仰いで、
英二24歳3月末
第86話 花残 act.9 side story「陽はまた昇る」
星は見える、こんな時にも変わらない。
「ふ…」
吐息ひそやかに紫煙くゆる、ほろ苦い甘い香。
くすんだ匂い苦くほどけて、夜空ふかく闇に煙草がとける。
「はー…」
溜息ふかく壁もたれこむ、カットソー透かす硬さに冷気ふれる。
春まだ浅い夜の扉、頬ふれる風そっと唇掠めて英二は煙草くわえた。
『佐伯のヤロウとんでもないぞ?』
ほら鼓膜を台詞が敲く、その言葉を実感したからだ。
佐伯啓次郎、そう名乗る男は「とんでもない」男だ?
―佐伯だ、ザイルを揺すったのは風じゃない、
思案ひそやかに紫煙くゆらす。
これが事実だと確信できるのは、あのとき風が無かった事実だ。
―壁沿い風は吹き上げていた、でも頂上に着く瞬間は風がなかった…だから俺は右手を伸ばして、
訓練場、佐伯と競り合ったフリークライミング。
もう勝負がつく、その一瞬は無風でザイルも垂直に降りていた。
だからこそ右手を頂へ伸ばして掴もうとして、その一瞬にザイルは撓んだ。
無風、けれどザイルが撓んだ原因は?
「ほんとアイツ、とんでもないな…」
唇つぶやいて煙草はなす、紫煙ゆるやかに夜を融ける。
背にした扉しずかに硬く冷たく肌なぞる、隊服を透かす感覚に鼓動が敲く。
とくん、とくん…
おだやかな心音は自分の心臓、この音に肌感覚に生きていると実感する。
けれど30分前、あの壁にザイルに自分の今は消されていたかもしれない。
―落ちてもおかしくない、あのタイミングで煽られたら、
訓練用のコンクリート壁、頂に着こうとする一瞬。
右手がザイルを離す一瞬、左足が蹴りあげ一瞬わずかに右足も壁を離れた。
あの一瞬だけ左腕一本に体重すべて掛かる、その一瞬間髪にザイルは「跳ねて」撓んだ。
「跳ねたよな…」
つぶやきが瞬間をなぞる、あの一瞬。
あの一瞬にザイルは「跳ねた」その感覚に左掌を見た。
『僕に営業しても無意味だ、そんなやつザイルの信頼できないだろ?』
奥多摩の雪嶺、遭難現場で佐伯が言ったこと。
あの声が夜から自分を見下ろす、まっすぐな瞳ただ静かに見つめてくる。
初対面の夜、あの送別会の席で笑顔は雪焼さわやかで明朗で、まっすぐ山の男だった。
―悔しいけど芦峅寺だなって思ったんだよな俺、でも、ザイルは跳ねた。
芦峅寺に生まれた山ヤ、それでも、ザイル“が”跳ねて撓んだ。
こんなこと現実なのだろうか?
―俺の勘違いなら幸せかもしれないよな、ほんとにさ?
想い吐息そっと、紫煙くゆらせ苦い。
指先ふれる熱じりり煙草を焦がす、巻紙ちいさく朱色が滲む。
もう消さなくてはいけない、ため息と吸い殻ひとつケースに入れて扉ひらいた。
がたん…ぎしっ、
重たく金属ひらいて軋んで閉じる。
踊場から階段を踏んで、登山靴こつりごつり上へ行く。
扉また現れて、がたり押し開いた頬を光なびいた。
「月だ、」
銀色が輝く。
燐光あわい雲の影、頬ふれる冷気が髪を梳く。
水滴やわらかに梳かれて夜へ散る、その雫に言葉が散った。
『鷲田君が警視庁を受験したとき、宮田次長検事のお孫さんだと話題になったよ。司法試験を首席合格している君が何故だろうとね?』
祖父二人、二人の孫であるということ。
その事実が自由も監獄も与える、それが自分の世界で現実。
そんな現実あらためて告げられた真昼の声、その言葉は賞賛と疑問と、それでも信頼がくすぶっていた。
けれど跳ねたザイルの「原因」にそれは無い、そこにある意志と声なぞる夜空の背後、扉が開いた。
「宮田くん?そこにいるよね、」
あ、今ちょっと会いたくないヤツが来たな?
―ここで浦部かよ?
ほら心裡が本音を愚痴る。
こんな自分も可笑しくて、呼吸ひとつ笑って振向いた。
「いますけど、どうしましたか?浦部さん、」
笑いかけた夜の先、白皙ひとり歩みよる。
大柄だけど柔らかな空気は近づいて、隣すぐ鉄柵もたれた。
「やっぱりここ、月も星もいいね、」
低い柔らかな声が微笑む、すぐ隣で。
この声は人に好かれる、それもまた肚が立つ。
―こいつが周太をかまってたから…俺も執念深いな?
周太、君が第七機動隊に居た時間。
もう遠くなった時間、もう半年近く前の時間。
それが遠いのか、近いのか、解らなくなるほど時間は留まらない。
―周太は何してるのかな、今…どこで、
奥多摩の雪の森、君に逢えた。
あの時間もう遠い、すぐ近い記憶のはずが遠くなる。
それくらい今日一日すら濃やかすぎて、そんな夜のはざま言われた。
「宮田くん、ザイルが揺れた犯人を気づいてるんだろ?」
意外だ、その話なんだ?
「浦部さん、それを話しに来たんですか?」
「うん、そうだよ、」
相槌すなおに返してくれる、その白皙まっすぐ自分に向く。
端整な貌から視線おだやかに自分を見る、その瞳なごやかに笑った。
「俺はね、山のことには純粋でいようって決めてるんだ。だからザイル一本も見逃せないよ?」
なごやかに低い声が笑う、その瞳おだやかに月が映る。
けれど言われたことは優しくない、その現実に微笑んだ。
「山のために今回は、俺の味方しようって話ですか?」
「そうだね、」
相槌すなおに笑って、おだやかな瞳が自分を見る。
月うつろう眼が自分に笑って、穏やかな声が言った。
「ザイルのこと、もし宮田くんが糾弾するなら俺が証人になるよ。」
月おだやかに風なびく。
なびく髪やわらかな隣人は声も穏やかで、けれど鋭い言葉に笑いかけた。
「糾弾って言うには、浦部さんは犯人がいると思っているんですか?」
笑って問いかけて、けれど笑い事じゃない。
そんな言葉の月明り、穏やかな声が言った。
「訓練のとき動画を撮ってるんだ、フォームの研究になるからね、」
穏やかな声しずかに月を徹る。
その言葉に視線に見つめて、名前ひとつ投げた。
「浦部さん、佐伯さんが犯人だと宣言しているんですか?」
ザイルのこと、
それしか浦部は言っていない。
それでも燻る名前を投げた先、穏やかな声が言った。
「佐伯くんは山ヤのサラブレッドだよ、だからこそ許せないのかな?尊敬と軽蔑は紙一重だし、」
山ヤのサラブレッド、
そんなふうに言われる男だから許せない、その想いは自分も同じだ。
同じだから意外で、けれど納得する。この男と自分は同じだなんて?
「浦部さんでも、そんなこと言うんですね?」
言葉にして笑いたくなる、この男が意外だ?
「言うよ、宮田くんは俺が言わないタイプだと思ってた?」
おだやかに笑って相槌かえしてくれる。
その声も視線も穏やかで、そのくせ悪戯っ気が可笑しくて笑った。
「浦部さんは優等生だと思ってたので、」
「よく言われるよ、」
すなおに返して穏やかな瞳が笑う、その真中に月が映る。
おだやかな明眸に肩そっと力ほどけて、髪を梳かれる風が心地いい。
「浦部さんは酒、強いですよね?」
「人並には強いけど、宮田くんこそかなり強いだろ?」
「弱いと言われたことはないですけど、国村さんの送別会は途中から記憶ないです、」
「空き瓶の数を聞いたら、記憶とか関係ないって思うんじゃないかな?」
風やわらかに頬を切る、まだ冷たい風が声を透く。
月ふる藍色はるかな空、遠い時間が髪の雫を梳く。
※校正中
(to be continued)
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊
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