不時の風に、
第51話 風伯act.3―another,side story「陽はまた昇る」
廊下を照らす午後の光に、抱えた夏椿の純白ゆれて微笑んでしまう。
今日も華道部の花をもらってきた、この花は一日で散るけれど枝には蕾も沢山ついている。
この花も好きな花、きっと家の庭でも咲き始めているだろう。
…明日は一緒に見られるかな?でも、
本当に一緒に見られたらいい、明日は英二も川崎の家に帰ってくる約束だから。
でも、今夜から英二は奥多摩で夜間捜索に入る。そのためにクラブの前にもう、奥多摩へ発って行った。
今のところ明朝8時までの予定だけれど、捜索状況の展開によっては解からない。
それでも英二は約束を守ろうと、約束通りに帰って来ようとするだろう。
でも、解からない。警察官の仕事はイレギュラーが当たり前だから。
…お父さんもよく、帰ってくる予定が変わっちゃって…でも、待っているの嬉しくて、
幼い日の記憶が、ふっと心蘇える。
いつも仕方ないのだと自分を言い聞かせていた、幼いなりに理屈も考えて。
あのころと同じ「待っている」気持ちの期待と諦めが、今もこうして心揺らしてくれる。
この諦めは哀しいけれど、その分だけ約束が叶う時は嬉しくて、哀しい分の2倍幸せだった。
そんなふうに父を待っていた、9年半の父との時間。
あの9年半があるから自分は「待っている」時間をどう過ごすべきか知っている。
こういうときは楽しいこと、好きなことを考えて、無事を祈りながら微笑んでいたら良い。
そして明るい心で待つならば、待ち人を迎えた時は笑顔で温めることが出来るから。
ほら、いま自分は好きな花を抱えている。
この夏椿を家でも活けてみよう、今日教わったことを活かしたら母も喜ぶかな?
やっぱり花の稽古は楽しい、今までにない活け方から花の世界が広がるようで。
この枝から一輪は押花にしようかな、明日の朝すこし早めに起きたらいいな?
あれこれと楽しい気持ちに微笑んだとき、遠慮がちなソプラノに呼びかけられた。
「湯原さん、」
呼び止められて廊下の片隅、周太はふり向いた。
振向いた拍子ゆらいだ花の先、女性警察官の華奢な制服姿が1人で立っている。
「はい?」
首傾げながら返事した向う側、恥ずかしそうに彼女は立っている。
たぶん華道部で見かけたことがある、きっと初任科教養に在籍中の人だろう。
こんなふうに1人だけで声かけてくる女の子は、学校では珍しい。初めてかもしれない?
すこし感心しながらも周太は、彼女の質問に心の準備をした。
…きっと「宮田さんって彼女いますか?」だろうな?
そう訊かれたら「周りに訊いて回られるの嫌いみたいです、」って答えれば大丈夫。
まるで御まじないの呪文のよう思い出す目の前で、華奢な彼女は口を開いた。
「あの…っ、湯原さんって彼女いますか?」
いま、なんて言ったのだろう?
ひとつ目を瞬いて、目の前の女の子を周太は見つめた。
見つめた先で彼女の頬が薄赤くなっていく。その色彩を不思議に見つめながら、周太は尋ねた。
「あの、英二…宮田のことを、訊きたいのじゃないんですか?」
もしかして、英二と周太の名前を間違えているのかもしれない?
そんな疑問を尋ねた周太に、頬染めながらも彼女はきっぱり言った。
「違います、湯原さんのことです。あの…彼女いますか?」
ほんとうに自分のことを訊いているんだ?
どうしてそんなことを彼女は、自分に訊いてくれるのだろう?
ちょっと予想外の質問に考え込んでしまう、こういう経験は無いから。
…こんな質問、美代さんの家の人たちにされたな?
あのときは美代が「湯原くんは好きな人がいるのよ」と代わりに答えてくれた。
けれど今は周太1人だし、こんなバージョンは美代に訊いていない、母に訊いたことも無い。
途方に暮れはじめた緊張に首筋が熱くなってしまう、けれど何か答えないといけないだろう。
きっと、正直に答えるのが良いかな?頬熱くなりながらも周太は正直に口を開いた。
「好きな人は、います、」
…ほんとうに、大好きな人がいます。
心でも答えて、そっと熱が頬を染めていく。
ほら、こんなときなのに心にはもう、大好きな笑顔が咲いてしまう。
そんな想いと抱えた白い花の向こう、華奢な彼女がすこし俯いた。
「そうですか…」
ぽつり、言った言葉が寂しげで。
寂しさが伝染するよう心を締める、どうしたらいいのだろう?
途惑いと見つめながら、けれど思いついて周太は夏椿を1枝、花束から抜いた。
「あの、これ1ついりませんか?」
純白の花冠が揺らいで花が微笑む。
いま哀しげなひとを慰めて?そう花に願いながら周太は、彼女に笑いかけた。
「今日の花材を貰ってきたんです。管理人さんに訊くと、花瓶も借りられると思います」
「え…いいんですか?」
すこし驚いたよう彼女が見つめて、その眼差しが嬉しそうになっていく。
いま目の前の寂しさが和みだすのが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「はい。一日で散る花だけれど、蕾も沢山ついてます。良かったら、どうぞ?」
「ありがとうございます、」
素直に受けとってくれる気恥ずかしげな笑顔に、清楚な花が添えられる。
嬉しそうに花を見つめて、彼女は言ってくれた。
「お花、大好きなんです。でも、寮に持ち帰っても良いのか、いつも解からなくて」
「初任教養でも、大丈夫だと思います。もしダメって言われたら、すみません、」
「大丈夫です、そうしたら押花にします、」
楽しそうに花を見つめて、彼女は笑ってくれる。
その笑顔は「本当に花が好き」と言っていて、周太は嬉しくなった。
「押花、俺も作るんです。小さい頃から採集帳を作っていて、」
「そうなんですか?私もです、最近は良いキットが出ていますよね、」
嬉しそうに彼女も答えてくれる。
この人も自分や美代と同じように、花好きなんだ?
ここでも好きが「同じ」に会えたことが嬉しい、楽しくなって周太は頷いた。
「携帯用のとか、俺も買いました。あれ、山に行く時は便利なんです。落葉とかすぐ、押し葉に出来て」
この間の雲取山でも、きれいな若葉を何枚か拾い集めてこられた。
今週末、家に帰ったら採集帳に纏めないとな?考えながら笑いかけた先、彼女が楽しそうに微笑んだ。
「山にも採集に行くんですね、すごい、本格的ですね?」
「そんなことも無いです。俺の友達はもっとすごくて、珍しい植物を実験栽培しています、」
「実験栽培だなんて、プロの方ですか?」
感心したよう彼女が尋ねてくれる。
ある意味で美代はプロだろう、大好きな友達を想って周太は微笑んだ。
「農家のひとなんです。でも、将来は研究者になりそうです。今、一緒に大学の公開講座にも通ってて、」
「勉強家ですね?私も花の本くらいなら読むんですけど、」
「俺も本はよく読みます、お薦めの本とかありますか?」
「昨日読んだばかりなんですけど、桜の本が面白かったです。沢山の種類の桜が出てきて、」
大好きな植物の話に、つい話が弾みだす。
こんなふうに、好きな話題なら女の子とも話が出来るな?
そんな自覚が新鮮で面白い、そう微笑んだ周太に彼女が訊いてくれた。
「あの…こんなふうに時々、話しかけても良いですか?ご迷惑じゃなかったら、」
また顔を赤く染めて、華奢な肩を尚更に小さく竦ませて尋ねてくれる。
花の話が出来ることは楽しいから、迷惑なんてことは無いのに?微笑んで周太は素直に頷いた。
「はい。植物の話とか出来ると、俺も楽しいです、」
「よかった、」
ぱっ、と笑顔が花咲いた。
「湯原さん、お花の活け方が優しくて、すてきだなあって想っていたんです。あの…こんど教えてください、」
「ありがとうございます。でも俺の活け方は茶花が元だし、クラブの流派と違うんですけど、」
…褒めて貰えるの嬉しいけれど、気恥ずかしいな?
すこし首筋が熱くなってくる、だって自分は父と母に教わった程度なのだから。
けれど彼女は嬉しそうに笑って言ってくれた。
「あの流派より、湯原さんのが好きです…あ、」
言って、彼女の顔が真赤になった。
なんだか自分でも驚いたように、慌てて彼女は手にした純白の花ごと頭を下げた。
「失礼します、またお願いします!」
くるり踵返して、彼女は廊下を走るよう歩き出した。
その後ろ姿は恥ずかしそうで、けれど楽しそうにも見えて、こっちも楽しくなってくる。
制服の肩越しのぞいた夏椿の、あざやかな純白がゆらいで灯火のよう。
あの清楚な花が灯してくれた、彼女の笑顔が嬉しい。
…お花って、いいよね
心こぼれた想いに、花や植物への想いが温かい。
この温もり抱いて踵返して、ふと廊下の角を見た周太は目を大きくした。
「英二?そんなところで、なにしてるの?」
角の壁際から、白皙の貌がこっちを見ている。
その顔が困ったよう泣きそうな目で、スーパーの前で待ち惚けたゴールデンレトリバーにそっくり。
いつ戻ってくるの?このまま置いて行かれたらどうしよう?そんな目で、端正なスーツ姿がこちらを見ている。
けれど、どうして今、ここに英二がいるのだろう?
英二は秩父奥多摩連続強盗犯の夜間捜索に就くため、1時間ほど前に学校を発った。
授業が終わってすぐ、クラブが始まる前に、スーツ姿で発つ英二と藤岡を校門まで見送っている。
それなのに、どうして今ここに英二がいるの?不思議に思いながら周太は、婚約者の元に歩み寄った。
「なにか忘れ物したの?どうしたの?」
「…うん、登山図を忘れて、」
並んで歩きだしながら、ぼんやりしたトーンで綺麗な低い声が応えてくれる。
いったい英二は、どうしてしまったのだろう?首傾げながらも周太は微笑んだ。
「じゃあ、一緒に寮に戻れるね?見て、英二、今日は夏椿を活けたんだよ、」
「うん…」
生返事に花を見つめて、切長い目は微笑んでいる。
その眼差しは相変わらず実家の近所のレトリバーにそっくりで、周太は気がついた。
…あ、さっきの人との会話、聴いちゃったのかな?
もしかして誤解しているのかな?
そう考え込んだ時、綺麗な低い声が訊いてくれた。
「周太、さっき、好き、って言われていたよな?」
声に見上げると、切長い目は泣きだしそうでいる。
やっぱり何かを誤解して悄気てしまった、そんな哀しい顔がなんだか可愛らしい。
こんな顔は初めて見るな?すっかり可愛くなっている恋人に周太は笑いかけた。
「ん、俺の花の活け方が好きなんだって、言ってくれたよ?」
「あ、…そういうこと?」
ほっとしたよう微笑んで、切長い目が和んでくれる。
けれどまた困ったようになって、遠慮がちに低い声が訊いてくれた。
「他には、なんか言われなかった?」
「ん?…あ、彼女いますか?って訊かれたよ、」
かつん、
長い脚の革靴が止まって、スーツ姿が立ち止る。
ひとつ息呑んだ唇は、そっと怯えるよう開くと尋ねてくれた。
「…周太、なんて答えてくれた?」
この質問は、ちょっと恥ずかしい。
けれど今きちんと答えなかったら、英二は落ちこんでしまいそう。首筋に熱昇らせながらも周太は口を開いた。
「ん、あのね…すきなひとはいます、って答えたよ?」
これは本当のことだから。
そんな想いと見上げた先で、端正な貌に笑顔が咲いてくれた。
「それ、俺のこと?」
当たり前でしょ?
そんな心の声に、つい素っ気なく周太は答えて歩き出した。
「ほかに誰かいてほしいの?そんなふうに訊くなんて、しらない、」
「あ、待って周太?ごめん、怒らないで?」
困ったよう言って追い縋ってくれる。
こんなふうに追いかけてくれることが嬉しい、そして一昨日の夜を想い出す。
あの夜に英二の涙を見つめてから、ずっと考え続けているから。
…どうしたら英二を、もっと安心させてあげられる?
こんな願いは、本当は烏滸がましいのかもしれない。
英二の哀しみの原因は「周太が父の道をたどること」そう解っていながら自分は止めないのだから。
いま英二が怯え始めた「離れる日」を失くす道、その選択肢を自分は選べないのだから。
もう自分は父の道に立った。
それなのに途中で止めたら、父の真実を知らないままなら、必ず後悔するから止められない。
どうしても父の軌跡に立ちたい、父が生きた想いを探しに行きたくて、危険な道でも進みたい。
なぜ父が死んだのか?その真実の向こうに消えた父の想いを見つめたい。
こんな意地と選択は、本当は無意味で愚かなのかもしれない。
こんな意地は捨ててしまえばいい、すべて忘れてしまえばいい、そう思ったこともある。
ただ最愛の隣に幸せだけ見つめて生きたい、そんな本音に辞職を願ったこともある。
けれどもう、14年前の後悔を償うチャンスを失いたくない。
こんな自分でも男として、父の子としての誇りがある、そのために14年を生きてきた。
もう後戻りなんて出来ない、もし辞めたら怯懦が心蝕んで、きっと生涯を後悔に生きるだろう。
こんなに英二を愛している、苦しめてしまうと解っている、それなのに意地と誇りに止められない。
どんなに愚かでも、幼い決意でも、この命を懸けた選択をどうして捨てられるというの?
こんな自分は愚か者、それなのに英二は求めて傍にいてくれる。
ずっと一緒にいたいと願って、ほら、今も追いかけて縋る眼差しで見つめて。
こんな目をしてくれる人を自分は、いつか引き離してしまう瞬間が来る。それが罪ではないかと迷う。
それでも与えられたものならば、もう潔く覚悟するしかない、受けとめる道を探すしかない。
この覚悟以上に「愛しい」本音を傷みごと見つめて、周太は愛するひとに微笑んだ。
「急がないと、英二。本当なら今頃は、河辺に着いている頃でしょう?…遅刻しちゃうよ、」
「ありがとう、周太。でも大丈夫だよ、」
嬉しそうな笑顔が咲いて、隣から覗きこんでくれる。
ほら、声かけただけ、視線向けただけ。それなのに、こんなに嬉しそうにされることが、途惑う。
途惑うまま嬉しくて、けれど心配を見つめて、昨夜の涙を想い出して心が傷んでしまう。
それでも「今」こうして隣歩けることが幸せで、微笑んで周太は自室の扉を開いた。
「英二、校門まで一緒に行くね…花だけ置いてくるから、」
「うん、ありがとう周太、」
微笑んで返事しながら、長い指の手が扉を掴んで長身を挿みこむ。
すこし首傾げて見つめてくれる視線が、どこか熱くて緊張してしまう。
すこしずつ首筋に熱昇るのを感じながら花を置くと、周太は廊下に出て扉を閉めた。
「英二、忘れ物は?」
「うん、今から取りに行くよ、」
素直に返事して隣の扉を開くと、長い指が周太の肩を抱き寄せた。
そのまま部屋へと惹きこまれる、そして扉は閉じられて鍵が掛けられた。
「周太、」
嬉しそうに名前を呼んで抱きしめて、幸せな笑顔むけてくれる。
きれいな白皙の笑顔が近寄せられる、そして唇にキスがふれた。
…あ、
心につぶやく声こぼれて、唇は熱に塞がれる。
やさしい温もりに甘くほろ苦い香がふれこんで、静かに離れてしまう。
「周太に逢えるかな、って想ってたんだ。よかった、逢えて」
嬉しそうに笑って抱き寄せてくれる、その笑顔がまぶしい。
自分に逢えたことを喜んで、こんな笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて切なくて、でも幸せになる。
この幸せを今、素直に受けとっていたい。微笑んで周太は口を開いた。
「ん、俺も逢えて、嬉しいよ?明日は待ってるから、気を付けて行ってきてね、」
「うん、待ってて、周太?」
話しながらデスクの登山図を手に取って、鞄に入れる。
そしてドアノブに手を掛けて、けれど振向くと瞳見つめて長い腕が伸ばされる。
ふわり抱きしめられて、また唇に唇かさねられキスになる、体に力が絡みつく。
「愛してるから…離れないで、」
キスのはざま想い零されて、息が止まりそう。
扉の前なんどもキスがふる、もう時間が迫るのに熱は止んでくれない。
こんなにする想いへと不安を見止めて、周太は腕を伸ばし恋人を抱きとめた。
「…英二、」
キスのはざま、名前を呼んで背伸びして、白皙の頬へとキスを贈る。
切長い目がすこし驚いたよう見つめて、その目から幸せが微笑んだ。
その微笑み嬉しくて笑いかけて、周太は約束をした。
「英二、明日は待ってるよ?英二が帰ってきてくれるの待ってるから、だから今夜も気を付けてね?…安心して行って、帰ってきて?」
安心してほしい、待っているから不安にならないで?
そう見つめた先で切長い目は微笑んで、綺麗な低い声が訊いてくれた。
「俺のこと、待っていてくれる?周太、」
「ん、待ってる…約束するよ?」
笑いかけて、また背伸びして唇ふれてキスに約束を閉じ込める。
キスに微笑んで長い腕は抱き寄せて、端正な貌に幸せが咲いていく。
そして漸く腕をほどいて、英二はドアノブを開いた。
ゆるやかに黄昏ふりだす廊下は、影が長い。
影踏みするよう並んで歩いていく道は、あわいオレンジ色の光やさしく温かい。
こんなふうに並んでいる瞬間が愛しくて、ずっと一緒に歩けたらいいと願ってしまう。
そんな想いと戸外へ出て、植込みの木洩陽に足元ゆらされながら歩いた先に、校門は見えてくる。
…もう、見送らないと
ことん、寂しさが心に墜ちてくる。
けれど今それを見せたら英二は行けなくなる、周太は微笑んで恋人を見あげた。
「気を付けて、英二。光一や後藤さんによろしくね?吉村先生にも、」
「うん、伝えておく。行ってくるな?周太、」
綺麗な低い声で名前を呼んで、そして英二は門を出て行った。
ひろやかなスーツの背中が遠ざかる、すこしずつ黄昏の光が濃くなっていく。
やわらかで物悲しい光のなか、綺麗な笑顔が振り返って長い指の手を挙げてくれる。
その手に少し手を振って応えると、優しい笑顔を残して恋人は、角のむこうへと消えていった。
「…あ、」
ちいさな呟きこぼれて、瞳の深く不意に熱が生まれだす。
ゆっくり睫を閉じて熱を闇に見つめる、すこしずつ治まる気配を黄昏の中に待つ。
いま見送った寂寥感が心に谺する、この寂しさは英二の心の欠片だろうか?
…ほんとうにそうならいい、英二の寂しさを少しでも分けて貰えるなら、少しでも英二が楽になるなら…
心の想いに、祈りを見つめる。
そうして瞳ゆっくり披いて、明るい黄昏の向うに空を見上げた。
今、北西の空をながれる雲は、光の黄金に充ちて輝いている。その明るい色彩に目を細め、周太は微笑んだ。
きっと奥多摩は、晴れ。
(to be continued)
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第51話 風伯act.3―another,side story「陽はまた昇る」
廊下を照らす午後の光に、抱えた夏椿の純白ゆれて微笑んでしまう。
今日も華道部の花をもらってきた、この花は一日で散るけれど枝には蕾も沢山ついている。
この花も好きな花、きっと家の庭でも咲き始めているだろう。
…明日は一緒に見られるかな?でも、
本当に一緒に見られたらいい、明日は英二も川崎の家に帰ってくる約束だから。
でも、今夜から英二は奥多摩で夜間捜索に入る。そのためにクラブの前にもう、奥多摩へ発って行った。
今のところ明朝8時までの予定だけれど、捜索状況の展開によっては解からない。
それでも英二は約束を守ろうと、約束通りに帰って来ようとするだろう。
でも、解からない。警察官の仕事はイレギュラーが当たり前だから。
…お父さんもよく、帰ってくる予定が変わっちゃって…でも、待っているの嬉しくて、
幼い日の記憶が、ふっと心蘇える。
いつも仕方ないのだと自分を言い聞かせていた、幼いなりに理屈も考えて。
あのころと同じ「待っている」気持ちの期待と諦めが、今もこうして心揺らしてくれる。
この諦めは哀しいけれど、その分だけ約束が叶う時は嬉しくて、哀しい分の2倍幸せだった。
そんなふうに父を待っていた、9年半の父との時間。
あの9年半があるから自分は「待っている」時間をどう過ごすべきか知っている。
こういうときは楽しいこと、好きなことを考えて、無事を祈りながら微笑んでいたら良い。
そして明るい心で待つならば、待ち人を迎えた時は笑顔で温めることが出来るから。
ほら、いま自分は好きな花を抱えている。
この夏椿を家でも活けてみよう、今日教わったことを活かしたら母も喜ぶかな?
やっぱり花の稽古は楽しい、今までにない活け方から花の世界が広がるようで。
この枝から一輪は押花にしようかな、明日の朝すこし早めに起きたらいいな?
あれこれと楽しい気持ちに微笑んだとき、遠慮がちなソプラノに呼びかけられた。
「湯原さん、」
呼び止められて廊下の片隅、周太はふり向いた。
振向いた拍子ゆらいだ花の先、女性警察官の華奢な制服姿が1人で立っている。
「はい?」
首傾げながら返事した向う側、恥ずかしそうに彼女は立っている。
たぶん華道部で見かけたことがある、きっと初任科教養に在籍中の人だろう。
こんなふうに1人だけで声かけてくる女の子は、学校では珍しい。初めてかもしれない?
すこし感心しながらも周太は、彼女の質問に心の準備をした。
…きっと「宮田さんって彼女いますか?」だろうな?
そう訊かれたら「周りに訊いて回られるの嫌いみたいです、」って答えれば大丈夫。
まるで御まじないの呪文のよう思い出す目の前で、華奢な彼女は口を開いた。
「あの…っ、湯原さんって彼女いますか?」
いま、なんて言ったのだろう?
ひとつ目を瞬いて、目の前の女の子を周太は見つめた。
見つめた先で彼女の頬が薄赤くなっていく。その色彩を不思議に見つめながら、周太は尋ねた。
「あの、英二…宮田のことを、訊きたいのじゃないんですか?」
もしかして、英二と周太の名前を間違えているのかもしれない?
そんな疑問を尋ねた周太に、頬染めながらも彼女はきっぱり言った。
「違います、湯原さんのことです。あの…彼女いますか?」
ほんとうに自分のことを訊いているんだ?
どうしてそんなことを彼女は、自分に訊いてくれるのだろう?
ちょっと予想外の質問に考え込んでしまう、こういう経験は無いから。
…こんな質問、美代さんの家の人たちにされたな?
あのときは美代が「湯原くんは好きな人がいるのよ」と代わりに答えてくれた。
けれど今は周太1人だし、こんなバージョンは美代に訊いていない、母に訊いたことも無い。
途方に暮れはじめた緊張に首筋が熱くなってしまう、けれど何か答えないといけないだろう。
きっと、正直に答えるのが良いかな?頬熱くなりながらも周太は正直に口を開いた。
「好きな人は、います、」
…ほんとうに、大好きな人がいます。
心でも答えて、そっと熱が頬を染めていく。
ほら、こんなときなのに心にはもう、大好きな笑顔が咲いてしまう。
そんな想いと抱えた白い花の向こう、華奢な彼女がすこし俯いた。
「そうですか…」
ぽつり、言った言葉が寂しげで。
寂しさが伝染するよう心を締める、どうしたらいいのだろう?
途惑いと見つめながら、けれど思いついて周太は夏椿を1枝、花束から抜いた。
「あの、これ1ついりませんか?」
純白の花冠が揺らいで花が微笑む。
いま哀しげなひとを慰めて?そう花に願いながら周太は、彼女に笑いかけた。
「今日の花材を貰ってきたんです。管理人さんに訊くと、花瓶も借りられると思います」
「え…いいんですか?」
すこし驚いたよう彼女が見つめて、その眼差しが嬉しそうになっていく。
いま目の前の寂しさが和みだすのが嬉しくて、周太は微笑んだ。
「はい。一日で散る花だけれど、蕾も沢山ついてます。良かったら、どうぞ?」
「ありがとうございます、」
素直に受けとってくれる気恥ずかしげな笑顔に、清楚な花が添えられる。
嬉しそうに花を見つめて、彼女は言ってくれた。
「お花、大好きなんです。でも、寮に持ち帰っても良いのか、いつも解からなくて」
「初任教養でも、大丈夫だと思います。もしダメって言われたら、すみません、」
「大丈夫です、そうしたら押花にします、」
楽しそうに花を見つめて、彼女は笑ってくれる。
その笑顔は「本当に花が好き」と言っていて、周太は嬉しくなった。
「押花、俺も作るんです。小さい頃から採集帳を作っていて、」
「そうなんですか?私もです、最近は良いキットが出ていますよね、」
嬉しそうに彼女も答えてくれる。
この人も自分や美代と同じように、花好きなんだ?
ここでも好きが「同じ」に会えたことが嬉しい、楽しくなって周太は頷いた。
「携帯用のとか、俺も買いました。あれ、山に行く時は便利なんです。落葉とかすぐ、押し葉に出来て」
この間の雲取山でも、きれいな若葉を何枚か拾い集めてこられた。
今週末、家に帰ったら採集帳に纏めないとな?考えながら笑いかけた先、彼女が楽しそうに微笑んだ。
「山にも採集に行くんですね、すごい、本格的ですね?」
「そんなことも無いです。俺の友達はもっとすごくて、珍しい植物を実験栽培しています、」
「実験栽培だなんて、プロの方ですか?」
感心したよう彼女が尋ねてくれる。
ある意味で美代はプロだろう、大好きな友達を想って周太は微笑んだ。
「農家のひとなんです。でも、将来は研究者になりそうです。今、一緒に大学の公開講座にも通ってて、」
「勉強家ですね?私も花の本くらいなら読むんですけど、」
「俺も本はよく読みます、お薦めの本とかありますか?」
「昨日読んだばかりなんですけど、桜の本が面白かったです。沢山の種類の桜が出てきて、」
大好きな植物の話に、つい話が弾みだす。
こんなふうに、好きな話題なら女の子とも話が出来るな?
そんな自覚が新鮮で面白い、そう微笑んだ周太に彼女が訊いてくれた。
「あの…こんなふうに時々、話しかけても良いですか?ご迷惑じゃなかったら、」
また顔を赤く染めて、華奢な肩を尚更に小さく竦ませて尋ねてくれる。
花の話が出来ることは楽しいから、迷惑なんてことは無いのに?微笑んで周太は素直に頷いた。
「はい。植物の話とか出来ると、俺も楽しいです、」
「よかった、」
ぱっ、と笑顔が花咲いた。
「湯原さん、お花の活け方が優しくて、すてきだなあって想っていたんです。あの…こんど教えてください、」
「ありがとうございます。でも俺の活け方は茶花が元だし、クラブの流派と違うんですけど、」
…褒めて貰えるの嬉しいけれど、気恥ずかしいな?
すこし首筋が熱くなってくる、だって自分は父と母に教わった程度なのだから。
けれど彼女は嬉しそうに笑って言ってくれた。
「あの流派より、湯原さんのが好きです…あ、」
言って、彼女の顔が真赤になった。
なんだか自分でも驚いたように、慌てて彼女は手にした純白の花ごと頭を下げた。
「失礼します、またお願いします!」
くるり踵返して、彼女は廊下を走るよう歩き出した。
その後ろ姿は恥ずかしそうで、けれど楽しそうにも見えて、こっちも楽しくなってくる。
制服の肩越しのぞいた夏椿の、あざやかな純白がゆらいで灯火のよう。
あの清楚な花が灯してくれた、彼女の笑顔が嬉しい。
…お花って、いいよね
心こぼれた想いに、花や植物への想いが温かい。
この温もり抱いて踵返して、ふと廊下の角を見た周太は目を大きくした。
「英二?そんなところで、なにしてるの?」
角の壁際から、白皙の貌がこっちを見ている。
その顔が困ったよう泣きそうな目で、スーパーの前で待ち惚けたゴールデンレトリバーにそっくり。
いつ戻ってくるの?このまま置いて行かれたらどうしよう?そんな目で、端正なスーツ姿がこちらを見ている。
けれど、どうして今、ここに英二がいるのだろう?
英二は秩父奥多摩連続強盗犯の夜間捜索に就くため、1時間ほど前に学校を発った。
授業が終わってすぐ、クラブが始まる前に、スーツ姿で発つ英二と藤岡を校門まで見送っている。
それなのに、どうして今ここに英二がいるの?不思議に思いながら周太は、婚約者の元に歩み寄った。
「なにか忘れ物したの?どうしたの?」
「…うん、登山図を忘れて、」
並んで歩きだしながら、ぼんやりしたトーンで綺麗な低い声が応えてくれる。
いったい英二は、どうしてしまったのだろう?首傾げながらも周太は微笑んだ。
「じゃあ、一緒に寮に戻れるね?見て、英二、今日は夏椿を活けたんだよ、」
「うん…」
生返事に花を見つめて、切長い目は微笑んでいる。
その眼差しは相変わらず実家の近所のレトリバーにそっくりで、周太は気がついた。
…あ、さっきの人との会話、聴いちゃったのかな?
もしかして誤解しているのかな?
そう考え込んだ時、綺麗な低い声が訊いてくれた。
「周太、さっき、好き、って言われていたよな?」
声に見上げると、切長い目は泣きだしそうでいる。
やっぱり何かを誤解して悄気てしまった、そんな哀しい顔がなんだか可愛らしい。
こんな顔は初めて見るな?すっかり可愛くなっている恋人に周太は笑いかけた。
「ん、俺の花の活け方が好きなんだって、言ってくれたよ?」
「あ、…そういうこと?」
ほっとしたよう微笑んで、切長い目が和んでくれる。
けれどまた困ったようになって、遠慮がちに低い声が訊いてくれた。
「他には、なんか言われなかった?」
「ん?…あ、彼女いますか?って訊かれたよ、」
かつん、
長い脚の革靴が止まって、スーツ姿が立ち止る。
ひとつ息呑んだ唇は、そっと怯えるよう開くと尋ねてくれた。
「…周太、なんて答えてくれた?」
この質問は、ちょっと恥ずかしい。
けれど今きちんと答えなかったら、英二は落ちこんでしまいそう。首筋に熱昇らせながらも周太は口を開いた。
「ん、あのね…すきなひとはいます、って答えたよ?」
これは本当のことだから。
そんな想いと見上げた先で、端正な貌に笑顔が咲いてくれた。
「それ、俺のこと?」
当たり前でしょ?
そんな心の声に、つい素っ気なく周太は答えて歩き出した。
「ほかに誰かいてほしいの?そんなふうに訊くなんて、しらない、」
「あ、待って周太?ごめん、怒らないで?」
困ったよう言って追い縋ってくれる。
こんなふうに追いかけてくれることが嬉しい、そして一昨日の夜を想い出す。
あの夜に英二の涙を見つめてから、ずっと考え続けているから。
…どうしたら英二を、もっと安心させてあげられる?
こんな願いは、本当は烏滸がましいのかもしれない。
英二の哀しみの原因は「周太が父の道をたどること」そう解っていながら自分は止めないのだから。
いま英二が怯え始めた「離れる日」を失くす道、その選択肢を自分は選べないのだから。
もう自分は父の道に立った。
それなのに途中で止めたら、父の真実を知らないままなら、必ず後悔するから止められない。
どうしても父の軌跡に立ちたい、父が生きた想いを探しに行きたくて、危険な道でも進みたい。
なぜ父が死んだのか?その真実の向こうに消えた父の想いを見つめたい。
こんな意地と選択は、本当は無意味で愚かなのかもしれない。
こんな意地は捨ててしまえばいい、すべて忘れてしまえばいい、そう思ったこともある。
ただ最愛の隣に幸せだけ見つめて生きたい、そんな本音に辞職を願ったこともある。
けれどもう、14年前の後悔を償うチャンスを失いたくない。
こんな自分でも男として、父の子としての誇りがある、そのために14年を生きてきた。
もう後戻りなんて出来ない、もし辞めたら怯懦が心蝕んで、きっと生涯を後悔に生きるだろう。
こんなに英二を愛している、苦しめてしまうと解っている、それなのに意地と誇りに止められない。
どんなに愚かでも、幼い決意でも、この命を懸けた選択をどうして捨てられるというの?
こんな自分は愚か者、それなのに英二は求めて傍にいてくれる。
ずっと一緒にいたいと願って、ほら、今も追いかけて縋る眼差しで見つめて。
こんな目をしてくれる人を自分は、いつか引き離してしまう瞬間が来る。それが罪ではないかと迷う。
それでも与えられたものならば、もう潔く覚悟するしかない、受けとめる道を探すしかない。
この覚悟以上に「愛しい」本音を傷みごと見つめて、周太は愛するひとに微笑んだ。
「急がないと、英二。本当なら今頃は、河辺に着いている頃でしょう?…遅刻しちゃうよ、」
「ありがとう、周太。でも大丈夫だよ、」
嬉しそうな笑顔が咲いて、隣から覗きこんでくれる。
ほら、声かけただけ、視線向けただけ。それなのに、こんなに嬉しそうにされることが、途惑う。
途惑うまま嬉しくて、けれど心配を見つめて、昨夜の涙を想い出して心が傷んでしまう。
それでも「今」こうして隣歩けることが幸せで、微笑んで周太は自室の扉を開いた。
「英二、校門まで一緒に行くね…花だけ置いてくるから、」
「うん、ありがとう周太、」
微笑んで返事しながら、長い指の手が扉を掴んで長身を挿みこむ。
すこし首傾げて見つめてくれる視線が、どこか熱くて緊張してしまう。
すこしずつ首筋に熱昇るのを感じながら花を置くと、周太は廊下に出て扉を閉めた。
「英二、忘れ物は?」
「うん、今から取りに行くよ、」
素直に返事して隣の扉を開くと、長い指が周太の肩を抱き寄せた。
そのまま部屋へと惹きこまれる、そして扉は閉じられて鍵が掛けられた。
「周太、」
嬉しそうに名前を呼んで抱きしめて、幸せな笑顔むけてくれる。
きれいな白皙の笑顔が近寄せられる、そして唇にキスがふれた。
…あ、
心につぶやく声こぼれて、唇は熱に塞がれる。
やさしい温もりに甘くほろ苦い香がふれこんで、静かに離れてしまう。
「周太に逢えるかな、って想ってたんだ。よかった、逢えて」
嬉しそうに笑って抱き寄せてくれる、その笑顔がまぶしい。
自分に逢えたことを喜んで、こんな笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて切なくて、でも幸せになる。
この幸せを今、素直に受けとっていたい。微笑んで周太は口を開いた。
「ん、俺も逢えて、嬉しいよ?明日は待ってるから、気を付けて行ってきてね、」
「うん、待ってて、周太?」
話しながらデスクの登山図を手に取って、鞄に入れる。
そしてドアノブに手を掛けて、けれど振向くと瞳見つめて長い腕が伸ばされる。
ふわり抱きしめられて、また唇に唇かさねられキスになる、体に力が絡みつく。
「愛してるから…離れないで、」
キスのはざま想い零されて、息が止まりそう。
扉の前なんどもキスがふる、もう時間が迫るのに熱は止んでくれない。
こんなにする想いへと不安を見止めて、周太は腕を伸ばし恋人を抱きとめた。
「…英二、」
キスのはざま、名前を呼んで背伸びして、白皙の頬へとキスを贈る。
切長い目がすこし驚いたよう見つめて、その目から幸せが微笑んだ。
その微笑み嬉しくて笑いかけて、周太は約束をした。
「英二、明日は待ってるよ?英二が帰ってきてくれるの待ってるから、だから今夜も気を付けてね?…安心して行って、帰ってきて?」
安心してほしい、待っているから不安にならないで?
そう見つめた先で切長い目は微笑んで、綺麗な低い声が訊いてくれた。
「俺のこと、待っていてくれる?周太、」
「ん、待ってる…約束するよ?」
笑いかけて、また背伸びして唇ふれてキスに約束を閉じ込める。
キスに微笑んで長い腕は抱き寄せて、端正な貌に幸せが咲いていく。
そして漸く腕をほどいて、英二はドアノブを開いた。
ゆるやかに黄昏ふりだす廊下は、影が長い。
影踏みするよう並んで歩いていく道は、あわいオレンジ色の光やさしく温かい。
こんなふうに並んでいる瞬間が愛しくて、ずっと一緒に歩けたらいいと願ってしまう。
そんな想いと戸外へ出て、植込みの木洩陽に足元ゆらされながら歩いた先に、校門は見えてくる。
…もう、見送らないと
ことん、寂しさが心に墜ちてくる。
けれど今それを見せたら英二は行けなくなる、周太は微笑んで恋人を見あげた。
「気を付けて、英二。光一や後藤さんによろしくね?吉村先生にも、」
「うん、伝えておく。行ってくるな?周太、」
綺麗な低い声で名前を呼んで、そして英二は門を出て行った。
ひろやかなスーツの背中が遠ざかる、すこしずつ黄昏の光が濃くなっていく。
やわらかで物悲しい光のなか、綺麗な笑顔が振り返って長い指の手を挙げてくれる。
その手に少し手を振って応えると、優しい笑顔を残して恋人は、角のむこうへと消えていった。
「…あ、」
ちいさな呟きこぼれて、瞳の深く不意に熱が生まれだす。
ゆっくり睫を閉じて熱を闇に見つめる、すこしずつ治まる気配を黄昏の中に待つ。
いま見送った寂寥感が心に谺する、この寂しさは英二の心の欠片だろうか?
…ほんとうにそうならいい、英二の寂しさを少しでも分けて貰えるなら、少しでも英二が楽になるなら…
心の想いに、祈りを見つめる。
そうして瞳ゆっくり披いて、明るい黄昏の向うに空を見上げた。
今、北西の空をながれる雲は、光の黄金に充ちて輝いている。その明るい色彩に目を細め、周太は微笑んだ。
きっと奥多摩は、晴れ。
(to be continued)
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