヘトになってしまったのであった。

そもそも事の発端はシンガポールに住むオーストラリア人の友人と飲みにでも行こうか、とお気楽に国際電話したのが始まりだった。
毎日毎日仕事ばかりで生活がマンネリしていて「これはイカン」と思っていたのだ。

「おい、来週末に、飲みに行こか」(正確には英語で)
「OK、でも、オレ、シンガポールやで」(これも英語で)
「構わん、そっち行くわ」(これも英語で)

ということで、木曜日と金曜日に代休を取って月曜日の朝、大阪に戻ってくるプランで旅を決定。
さっそくシンガポール航空のバンコク経由シンガポール行きの格安航空券を購入した。
友人は私と違って休みが取れないので、木曜日と金曜日は私一人でフリーになる。
ご存じの方もいらっしゃると思うが、シンガポールほど観光で訪れるといまいち詰まらない街はない。
ここはビジネスと生活の場所で、観光だとか余暇で訪れるところではないのだ。
だからシンガポールにダイレクトに行くのは詰まらないと思った。
そこで私は未だ行ったことのなかったタイのバンコクを木、金、土と訪れ、土曜日の夕方シンガポールに入ることにしたのだった。
名君でほまれ高い著名なプミポン国王が君臨する王様の国を見てみたかったのだ。

で、当日。
ホテルの予約も入れずにバンコクに到着。
ホテルの予約カウンターで安い宿を、というと王宮近くのロイヤルホテルを斡旋してくれた。
ロイヤルホテルといってもオンボロのホテル。それでいて掃除が行き届き、スタッフも親切だったので問題はなかったのだが、ただホテルの玄関で白タクの運ちゃんが屯しているのが、はなはだ迷惑であった。

「オニイサン、オンナのコ、ドウ?」

と通るたびに言い寄ってくるのには辟易とした。
風俗遊びをする気はからっきしなかったので、断るのにも往生した。

バンコクの街は聞きしに勝る暑いところで、スカイトレインBTSも地下鉄MRTも開通しておらず、バスの利用方法も知らなかった私は汗ドロドロで歩き回った。
しかも街角のレストランかな流れるタイ料理独特の匂いにも当時はついていけず、食欲はなくなるばかり。

シンガポールの友人のコンドミニアムに着いた時は脱水状態で、タイガービールとカルビーのポテトチップスの美味しかったこと。
日本に帰って体重を測ったら4kgも減っていて、その週に予定されていた会社の健康診断では「再検査」を通達させるような有様だった。

そんなこんなのヘトヘトの初タイ旅行の中で、心を慰めてくれたのは、朝、ホテルの部屋でテレビのスイッチを入れたら放送していたアニメ「一休さん」なのであった。
一休さんも新衛衛門さんも桔梗屋さんもタイ語で話しており、何を言っているのかさっぱり分からなかったが、

「さすが仏教の国。タイでも一休さんは大人気や」

と感動したことひとしおであった。

その一休さんが60代から亡くなるまでの晩年を過ごした京都府京田辺市にある一休寺を訪れてきた。
元々アニメの一休さんは好きだし、一休さんという天皇の落とし胤だという説も有力な高僧が、京都から歩いて1日の距離のお寺に住んでいたこと自体、かなり興味の湧くことであったし、その一休さんの住処とはどのようなところだったのか。
是非見てみたいと思っていて、やっとこさ家族で訪れてきたのであった。

以前、京田辺市は大阪からは行きにくいところだった。
大阪と京都府と奈良県の交わるあたりに京田辺市はあるのだが、大阪からは途中、生駒山脈がありどうしても京都経由か奈良経由でなければ行けなかった。
それが最近高速道路がせいびされたことにより、結構簡単にいけるようになったので、思い切って京都へ遊びに行った帰りに立ち寄ったのだ。



一休寺は予想通りというか、予想以上に小じんまりとしたお寺だった。
テレビのオープニングに出てくるお寺とは随分違うが、山の裾部分に建立されていて、遠く北側には京都の市街も挑めそうな場所である。
境内は綺麗に整備されていて、通路は石畳、そのまわりは丁寧に手入れをされている苔が生えていてなかなか美しい。
紅葉がまだまだ夏の盛り、緑色の葉っぱを陽光にキラキラさせながら茂っているのが、かなり印象的なのであった。

枯山水の庭園もあり、その庭も含めて建物のほとんどが国宝が重文級のものばかり。
アニメの一休さんで私たちはかなり親しみを持っているのだが、実際はかなりの身分の人であったことを想像するのに十分なたたずまいなのだ。
事実、一休さんのお墓のあるという庵は扉が閉ざされていたのだが、その扉には菊の紋章が入っていて、伝説が事実ではないかと思わせるものがある。

とはいえ、そこはやはり庶民に慕われた一休さん。
境内には「こはしわたりべからず」と書かれた小橋がかかっていたり、書院の中にはアニメのセル画が展示されていたりと、なかなかである。

紅葉が綺麗だったので次回は秋に訪れてみたいと思う、いい雰囲気の一休寺なのであった。




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