「繋」 その視界、遠くても同じ場所
第59話 初嵐 side K2 act.10
屋上の扉を施錠して、階段を降りて行く。
ふたつ足音を並べて下る、その彼方から人々の喧騒は聞えだす。
いま同じ宿舎に周太と歩いている、この今の瞬間にふっと15年の想いが笑った。
―もしも周太とあのとき、ちゃんと再会出来ていたらドウだったんだろね?
15年前の冬、初めて雅樹の森で周太に出逢った。
あの日すぐに再会の約束をして、それを信じて毎日ずっと山桜に通い続けた。
雅樹が愛した樹霊ドリアード、その化身に逢えたのだと嬉しくて、願いを叶えてほしくて待っていた。
ずっと雅樹が大切にしていた山桜の大樹、あの木に宿る精霊なら雅樹を生き帰らせてくれる、そう信じていたかった。
だからもし、あの後すぐに再会していたら。
そうしたら自分は願いの儚さを理解して、受け留められたのだろうか?
それとも頑なに信じ込んで、周太を手離さないで願いごとを叶えてもらおうと術を尽くしたろうか?
そんな事を考えながら今、後輩として話して廊下を歩き、隣り合わせの自室の前に辿り着いた。
「じゃ、湯原くん。また明日は訓練で一緒だけど、よろしくね?」
「はい、よろしくお願いします。おやすみなさい、」
折り目正しい返事に微笑んで、端正な礼をしてくれる。
きれいな姿勢の動きに黒髪ゆれて、やわらかく蛍光灯を映し香こぼす。
かすかに甘い穏やかな髪の香に心配を喚起したくて、声を低めた忠告に笑いかけた。
「…ドア、簡単に開けるんじゃないよ?じゃ、おやすみさん、」
「ん、…光一こそね?」
同じよう低めた声で微笑んで、周太は自室に入って行った。
その施錠音を聴きながら光一も扉を開き、入るとすぐ鍵掛ける。
ライトを点けないままベッドに寝転んで天井を見上げ、いま別れたばかりの笑顔に笑った。
「ナニが俺こそね、かね?」
この自分が男達に囲まれた所で、何もされやしないのに?
よく幼いころから容姿で注目されてきた、その視線は男も女もある。
けれど唯ひとりに操を護ってこられたのは、それだけの体力も智恵もあるからだった。
―雅樹さんの記憶、体から消したくないからね?だから勝手には絶対にさせない、相手が誰だろうとね、
唯一夜だった、全身で真実を交せた幸福は。
あの夜だけが自分の永遠、あれ以外に自分はセックスなど出来ない。
雅樹との約束だった十年後は来なかった、その絶望に女を抱いた時にも真実は無い。
英二との夜は幸せで、惹きこまれた時間は甘い媚薬のよう全身を甘楽に浸して、充ちた眠りに墜ちこんだ。
けれど雅樹との夜に溺れた幸福も真実も、ふたり融けあう感覚も見つからない。そんな目覚めの夢は「雅樹」だった。
―なんども抱かれたのに夢はいつも雅樹さんだったね、こんなにも雅樹さんだけと抱きあいたがってる、俺は、
雅樹の他に唯一のアンザイレンパートナーでも、駄目だった。
唯ひとり雅樹を求めてしまう、この心を欺くことなんてもう出来やしない。
生まれた瞬間から想う人が自分の永遠、だからもう16年前の夜だけを抱きしめて独り、この命ある世界を生きる。
―だからやっぱり結婚しないね、ごめんね祖父サン、祖母サン、きっと家を絶やしちゃうよ、俺は、
旧家のひとりっこ長男、その自覚をもって大人になった。
結婚して後継ぎを生まれさす、それは当然の義務で責任だと解っている。
このことを幼い日はまだ解っていなかった、けれど雅樹は理解していたはずだろう。
自家と吉村の家は屋敷も土地も近隣に持つ累代の親しい家同士、お互いの事情など知り尽くしている。
それでも雅樹が「ずっと一緒にいる」と約束してくれたのは、あのとき雅樹が選んだ選択を今なら解かる。
―雅樹さんが十年後って言ったのは、結婚しないツモリだったね?…なのに俺が誰かと結婚して離れても良いって覚悟してた、
あのとき雅樹は23歳だった、その十年後に再び肌交わそうと約束をしてくれた。
十年後の自分が十八になる誕生日、その夜まで誰にも体を赦さないと約束して自分を選んでくれた。
23歳だった雅樹の十年後は33歳、きっと山岳医療とERの医師として繁忙な時期に当ってしまうだろう。
そんな時期からあの雅樹が恋愛をして、結婚して家庭を持てるほど器用に出来るかなんて少しも思えない。
「十年、僕を待たせていて?本気で大好きだよ。僕は変わらない、ずっと光一を待っているよ…ずっと君と一緒に生きたい」
そう告げてくれた想いは、あの夜の体温は香は、あの感覚たち全てが真実。
その全ての通りに雅樹は一途で不器用で、純粋なまま自分の言葉も想いも全て無条件に信じてくれた。
まだ8歳の声を真に受けるなんて愚かと言われるだろう、それも解かっていながら雅樹は永遠の約束を選んだ。
―俺と約束するために結婚を諦めてくれたね、ほんとに全部を捨てて俺を愛してくれるね?だから…俺も同じだよ、雅樹さん?
唯一夜に懸けてくれた雅樹の真実に、終らぬ涙は温かい。
もしも雅樹が命を生きているのなら、きっと自分は結婚などしない。
だから今、生と死に別れていても心は繋がるのなら同じこと、独り生きるのでも結婚しなくて構わない。
その涯には祖父も祖母も見送り独りになるだろう、それでも自分は「山」に生きて雅樹の夢と約束を果たせばそれでいい。
そうして生き続け夢の全てを叶えたら、きっと最期には雅樹が迎えに来てくれる、そう信じている。
だからこそ自分はアイガーの氷河に眠らず、今ここに生きている。
「それで俺は幸せだよ、雅樹さん?…ずっと一緒にいたいから独りでいたいんだ、ね…雅樹さん?」
そっと独り言に見上げる視界、薄暗い天井が滲みだす。
誰にも言えない雅樹との真実が熾火きらめかせ、生み出す熱が瞳を温めていく。
ベッドから仰いだ薄闇に水面ゆらいで頬、ひとすじ熱は伝いおちて次、また涙あふれて小さく笑った。
「それで幸せなんだ、でも…ごめんね周太、泣かせて、涙もいっぱい堪えさせたのに英二もダメなんて…ワガママだね?だから…解かるよ?」
本当に我儘な自分の恋心、あの英二でも充たされないほど唯ひとりしか欲しくない。
天使の包容と魔王の魅力に目映い才能あふれる男、そんな英二が精一杯の誠実で自分に憧れ愛してくれる。
それが自分だって嬉しくて大好きで、それなのに雅樹ばかり求めて嘘も言える自分だから、周太の嘘と涙が解かってしまう。
「君の嘘を解かっちゃうんだよね、俺も君と同じ、たった一人しか見えないからさ?独り占めに好きって…泣いてんの解かっちゃうよ?」
凛と端正な周太の心、それは純粋な嘘を吐く。
ただ愛する人を護るためだけに沈黙する嘘、それで自分が傷ついても結局は縋らない。
だからこそ周太は13年間も優しい孤独に生きてしまった、あの13年間は自分にだって責任が痛い。
『もしも十歳の春、山桜が咲いた時に周太を探し逢いに行って、約束を叶えたのなら?』
そう本当は考えてきた、あのとき自分が「待つ」ではなく「探す」ことを選んだら?
そうしたら周太の孤独を救えたかもしれない、そして記憶喪失も悪化させずに済んだかもしれない。
だって周太が記憶を蘇えらせた鍵は1月、雪の森で山桜の約束を語って呼びかけた自分の言葉だった。
―もし俺がすぐ逢いに行ってたら周太、樹医になる夢だって忘れずに済んだかもしれない…そしたら今こんなことになってないんだ、
どうして周太が今ここで死線に立っている?
それは50年の束縛が惹き起したことだろう、けれど自分が絶ち切る鍵を持っていた。
それなのに自分はただ雅樹を待ち続け、そうして逸らした現実で周太は苦しんだ。
そんな自責が本当はさっき、話している時からずっと想えて泣きたかった。
「…っ、ご、めんねっ…」
十歳の春にこそ、自分は「探す」冒険に出るべきだった。
雅樹が愛した山桜の樹霊ドリアード、その俤を探す方法は幾らでもあった、その全て尽くして周太に辿り着くべきだった。
そうしていたら自分は雅樹の死に向きあえた、そうしていたら周太は学者として生きるべき場所に立てた。
それが本当の意味で周太にとって「父の意志を大切にする」真実の道だったのに?
―ごめんね周太、13年も、今も、君が泣くのは俺のせいだね…英二のことでも君を泣かして…だからなおさら護りたいね、
もう周太の近未来は「死線」が運命だろう、それなら尚更に大切な時間を贈りたい。
どんなに目を逸らしたくても辛苦が現実ならばこそ、どんな瞬間も温もり想える幸福をあげたい、護りたい。
この願い叶える鍵を探したくて今、故郷を出て自分はここに来た。この壁の向こうには今、十歳の春は探せなかった人が居る。
「…どうしたらいいかな、雅樹さん…もうドリアードを泣かせたくないよ?」
ひとりごとに援けを求めて俤を見つめる、それも幸せが温かい。
どうしたら自分たちの叶わぬ夢を周太が現実に出来るのか?それを夢見て考える。
英二と間垣を超えてしまった自分が願うのは烏滸がましい、そう想うけれど願うまま考えたい。
―英二が独りぼっちも大丈夫なら良いね?周太がいない孤独とがっぷり組み合っても、笑えるようになりゃイイ、
それには今がチャンスだろう、周太とも光一とも離れている「今」を真直ぐ超えれば良い。
いちど知った「ふたり」の幸福から離れる、その痛切は自分も知っている。けれど英二は永訣に亡くしたわけじゃない。
確かに周太と離れる時間がいつ果てるか解らない、けれど不安と孤独を超えた涯にこそ幸福はあると強く笑えたら良い。
けれど、どうしたら英二は孤独にも笑えるようになる?その思案を頭上の闇に見つめる手元、携帯電話が震えた。
「…あ、」
呼びだす振動に溜息こぼれ、薄闇に携帯電話を開く。
まぶしく灯る画面ライト、そこに表示された時刻と発信人名に躊躇いが竦んだ。
―…夜、電話するから。8時半位だと思う
真昼の第七機動隊舎前、四駆の車中で約束してくれた。
あの笑顔が今もう遠く感じられて、ほんの数分前まで一緒にいた人へ自責が軋む。
いま架けてくれた事に電話の優先順が解って、それが苦しいまま「通話」ボタンを押した。
「なにやってんの、おまえ?」
本当に何をやってるんだよ、順番を間違えるんじゃない。
そう言いたい小さな苛立ちに、困りながら微笑んで光一は言葉を続けた。
「どうして俺から先に架けてるワケ?奥さんを先にしなよね、」
先に周太へ架けてほしい、後悔しないように。
もし一秒後に遭難事故が起きれば召集を受け、すぐに電話も切って現場へ駈ける。
この可能性がゼロとは誰にも言えない、それが所轄の山岳救助隊なら当然の現実。
こんな生死の最前線に立っているのなら、まず「一番」の声を最初に聴くべきだろう?
そうした覚悟も教育係として英二に教えてきた、けれど自分に電話してきた事へ小さく苛立つ。
―山ヤの警察官だって自覚、チャンと持てって言ってるのにさ?
自分の言葉が届いていないのだろうか?
そう裏切られたようで困ってしまう、期待の分だけ尚更に痛い。
優秀な後輩で部下で、親友でパートナー。その全てで期待と信頼する相手は、けれど言ってくれた。
「今は、光一の方が心配だろ?」
周太より自分を?
それが意外で首傾げた先、きれいな低い声が笑いかけた。
「警察官としても山ヤとしても、俺は光一のパートナーでセカンドだよ?仕事や夢を一番にしなかったら、男はダメになるだろ?
俺だって光一に相談したいことあるんだよ、後任者の指導のこと。だから光一から電話したんだ、このあと周太に電話するけどさ」
公私ともにパートナー、そんな自分たちは互いを優先する必要がある。
そう告げてくれる想いに安堵する、やっぱり自分の言葉は届いていた。
良かったと静かに笑った向こうから、英二は率直な想いを告げてくれた。
「光一、周太はもう俺に甘えないことで自分を支えてるんだ。だけど光一には俺が必要で当たり前だ、そういう立場だから。
俺にも今、光一の支えが必要だよ?そうやって俺たちは支え合う為に、公認のパートナーになることを選んだはずだ。そうだろ?
さっきまで周太といたんだろ?もう光一なら気付いたよな、今の周太が覚悟してるって。周太を信じて俺、先に光一へ電話してるよ、」
周太はもう、誰にも甘えない。
それを自分も今日の半日で知らされた。
つい数分前も屋上で見つめ合った周太の瞳は、ただ静かに現実に微笑んだ。
あの覚悟を英二は気づいているだろう、けれど周太の傷と深い愛情をどこまで解っている?
「うん…そっか、」
相槌に微笑んで、英二の心遣いに感謝が安堵する。
それ以上にもう間垣を超えてしまった時間、そこに寄せてくれる想いも解ってしまう。
あのとき英二は「初めて」だと信じて特別をくれた、それを自分も肯い告げた言葉がある。
その全てが時を経るごとに、違うのだと本音が叫んで今はもう恋愛から孤独を決めてしまった。
こんな自分など構わずに唯ひとりを想ってほしい、それなのに自分を優先してくれる言葉が辛い。
―ごめんね、俺が悪いのに…ほんとうは周太が嘘を吐いてるって、英二に気づかせたいよ?
英二を護るために吐いた嘘、この真実を英二に気付かせたい。
その考え廻らせていく向うから、今日一日に英二は口を開いた。
「今日は前哨戦ってとこだったよ、そっちは予想通りって感じか?」
どうやら新任の原と、さっそく小競り合いがあったらしい?
どんな場面だったのだろうと想像に笑って、自分の現況を言葉にした。
「だね、やっぱアウェーだよ。表面化はしていないけどさ、そういうの逆に面倒だね。おまえはストレートだろ?」
「うん、顔にも声にも解かり易いよ、だから楽かな、」
ほら、やっぱり「楽」だなんて言えてしまう。
きっと人誑しの英二にすれば、単純らしい原は1ヶ月もあれば陥落できる。
たぶん英二が異動するときに原は泣くんだろうな?そんな未来予測に光一は笑った。
「やっぱりね?そういうカンジのヤツだって聴いたよ、」
「気にしてくれたんだ、ありがとな。そっちは真面目な雰囲気らしいけど、会話はあるだろ?」
「だね、ちょっとした知り合いは俺、山関係は多いしね、」
「話せる相手、いるんなら良かったよ、」
お互いに抽象的な事しか話さない、それでも状況が互いに解かる。
連帯と共感は離れていても途切れない、この信頼が変ることなく温かで嬉しい。
あの夜を超えても不変の絆が自分たちにはある、その繋がりに微笑みながら溜息ひそやかに零れた。
―信頼できる男なんだ、キッチリ現況の分析ができる賢い男だね…だけど周太のコトだけは脆すぎる、壊れるくらいにさ?
最愛の伴侶と離れてしまう時間、その不安と哀切に英二は一度もう壊れかけている。
まだ初任総合で警察学校にいた2ヶ月間を、周太と過ごせた幸福に英二は失う恐怖を募らせた。
恐怖から規則違反を犯して学校寮で周太を抱いた、その涯には無理心中すらしようと周太の首に手を掛けている。
あんなふうに英二が壊れてしまうなんて、普段の賢明で穏やかな姿から誰が想像できるだろう?
―天使が魔王になるのは、たったひとりが欲しいからだね、そんだけ寂しがりで愛情も深いんだ、
本当は余所見なんか出来ないくらい求めて、好きで、想っている。
あんまり好きだからその母親まで愛して、恋して、その家ごと大切になってしまう。
だから英二は尚更に自分のことも求めて、あの夜に抱いてしまったのではないだろうか?
初恋で最愛の周太、その初恋相手が自分だから。
―俺の写真見て憧れたのもホントだろうけどね、それ以上に本当は、周太の初恋も自分のモンにしたいんだろ?
このことを英二、自分で解かってる?
自分たちは「山」に繋がれる者同士、アンザイレンパートナーと『血の契』で結ばれる。
それは同じ世界を見つめ生きること、だから互いが自分の世界全てだと想い合えるだろう。
けれど、この体まで求め抱いたのは、光一の裡にある9歳の周太も英二は欲したのかもしれない。
そう想うのはきっと「抱き合えた」のでは無いと解っている所為、この想いを光一は台詞に変えた。
「ま、いちばん話した相手は隣人だけどさ?ちょっと涙を閉じこめてる訳アリの奴がね、イマイチ解ってないってカンジ?」
「…え、」
電話の向こう、綺麗な声が止まる。
その間隙へと穏やかに笑って、ヒントを投げ込んだ。
「マジなら独り占めしたいってのが本音だろが?ソレ言えない理由ってのがさ、お相手が溺れ死にしそうで浮き輪が必要だからだね?」
何を独り占めしたい?お相手は誰だ?何に溺れて死にそうで、浮き輪は誰だ?
そんな謎かけに電話の向こう、かすかな息を呑む気配が切なく響いて吐息こぼす。
こんな哀しみも結局は自分が全て悪い、この自責に微笑んで光一は想いを告げた。
「いいかい?浮き輪に縋ってるよりね、自力でクロールした方が速くゴール出来んだろ?ゴールがドコなのか見失うんじゃないよ、」
本当に欲しい心があるなら代りの相手など無い、ただ自分の心ひとつで求めに行くしかない。
それが可能か不可能かなんて考えこむ暇があるのなら、一度でも多く相手を笑わせる方が幸せだ。
そう自分は信じて8年半、いつも雅樹が帰る度ごと一秒でも多く傍にいて精一杯に笑わせた。
そうやって見つめ合い築いた幸福は、生命に別たれても永遠のまま明るく輝いている。
だから英二と周太にも今一秒を大切にして欲しい、この願いに電話を透し笑いかけた。
「ほら?俺たちはね、一秒後にご指名されたって行かなきゃなんないね?だから、ホントに大切な声から聴いときな、イイね?」
「ああ、…そうだな、」
溜息に微笑んで、綺麗な低い声が笑ってくれる。
きっと言いたいこと伝わったろうな?そう笑った向こうで気配が揺らいだ。
「ごめん、光一、俺っ…、」
名前を呼んで詰まってしまう、その声に涙が香りだす。
響きだす嗚咽を呑み下す、そんな気配が嬉しくて笑いかけた。
「こっちこそ、ごめんね?さっさと気づけなくってさ、赦してくれる?」
三つ、自分は気づけなかった。
自分の動けない想いにも、英二が自分を抱きたい意味も、そして周太の隠した涙にも。
けれどアイガーの夜が無かったら自分は気づけない、その哀しさに微笑んだ向こうから英二は言ってくれた。
「…あたりまえだろ?俺のほうこそ…ゆるしてよ、」
涙堪えたトーンに、黄昏の記憶から泣笑いの貌が映りだす。
あの窓辺で向かい合った英二の孤独、そのとき自分が選んだ肌重ねる選択。
あのとき寄添い合えたことに後悔は無い、あの夜に刻みあった傷すらも絆に変えられるから。
そう信じる本音ごと起き上がり、ベッドから星あわい窓を見つめて故郷の空へと笑いかけた。
「お互いサマって言ってくれるんならね、俺たちホントに相思相愛の親友ってカンジでイイね?」
もう間垣は超えた、それでも「親友」だと言い合える?
この願いに笑いかけた先、涙と一緒にパートナーは笑ってくれた。
「親友だよ、何があっても変わらないって俺、信じてく…大好きで憧れて、俺の世界の全部だ、ずっと一緒に山に登ってたい、」
「よし、約束したね?」
ちゃんと応えてくれた、信じられる。
応えられた信頼に笑って、光一は本音を告げた。
「あのさ、俺の相手を全員嫉妬するってオマエ言ったよね?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって言ってくれたの嬉しかったよ。
雅樹さんのこと生きてる人と同じに想ってくれて、そういうの解ってくれるんだって俺、本当に嬉しかったんだ。ありがとね、」
雅樹は自分の幸福の俤、全てを分かち合う唯ひとり特別な存在。
“これから英二と交わす逢瀬の瞬間に、幾度と自分は消えた幸福を追うのだろう?
お互いに英二とは全てを赦し合うなど出来ない、そう解っているから繋がれるものだけでも赦しあってみたい”
そんなふうアイガーの黄昏に自分は想い、そのとおりに心が浮き彫りになった今、こんな時間を英二と見つめている。
こんなのは痛くて切なくて哀しい、それでも後悔にしたくないなら明日をどうしたら良いのか考えたい。
そんな晨への想い笑った向こう側、きれいな低い声が穏やかに微笑んでくれた。
「俺も嬉しかったよ、光一に話すのは俺の独り言と同じだって言われて嬉しかったんだ、本当に俺を光一の世界だって想われてるって。
俺と愛し合いたいのは周太だけじゃない、そう言ってくれて嬉しかった、俺…ほんとうに周太以外に抱きたいって想えるの光一だけだよ、」
本命がいても他を愛せる余裕がある、そんな器用さは雅樹に皆無だ。
そういう余裕は男なら魅力かもしれない、けれど不器用な天使が自分は愛しい。
こんなふうに英二は似ている分だけ差が見えて、そんな「違う」が光一を気がつかせた。
―雅樹さんの全部が、まんま俺の好みになっちゃってるんだね…だから違うとダメなんだ、
だから恋愛の二度は、自分に無い。
そんな自覚が静かに笑う、やっぱり自分は雅樹しか見られない。
それなのに英二は求めて泣いてくれる、その涙に感謝しながら光一は明るく応えた。
「ありがとね、でも今は浮き輪を放りだす時だろ?さっさと自力で泳いじまいな、」
早くした方が良い、一秒でも速く心は伝えた方が良い。
そう笑った先でアンザイレンパートナーは、呼吸ひとつで笑ってくれた。
「おう、明日は9時半ごろ電話するな?おやすみ、光一、」
「おやすみさん、またね、」
明日は、またね、そんな言葉と電話を切れる。
そのままベッドから立つと、クロゼットから白いシャツを手にとった。
「…匂い、残ってるんだね、」
アイガーの暁に譲り受けたシャツは、元の主の香を名残らす。
どこか故郷の森を想わせてくれる、この深い香が単純に好きで温かい。
―あの森みたいな匂いだね、雅樹さん?
心で呼んで笑いかける、その俤が微笑んだ。
大切な人の記憶と祈りが眠る森、あの場所を香らすシャツを手にベッドへ横たわる。
秘密めく深い香に懐かしい森を抱きしめて、あわい星きらめく窓に微笑んだ瞳を閉じた。
ふっと披かれた視界、ブルーグレーに朱金の色が映りこむ。
カーテン開いたままの窓に暁は広がりだす、新しい陽光まばゆく金色を投げる。
寝転んだまま見上げる空への視界、その香は森の深い静謐が優しい。
今この香、この空の色、そして夢見た記憶に光一は微笑んだ。
「おはよ、雅樹さん?…夢でも逢えたね、あの森で、」
山桜の護る森は、雅樹が生まれて眠る森。
あの森は今ここから遠い、けれど夢に香に光に逢える。
こんなふう時も空間も隔てられない繋がりに、ただ幸せ微笑んで晨は拓く。
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第59話 初嵐 side K2 act.10
屋上の扉を施錠して、階段を降りて行く。
ふたつ足音を並べて下る、その彼方から人々の喧騒は聞えだす。
いま同じ宿舎に周太と歩いている、この今の瞬間にふっと15年の想いが笑った。
―もしも周太とあのとき、ちゃんと再会出来ていたらドウだったんだろね?
15年前の冬、初めて雅樹の森で周太に出逢った。
あの日すぐに再会の約束をして、それを信じて毎日ずっと山桜に通い続けた。
雅樹が愛した樹霊ドリアード、その化身に逢えたのだと嬉しくて、願いを叶えてほしくて待っていた。
ずっと雅樹が大切にしていた山桜の大樹、あの木に宿る精霊なら雅樹を生き帰らせてくれる、そう信じていたかった。
だからもし、あの後すぐに再会していたら。
そうしたら自分は願いの儚さを理解して、受け留められたのだろうか?
それとも頑なに信じ込んで、周太を手離さないで願いごとを叶えてもらおうと術を尽くしたろうか?
そんな事を考えながら今、後輩として話して廊下を歩き、隣り合わせの自室の前に辿り着いた。
「じゃ、湯原くん。また明日は訓練で一緒だけど、よろしくね?」
「はい、よろしくお願いします。おやすみなさい、」
折り目正しい返事に微笑んで、端正な礼をしてくれる。
きれいな姿勢の動きに黒髪ゆれて、やわらかく蛍光灯を映し香こぼす。
かすかに甘い穏やかな髪の香に心配を喚起したくて、声を低めた忠告に笑いかけた。
「…ドア、簡単に開けるんじゃないよ?じゃ、おやすみさん、」
「ん、…光一こそね?」
同じよう低めた声で微笑んで、周太は自室に入って行った。
その施錠音を聴きながら光一も扉を開き、入るとすぐ鍵掛ける。
ライトを点けないままベッドに寝転んで天井を見上げ、いま別れたばかりの笑顔に笑った。
「ナニが俺こそね、かね?」
この自分が男達に囲まれた所で、何もされやしないのに?
よく幼いころから容姿で注目されてきた、その視線は男も女もある。
けれど唯ひとりに操を護ってこられたのは、それだけの体力も智恵もあるからだった。
―雅樹さんの記憶、体から消したくないからね?だから勝手には絶対にさせない、相手が誰だろうとね、
唯一夜だった、全身で真実を交せた幸福は。
あの夜だけが自分の永遠、あれ以外に自分はセックスなど出来ない。
雅樹との約束だった十年後は来なかった、その絶望に女を抱いた時にも真実は無い。
英二との夜は幸せで、惹きこまれた時間は甘い媚薬のよう全身を甘楽に浸して、充ちた眠りに墜ちこんだ。
けれど雅樹との夜に溺れた幸福も真実も、ふたり融けあう感覚も見つからない。そんな目覚めの夢は「雅樹」だった。
―なんども抱かれたのに夢はいつも雅樹さんだったね、こんなにも雅樹さんだけと抱きあいたがってる、俺は、
雅樹の他に唯一のアンザイレンパートナーでも、駄目だった。
唯ひとり雅樹を求めてしまう、この心を欺くことなんてもう出来やしない。
生まれた瞬間から想う人が自分の永遠、だからもう16年前の夜だけを抱きしめて独り、この命ある世界を生きる。
―だからやっぱり結婚しないね、ごめんね祖父サン、祖母サン、きっと家を絶やしちゃうよ、俺は、
旧家のひとりっこ長男、その自覚をもって大人になった。
結婚して後継ぎを生まれさす、それは当然の義務で責任だと解っている。
このことを幼い日はまだ解っていなかった、けれど雅樹は理解していたはずだろう。
自家と吉村の家は屋敷も土地も近隣に持つ累代の親しい家同士、お互いの事情など知り尽くしている。
それでも雅樹が「ずっと一緒にいる」と約束してくれたのは、あのとき雅樹が選んだ選択を今なら解かる。
―雅樹さんが十年後って言ったのは、結婚しないツモリだったね?…なのに俺が誰かと結婚して離れても良いって覚悟してた、
あのとき雅樹は23歳だった、その十年後に再び肌交わそうと約束をしてくれた。
十年後の自分が十八になる誕生日、その夜まで誰にも体を赦さないと約束して自分を選んでくれた。
23歳だった雅樹の十年後は33歳、きっと山岳医療とERの医師として繁忙な時期に当ってしまうだろう。
そんな時期からあの雅樹が恋愛をして、結婚して家庭を持てるほど器用に出来るかなんて少しも思えない。
「十年、僕を待たせていて?本気で大好きだよ。僕は変わらない、ずっと光一を待っているよ…ずっと君と一緒に生きたい」
そう告げてくれた想いは、あの夜の体温は香は、あの感覚たち全てが真実。
その全ての通りに雅樹は一途で不器用で、純粋なまま自分の言葉も想いも全て無条件に信じてくれた。
まだ8歳の声を真に受けるなんて愚かと言われるだろう、それも解かっていながら雅樹は永遠の約束を選んだ。
―俺と約束するために結婚を諦めてくれたね、ほんとに全部を捨てて俺を愛してくれるね?だから…俺も同じだよ、雅樹さん?
唯一夜に懸けてくれた雅樹の真実に、終らぬ涙は温かい。
もしも雅樹が命を生きているのなら、きっと自分は結婚などしない。
だから今、生と死に別れていても心は繋がるのなら同じこと、独り生きるのでも結婚しなくて構わない。
その涯には祖父も祖母も見送り独りになるだろう、それでも自分は「山」に生きて雅樹の夢と約束を果たせばそれでいい。
そうして生き続け夢の全てを叶えたら、きっと最期には雅樹が迎えに来てくれる、そう信じている。
だからこそ自分はアイガーの氷河に眠らず、今ここに生きている。
「それで俺は幸せだよ、雅樹さん?…ずっと一緒にいたいから独りでいたいんだ、ね…雅樹さん?」
そっと独り言に見上げる視界、薄暗い天井が滲みだす。
誰にも言えない雅樹との真実が熾火きらめかせ、生み出す熱が瞳を温めていく。
ベッドから仰いだ薄闇に水面ゆらいで頬、ひとすじ熱は伝いおちて次、また涙あふれて小さく笑った。
「それで幸せなんだ、でも…ごめんね周太、泣かせて、涙もいっぱい堪えさせたのに英二もダメなんて…ワガママだね?だから…解かるよ?」
本当に我儘な自分の恋心、あの英二でも充たされないほど唯ひとりしか欲しくない。
天使の包容と魔王の魅力に目映い才能あふれる男、そんな英二が精一杯の誠実で自分に憧れ愛してくれる。
それが自分だって嬉しくて大好きで、それなのに雅樹ばかり求めて嘘も言える自分だから、周太の嘘と涙が解かってしまう。
「君の嘘を解かっちゃうんだよね、俺も君と同じ、たった一人しか見えないからさ?独り占めに好きって…泣いてんの解かっちゃうよ?」
凛と端正な周太の心、それは純粋な嘘を吐く。
ただ愛する人を護るためだけに沈黙する嘘、それで自分が傷ついても結局は縋らない。
だからこそ周太は13年間も優しい孤独に生きてしまった、あの13年間は自分にだって責任が痛い。
『もしも十歳の春、山桜が咲いた時に周太を探し逢いに行って、約束を叶えたのなら?』
そう本当は考えてきた、あのとき自分が「待つ」ではなく「探す」ことを選んだら?
そうしたら周太の孤独を救えたかもしれない、そして記憶喪失も悪化させずに済んだかもしれない。
だって周太が記憶を蘇えらせた鍵は1月、雪の森で山桜の約束を語って呼びかけた自分の言葉だった。
―もし俺がすぐ逢いに行ってたら周太、樹医になる夢だって忘れずに済んだかもしれない…そしたら今こんなことになってないんだ、
どうして周太が今ここで死線に立っている?
それは50年の束縛が惹き起したことだろう、けれど自分が絶ち切る鍵を持っていた。
それなのに自分はただ雅樹を待ち続け、そうして逸らした現実で周太は苦しんだ。
そんな自責が本当はさっき、話している時からずっと想えて泣きたかった。
「…っ、ご、めんねっ…」
十歳の春にこそ、自分は「探す」冒険に出るべきだった。
雅樹が愛した山桜の樹霊ドリアード、その俤を探す方法は幾らでもあった、その全て尽くして周太に辿り着くべきだった。
そうしていたら自分は雅樹の死に向きあえた、そうしていたら周太は学者として生きるべき場所に立てた。
それが本当の意味で周太にとって「父の意志を大切にする」真実の道だったのに?
―ごめんね周太、13年も、今も、君が泣くのは俺のせいだね…英二のことでも君を泣かして…だからなおさら護りたいね、
もう周太の近未来は「死線」が運命だろう、それなら尚更に大切な時間を贈りたい。
どんなに目を逸らしたくても辛苦が現実ならばこそ、どんな瞬間も温もり想える幸福をあげたい、護りたい。
この願い叶える鍵を探したくて今、故郷を出て自分はここに来た。この壁の向こうには今、十歳の春は探せなかった人が居る。
「…どうしたらいいかな、雅樹さん…もうドリアードを泣かせたくないよ?」
ひとりごとに援けを求めて俤を見つめる、それも幸せが温かい。
どうしたら自分たちの叶わぬ夢を周太が現実に出来るのか?それを夢見て考える。
英二と間垣を超えてしまった自分が願うのは烏滸がましい、そう想うけれど願うまま考えたい。
―英二が独りぼっちも大丈夫なら良いね?周太がいない孤独とがっぷり組み合っても、笑えるようになりゃイイ、
それには今がチャンスだろう、周太とも光一とも離れている「今」を真直ぐ超えれば良い。
いちど知った「ふたり」の幸福から離れる、その痛切は自分も知っている。けれど英二は永訣に亡くしたわけじゃない。
確かに周太と離れる時間がいつ果てるか解らない、けれど不安と孤独を超えた涯にこそ幸福はあると強く笑えたら良い。
けれど、どうしたら英二は孤独にも笑えるようになる?その思案を頭上の闇に見つめる手元、携帯電話が震えた。
「…あ、」
呼びだす振動に溜息こぼれ、薄闇に携帯電話を開く。
まぶしく灯る画面ライト、そこに表示された時刻と発信人名に躊躇いが竦んだ。
―…夜、電話するから。8時半位だと思う
真昼の第七機動隊舎前、四駆の車中で約束してくれた。
あの笑顔が今もう遠く感じられて、ほんの数分前まで一緒にいた人へ自責が軋む。
いま架けてくれた事に電話の優先順が解って、それが苦しいまま「通話」ボタンを押した。
「なにやってんの、おまえ?」
本当に何をやってるんだよ、順番を間違えるんじゃない。
そう言いたい小さな苛立ちに、困りながら微笑んで光一は言葉を続けた。
「どうして俺から先に架けてるワケ?奥さんを先にしなよね、」
先に周太へ架けてほしい、後悔しないように。
もし一秒後に遭難事故が起きれば召集を受け、すぐに電話も切って現場へ駈ける。
この可能性がゼロとは誰にも言えない、それが所轄の山岳救助隊なら当然の現実。
こんな生死の最前線に立っているのなら、まず「一番」の声を最初に聴くべきだろう?
そうした覚悟も教育係として英二に教えてきた、けれど自分に電話してきた事へ小さく苛立つ。
―山ヤの警察官だって自覚、チャンと持てって言ってるのにさ?
自分の言葉が届いていないのだろうか?
そう裏切られたようで困ってしまう、期待の分だけ尚更に痛い。
優秀な後輩で部下で、親友でパートナー。その全てで期待と信頼する相手は、けれど言ってくれた。
「今は、光一の方が心配だろ?」
周太より自分を?
それが意外で首傾げた先、きれいな低い声が笑いかけた。
「警察官としても山ヤとしても、俺は光一のパートナーでセカンドだよ?仕事や夢を一番にしなかったら、男はダメになるだろ?
俺だって光一に相談したいことあるんだよ、後任者の指導のこと。だから光一から電話したんだ、このあと周太に電話するけどさ」
公私ともにパートナー、そんな自分たちは互いを優先する必要がある。
そう告げてくれる想いに安堵する、やっぱり自分の言葉は届いていた。
良かったと静かに笑った向こうから、英二は率直な想いを告げてくれた。
「光一、周太はもう俺に甘えないことで自分を支えてるんだ。だけど光一には俺が必要で当たり前だ、そういう立場だから。
俺にも今、光一の支えが必要だよ?そうやって俺たちは支え合う為に、公認のパートナーになることを選んだはずだ。そうだろ?
さっきまで周太といたんだろ?もう光一なら気付いたよな、今の周太が覚悟してるって。周太を信じて俺、先に光一へ電話してるよ、」
周太はもう、誰にも甘えない。
それを自分も今日の半日で知らされた。
つい数分前も屋上で見つめ合った周太の瞳は、ただ静かに現実に微笑んだ。
あの覚悟を英二は気づいているだろう、けれど周太の傷と深い愛情をどこまで解っている?
「うん…そっか、」
相槌に微笑んで、英二の心遣いに感謝が安堵する。
それ以上にもう間垣を超えてしまった時間、そこに寄せてくれる想いも解ってしまう。
あのとき英二は「初めて」だと信じて特別をくれた、それを自分も肯い告げた言葉がある。
その全てが時を経るごとに、違うのだと本音が叫んで今はもう恋愛から孤独を決めてしまった。
こんな自分など構わずに唯ひとりを想ってほしい、それなのに自分を優先してくれる言葉が辛い。
―ごめんね、俺が悪いのに…ほんとうは周太が嘘を吐いてるって、英二に気づかせたいよ?
英二を護るために吐いた嘘、この真実を英二に気付かせたい。
その考え廻らせていく向うから、今日一日に英二は口を開いた。
「今日は前哨戦ってとこだったよ、そっちは予想通りって感じか?」
どうやら新任の原と、さっそく小競り合いがあったらしい?
どんな場面だったのだろうと想像に笑って、自分の現況を言葉にした。
「だね、やっぱアウェーだよ。表面化はしていないけどさ、そういうの逆に面倒だね。おまえはストレートだろ?」
「うん、顔にも声にも解かり易いよ、だから楽かな、」
ほら、やっぱり「楽」だなんて言えてしまう。
きっと人誑しの英二にすれば、単純らしい原は1ヶ月もあれば陥落できる。
たぶん英二が異動するときに原は泣くんだろうな?そんな未来予測に光一は笑った。
「やっぱりね?そういうカンジのヤツだって聴いたよ、」
「気にしてくれたんだ、ありがとな。そっちは真面目な雰囲気らしいけど、会話はあるだろ?」
「だね、ちょっとした知り合いは俺、山関係は多いしね、」
「話せる相手、いるんなら良かったよ、」
お互いに抽象的な事しか話さない、それでも状況が互いに解かる。
連帯と共感は離れていても途切れない、この信頼が変ることなく温かで嬉しい。
あの夜を超えても不変の絆が自分たちにはある、その繋がりに微笑みながら溜息ひそやかに零れた。
―信頼できる男なんだ、キッチリ現況の分析ができる賢い男だね…だけど周太のコトだけは脆すぎる、壊れるくらいにさ?
最愛の伴侶と離れてしまう時間、その不安と哀切に英二は一度もう壊れかけている。
まだ初任総合で警察学校にいた2ヶ月間を、周太と過ごせた幸福に英二は失う恐怖を募らせた。
恐怖から規則違反を犯して学校寮で周太を抱いた、その涯には無理心中すらしようと周太の首に手を掛けている。
あんなふうに英二が壊れてしまうなんて、普段の賢明で穏やかな姿から誰が想像できるだろう?
―天使が魔王になるのは、たったひとりが欲しいからだね、そんだけ寂しがりで愛情も深いんだ、
本当は余所見なんか出来ないくらい求めて、好きで、想っている。
あんまり好きだからその母親まで愛して、恋して、その家ごと大切になってしまう。
だから英二は尚更に自分のことも求めて、あの夜に抱いてしまったのではないだろうか?
初恋で最愛の周太、その初恋相手が自分だから。
―俺の写真見て憧れたのもホントだろうけどね、それ以上に本当は、周太の初恋も自分のモンにしたいんだろ?
このことを英二、自分で解かってる?
自分たちは「山」に繋がれる者同士、アンザイレンパートナーと『血の契』で結ばれる。
それは同じ世界を見つめ生きること、だから互いが自分の世界全てだと想い合えるだろう。
けれど、この体まで求め抱いたのは、光一の裡にある9歳の周太も英二は欲したのかもしれない。
そう想うのはきっと「抱き合えた」のでは無いと解っている所為、この想いを光一は台詞に変えた。
「ま、いちばん話した相手は隣人だけどさ?ちょっと涙を閉じこめてる訳アリの奴がね、イマイチ解ってないってカンジ?」
「…え、」
電話の向こう、綺麗な声が止まる。
その間隙へと穏やかに笑って、ヒントを投げ込んだ。
「マジなら独り占めしたいってのが本音だろが?ソレ言えない理由ってのがさ、お相手が溺れ死にしそうで浮き輪が必要だからだね?」
何を独り占めしたい?お相手は誰だ?何に溺れて死にそうで、浮き輪は誰だ?
そんな謎かけに電話の向こう、かすかな息を呑む気配が切なく響いて吐息こぼす。
こんな哀しみも結局は自分が全て悪い、この自責に微笑んで光一は想いを告げた。
「いいかい?浮き輪に縋ってるよりね、自力でクロールした方が速くゴール出来んだろ?ゴールがドコなのか見失うんじゃないよ、」
本当に欲しい心があるなら代りの相手など無い、ただ自分の心ひとつで求めに行くしかない。
それが可能か不可能かなんて考えこむ暇があるのなら、一度でも多く相手を笑わせる方が幸せだ。
そう自分は信じて8年半、いつも雅樹が帰る度ごと一秒でも多く傍にいて精一杯に笑わせた。
そうやって見つめ合い築いた幸福は、生命に別たれても永遠のまま明るく輝いている。
だから英二と周太にも今一秒を大切にして欲しい、この願いに電話を透し笑いかけた。
「ほら?俺たちはね、一秒後にご指名されたって行かなきゃなんないね?だから、ホントに大切な声から聴いときな、イイね?」
「ああ、…そうだな、」
溜息に微笑んで、綺麗な低い声が笑ってくれる。
きっと言いたいこと伝わったろうな?そう笑った向こうで気配が揺らいだ。
「ごめん、光一、俺っ…、」
名前を呼んで詰まってしまう、その声に涙が香りだす。
響きだす嗚咽を呑み下す、そんな気配が嬉しくて笑いかけた。
「こっちこそ、ごめんね?さっさと気づけなくってさ、赦してくれる?」
三つ、自分は気づけなかった。
自分の動けない想いにも、英二が自分を抱きたい意味も、そして周太の隠した涙にも。
けれどアイガーの夜が無かったら自分は気づけない、その哀しさに微笑んだ向こうから英二は言ってくれた。
「…あたりまえだろ?俺のほうこそ…ゆるしてよ、」
涙堪えたトーンに、黄昏の記憶から泣笑いの貌が映りだす。
あの窓辺で向かい合った英二の孤独、そのとき自分が選んだ肌重ねる選択。
あのとき寄添い合えたことに後悔は無い、あの夜に刻みあった傷すらも絆に変えられるから。
そう信じる本音ごと起き上がり、ベッドから星あわい窓を見つめて故郷の空へと笑いかけた。
「お互いサマって言ってくれるんならね、俺たちホントに相思相愛の親友ってカンジでイイね?」
もう間垣は超えた、それでも「親友」だと言い合える?
この願いに笑いかけた先、涙と一緒にパートナーは笑ってくれた。
「親友だよ、何があっても変わらないって俺、信じてく…大好きで憧れて、俺の世界の全部だ、ずっと一緒に山に登ってたい、」
「よし、約束したね?」
ちゃんと応えてくれた、信じられる。
応えられた信頼に笑って、光一は本音を告げた。
「あのさ、俺の相手を全員嫉妬するってオマエ言ったよね?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって言ってくれたの嬉しかったよ。
雅樹さんのこと生きてる人と同じに想ってくれて、そういうの解ってくれるんだって俺、本当に嬉しかったんだ。ありがとね、」
雅樹は自分の幸福の俤、全てを分かち合う唯ひとり特別な存在。
“これから英二と交わす逢瀬の瞬間に、幾度と自分は消えた幸福を追うのだろう?
お互いに英二とは全てを赦し合うなど出来ない、そう解っているから繋がれるものだけでも赦しあってみたい”
そんなふうアイガーの黄昏に自分は想い、そのとおりに心が浮き彫りになった今、こんな時間を英二と見つめている。
こんなのは痛くて切なくて哀しい、それでも後悔にしたくないなら明日をどうしたら良いのか考えたい。
そんな晨への想い笑った向こう側、きれいな低い声が穏やかに微笑んでくれた。
「俺も嬉しかったよ、光一に話すのは俺の独り言と同じだって言われて嬉しかったんだ、本当に俺を光一の世界だって想われてるって。
俺と愛し合いたいのは周太だけじゃない、そう言ってくれて嬉しかった、俺…ほんとうに周太以外に抱きたいって想えるの光一だけだよ、」
本命がいても他を愛せる余裕がある、そんな器用さは雅樹に皆無だ。
そういう余裕は男なら魅力かもしれない、けれど不器用な天使が自分は愛しい。
こんなふうに英二は似ている分だけ差が見えて、そんな「違う」が光一を気がつかせた。
―雅樹さんの全部が、まんま俺の好みになっちゃってるんだね…だから違うとダメなんだ、
だから恋愛の二度は、自分に無い。
そんな自覚が静かに笑う、やっぱり自分は雅樹しか見られない。
それなのに英二は求めて泣いてくれる、その涙に感謝しながら光一は明るく応えた。
「ありがとね、でも今は浮き輪を放りだす時だろ?さっさと自力で泳いじまいな、」
早くした方が良い、一秒でも速く心は伝えた方が良い。
そう笑った先でアンザイレンパートナーは、呼吸ひとつで笑ってくれた。
「おう、明日は9時半ごろ電話するな?おやすみ、光一、」
「おやすみさん、またね、」
明日は、またね、そんな言葉と電話を切れる。
そのままベッドから立つと、クロゼットから白いシャツを手にとった。
「…匂い、残ってるんだね、」
アイガーの暁に譲り受けたシャツは、元の主の香を名残らす。
どこか故郷の森を想わせてくれる、この深い香が単純に好きで温かい。
―あの森みたいな匂いだね、雅樹さん?
心で呼んで笑いかける、その俤が微笑んだ。
大切な人の記憶と祈りが眠る森、あの場所を香らすシャツを手にベッドへ横たわる。
秘密めく深い香に懐かしい森を抱きしめて、あわい星きらめく窓に微笑んだ瞳を閉じた。
ふっと披かれた視界、ブルーグレーに朱金の色が映りこむ。
カーテン開いたままの窓に暁は広がりだす、新しい陽光まばゆく金色を投げる。
寝転んだまま見上げる空への視界、その香は森の深い静謐が優しい。
今この香、この空の色、そして夢見た記憶に光一は微笑んだ。
「おはよ、雅樹さん?…夢でも逢えたね、あの森で、」
山桜の護る森は、雅樹が生まれて眠る森。
あの森は今ここから遠い、けれど夢に香に光に逢える。
こんなふう時も空間も隔てられない繋がりに、ただ幸せ微笑んで晨は拓く。
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