萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

本篇閑話:等身大×Tyche→幸運の引力 about Aesculapious 「Mouseion」

2014-05-22 23:12:00 | 解説:人物設定
Tyche、命の可能性



本篇閑話:等身大×Tyche→幸運の引力 about Aesculapious 「Mouseion」

ちょっとドウなんだって想ったコトから閑話します、笑

いま新聞とってないからWEBでニュース&テレビ欄チェックするんですけど、YAHOOテレビ欄に感想の多い番組一覧ってあって、
ソレに放送終了2ヶ月になろうってヤツのが未だにヤタラ投稿されてるもんだから不思議で見てみたんですけど、
評価の星数が 5or1 しかない、最高or最低しかないってナンだろ思って幾つか読んでみたら、
俳優擁護or大絶賛=5、内容疑問視=1 ってカンジでした。

このドラマ自分は観ていません、番宣CMにギモン+設定ちょっと非現実的だなって思ったんで。
傲慢だけど自分が書いてる題材と被るヤツで勉強になりそうなかったら観ないです、ディスりたくなるから、笑
それでも感想5も1も数件なるべく冷静そうなの読んでみたんですけど、自分は観なくて正解だなって感想になりました、
もしこのドラマのファンの人ココにいても感想星5の人達みたいに気を悪くしないで下さいね?
観たくないのも率直な感性だから仕方ないモンなんです、笑

なぜ観なくて正解だったか?っていうと自分は友人とホーキング博士が好きだからです、笑

たぶん該当ドラマの脚本家はホーキング博士を知らないor解ってない人なんだろなって思います、
そして医学や命の期限に対する敬意や現実を理解する意志が弱い、あまりに安易で無知だなと。
知っていたならああいうストーリー&演出は書かない、個々の尊厳を考えたなら。

対等な敬意と安易な同情は似ているようで正反対、どちらが差別で侮蔑なのか?
それを理解しないと障害者を描くことは難しいです、現実リアルでも友人になることすら出来ません、
ソウイウコトって身近から経験していないと難しいのかもしれないんですけど、対等な人間って考えたら理解すぐ出来る事です。

たとえば聾唖の学生がバスに割り込んで当り前の貌する、ってマジであります。
横入りする本人も「自分ら障害者で可哀相だから特別扱いしてね」って特別扱い=差別を望むってコトなんですよね、
そういうの見て「可哀想だから仕方ない」って言う人もいます、それで席を譲ってあげれば親切な善人って言われたりもします。
でも、彼らは聾唖=聴覚と言語障害はあるけれど立ってバスに乗る体力は平均能力があり、横入りNGだと理解する脳もある。
立ってバスに乗る脚力+思考能力はナンの異常もない、健常者と対等で若い元気な体力がある、
それなのに譲ることはホントに「仕方ない」ことなのか?

人間って弱者を同情することで「自分はマシだ」って自己満足するトコある生きモンです、
誰か「可哀想だから仕方ない」相手を作ってソレを援ける自分の姿を美しいものに讃えたい、っていう心理。
相手を弱者に貶めることで自分を強者とする、そういう自己満足が「可哀想だから仕方ない」免罪符にあるんだろなって思います、
ようするに偽善者の正当化ってやつだろなと。

そんな一方で、半身不随でも身なりキチンと自分で整える人もいます。
自由になる片方だけの手で器用に髪をとかして髭剃って服もオシャレです。
パソコンと本に囲まれて静養生活してる人なんですけど、笑って教えてくれました。

「不自由だからこそ自分の力で出来ること一つずつが喜びだよ?どんなに小さなことでも、自力で出来るって事がプライドなんだ、」

その人は病気で不随になったので自由な過去があります、優秀と言われるビジネスマンで世界を歩いてきた人です。
優れた人ほど努力を積んだ時間があります、だからこそ不自由になった絶望は大きい、悔しくないはずがない。
それでも現実の等身大「自力で出来る」プライドに残された身体機能と時間に笑っています。

ひとつの人格として認める、そこには率直な賞賛と叱咤の両方が必ず生まれます。
それは身障者でも難病患者でもサッカー選手でもドッカの社長でも、不細工でも美形でも、誰でも同じ。
そういう「同じ」っていう観点から考えた時、持っている能力や性格や命の期限も冷静な敬意をもって見ることが出来るかなと。
こういう観点は相手に対しても自分自身に対しても欲しいトコです、

で、上に書いた「自分は友人とホーキング博士が好きだから」の件なんですけど、

友人で医者を目指してたヤツがいます、
模試も国立医大の合格判定が常連、でも進学先は文系学部でした。
なんで医学部に行かなかったかと言うと赤緑色盲が発覚したからです。

高校の授業で絵を描いた時に緑と赤を逆に塗って、それで色盲が発覚したそうです。
彼の場合、赤は緑の濃色に見えるために判別が出来ます、だから色盲に周囲も気づきませんでした。
ずっと子供の頃から医者になりたくて努力して、県下一番って進学校に進んで、でも障害は受験前に発覚しました。
赤緑色盲なら受容れてくれる医科大学もあります、けれど彼は色盲が解かってから文系へ転向して志望校も変えました。

「色で見間違えて患者さんを傷つけたら医学の本分に反するだろ?自己満で医者になったら医学と命への冒涜だって想うんだ、別の道でも仁術は出来るし、」

そんなふうに彼は笑って話してくれました、
だけど諦めると決断した夜は朝まで泣いたそうです、小さい頃から努力してきた夢だから。
ずっとプライド懸けて追いかけていた夢を諦めるなら、悔しくて泣きたくて当り前、辛くないはずがない。
それでも本気で医学を志してきたからこそ諦めて、そして新しい道を選んだ彼の有言実行はホントの「仁術」だなって思います、

医学は仁術=命と心を救うこと、って言うんだそうです。

で、文系転向した彼は教員免許を取り、卒論代表を務め、教師になって今けっこう偉くなってます、笑
大学時代から家庭教師をして不登校の子も教えたりしてたんですけど、その生徒サンたちも進学校合格→通学楽しんでるそうです。
そうやって彼は教育の世界で仁術して生きてます、こんな今は彼が夢見た道と違うけど、それでも彼の医学に見つめた世界と繋がってるなと。

なんていう人たちに思うのは障害=免罪符ではなく、個性&能力度合だと客観的に考えられる人はカッコいいなってコトです。

「理論物理学を選んだ点でも私は幸運だった、理論は全て頭の中のことだからである。そのために、私の障害も大きなハンディキャップにはなっていない」

これ↑スティーブン・W・ホーキング博士の言葉から引用です。

この先生の話を初めて聴いたのは子供の頃、宇宙物理学についてのテレビ番組です、
ブラックホールや宇宙の膨張なんかを話してくれたと思うんですけど、面白くて解りやすかったんで好きになりました、
そのとき車椅子に座っておられたので不思議で、なんでかなって思ってたら病気のためだと後で新聞かナンカで知りました。
普通なら発病5年以内に死亡する難病、だけどホーキング博士は途中から病状進行が遅くなり五十年が経っているそうです。
そして博士は今も研究を続けています、その滅びない好奇心+学ぶ謙虚な喜びと感謝は引用した言葉に明快だなって思います、

博士の言う「幸運」は謙虚で感謝いっぱいの言葉なんですよね、
だって病気で自分の選んだ道が歩めなくなったら辛い、で、博士の発病はオックスフォード大在学中です。
学生の頃から天才と言われて、けれど発病で体の自由を喪って、それでも「幸運」だと言った想いは現実への謙虚な等身大です。

体の自由は奪われて、言葉すら自力では伝えられなくて、けれど自分には頭だけで出来る学問がある。
この発想は「自力の現実的な最大限の選択」たぶん博士は体を遣わないとダメな分野だったら選ばなかったろうなと。
こういう真直ぐな視線は生きる天才で、そういう謙虚な喜びが5年の命を半世紀超えさせたコトは世界の意志だろなって思います。

Tyche 

テュケーって言葉があるんですけど、
ローマ神話なら「Fortuna」幸運の女神の名前で運命の廻りってカンジの意味です。
この言葉を西洋古典文学では日本の第一人者である久保正彰先生は「偶然と必然の廻り」って教えてくれました、

人間なら誰もに運命の出逢いがある、それは偶然のようで決められた必然である、

そんな意味なんですけど、この「出逢い」は「人が成すべき事」って感じの意味です、
例えば、久保先生は学界の用事で海外へ行かれた時になんとなく寄った古本屋で一冊の本に出逢いました、
その本から西洋古典文学に新しい事実が見つかって研究論文を書かれたんですけど、そのとき先生は還暦とっくに超えていました。
もう東京大学から定年退官されて新設の大学に赴任されてっていう時です、その尽きない学者の真直ぐな意志がカッコいいんですよね、笑

久保先生の「Tyche」とホーキング博士の「幸運」は似てるなって思います、

なにかが起きる、それが不運か幸運か?
その選択は自身の意志で決めること、そのとき自身の現実的能力=等身大の判断が幸運へと運命を定めていく。
そういう判断は感情論だけでは見誤る、与えられている現実への謙虚な冷静な意志が無かったら自己満足にしかならない。

「自分の能力と進路を見誤れば救える何かも壊すよ、それは命の冒涜だと僕は想う、」

Aesculapious「Mouseion」雅樹のセリフですが上に書いた現実譚から生まれた言葉です。
医者かつ教員×医学生の立場から弟と兄が対話していく「医学とは医者とは何ぞや?」のターンですけど、
平等的差別→個性能力の生かす場所と時間って話をしていますが、あれは友達の話がベースになった台詞です。

「障害を越えて医者になれば美談かもしれない、でも僕は医療の現場にそういうナルシズムは邪魔だって想ってる、ミスが赦されない世界だからね、
緻密な技術と判断力が命を支えられる、だから精神面でも肉体面でも障害者に医者の資格は無いと僕は想ってる、ナルシズムの医者なんて命の冒涜だ、」

「命に待ったは出来ない、その一瞬にしか援けられないよ。でも医者になるまで時間は懸る、治療しても予後のフォローが必要な症例もある。
そのときフォローする責任を最初から放棄することは命へ無責任すぎる、傲慢だよ?治療は一瞬の勝負だけど何十年続くものでもあるよ、」

もし障害者や余命短い学生から医者になりたいと言われたら、なんて答える?
そう現役医学生である兄・雅人からされた問われた雅樹の答えですがヤヤ過激ですけど、笑
この激しさは雅樹の医学に対する希望と葛藤の時間から産まれた生真面目で、弛まない自律の祈りです。

「障害者は医者になれないって言うと差別だって意見もあるよ、でも、医者が命を預かることを現実的に理解するなら差別も当然だと解るはずだ、
肉体の命は現実の重みに生きてる、理想で命は救けられない、だからキレイごとだけの人は医者に成れないよ?命に言訳も待ったも出来ないからね、」

医療過誤、

そんな言葉がありますが医療においてミスは死亡事故に直結します。
些細なミスが原因で死に至る現場です、そこでは自身の持ち場を厳守する緻密さが求められます。

この「緻密であること」に精神障害や身体障害が応えることが出来るのか?

その現実を雅樹は遭難事故から向き合い続けてきました、
そうして雅樹が口にする台詞はリアルの言葉、赤緑色盲の友達の話が原点です。
ふたり呑みながら話していたコト+彼の生き方に考えた現実の等身大たちから吉村雅樹という医師は生まれています。

「医学だけが命を支えているんじゃない、医者だけで人間を救えるんじゃないから人間はね、いろんな能力が必要だから個性も違うんだよ。
医者に不向きだから無能なわけじゃない、医学だけに拘って自分の能力と進路を見誤れば救える何かも壊すよ、それは命の冒涜だと僕は想う、」

「命の期限が短いからこそ、今このとき活かせる事をしてほしいよ?」

こんな台詞たちのベースをくれた友達は、きっと赤緑色盲じゃなかったら名医になったろなって思います。
けれど現実は赤緑色盲の障害が等身大の彼です、その等身大を真直ぐ向きあった果に彼は医者を諦めて教師になりました。
こういうの挫折だと安直に同情するヤツは阿呆です、彼が障害と向きあい泣いて諦めた経験はきっと教師として得難い資質だから、

そうやって考えると彼が高校時代に赤緑色盲を知ったことは彼の「Tyche」かもしれません、
辛いけれど悔しいけれど、だからこそ人に向きあえる彼の等身大は彼の生徒達には幸運だから、笑

偽善(4)・・ブログトーナメント



ドラマの話になったついでに去年と今期で面白いなってヤツは、
泣くなはらちゃん、隠蔽捜査、Dr.DMATの3話あたり以降、銀弐貫、死神くん、
個人的趣味だけどルーズベルトゲームは企業パワーゲーム×野球がベースなんで好きです、笑
弱くても勝てますは野球っていうよりヒューマンドラマですけど先週の話は今書いた「Tyche」と絡むなって観ました、
MOZUは録画を貯めてあります、映画っぽいつくりだと聞いたので一挙ぶっ通しで観ようかなと、笑

なんてカンジですけど挙げたの以外にも観ているし好きなのに書き忘れもあると思います、
わりと忘れっぽいトコもあるので、笑

いま第76話「霜雪6」校了しました、このあと雑談ぽいやつかなと、
明日はAesculapiousの続き+不定期連載の予定です、

深夜に取り急ぎ、




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本篇補記:変貌、霜月の色彩

2012-11-27 09:01:54 | 解説:人物設定
幻、うつろい不変へ 



本篇補記:霜月の色彩

写真はこのあいだの土曜日@御岳山です、ココンとこ奥多摩によく行っていますね。笑
朝霧に白くけぶる深山にうかんだ、彩色豊かな楓の一木です。
黄、朱、紅、うつろっていく楓の梢、その幹に紅一点あざやかな紅葉ひとつ。
この一枚に気付かず自分、撮影していました。で、帰ってきて見て、想定外な。驚
望遠レンズで撮っていると、コンナふうに気付かず撮影してたって自分はあります。

第58話「双壁」+secret talk11「建申月」が終わりました。
三大北壁のうち2つを廻る物語は14話と12話で合計26話、今まで最多の話数になります。
文字数で言うと「双壁」は12万文字ほど、「建申月」3万5千文字程で、合計15万文字超です。
ストーリー主幹は本篇・第58話「双壁」のみでOKですが、感情変化の細部を描くため短篇・secret talk11「建申月」を書きました。

分岐点のターンな為に長かったですね。笑
ふたつの北壁完登によって宮田と国村の立場と関係が公私とも変化するシーンでした。
ふたりは「山」が最大の絆です、その絆「山」を職場にしている故の立場と感情の変化が宮田・国村コンビのポイントです。
こうした公私を綯い合せて続く関係性は、社会的立場と公的生活を主とする男性同士ならではの特徴だと思います。
いまの日本社会の考え方として、男性は家庭を護るために社会に出るという選択肢が一般的で、性質的にも適合するケースが多い。
そうした現実に於いて同じ公的社会に所属する男同士が私的に深い関係を築く、そのリスクとメリットが宮田&国村コンビにあります。

ふたりの場合は警察組織と山岳界、2つの公的社会に於いてパートナーとして公認されています。
この公認がある故に2人の個人的感情と私的関係は、容認されやすい面と否認される面といった両極端の2面があります。
お互いに親友と認め合うことは当然、容認されます。けれど恋愛関係は不純交友のよう捉えられる現実が今の日本社会です。
そうした「常識」は時代によって可変で、明治時代以前なら上司と部下の男同士の恋愛は寧ろ歓迎される側面もありました。
けれど現代は違います、しかも警察官であることは倫理的要求が多い立場です。個人的に認める事は出来ても公にはし難いです。
公私共にアンザイレンパートナーとして生きることを選んだ2人、だからこそ掴める喜びと哀しみが表裏に廻っていく2人の関係です。

宮田と国村の変化、読み手の方は何を感じましたか?
猛反対の方もあるのだろうなあと予想しながら描いたのですが。
宮田を裏切り者と感じたり、国村をずるい愛人みたいに感じたり、等々。
確かに理想論から言えば、宮田と湯原だけの世界って受容れやすいだろうなって思います。
ですが理想像を描くつもりは無いんです、現実だったら人間がどんな感情を抱いて言動するのか?を描きたいなあと。

人間の感情は、変化していくのが普通です。
日々に出会う様々な言葉、シーン、体感、そうした経験によって心は動いていきます。
この心の動きが感情の変化になって、人間は精神的成長と知識の蓄積をしていく。そして人格は形成されます。
それは宮田と国村も同じこと。ふたりが共に経験していく様々な「現実」のなか、ふたりの関係も当然変化します。
こうした変化は湯原と美代にも起きています、性質的にも宮田&国村より穏やかな2人なのでまた違う形ですが。

そういった人間の変貌は、紅葉と似ています。
太陽と気温、湿度、そういった自然現象が樹木に働きかけ、紅葉は起きていく。
この色づく彩度は、その年・その場所の日照程度や気温、降水量などで異なります。
人間も出会った相手の言葉や表情、聴いた音楽、見た風景、そうした外からの働きかけで内なる心も変化しますね?

そうした可変と、不変が人間にはあります。
この「変わらないもの」と「変わっていくもの」をきちんと描けたらいいなあと。
宮田たち4人それぞれの感情と立場の変遷が、それぞれのスピードで着実に起きていく姿。
それがリアルにはどう佇むのか、現実と虚構のはざまで辿っていく感じです。

今夜から湯原ターンになります。
第58話「双璧1」の時間軸は第58話「双壁1」まで戻ってスタートです。
たぶん湯原の「双璧」はあまり長編にはなりません、けれど湯原にとって大きな分岐点になるターンです。
この湯原ターンが終わると第59話、そこから登場人物のフォーメーションも変化していきます。

よかったら御感想ご意見、お気軽に一言でもお寄せください。
悪い点、良い点、いずれでも教えてもらえることは、楽しいので。






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