<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



小学校2年生の夏休み。
私は日射病、つまり今で言うところの熱中症で1週間ほど寝込んだ。
熱が下がらずウーウー唸っていたことと、回復仕出した頃に友達のMくんが遊びに来て外へ出ていこうとして母に叱られたことの2点ぐらいしか記憶にないが、ともかく暑さは恐ろしいということを印象付けた事件だった。

この日射病事件以来、私は暑さにすこぶる弱くなった、と思う。
外で遊ぶと暑いときはすぐに疲れるし、飲み物、とりわけを水分をがぶ飲みしてはだるさが増し、夏はすっかり苦手な季節になってしまったのであった。

これに転機が訪れるのが30代になってから。
夏の暑さにバテにくくなり、ついに今日に至っては38℃の猛烈な暑さの中自転車でロングライドに出かけてもとりあえずへっちゃらな体質に変化したのだ。
そのきっかけとは、東南アジア旅行。
主にタイを訪れるようになってからだった。
それもGW明けの5月から6月を狙っての旅行が思わぬ効果をもたらしたのだ。

タイの5月は暑い。
6月も暑い。
年がら年中、暑い。
とりわけ首都バンコクはシンガポールに住んでいる日本人が遊びにやってきても、
「暑いな〜ここ、たまらんわ」
というぐらい暑い。
この暑い季節を狙って私はタイを旅するようになったのではなく、単にGWを過ぎると航空券が安くなるからであって、他意は無いのだった。
この1年でも最も暑い季節にタイへ行って街歩きを楽しみ、屋台を楽しみ、路線バスに乗って迷子になっては楽しんだ結果、暑さ慣れをするようになった。

つまり日本ではまだ梅雨前のさして暑くない季節にタイへ行って思いっきりの暑さを体験してフラフラになって戻ってくると梅雨末期から始まる日本国内の暑さに順応して、従来のようなバテバテ体質が改善することとなった。
水分がぶ飲みで腹を下すというようなことも少なくなり、暑いのに元気、みたいな体質に生まれ変わったのだった。

熱中症を防ぐには暑さに順応する生活をする必要がある。
というようなことを最近テレビなんかで専門家が語っているのを時々耳にするが、大いに賛成だ。
私の東南アジアの旅で得た夏前旅行の効果を考えると、まさにその通りだと思うのだ。
で、タイへ行きたい!と言っても、そんな暇ないと言われる現在の我が家なのだ。


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今年のように突然季節を飛び越え暑くなると身体が慣れていないため熱中症を発症したり、バテたり、冷たいものを飲みすぎて腹を下したりしてしまう。

私の住む大阪の夏は南国から来た人が「大阪は暑すぎる」と汗をたらたら流しながら褒めてくれるほど過酷でもある。
子供の頃は熱射病を体験するまでは暑さなどへっちゃらで屋外で遊びまくっていたものだが、あの時以降、暑さに弱くなってしまった。

しかし、子供の頃に農作業で鍛えたという親よりも少しは暑さに強かったと思えるのは小学校5年生の夏休みに奈良ドリームランドに連れて行ってもらった時、親は「暑い、暑い、休もう〜」とばかり言っていたのに、私は元気ハツラツで色々なアトラクションに夢中になっていたことがあった。
帰宅して天気予報で、
「今日の奈良の最高気温は38℃でした」
というのを聞いて、38℃は大した事あれへんなと思ったものだ。

ただ年齢とともに暑さには忍耐が必要になるようで、社会人になってからは夏の営業周り、現場立会は苦痛になるようになった。

30代後半。
その暑さに耐性ができるようになった。
何が起こったかというと、GWは働いて、その直後に休みを取得して東南アジアを旅行するようになってから、暑さをさほど厳しいと感じなくなった。

5月から6月のタイのバンコクはすこぶる暑い。
この街は一年を通してず〜〜〜〜〜〜〜〜っと暑いのだが、とりわけ4月から7月頃が一番蒸し暑い。
この街をバックパック旅行で訪れて日中ぶらぶらするだけで暑さに耐性ができてくるのだ。
私がしょっちゅう訪れていた頃は地下鉄はまだなく、開通したばかりのスカイトレインも路線が短い。
畢竟、観光地の見学や市場への買い物にはトゥクトゥクか徒歩、ということになる。
このうち徒歩がかなり厳しい。
夜、飲みに行くためにホテルからシーロムやスクンビット通りの盛り場に出るだけで暑くてしかたない。
しかしせっかく旅行に来ているのだからと外出してレストランや屋台で飲食する。
それでも慣れてくるとあまりに暑いのでホテルの近所のコンビニでビールなりおやつなりを買い求め、屋台で買ったガイヤーンなどを主食にホテルの自室でテレビを見ながら夕食を取るということも少なくなくなってしまった。
これでは単なる出張と同じではないか、と思ったりしたが暑いので出歩くのが面倒になることもあった。

ところがこの暑さ。
日本が本格的に夏を迎える前に東南アジアの酷暑をたとえ4日間でも体験すると暑さに免疫がでるのだろうか。
帰ってきてから暑さだがなんともなくなってしまうのだった。

暑さは慣れ。

コロナで海外旅行はまだまざ難しいけれども、本格的に夏を迎える前に暑いところへ出かけるのは健康のために良いのは間違いない。


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北朝鮮の金正恩がトランプ大統領との首脳会談でスイートルームに泊まりがっているという。
シンガポールのホテル、そのお値段。
1泊65万円也。

この費用をどうするかに注目が集まっているが、それを関係国に出してもらおうというのが北朝鮮の腹積もりらしい。
この国は恥も外聞もプライドもないのか。
核兵器開発する金があるのなら、自腹で泊まれと誰もが思う。
まったくもって前代未聞の要求だ。

そんなにお金がないのであればドミトリーに泊まればいいのではないか。
シンガポールのドミトリーはバンコクのカオサンにあるドミトリーよりは割高かも知れないが1泊3000円程度/1人ベッドで滞在することが可能だ。
随行人数が100人いても30万円。
高級ホテルに1人滞在する費用の半分で、たぶん自国の関係者全員が宿泊できる。
きっと建物ごとドミトリーを借り切ることも可能だから、恥は最小限に留めることができる。

尤も、それもオンボロ専用機が平壌からシンガポールに無事に着いての話。
ドミトリーならキャンセル料がいらないところもあるので、そのほうが効率的ということもできそうだ。

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海外旅行の行き先と言えばほとんどがアジアの私。
タイにミャンマー、ベトナム、シンガポール、台湾、マレーシア、ラオス。
台湾を除くといずれも東南アジアの国ばかりだ。
「中国とか韓国、香港には行ったことはないんですか?」
と訊かれることがある。
その都度、
「ありません」
と即答している。
「どうして?」
と続いて訊かれると、
「行きたくないから」
と、これも答えることにしている。

しかし実は韓国の金浦空港にだけは一度だけ降り立ったことがある。
たしか1988年初めのこと。
私はロサンゼルスへ向かうため途中金浦空港でトランジットしたのであった。
つまり何を考えたのか大韓航空機を利用してしまったのだ。

大韓航空機。
あのピーナッツ娘で有名な韓国の航空会社だ。
なぜ大韓航空機を利用したのかというと安かったから。
理由はただそれだけ。
当時は大阪出発の国際線といえば関西空港が無かったので伊丹空港から。
大阪伊丹からの北米路線はサンフランシスコ行きがあるだけで、他はすべて成田経由。
成田を経由するのもソウルを経由するのも大阪からであれば時間も手間もさして変わらない。
しかも航空券がより安いとなれば、とソウルを選んだ。

ところが航空券を買ってから大変な事態が発生した。
北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾で大韓航空機が爆破墜落させられたのだ。
ミャンマー上空で炸裂した機体はアンダマン海に散逸した。
実に出発数ヶ月前のことであった。

家では急遽、家族会議が開かれた。
乗るべきが乗らざるべきか、というやつである。
散々悩んだものの何度も何度も続けて爆破されることは無いだろう、と言う「爆弾の落ちた場所に再び爆弾が落ちる確率はかなり低い」と同じ論理で結論に至った。
つまり予定通り搭乗した。

今も昔も直行便ではなく乗り継ぎは非常に面倒くさい。
電車の乗り継ぎと異なり、飛行機の乗り継ぎは数時間待たなければならない。
この時は3時間ほど待たされた。
金浦空港内ではすることもない。
初めての場所なので落ち着いて読書をする感覚もない。
仕方がないので売店でビールを買って飲むことにした。
多少酔っ払うと、リラックスできると思ったのだ。
店へ行くとカウンターの中で若い男と女の店員が笑いながら話をしていた。

「ビールください」

と私が英語で頼むと、二人の表情から笑顔が消えた。
なんじゃこれは、と思った。

「ビール、1杯ください」
「?」
「ビール」

返事もせずに男の店員がビールを紙コップに注ぎ、グラスを「トンッ!」と置いた。
なんとも無愛想である。
日本では考えられない態度だ。

「いくら?」
「.......(看板を指差す).....」

今の私ならビールカップも受け取らない代わりに、金も払わず立ち去るところだが、この時は指された金額を払ってむかっ腹立てながらカップを持ってを立ち去ったのであった。
尤も、今の私ならそもそも大韓航空やアシアナ航空には乗らない。

この韓国人のスタッフの無愛想は大韓航空機内でも同じであった。
客室乗務員は笑わない。
笑顔も見せない。
隣に座った韓国人ビジネスマンは無愛想ではなかったのだが、客室乗務員が軒並み無愛想なのであった。
私は韓国人の無愛想は文化なのかも知れない、と思ったのだが、白人の客に対しては愛想よくしているので、文化ではなく性格なのだと確信した。
以来、こんなエアライン誰が乗るもんかい!と利用する気持ちが起こったことすらない。

今日、在韓国の日本大使と領事が一時帰国したことが大きな話題になっている。
慰安婦像なる売春婦像の設置に対する日本政府の抗議の表れだ。
今回の件と、30年近く前の無愛想さを思い出して考え合わせると、一時帰国ではなく、もう向こうに戻る必要はないのではないか、と思えるのだ。

はなはだ厄介で異質で、相変わらず無愛想な隣人である。

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海外を旅すると、親切な人が多いことに驚かさせられる。

ある日のこと、バンコクから日帰りでアユタヤを訪れた。
ホアランポーン駅から早朝の各駅停車に乗ってアユタヤで下車。
とりあえずトゥクトゥクをひろって価格交渉してから遺跡の多い旧市街を回った。
あちらの遺跡、こちらの遺跡と回ってから最後に日本人町跡を訪れたところでトゥクトゥクで下車。

「あとは駅まで歩いて帰るからいいよ。コープクンカップ。」

とタイ語会話のテキストを使いながら下手くそなタイ語で言った。

戦国時代にあったとされる日本人町はアユタヤの旧市街の中でもかなりのはずれにある。
地図で見ていたら駅までさして遠くはないのだが、実際に歩いて戻るとなるとかなりの距離があった。
しかしいつも東南アジアを旅すると日本でのイライラ、ドキドキ、早く早く、といういつも仕事に追いかけられているような感覚が失われ、ゆっくりな足取りながら歩くことが苦にならない。
なぜか言い知れぬ開放感がある。
とはいえそこは熱帯のタイ。
暑さは尋常ではない。
尋常ではないが、尋常ではない灼熱の夏を持つ大阪人の私としては「タイは年中真夏の大阪」という感覚もあり歩けないことはなかった。
でも辛い。
そんななかホンダのスーパーカブに乗った普通の兄ちゃんが私を通り過ぎた瞬間停車した。
振り向いて一言。

「ドコイクの?」

と下手くそな英語で訊ねてきた。
こっちも負けずに下手くそなタイ語で、
「駅まで行く。クンクイーイパイ.....(「私は行きたい」の次に駅という単語が出てこない)....ステーション。」
と答えた。答えたものの、どうするものか少し考えた。
私はてっきり白バイクタクシーかと思っていたのだ。
ところが違った。
「暑いよ」
と言ったのは私ではなくお兄さんであった。
暑いから歩いて駅に行くのは危険だ。だからよかったら乗せてあげる。
というのだ。
私は歩くのはともかく暑いなと思っていたので「ありがたや」と乗せてもらうことにした。
アユタヤ駅でおろしてもらい礼を言ったらお兄さんはにっこり笑ってそのまま立ち去ったのであった。
このような「乗りなよ。送ってあげる」パターンはこの他にもタイのスコタイ遺跡、ベトナムでも体験した。

親切な人のパターンはほかにもある。
タイでもベトナムでもバス停で待っていたら、誰彼なしに話しかけられ、
「あのバスに乗るんですよ!」
と何行きに乗れば良いのか少々不安な私を助けてくれたことも一度や二度ではない。
こういう親切はアジアだけではない。
アメリカ合衆国もまた、そのような親切な人は少なくない。

シカゴの郡役所の近く(ブルースブラザーズのクライマックスに出てくる建物)で道に迷って地球の歩き方を持ってうろついていると、
「大丈夫?こっちが東でこっちが西よ。どこから来たの?ハハハ」
と見ず知らずの黒人のおばちゃんが声をかけてくれて丁寧に教えてくれた。
ロサンゼルスのチャイニーズシアター近くでは白人の初老のおじさんに同じように声をかけられ道を押してもらった経験もある。
但しその時は高校生だったので英語がまったくわからず理解するのにメチャクチャ手間取った。

このように洋の東西を問わず、親切な人はたくさんいるのだが、悲しいことに100人に1人と言っていいかどうかはわからないが、非常に少ない割合で「悪いやつ」がいる。
その悪いやつのために旅は台無しになり、時として犯罪に巻き込まれ命を落とす人もいるのだ。
だから私たちは100人に1人のために防御し、初対面の時として相手を疑ってかからなければならない。

バングラディシュでテロが発生した。
またしてもその国の発展のために尽力している人びとが犠牲になった。
テロリストは100人に1人より少ないに違いない。
それでも一旦事が起こってしまったら人びとはその国に足を運ぶことを躊躇し、或いは忌み嫌うことになるのかも知れない。
たぶん、最貧国のバングラディッシュでも良い人のほうが圧倒的に大いに違いない。
その人達のこと、それを援助しようという人たちのことを考えると、悪人が100人に1人が、10000人に1人になり、やがて天然痘のように撲滅される日が来ることを願ってやまないのであった。


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戦前、大阪府下に都市といえる街は3つしかなかった。
それは大阪市と堺市と岸和田市。
阪急沿線や近鉄沿線、京阪沿線の主要都市・豊中市や吹田市、東大阪市や枚方市は「都市」というカテゴリーにはまったく入らず、「町」「村」のひとつ。
池田市なんか落語の「池田の猪買い」に猪狩りの描写がでてくるような田舎だった。

と、教えてくれたのはある郷土史家の先生。
先生は南大阪が繁栄した時代を中心に研究している元高校の社会化教師。
南大阪のかつての繁栄と今後のありかたを滔々と語った。

で、私はというとこの話を聞いて、なるほどと思った。

大阪南部はかつて繊維業で栄得ていた。
なんといってもこのエリアからは今も存在する世界的な繊維会社が誕生したのだ。
南海電車は現在も営業を続けている日本最古の私鉄だが、ここがなぜ他の地域に先んじて営業を開始したのか、近代史を紐解けばよく分かるのであった。
なるほど南海沿線には帝塚山や羽衣など、芦屋に負けない豪邸エリアが今も残っているのは、道理なのだ。

それから半世紀。
歴史は流れた。

南海電車は関西私鉄で最も地味な存在になってしまった。
南大阪の繊維産業は中国や東南アジアの台頭で没落。
電車が結んでいるネットワークの大都市も大阪と和歌山では話にならない。
大阪はともかく、和歌山は農業主体の自治体だし、和歌山市の大手企業は住金と花王の工場ぐらいしか見当たらない。

今や関西の私鉄といえば、なんといっても阪急阪神。
もはや日本最大の私鉄グループだ。
大阪、京都、神戸の三大都市をネットワークで結んでいることはもちろんのこと、傘下には百貨店やスーパーマーケット、映画、歌劇にプロ野球よいうエンタテーメントを抱えている。
創業者の小林一三は関西を代表する起業家の一人に讃えられ、今も様々な催し物で、その名前を耳にすることができるのだ。

一方、南海電鉄。
往時の重量路線としての姿はどこへやら。
プロ野球球団は20年以上も前に売り渡し、直営の百貨店やスーパーマーケットは無いに等しい。
かつてはボロボロの電車が走っていた国鉄と比較して、「綺麗で乗り心地のいい私鉄」というイメージも今は逆転。
最新車両の走るJRと比較して、国鉄時代に比較して良かった車両が今も走っている、というのが現状だ。

向こう10年間で沿線の人口減で利用者が30万人減少する。

南海電鉄は経営の試練さえ迎えている。
なんとかしなければ大変なことになってしまう。
などと思っていたところに先週の日経記事。

大手私鉄が軒並み減収減益なのに、南海電鉄だけは二桁アップ。
いわずもがなの外国人観光客を中心としする観光客の利用者アップがこの数字をたたき出している。
南海電車は関西空港へのアクセス路線の1つなのだ・
関空を利用する客がそのまま南海電車にドドッと流れ、利用者減を反転させた、というのが構図らしい。
というところだが、

「じゃあ、南海がそれだけ伸びるんだったら京急や京成も伸びてるんでしょ」

と指摘されると、こっちの首都圏の空港アクセス私鉄はどちらも減益。

いったいぜんたい関西の南海電車の一人勝ちは何に支えられているのか。
関西の景気回復は本当か?
外国人観光客はまだまだ増えるのか?
USJのハリーポッター効果はいつまで続く?
このヘンを分析すると、関西だけではなく日本の景気の持続についての解答がひとつ見えてくるような気がするのだが、どうだろう。


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ソ連崩壊の第一ステップになった事件は「大韓航空機撃墜事件」だったという。

当時、大韓航空機をソビエトのミグ戦闘機が撃ち落としてしまったというニュースを聞いたブレジネフだったか他の人だったかは忘れてしまったが、ソ連の指導者は愕然としてしまい、事の重大さに言葉を発することもできなかったという。
この事件はソビエトの社会体制の問題点を大きく露呈し、この後、ゴルバチョフを中心に大改革をおこなっていくが、時すでに遅し。
世界地図からソビエト連邦が消え去ることになった。

ウクライナ上空のマレーシア航空撃墜事件は、この大韓航空機の事件を思い出さるに十分な悲劇であった。
激化する国内紛争。
ロシアが扇動しているのは明らかだが、誰も手出しはできていない。
戦闘が頻発し、国際機関も大勢の人々が注目し、戦闘を辞めさせようと努力をしているが、その結果が関係ない民間航空機の撃墜ではいかようにも表現のしようがない。

半世紀前なら、きっと武力で鎮圧する方向へ動いていたかもしれない。
いや、もしロシアが介在していなければ、NATOの武力などで鎮圧されていただろう。
ボスニア紛争のように。
しかし、今はどの国も他国のために血を流したくないのは言うまでもなく、ましてそこにロシアの介入があるとなるとなおさらである。

今回の事件は罪のなすりつけ合いをするのではなく、旅客機を撃墜してしまったことを素直に認め、紛争を中断し、犠牲者とその家族に対して何らかの倍賞や援助を名乗りでることが最善の策であり、それがまた戦闘時における人道ではないだろうか。
ともすれば、それが対立する双方の和解への道に発展することもあり、もしそういうことになれば犠牲者の魂も多少は慰められることになるだろう。

それとも、これはあらたな歴史の終焉への始まりなるのか。






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ミャンマーでは、タクシーは外国人が利用できるものと、そうでないものにわかれていた。
当然のことながらミャンマーでは私は外国人なので、外国人の乗れるように認可されたタクシーに乗らなければならなかった。
急激な民主化が始まってから私はまだ一度も出かけていないのでわからないのだが、少なくとも軍政時代はそうなのであった。
外国人を乗せてもいいタクシーはナンバーが黒。
そうでないのは白。
白タクがあるかどうかは分からないが、軍政時代のミャンマーではあまり違法なことをすると面倒なことになるかも知れないと思い、ルールに則った規則正しく礼儀にかなった旅スタイルを厳守したのであった。

ヤンゴンやマンダーのような大きな街はともかく、田舎へでかけるとチャーターしていないとタクシーがない場合がある。
カローという街の秋祭りへ出かけた時は昼間歩き回ったこともあってかなり疲れていた。
カローの祭は各村々が自分たちで作った打ち合わげ花火をお寺に持込み順番に点火して、その暴発ぶりを競う結構乱暴な祭で、それはそれで非常に面白い。
このカローの祭は”地球の歩き方”にも掲載されておらず、たまたまカローを初めて訪れた際に遭遇したわけだが、疲れていても観るだけの価値はある素朴だが、面白い祭なのだ。
私のカローでのホテルはカローホテルという英国風の瀟洒な建物が印象的な素敵なホテルだ。
第二次世界大戦中ではこの地域における日本軍の司令部が置かれていた場所でもあった。
建物はその当時のまま。
カローそのものにも一時はかなりの日本人将兵が滞在していたという。
初めて訪れた時に、そんなことを知ったものだからこの街がすっかりお気に入りになってしまったのであった。

で、いざ祭の晩になったら疲れてホテルに歩いて戻るのが極端に億劫になってしまったことがあった。
祭の会場になっているお寺からホテルまでは歩いて20分ほどかかる。
祭は面白かったのだが、クタクタだし、早くホテルに戻ってビールでも飲みたいと思ったのだ。
カローのような田舎町で流しのタクシーを見つけるのは容易ではない。
日本でも田舎では流しのタクシーなんてほとんどいない。
ましてやミャンマーである。
タクシーそのものが無かったりなんかする。

そこで目をつけたのが馬車なのであった。

ミャンマーでは田舎の街に行くと乗合馬車が活躍している。
タイの田舎行くとソンテウが主な乗り物になるが、ミャンマーではガソリンの入手が難しいことからか、コストの問題か、馬車が主力となる。
カローでも馬車が活躍していて祭の会場の近くで客待ちをしているらしい馬車を捕まえて、
「ホテルまで行ってくれるのか?」
と、ガイドさんを通じて聞いてみた。
他の国での滞在のように自分自身でではなく、ミャンマーではガイドさんをお願いしていたのだった。

なぜミャンマーではガイドさんをお願いするようになったのか。
その理由はまた別の機会にということにして、ガイドさんを通じて運転手ならぬ馬車の御者に尋ねたところ○○チャットで行ってくれるということなので、馬車を使うことにしたのだった。
馬車に外国人認可もくそったれもないのかもしれない。
ちなみに馬はウンコたれなのであった。

何度も馬車は見てきたが、乗るのは初めてだった。
まず乗り方がよくわからない。
後ろから乗るのは分かるのだが、トラックの荷台のような乗車位置で、屋根になる幌もかなり低く、荷台によじ登り這いつくばらなければならない感じだ。
小柄なミャンマーの人たちはいいけれども、日本人の中でもどちらかというとデカイほうの私はかなり、乗りにくい。

「なにしてんるんですか。馬車に乗れませんか(笑)」

などとガイドさんに誂われながらも、なんとか乗って座席に腰をかけた。
見かけよりも狭く感じたが、それは幌が低くて景色がよくみえなかったためでもあった。
馬車に乗って景色を楽しむのは結構難しそうだ。
尤もこの時は夜だったこともあり、そんなことはどうでもよかったのだが、やはり、馬車はなかなか風情があった。

走りだすとパカパカパカパカという蹄の音が嬉しい。
静かだ。
ミャンマーでは馬も小柄だが、さすがに力持ちと見えて、軽快に走って行く。
自動車と違ってエンジン音はないし、スピードはゆっくりなので快適だ。

そうこうしているうちにホテルに到着。
自動車のタクシーと違うのは、馬車は生き物が引っ張って動いているので、なんとなく馬に対しても「ありがとう」という気持ちが生まれてくることなのであった。

電気自動車リーフもエコでいい。
プリウスもしかり。
でも、馬のエコと、生身の動物という生きとし生けるものに対する感謝と親しみまでは生まれない。

馬車は究極のタクシーなのかもしれないと、今思うのであった。

海外のタクシーは実に様々。
肝心なことは事故よりも事件に巻き込まれないようにすることが重要なのだ。

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海外のタクシーといえば「自動車」に限ったものでない。
シクロや馬車、などといってものもタクシーに分類してもいいのかもしれない。

タイのトゥクトゥクを初めて利用した時はいささか勝手がわからず戸惑ったものだが、トゥクトゥクにしても屋根に「TAXI」と表示されていることが多いので、あれもタクシーの一種と思えば何ら問題はない。
問題はメーターがついていなくて価格を交渉しなければならない、というところに問題がある。

タイはすでに途上国とは言いがたい経済力を持ってきているが、田舎へ行くとまだまだでタクシーが走っていない、または見つけにくところもある。
初めてロッブリーというところへ出かけた時は、シクロを使おうか、それとも歩こうか大いに悩んだものであった。

国鉄のロッブリー駅を下車するとタイの田舎の駅らしくとっても殺風景で、駅舎の前にはタクシーなんぞはおりわせず、客待ちをしているシクロのお兄さん、おじさんたちが列を無して屯していた。
列車を降りた乗客は非常に少なく、観光客らしき客は私ぐらいしか見当たらないくらい寂しいところなのであった。
駅前に屯していたシクロの運転手たちが一斉に私を見つめたのは言うまでもない。

「お、これは、やばい」

数人がシクロを引きながら私に近寄ってくるのが目にとまった。
ガイドブックによると、ロッブリーの街はそんなに大きくないので徒歩で全てを見て回ることができると思われた。
地図を見る限りはせいぜい2km四方に観るべき観光スポットは点在している。
17世紀にお城があったいう遺跡、クメール時代の寺院跡、などだ。
最も見たいところはもちろんクメール時代の遺跡跡。
ガイドブックを観る限り、アンコールワットを小さくしたようなその独特の形状が私の心を誘ったのであった。
ところが、アンコールワットに似たクメール寺院跡は駅からすぐのところにあり、しかも鉄道沿いの大通りの踏切角にあるという。

こんなんでシクロを使うのはずいぶんと非経済的だと思った。

案の定シクロの運転手たちは私に近寄ってきて「乗らないか」というような手振り素振りで話しかけてきた。
この頃の私は、というか今もそうだがタイ語は、
「高い」
「安い」
「バス停はどこですか?」
「バス停へ行きたいのですが」
「私の名前は○○です。」
「君綺麗だね」
ぐらいのことしか言えないのだ。
したがってシクロンの運転手をやり過ごすには「指差し会話帳」しか武器はなかったのだ。
で、指差し会話帳タイ編のページをめくると、やはりいたれりつくせり。

「歩いて行くからいいや」

というのが載っているではないか。
わたしはすかさず、そのページのその部分を指さして運転手たちに見せた。
その部分には日本語と英語、そしてタイ語が書かれていて運転手たちはすぐに内容を理解し、非常に残念そうに諦めてくれたのであった。
諦めてくれなかったのはベトナムのシクロなのであったが、それはまた別の機会。

今考えてもシクロぐらい価格交渉をして使ってあげれば良かったと思う。
というのも、シクロの料金などたかが知れており、ましてや私はバックパッカーとは言いながら日本人。
タイの人たちと収入が違い、できれば利用してあげて彼らの生活の少しでも足しになれば良かったと、少々悔いるものがある。
なお、悔いがないのはベトナムのシクロであったが、クドイようだが別の機会。

結局私はロッブリーの街をウロウロしたのは良かったものの、暑くて暑くて、ちょうど市場のすぐそばにあったミスタードーナツの店に入って、

「なんで……ロッブリーでミスドに入ってしもたんかな」

と考えながら、コーラと原色ギドギドのドーナツを食べ、

「そうだ、バイクタクシーに乗ろう。さっきそこの市場の前で見たし」

と結論してしまったのであった。
それならシクロを使えばよかったものを、ミスドから出た私はバイクタクーの運転手に指差し会話帳とガイドブックの写真を示しながら、

「クメールの遺跡に行ってから、バスターミナルに行ってちょうだい」

とお願いしたのであった。
来る時はバンコクから列車に乗ったのだが、帰りはさっさと帰りたかったのでバスを利用することにしたのだった。

つづく

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海外でタクシーに乗るはそれ以外の公共交通がなかなか使いにくいからでもある。
これは海外に限らず、日本国内でも同じ。
初めて訪れた地方都市でJRの駅や空港から目的地に行くのは容易ではない。

かつて営業職をしていたとき、度々沖縄や鳥取、島根を訪れた。
なぜそんな離れたポイントが私の担当エリアだったからだ。
実は沖縄県と山陰地方は近畿地方ではないけれども大阪からサポートするのが便利なところでもあるのだ、
その理由はさておいて、いずれも那覇空港や鳥取駅、米子駅、松江駅に着いてからの移動が他所から来た者にとって大変なところだ。
沖縄は今でこそモノレールが走っているが、初めて訪れた時は国際通りへ行くのもままならなかった。
したがって安直なところでタクシーを使った。
目的地まではタクシーで行き、空港や駅へは乗合バスを利用する。
なぜなら帰りはバス停がどこにあるのかさえわかれば、たいてい行き先は駅や空港などのターミナルであるからだ。

タクシーを使わずに始めったから路線バスを利用して移動したのは東京。
東京は比較的わかりやすく、ネットで路線を調べるとたいてい何処かまでは移動することができる。
現在私の定宿となっている台東区内とあるビジネスホテルは電車で行くには少々不便だが、都バスで移動するとバス停がほぼホテルの前にあるのだ。
海外では台湾で迷わずに路線バスを利用することができた。
これは台湾の路線バスのシステムがただ一点を除き日本と全く同じであることに理由がある。
違う一点とは、道路が右側通行であるために乗り方が逆なのである。
行き先表示は中国のような簡体字ではなく、正漢字。
したがって日本人の私にも難なく読める。
これ一点をとっただけでも台湾は中国の一部ではない。
後は整理券を取って乗り込み、降りたいところでブザーを押し、お金を払って降りるだけ。
運転席横の表示器も日本のそれと全く同じであり、迷うことがない。
むしろ台湾を中国の一部と主張する人たちに「ここは日本です」と言いたくなるくらい非日常感がないのだ。

これで私は地下鉄の駅から故宮博物館や深坑へ豆腐なんぞを食べにでかけたのだが、ちっとも迷うことがなく、そのことに大いに感動したのであった。

シカゴのバスも1回しか乗らなかったが迷うことがなかった。
街の中心部からプロアイスホッケーのシカゴ・ブラックホークスの本拠地ユナイテッドセンターまでの往復であった。
アメリカの路線バスは物騒ではないかと少々気にしたのだが、そんな心配は全くいらず、行きも帰りも実に快適に移動することができた。

この台湾とアメリカの事例の共通点は字が読めることであった。
ついでに言えば、言葉も意思疎通がかなりできるということも重用なポイントだろう。
アメリカは英語で、まま通じるし、台湾は驚くこともないかもしれないが、困っときにはなぜか日本語を話せる人が老若男女かかわらずどこらともなく現れるという、特徴があるようだ。

つづく



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